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Presents your shadow to my sightless view



サラは絶えず死の恐怖に襲われながら鬱蒼とした森の中を歩き続けた。昼には太陽や星の位置で確認した方角へと足を動かし、夜には木の上に登り、幹と自分の身体をロープで固定して眠った。島に辿り着いて分かった事であるが、此処に漂う空気は酷く重かった。森の中にいても吸い込む空気は澄んだ清らかなものではなく、まるで死体の上を歩いているかのような異臭と独特の不気味さがあった。草木はひっそりと死んでおり、その死の中を進むサラの顔も益々蒼ざめていった。政府の命令で此処へ来た彼女はもう血清の存在を信じる事が出来なくなっていた。もしその研究所に何かしらの収穫があっても、きっと自分はこの島を出る事が出来ない。今この瞬間、何処か遠くへ行ってしまって、一人きりになれるのであれば、例えそれが一生涯続こうと彼女は幸福に思った事であろう。しかし問題は、ここ何日かいつも一人でいるのに、どうしても彼女には自分が一人だという実感が湧かない点だった。寂しい場所へ行けば行くほど、却って強く誰かが身近にいるような不安な意識を唆られたのである──すると、吐き気が彼女の身に迫った。胃が大きく収縮したのを感じ、彼女は口に手を当てた。恐らく大気が汚染されている区域に入ったのだ。という事は、研究所は近いのか──余りの息苦しさにサラは仰向けになろうとしたが臓器に痛みを感じ、そのままうつ伏せに崩れた。片頬に触れた土は氷宛らに冷たかった。
「地獄だろう」
サラはその声を体調不良が齎す幻聴だと思った。しかしその声は特徴のある声であった。威のある重低音の声、このような声の持ち主は今までにたった一人しか知らない。しかし彼は……死んだのだ。美しい彼は、私の知らない所で死んだ。彼女は閉じていた目蓋を僅かに開けた。その狭い視界に映ったのは、全身黒尽くめの格好をした男であった。サラは痛む首を動かし、その男の顔を見た。
「此処は、君のような人間が来るべき所ではない」
男はサラを軽々と抱き上げた。頭後方に撫で付けられた金色の髪は、日光を吸収したように益々色素が薄く輝いて見えた。私はこの画を見た事がある。あの夏の日だ、忘れもしない、あの時と全く同じ彼だ……。サラは優しげな微笑を浮かべ、そっと眼を閉じた。彼女は彼が死んだ後も、彼ただ一人をその胸の中で愛し続けていたのである。

廃れた研究所のある一室で、過ぎ行く時を告げる時計の音を数えながらウェスカーはサラの顔を眺めていた。ベッドの周りには治療装置が幾つかあったが、劣化し電気も通らず、彼女の体調が悪くなるのをただ見守っていた。しかし彼女は神の身元に横たわる天使宛ら安心しきって、如何にも無邪気に眠り続けていた。数年振りの再会であったが、彼にはその年数よりも随分と長く感じられた。その間に彼女の声や微笑み、眸の色などをウェスカーが思い出す事は殆どなかった。事件の後は一気に感染が広がり、当然彼女も死んだものと思っていたからである。
『私の場合、運かな』
そう言ったサラをウェスカーは覚えていた。そして『確かに運は大切だ』と言った自分の事も。

その頬に再び蒼みが差したのは半日後であった。ウェスカーはその様子を、ただ静かに椅子に座って見ていた。記憶の中にある美しい彼女とはすっかり違う姿になっており、少しずつではあるが、死は確実に迫っていた。そしてそのままの容体で数日ばかりが過ぎるとサラは昏睡状態に陥り、酷い屍のように横たわっていた。彼女は眉や唇を痙攣らせながら、絶えず何やら呟いた。一体彼女は自分に起こっている出来事を理解しているのかどうか、全く見当がつかなかった。ただ一つ確かな事は、彼女が何か表白したいという要求を感じている事であった。しかし聞こえるのは言葉ではない為、彼は何も聞き取る事が出来なかった。明らかにサラは肉体的にも、精神的にも苦しんでいた。全快の望みは当然ない。ウェスカーは何もせず、ただ昼も夜も離れずに彼女の傍にいた。そして言うのも恐ろしい事であるが、彼はその様子を眺めながら、快癒の徴候を見出す事をしないで、終焉の近付いた徴を見出すように望んだのである。この感覚を明瞭に意識したのは、実際に彼の心中に潜んでいたものが表へと浮き出たからであった。そしてそれはウェスカーにとって最も恐ろしいものであった。彼女の発病からこの方、彼の内部に忘れられ眠っていた人間的な願望や期待が、急に目を覚ましたという事である。幾年も彼の頭に浮かばなかった考え──恐怖のない自由な生活、いや、そればかりか、恋や家庭生活の幸福などを思う心が、宛ら悪魔の誘惑のように絶えず彼の想像を悩ますのであった。彼は時々、自分が別の世界に捕われているのを感じた。現実の煩いが彼を捕らえ尽くしたのである。しかしそれと同時に、サラに対する毒々しい憎悪に似た、異様な、思いがけない感覚がウェスカーの心を過ぎった。その感覚に我ながら驚き、彼は突然頭を起こし、まじまじと彼女を見詰めた。──私は彼女を殺すのだろうか。彼はこの時ほどサラを失う事を、悲しくまた恐ろしく思った事はなかった。彼はサラと共に過ごした自分の生活を思い起こして、彼女の一言一行にも自分に対する愛を見出したのであった。彼には、サラを殺す事は出来なかった。