海上で生活する上で、潮騒というものはとても身近なものだ。時には荒く、時には穏やかに船を揺らして波を打つ。
ざあざあと歌う潮騒は無くてはならないものだろう。時に荒く歌う潮騒は多少の恐怖心を煽るが嫌いにはなれず、静かに揺蕩うように揺れて歌う潮騒は時に子守唄のように思う。

白く大きい白鯨の船首を持つモビー・ディック号。人気の無いデッキに程良く日当たりがあって波も風も良好。これは昼寝に最適だとナマエは壁に背を預けて眠りの海へと沈んでいったのが昼を少し過ぎたくらいだったか。
今日のナマエの仕事は大凡終わっていて、一人昼寝に勤しんでも誰が困るという事は無さそうなので堂々と潮騒を子守唄に寝入ったのだ。

そこから数時間か、昼よりも穏やかな潮騒を聞いて目を覚ました。緩く目を開ければ空は薄く赤く染まっていた。

(――ああ、きれいだなあ)

ぼんやりと空を見渡して見るとふと動きにくい事に気が付いた。まだふわふわと夢現な気持ちでどうしてそうなってしまっているのかと思って顔を下げた。

すると膝の上で綺麗な男の人が眠っているではないか。いつもの結い上げた綺麗な髪は少し崩れてしまっているが、それでもまあ綺麗な顔だ。薄い唇に差された紅も男の人であるのに『そうあれ』と誂えたかのように似合っている。
そんな人がナマエの膝を枕にして眠っている。

「……ああ、だからうごきにくかったのか」

まだ完全に夢から覚めず、気を抜けばまた夢へと落ちていってしまうかのような微睡み。やんわりとした思考の中でナマエは状況を把握した。

「……これはうごけない、なあ」

むにゃむにゃと舌っ足らずになりながら「これはしかたないなあ」と、言った所で一気に目が覚めた。普段は割と目覚めが悪い方で、目が覚めてから活動と思考を開始するのに時間がかかっていた。が、今の目覚めは文句無しに一番早く思考も活動も開始出来た。
いっそ恐ろしい気持ちで寝入っている男の顔を凝視した。嫉妬することすら烏滸がましいと思ってしまうような美貌の人。
彼こそ我が白ひげ海賊団の16番隊隊長のイゾウである。何度見てもそれ以外の人間には見えず、ナマエの心中は凪いだ夕焼けの海と違って風荒ぶ大荒れの海だった。

「な、な、なん、で……?」

落ち着け、落ち着け、と自分で自分を宥めながら、とりあえず静かに寝入っているイゾウを起こさないようにぴたりと動きを止めた。
呼吸をする事ですら起こしてしまうような気がしてついでに自分の口を両手で覆う。
何故、どうして、と頭の中はナマエの心情とは反して大混乱の大嵐だ。

***

ナマエは白ひげの海賊では数少ない非戦闘員で頭脳労働員だった。
所属する隊で言えば16番隊なのだが、基本的に書類仕事なら隊関係無くなんでもやる。戦闘後の各隊から出される報告書だとか色々。中でもナマエ自身計算が得意なので白ひげの中の経理事をよく任されている。今は殆どそれ関係の仕事ばかりだ。

そして今は次の島が近い為、着くまでに白ひげ内の財務状況を把握して決算報告書を作らなければならない。ここの所金庫番はその仕事で忙しく、ついにはナマエは金庫番に拉致された。金庫番はやたらといい笑顔でナマエにそろばんを渡し、見事修羅場に巻き込まれたのである。
数日修羅場に巻き込まれ、もう数字等見たくはないと嘆き、疲れ果てた所でナマエに当てられた仕事は大凡終わった。あとは2番隊の隊長様が遅れに遅れている書類――以前の戦闘で2番隊が壊した備品の目録その他諸々――を作って、それをナマエが処理すれば完全に終わる。
今朝2番隊隊長のエースが金庫番に「今日中に出せ」と夕食を人質に取られながらギチギチに締め上げられていたので今頃あくせくペンを握っている事だろう。出来上がるのはどうせ夕食間際だと予想してナマエは合間に昼寝を始めたのだ。

