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The surly sullen bell



「落ち込んでいるんじゃないかと思いまして」
「そう見えるか?」
「いえ、全然」
遂にセバスチャンは何度目かの謹慎処分を受けたのであった。目撃者が一向に話そうとしない為、三人を相手に一人で暴れ回ったらしい。駆け付けた警官によると、その三人は鼻や口から血をだらだらと流し、酷い者は顎の骨を骨折していたらしい。一方、セバスチャンは利き手を真っ赤に染めただけで、暴行の何が悪いと言わんばかりの顔であったという。この世の終わり宛らの顔をして警官が言うものだから、サラは思わず笑ってしまった。思った通り、彼は良い刑事にも悪い刑事にもなれる。家の中から姿を現したセバスチャンは、人を殴った事など既に忘れているような表情であった。
「入れよ」
セバスチャンはそう言ってサラを中へ招き入れた。彼の部屋は閑散としており、一人で住むには十分な広さであった。料理を殆どしないのであろうキッチンには、コーヒーメーカーと酒のボトルのみがあった。ただ一箇所、散らかっていたのはリビングのテーブルであった。新聞から切り抜かれた幾つもの記事が其処にはあり、サラはそれらに視線を移した。
「真面目だろ。全く、上層部にも見習って欲しいね」
セバスチャンはコーヒーの入ったマグカップを一つサラに渡した。湯気が出た、色の濃いコーヒーに自分の顔が映る。上層部、という単語にマグカップを持つサラの手が僅かに震えた。それを隠すようにそのコーヒーを一口飲んだ。濃くて美味しい筈なのに、全く味がしなかった。
「だが見事に行き詰まってな。署にあるデータを見ないと進まない」
革のソファーに腰掛けたセバスチャンは、嘸かし不機嫌そうな表情で頭をポリポリと掻いた。サラも彼の隣に座り、目の前にある記事を眺めた。彼が謹慎処分になった途端に、過去の重要なデータは全て消されている。もし謹慎処分がなかったら、同じ時期に上層部からの捜査の中止命令が下っていただろう。着々と準備は整って来ている。どのような結果になるにしろ、組織は必ず、彼をあの機械に入れる。まるで処刑台宛らの装置に。
「──お前、少し痩せたか?」
サラは彼の声に我に返った。セバスチャンを見ると、彼の茶色の双眸が此方を真っ直ぐに見ていた。その綺麗な茶色の目の中で溶け合っている謹厳と悠然の表情は、限りなく魅惑的であった。そんな彼に、サラは何もかも披瀝したいと思った。組織の事、今彼が置かれている状況、そして自分の事を。すると彼は自分に対し忿懣の表情をするだろうか。自分に対し雷霆の如き声で猛烈な罵詈を浴びせるだろうか。セバスチャンの目元に掛かる前髪が揺れた。彼は自分に対し特に注意深く、顔色を窺っていた。短気な彼が、珍しく人の言葉を待っている。大切に懐奥深くにしまっていた正鵠を、彼女は表へ出したい衝動に駆られた。「ああ、そうだ」とサラは言葉を続けた。
「明日の夜、私の家で夕飯をどうですか?ちゃんとご飯、食べていないみたいですし……」
早速サラは用意していた言葉を苦労して放った。そうでないと、彼に今すぐ此処から逃げるように言いそうであった。何もかも捨てて、何もかも忘れて、何処か遠くへ逃げて欲しい。この世の仕組みを何一つ知る事なく、ただ生きて欲しいと。
「それは楽しみだ」
サラはひたと男の目を見詰めた。すると、その位置の近い事や、嘸かし頼もしい事や、人の良さそうな優しい微笑などが遂に彼女を征服した。彼女は男の目を見詰めながら、相手と同じような微笑を浮かべた。再び自分とセバスチャンとの間に、もはや何の隔てもないのを感じて、彼女は思わずぞっとした。
「ワインを持って行く」
しかし彼は目を輝かして優しく微笑みながら、じっと彼女を見詰めるのであった。其処にはただ純粋な愛情のみがあった。何の疑いもない好意と自分自身を真っ直ぐに見詰める慇懃な眼差し。サラはふと思った。もし私が組織に属さない人間であれば、この人生を彼と過ごしただろうか。そんな果てしない幸福な人生の可能性が、この私にもあっただろうかと。彼一人ではなく、自分も逃げる事が出来たら──彼の手を取り、自分達の事を誰も知らない地へ一緒に。一緒に……。

セバスチャンは自分の家を辞したサラの玲瓏たる眼差しを思い浮かべた。新しいあるものが自分の為に開けたように感じたその日から、地上の一切が空虚で無意義であるという、永久に彼を苦しめていた疑問が、もはや心に浮かばなくなったのである。以前、どんな仕事をしている時でも、必ず彼の心に現れた「何故?何の為?」という恐ろしい疑問が、今では彼にとって全く別のものに変わった。それは何か他の新しい疑問でもなければ、以前の疑問に対する答えでもなく、ただサラの面影であった。今はどんなくだらない話を人から聞いても、或いは自分でしても、また人間の陋劣とくだらなさを本で読んでも、或いは人から聞かされても、以前のように戦慄を感じる事はなかった。全てがこんなに蜉蝣の如く短命で不可解なのに、人は何の為にあくせくするのか?などと自問しないようになった。彼は最後に見た、彼女の姿を思い出した。すると全ての疑問が悉く消えてしまうのであった。それは彼女がセバスチャンの胸に浮かぶ疑問を解いてくれるからではなく、彼女の面影が彼を拉して全く別の、明るい精神活動の世界へ運んで行ったからである。そこでは義人も罪人もなく、ただ生きさえすれば良い。それは美と愛の世界であった。そして彼はどんな人生の醜悪な場面に接しても、こう独り言を言うのであった──幾ら誰それが何処かの財産をくすね取ろうが、また幾ら誰それが名誉を持ってこれに報おうが、そんな事は構いはしない。彼女は今日、俺を見て微笑んで、夕飯を食べに来てくれと言った。俺は彼女を愛している。それは誰にも分かる筈もない──そう思うと、彼の心は穏やかに晴れ晴れするのであった。