軌跡

42 時の果ては残酷なほど穏やかな 1/6 


 振り返った光景は、ああ、本当に悲惨なものだった。

 弦の切れた導力弓を持ち、右腕を押さえるアリサ。ガイウスの槍も、とうの昔に折れてしまっている。ラウラは額から血を流し、剣を支えにかろうじて立っている状態だった。
 脇腹を負傷し膝をつくマキアスの治療を試みるエリオットの杖の導力は底を尽きかけている。へたり込むミリアムを庇うように前に出るアガートラムが今、吹き飛ばされたユーシスを受け止めた。
 左足を負傷しながらも立ち上がろうとするフィーを治癒をしようと杖を振るうエマのお下げ髪はボサボサで、手が震えているのが見て取れた。

 ……──寒い。

 彼らを守るために進み出たレイチェルも、心の臓を撫でるような寒気に指を震わせた。白く染まった髪が、毛先から少しずつ凍てついていくような錯覚に囚われた。いや、それは現実の事、なのかもしれないが。
 右手を伸ばして、目の前の騎士人形へと狙いを定めた。けれど氷の刃を走らせたとしても、容易く防がれてしまうのは目に見えている。

 倒すことはできないだろう。だとしても、とにかく、皆を逃がさないと。
 守ると、リィンに大言壮語を吐いたのだ。果たさなければ飛んだお笑い種──否、笑えもしない、愚かな嘘にしかならない。それは、困る。

 1つ、追いつかれず逃げきるために、せめて皆の大きな傷だけでも癒すこと。2つ、そう易々と見逃してくれるはずのない“敵”の動きを、少しでも封じること。
 きっと、どちらもできる。自分なら、この力を上手く使えば。そこまで器用なことは今までした事がないけれど、後のことさえ考えなければどうにだってなる。
 あとは、それらを為すための隙さえ見つかったなら──

『トールズ士官学院Z組!』

 ──ああ、タイミング、バッチリすぎるな。

 地に差すのは巨大な影。天を覆うのは紅い陰。拡声器を通して響き渡ったのは、低くも凛と響く男の声だった。
 現れたのは、たった2ヶ月ほど前に世話になった美しい船だった。紅き翼──カレイジャス。そして、聞こえる声はその艦長となった人のもの。ラウラが上がった息の元で「父上……?」と呟いた。

『今は斃れる時ではない! 未来を掴むためにも、落ち延び、機を伺うがいい!』

 させるかよ、と低い声が人形越しに聞こえてくる。振り翳される刃。言葉の通りにその思惑を妨げようとする彼の攻撃は、より一層に増した。けれど、させるかよ、を“させるかよ”と、レイチェルは口の中だけで呟くのだ。

 カレイジャスから砲弾が放たれる。Z組を逃がすための目くらましとなってくれるための一撃に、騎士人形が回避行動を取った。そこに生まれた“隙”に、右手を掲げる。

「天恵よ、降り注げ──!」

 瞬間、辺りを満たしたのは淡い蒼の光だ。取り巻く大気中の水の気配達が、遍くレイチェルに応えたその証明。この命令に応えて、そして、雨へと変わる。
 仲間達の傷には優しく溢れる癒しの力として。敵対する者には、その身の全てを凍て付かせ動きを封じる束縛として。レイチェルの思惑通りに力を展開させた水の霊力の塊を保つままに、叫んだ。

「皆、今のうちに!」

 戸惑い、逡巡し、皆の視線が交わる。ぎこちなく頷いた仲間たちが、三々五々に走っていく。その背中を視界に捉えながら、拘束を振り解かんとする人形へと注ぐ力を更に手に込める。
 あと少し、もう少し、少なくとも、皆の背中が見えなくなるまでは──それまでは、どうにか。

「レイチェル!」

 叫んだのはフィーだった。ここから唯一動こうとしない、1人で残って皆を逃がそうとするレイチェルへの怒りが存分に込められた呼び声だった。
 立ち止まった彼女の腕を、近くにいたマキアスが掴む。離脱を促すその手に、フィーは瞬間苛立たしげに唇を噛むのだ。きっと彼女自身もこの場における最適な行動が何であるかは、理解しているはずだった。

 だからこそ、友人のその声は矢のように放たれてレイチェルの胸を貫くのだ。

「──合流したら、言いつけるから! リィンに! レイチェルが無茶したって事細かく!」
「あはは……それは、ちょっと怖いな」

 この上ない脅し文句に、レイチェルは肩を竦める。そしてそれはこの上ない理想の再会の約束で、同時に笑ってしまう。
 彼自身すらもああやって無理矢理に逃した以上、リィンはきっととんでもない剣幕で怒ることだろう。そして吊り上がった眉へと申し訳なさそうな顔で縮こまるレイチェルを、クラスメイト達は横から茶々を入れながら見ているのだ。
 なんて素敵なことだろう。それはまるでいつも通りの日常のようで。

 風に吹かれた自分の髪が、雪のような白銀が、視界の端に映る。力を今もなお注ぎ続けるレイチェルのそれは、まるで昇華するかのようにキラキラと宙に融け出しているように見えた。
 ……だからきっと再会したって、本当にいつも通りではいられないのだろうと思う。少し夢見てみたりは、したいけれど。

 9人の赤いブレザーが見えなくなる。それぞれが身を隠してどこかへと向かったはずだ。けれど相手が空を飛ぶなら、どれだけ逃げたって距離は近い。きっと容易く見つけられてしまう。
 だから、まだダメだ。

「まだ、溶けちゃダメ……砕けちゃダメ。凍らせて、もっと、もっと──!」
「チッ……!」

 凍結から逃れようとする人形を力で抑えつける。目一杯、もっと、出来る限りで、皆がちゃんと安全な場所まで逃れるまでは、どれだけ寒かろうが手が悴もうが構ってはいられなくて。
 もう少し、あとちょっと、まだ、皆を守るには足りない。逃がさないと、仲間を、大切な人を、その身を焼こうとする業火から──

『レイチェル!』
「ぁ……」

 頭上から聞こえた覚えのある声に、小さく吐息が漏れた。冷たくて草木をも凍らせてしまう温度の息だった。

『彼らはもう平気だ。だから後はボク達に任せて君も行きなさい!』

 行く、って一体、どこにだろう。レイチェルが向かえる場所などあるのだろうか。

『大丈夫、ちゃんと迎えに行くよ、あの日のように。だから、とにかく今は逃げたまえ!』

 その言葉と共に放たれた砲弾が、動くことのできない騎士人形の足へと命中する。炎と硝煙が土埃を巻き上げる。
 煙幕の中で聞こえた呻く誰かの声──そういえばあの人形の傷は中の乗り手にフィードバックされるとかなんとかだと、先の戦いの中で誰かが言っていたことを思い出した。
 それが少し気になったけれど振り返れないまま、レイチェルは一つ息を吸って導かれるように走り出す。街道を外れて、茂みの方へ。木々が少しの目隠しになってくれる人気のない方へ。

 あんな煙の中で息を吸ったのが間違いで、駆けながら少しだけ噎せた。
 だから、だろう。息苦しさの中で一度だけ、ほんの一瞬だけ立ち止まって振り返った蒼い人形の姿が、少し涙で滲んで見えたのは。


時の果ては酷なほどやかな

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