それが、どうして。なんだって自隊の隊長が自分の膝を枕にして寝入っているのか。

「いやいやいや、夢?ああ、そうだ夢だ。つかれすぎてわたしは夢をみてるんだ……!」

そうだそうだと清々しい上に無理のある現実逃避を始めるナマエ。
もう一度寝たらきっと目が覚めるかもしれないと根拠も何も無い願望をもってして再度眠りの淵に足をかけようとした所で膝上の人がくつくつと喉を鳴らすように笑っていた。恐る恐る見下ろせばイゾウがにやりと笑っている。
驚いて身を仰け反らせようとすればそれよりも早くイゾウが垂れ下がったナマエの髪を引っ張った。

「え、ちょ……!?」

「夢じゃねェよ、馬鹿」

「いや、だって、ええ?」

「いい加減現実を見やがれ」

そう言うとイゾウはぐしゃぐしゃと思いっきりナマエの髪をかき回した。

「ちょっと、やめてくださいいいい!」

小気味よい程ぐしゃぐしゃにされた後、満足したのかイゾウはナマエから手を離す。
なんてことするんですかと声を荒らげてみたい気もするが、そんな恐ろしい事は出来そうにないので心中で留めてぐしゃぐしゃにされた髪を直した。

「それで?」

「え、なんですか」

「金庫番の仕事が終わったのになんで俺の所に戻って来ねえでこんな所で寝てやがるんだ」

形の良い柳眉が寄せられて如何にも不機嫌な顔をしたイゾウはナマエを睨んだ。内心蛇に睨まれた蛙の様だと思いながら「まだ終わってないです」と答えるとより一層不機嫌になってしまった。

「なら何で呑気に昼寝なんてしてんだよ」

「ええと、エースさん待ちです。あとエースさんが持ってくるのを終わらせたら金庫番さんからもらった仕事は全部終わります、けど」

「多分夕食前には持って来ていただけるかと」と続ける頃にはイゾウは酷く不愉快そうな顔で舌打ちをする。そしてごろりと寝返りをうってナマエの腹に顔を埋めた。ちゃっかり腰に手を回されて完全に逃げられなくなった。

「ったく、仕方なく貸してやったのに全然帰ってこねえわ、久しぶりに見たら呑気に昼寝してるわ、終いにゃまだ終わってないとかふざけんなよ」

「えっと、すみません。苦情はエースさんでお願いします」

ナマエはイゾウに巻き付かれて行き場がわからず迷子になっている両手を彷徨わせながら彼を見下ろす。ふと顔を上げたイゾウと目が合い、果てには目のやり場も迷子になってしまった。さてどうしようと頭の中で一人会議を開き始めようとしたら彷徨わせていた右腕が捕らえられた。

「お前は俺のもんだろうが」

「いや、そんなことは――」

イゾウの射抜くような眼差しがナマエを貫く。触らぬ神に祟り無し。ナマエは口を噤んだ。

「いつまでも他所の男に構ってんじゃねえよ」

囚われた右手がイゾウの口元に導かれる。ナマエが彼の意図を察するよりも早く、ナマエが彼の行動を理解するよりも早く、ナマエの掌へと口付けを落とされる。ぼう、と火が灯されたように真っ赤になったナマエはイゾウから右手を振りほどいた。
咄嗟の事に理解が追いつかないまま自分の掌を見てみるとイゾウの紅が少し移っている。
混乱するナマエを他所にイゾウはナマエの膝から頭を上げて簡単に髪を整えてから立ち上がった。未だに同じ体勢で固まったままのナマエを一瞥して深く笑んだ。

「エースの尻でも蹴り飛ばして回収してきてやるからイイコで待ってな」

ナマエは自分の掌に移った紅の意味を理解した瞬間にさっきはわからなかった感触までもが蘇って来て思考は完全にショートした。
そんなナマエを知ってか知らずか、くつくつと喉を鳴らしながら去っていく男が一人、上機嫌に笑っていた。

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