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Kiss tomorrow goodbye



夜が齎す静謐の中、住宅街を進むセバスチャンの足取りは軽かった。手に抱えたワインボトルのラベルを幾度となく見たり、異常な程に輝く月を見上げたりと密かに感じている緊張を紛らわせた。彼は毎日サラの事を考えていた。特に夕飯に誘われてからはそれが酷かったように思う。以前のように仕事には集中出来ず、一日の殆どを物思いに耽り過ごした。彼女は俺の事をどう思っているのだろうか。セバスチャンは全ては彼女の気持ち次第であるとさえ思った。彼女の気持ち次第で、この先にある俺の人生が決まると。俺はサラを愛している。俺はこの上なく、サラを愛しているんだ。これは今までの人生にはなかった唯一の気持ちである。冷たい夜気は高揚している彼を若々しい気持ちにさせた。彼はふと思った。彼女に触れたら、自分は一体どうなるのだろうかと。あの柔らかそうな髪や頬、唇や手などに触れたら。何故だか分からないが、自分が死んでしまうような気がした。
セバスチャンはサラの家の前に着くと、玄関のドアを軽く叩いた。辺りは灯りの点いた家ばかりであるのに、話し声一つ聞こえない。すると「どうぞ、入って下さい」と中から彼女の声がした。ああ、やはり、彼女と二人きりなんだなと思う。今更にセバスチャンは自分の服装や髪型がどうなっているか気になった。歩いて来たから汗の臭いがしていないだろうか、変な髪型になっていないだろうか、などと思う事は幾らでもあった。しかしもう此処まで来たのだ、早く彼女の笑った顔が見たいと、セバスチャンはドアノブに手を掛けた。
「鍵を開けたままは危ないぞ」
彼女に聞こえるようにそう言うと、曖昧な返事が返って来た。セバスチャンは足を進めた。外見通り、家の中には幾つもの部屋があり、灯りが点いている一番奥へと向かった。其処はリビングであり、サラがいた。彼女は立ったまま窓の外を見ていた。セバスチャンが一歩サラに近付くと、彼女が振り返った。彼女が持つ深緑色の眸。その双眸には僅かな涙が浮かんでいた。宝石宛らに見えるそれらにセバスチャンは思わず息を呑んだ。──まさか君が……。腰に差していたハンドガンを構えようとした途端、ドアの背後に隠れていた男二人に身体を押さえられた。セバスチャンの手から離れたワインボトルが地面へと落下し、その中身と共に破片が飛び散った。セバスチャンが力のある限り抵抗すればする程、その腕や肩に固定された男達の手に加えられる力が強くなり、筋肉の奥にある骨までもが軋んだ。セバスチャンは大声で叫びながら首を動かし辺りを見た。自分を押さえ付けている男二人はサングラスを掛け漆黒の背広を着ていた。やはり、俺が担当していた事件には何かあるのだ、何か、大きな陰謀が──セバスチャンはサラに瞳を転じた。動揺した表情を浮かべている彼女が数歩ゆっくりと後退った。しかしそれは彼女の背後にいた長身の男に阻止された。その男の右手が彼女の左肩に置かれたのをセバスチャンは見た。男の顔は見えなかったが、彼も同様に暗い背広を着ていた。途端、サラの表情が酷く怯えた表情へと変わった。彼女のそんな表情を、セバスチャンは今まで一度も見た事がなかった。何事にも動揺すら見せなかった彼女が、たった一人の男に恐怖を感じている。その事実に、彼は己の心臓がずきんずきんと強く鼓動するのを感じた。
「サラ、」
セバスチャンは首筋に感じた小さな痛みに目を細めた。地面に押し付けられた身体は瞬く間に力が抜け、明瞭であった意識も朧げになっていった。しかし目蓋を閉じるその最後まで、セバスチャンが持つ茶色の虹彩には彼女の姿が残存していた。

一度あの装置に繋がれると、現実世界からその装置にアクセスしない限り意識が戻る事はない。サラは自分に向けてくれた彼の眼差しや言葉などを思い出した。痙攣的に啜り泣きの込み上げて来る胸を手でじっと押さえながら、彼女は胸の内でこう呟いた。彼はもう戻らない。彼は組織にとって所詮は駒である人間だ。だから彼はもう戻らない。彼は……彼は唯一、自分が崇めた人であった。彼の為であれば何でも出来る気が起こり、目蓋を閉じると彼の姿が見えた。彼の名前を大切にし、彼の成功と幸福を願った──さようなら、とこしえに。サラは空を仰いだ。今夜は正しく良夜であったが、その美しい景色は彼女に何一つの感動も齎さなかった。サラの眸に映っている煌々たる星々は、点と点を結ぶ光芒のように見えた。それは長年続いた潜入捜査による薬物摂取の副作用であり、幻覚であった。神の摂理が其処にあったとしても、今のように、我々人間にはただの点と線にしか見えないのだろう……。我々人間には自我があるが、それ自体には何の意味も持たないないのだ。
「ご苦労だった。君には次の仕事がある」
また一つ仕事が片付いた。今度はどの地に飛ばされるのだろうか。しかしそれがどんな仕事であっても、以前のような輝かしい自分にはもうなれない事を彼女は知っていた。
「分かりました」
永久にさらば、さらば、カステヤノス刑事。サラはあの茶色の双眸を最後にもう一度、想起した。