×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -

War and peace



*ドレスローザ

すっかり夜になった。空には星が現れて、月が時々煙にかげろいながら輝く様子をサラは眺めていた。つい先程まで感じていた、死に対する重苦しく神秘的な恐怖はまるでなかった。彼女の背後にはキュロスの家が建っている。仲間達の話し声が其処から聞こえていたが、今ではすっかり聞こえなくなった。サラは手当てされた右手を無意識の内に撫でた。途端、背後にある家の扉が静かに開く音が聞こえた。サラは振り返り、出て来た人物を見た。
「もしや何も食べていないのではと思ってな」
小さな籠を持った錦えもんがサラの方へと近付いて来た。そして彼は彼女の傍で胡座を掻き、籠を彼女に渡した。その籠には肉類やパン、果物が入っていた。
「若人は、もっと食べないと駄目でござる」
慇懃な低い声と共に、彼の切れ長の鋭い目がすうっと細められた。その優しげな眼差しに、サラは辺り一面に咲く向日葵の香りが溢れ漲ったのを感じた。
「すみません、頂きます」
「ああ。それと、お主にこれを」
サラは籠を抱え、錦えもんの方を見た。彼はもう一つ手に持っていた物を彼女に手渡した。
「本屋で偶然見つけたのだ」
それは一冊の分厚い本であった。サラは思わず、その本の表紙を淑やかな指で撫でた。表紙に刻まれていたのは母語であった。今では使われていない、滅びた言語であるが、サラは胸の内でその母語の発音をした。何度も繰り返し、音調をその身に刻むように。母語で人と話す事など二度とないだろうが、やはりどの言語よりも好きであった。
平和というのは、人々が他国の人の事を知り、互いの心の中に友情、親しみ、道徳的共感が生まれて、初めて訪れるものである。この本が世界中で翻訳され、世界中の人々に読まれていたら。母国で生まれた幾多の名作が、敵国の人々に読まれていたら、戦争など決して起きなかっただろうに。私たちの心、凡ゆる階級の人々の心、軍人、皇帝、庶民の心が伝えられていたら。名作にはその力がある。その国に自分たちと何も変わらぬ人間──忍耐力がある人間、勇気がある人間、誠実な人間、信仰心を持つ人間がいると分かれば、戦争などしたくないと思うだろう。人間は、理解できないものを恐れる。私の母国は不幸であったのだ。他国に何も知られていなかった故に。私たちの心を描いた文学が翻訳もされず、読まれてもいなかったのだ。名作を書くという事は、戦争に勝つ事と同じくらい価値がある。平和の構築を怠った為に、彼らは死ななければならなくなり、私たちは全てを失わなければならなかったのだ。
「これ、六巻まであるんですよ。長い分、登場人物も沢山出て来て、もう誰が誰だか分からなくなってですね……」
サラはその深緑の瞳に一脈の哀愁の宿わせ、小さく笑った。そして何頁か捲り、紹介されている登場人物の一覧を見た。母国が持つ独特な名前の英雄たち。階級、性格、境涯も違う。その人物一人一人に思い描いた体躯や顔立ちを、サラは鮮明に想起する事が出来た。本の中ではあるが、彼らは紛れもなく私の母国の人間であったのだ。私の兄弟であり、両親であり、教師であった。
疲労とはまた別のものが、彼女の身に起こったのを錦えもんは見た。彼女の国で何かが起きたのだ。錦えもんはそう悟った。平和など存在しないと思える程の惨憺な事が、美しい彼女が生まれた国で。
「これを、見つけて下さったんですね」
私の国から遥か遠く離れた地まで流れて来たこの本を、他の誰でもない彼が拾ってくれた。彼が私の母語を覚えていてくれた。サラはその本から視線を外し、遠くを眺めた。地上に争いは絶えないが、この晴れた夜空の向こう、天上には何があるのだろうか。我々のような自我の芽生えた生き物が生存しない世界は、どんなものなのだろうか。其処には虚偽も欺瞞もない、ただ静謐のみが存在する筈である。
「拙者が持っていても良いだろうか」
サラは脳裏に浮かんだ、今は亡き人々の顔を胸の内に収めた。最後に本の題名の文字、滅亡した母国の言語をサラは親指の平で撫でた。もう、どうにもならないのだ──サラはその分厚い本を彼に差し出した。錦えもんの柔らかな視線が本へと移る。そしてその大きな手がそれを受け取った。彼はきっとその本を大切にしてくれる。そして彼はきっと、彼の母国を救う事が出来る。本に優しく触れるその逞しい手を見て、サラはそう確信した。
「拙者はもう休むが、お主はどうする」
彼女の愛憐するような眼差しが、錦えもんの脳梁を震わせた。彼は今、己が全く別の世界に捕われているのを感じた。どうかいつまでも、その綺麗な眼を開けていてくれ。
「私はもう少し此処にいます」
あなたが好き。月光に輝く豊かな水面を、サラは流れに沿って眺めていた。
「──では拙者も」
彼女のしっとりとしたその声が、錦えもんの胸に鳴り渡った。錦えもんはサラが持つ、美しい横顔をその目に映した。そなたが心を寄せている男の事は忘れて、一切を忘れて、この拙者と共に……。錦えもんは固く目を瞑った。