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Pearl



錦えもんは一人、夜の街を放浪していた。前までならば殆どの時間を船の中で過ごしていたが、最近では異文化に触れることを細やかな楽しみと感じていた。時刻からして閉店している中に、ある一つの騒がしい場所を錦えもんは見付けた。遠くからでも、其処には人集りがあることが分かった。海沿いに建っているそれはバーであった。窓や扉が開けっ放しで、中からは楽器の音色や人々の話し声などが流れて来た。錦えもんはそのバーへ近寄った。着物に刀という希有な格好をしている彼だが、そんな彼のことを気に掛ける者はいなかった。建物はガラス張りであった為、中の様子を容易に見ることが出来た。覗いてみると、小さな舞台には楽器の演奏者が数人。そしてその近くで踊っている男女がいた。錦えもんはその男女から視線を外すことが出来なかった。見間違える筈がない、如何にも楽しげに踊っているのはサラであった。あの日──彼女の音楽と共に過ごした短かな時間のことを、錦えもんは再び心の中ですっかり繰り返し始めた。そして、己の手を握った時のあの放胆で清らかな眼差しや、身振りや、優しい微笑などを思い浮かべた。だが今夜は、あの日とはまた違って特別であった。気持ちが興奮している為か、ことに美しかったのである。生と美に張りきったサラの姿は、周囲に対する無関心な表情と一緒になって人々の目を射た。その深緑色の眼は誰を求めるでもなく群衆を眺め、宝石を嵌めた華奢な手は、誰に触れるでもなく彼女の傍にあった。──そなたを見詰める者はみな、恋に陥るのだ。そなたが拙者の前に立つ時、拙者は全てを忘れただ憧れてしまう。そなたはただ美しくて、男などはみな直ぐにそなたを信じ込んでしまうのだ。瑞々しい緑の色に瞬く眸を、または黒々と耀う眸を、または聡明な眉の影に柔らかに光る眸を、一目見た時のこの胸の立ち騒ぐことよ。だがそなたは知らない。男をそのようにして、一体どうすると言うのだ──錦えもんは、ただ己が以前とはまるでかけ離れた、不思議なもの狂おしい世界、善悪賢愚の見境も付かない世界へ来てしまって、もはや後戻りする事が出来なくなったのを感じたばかりであった。

彼がこの自分を見てくれていると思うと、サラの明眸は異常な輝きを示した。漲る若さと溌剌とした自信は、ワンピースの裾から見える右脚の銃弾の跡と共に刻まれた羞恥をも凌いだ。見知らぬ群衆の中に錦えもんの姿を捉える。彼は人集りに交わる事なく、遠くの方からサラに真っ直ぐな視線を送っていた。彼女から外される事や、宙を見る事は一度としてなかった。ときどき彼に背中を向ける時など、彼が後ろから自分の露わな手を掴んで、首筋の辺りへ接吻しないかと、サラは嬉しくて堪らなかった。サラはその視線に、まるで錦えもんに微笑むように、自分の手を取っている男性に婉然とした表情を浮かべた。この夜のみ、それが許されたのである。

「此処にいらっしゃったんですね」
サラは錦えもんが終始佇んでいた場所へと行ってみたが彼はいなかった。サラはバーを出て、辺りを見渡した。身体を動かした為に心臓が快活に動いていたが、錦えもんの後ろ姿を見付けるとその鼓動は全くの別物に変わった。打つ速度はゆっくりと遅くなり、心臓が振動する強さが増したのである。彼は腕を組み、月光にきらきら輝く海を眺めていた。サラがそう声を掛けると、彼は心底驚いたように振り返った。二人の視線がぴったりと出合った。彼は殆ど微笑しないばかりの顔付きで、憧れ渡ったような優しい目をして、真面に彼女の眸を見詰めたのである。
「あ、ああ。拙者には、ああいう場所は落ち着かんのだ」
彼はそう言いながらも、サラの顔や、首や、露わな手から、微笑を含んだ目を離さなかった。サラは錦えもんが自分に随喜渇仰していることを些かも疑わなかった。それは彼女にとって無上に嬉しいことであった。今夜このように着飾ったのは、何も自分がそうしたいと望んだ訳ではない。
「右手を私の腰に」
波が寄せる音と音楽とが其処には流れていた。先程とは違うスローな音調に、人々の話し声も小さくなっていった。サラは錦えもんと向き合うと、彼を見上げた。すると彼は照れくさそうに、だがその無骨な右手を彼女の腰に添えた。サラが「私の右手を掴んで」と言う前に、錦えもんは自ら左手で彼女の右手に触れた。
「サラ」
乾いた重低音の声が彼女の心を甘く疼かせた。錦えもんの黒い目を見詰めている内に、いつも他の男に対して感じている羞恥の垣が、錦えもんとの間にはもはやなくなっているのに気が付いた。その事実に彼女は思わず愕然とするのであった。
「サラ」
錦えもんは再び彼女の名を口にした。そして彼女を己の胸へと優しく引き寄せた。己の頬に当たっている彼女の柔らかな髪からは、花のような馥郁たる香りが漂った。そして左手で触れている彼女の右手の指を、己の指と絡ませた。何も感じることが出来なかった。彼女以外は。
「そなたには、ただ微笑んでいて欲しい」
そなたを一目見ることは、憧れを知ること……否、恋することである。如何に君を傷付けるかを知りながらのこの言葉を許せ。そなたの心の中に生きることの叶わぬうえは……そなたよ信ぜよ。拙者がそなたの友であることを。
サラは錦えもんの胸に頬を当て、先程彼が眺めていた景色をその眸に映した。ただ微笑んでいて欲しい。彼はそう言った。なんて美しい言葉なのだろう。彼は私に……。しかしそれが、一緒にはなれないことを表す言葉だということも彼女には分かっていた。サラは沈んだ優しい色を顔に浮かべた。──あなたが、一人であの本の頁を爪繰る時、私の名が、あなたの憂い深い目を惹くように……。