絶望的に名前変換が少ない

そこそこ繁盛しているバールでラテとケーキを注文し、本を読んだり勉強をしたりするのが私のお気に入りの時間だった。天気が良ければテラスで、あまり良くなかったり気分が乗らない時は店内で。

今日はメイプルシロップを垂らしたメイプルラテとほんのり苦いティラミスを注文してテラス席の端っこの方で本を開いた。
古本で安かったから買って、適当な時間を作って読んではみたがあまり趣味ではなかった。あらすじを読んだ限りでは面白そうだと思ったから楽しみにしていたのだが思わぬ誤算だ。本は中古で大して高くなかった事は幸いだろう。
私はすっかり読む気を無くしてしまって、あーあ、と本を閉じて鞄にしまい込む。ついでに読書中邪魔だと思って結んでいた髪を解いて、黒い髪とお揃いの黒いシュシュも鞄に突っ込んだ。
読んでいる間放置して冷めてしまったメイプルラテを飲み、これまた放置して若干乾いてしまったティラミスをフォークで崩して口に運んだ。ほろ苦い。若干自分の気分もほろ苦くなった気がした。

「なんだァ、ラガッツァ。浮かない顔をして、一体何処のどいつがお前にそんな憂い顔をさせたんだ?ン?」

「……敢えて言うなら、さっきまで読んでた本の作者ですかね、お兄さん」

鞄の中にしまい込んでしまった本をちょいと指さしながら現れた男を見上げた。
彼はなんの断りもなしに私と同じテーブルについて正面に座り、注文を取りに来た可愛いお嬢さんにカフェを頼んでいた。グラッツェ、と言われたお嬢さんは嬉しそうに笑い踊りだしそうな勢いで戻っていった。

憎たらしい程美しい人だ。キラキラ光る金髪に透き通るようなブルーアイ。それこそ彫刻のように美しい人で、そこらで耐性の無い女性が彼に射抜かれたらばったばったと倒れて死屍累々な有様になるのだろうな。


*****


目の前でのんびりとカフェを飲むお兄さんと私が出会ったのはもう数ヶ月は前だと思う。

私がお気に入りにしているこのバールはカフェもドルチェも美味しいのだが、だからといっていつもいつも混雑してカウンターもテーブルも埋まるという程ではない。そこそこ混雑していて、そこそこ賑やかだ。それが丁度良くて好んでいたのだけど、いつだったかこの店の近くにあったバールが店を畳んだ。その店に通っていた客がこっちの店に流れてそこそこ混雑する店は一気にカウンターもテーブルも客でごった返すバールに早変わりしたのである。

そこそこ混雑していてちょっとうるさい程度の雰囲気が好きだった私としてはすごく残念だったのだけれど、今はもう空いた店舗に新たなバールが出来て、前の雰囲気を取り戻していた。要するに私の平穏が戻ったとも言える。閑話休題。

まあ、客でごった返して、いつもよりうるさいバールでも、ここのカフェとドルチェでのんびりするのがお気に入りだった私はそれでも通うのをやめなかった。我ながら常連の鏡だと思う。
そんな時にテラス席でラテとドルチェをつつきながら勉強をしていたら顔見知りのバリスタに相席を頼まれたのだ。丁度勉学に励む気が無くなってしまっていた所だったので、誰がいても困る事はないと了承した。――ら、この恐ろしく顔の整ったお兄さんが同じテーブルの正面の席に座ったのである。

そのお兄さんは純血日本人の私には到底なれそうにないコミュニケーション能力が神レベルのイタリアーノだった。恐ろしい。本場のイタリアーノの上手い口で世間話に巻き込まれ気が付いたら私は今年からイタリアの大学に来た日本人の留学生で、ここから近い学校で声楽を学んでいる事、その学校の寮に入っている事、このカフェでのんびりするのが好きな事を洗いざらい吐かされていたのである。恐ろしい。本当に恐ろしいと思ったから二回言う。

イタリアーノの恐ろしさを身に沁みて感じながらお兄さんと別れて、また数日後。このバールにてまた相席をしたのが前にあった彫刻のように美しい金髪お兄さん。
今では割と高頻度でエンカウントして他に席もカウンターも空いているのにわざわざ正面に座って世間話をする仲になってしまった。


*****


「そういやァ、どうだったんだ?」

「何がです?」

「おいおい、忘れたとは言わせないぜ?学校の男がしつこいだとか言ってたじゃねえか」

ああ、そういえばそんな話をしたもしれない。

「……この前いなくなりました」

「ハァ?」

しつこくしつこく彼氏はいるのか、いないなら付き合ってよ、損はさせないよ、君を愛してしまったんだ!と熱烈なアピールを毎日毎日毎日毎日飽きもせず私の都合も問わずに迫ってきた男がいた。私は恋愛経験値がほぼゼロ、そして相手は人の都合も考えず迷惑なアピールを続ける――しっかり言葉で迷惑だと伝えたのにも関わらず――ような男。ロマンスなど生まれる訳がない。

いい加減鬱陶しくて仕方がなくなって――しかも勉学に弊害が出るようになってしまった為――公衆の面前でコンクリートの上に正座させ文字通り膝を詰めるように向かい合い、自慢の声を使い講義を開いてみた。一つの反論も許さず、何か言おうとしたものなら一喝して黙らせ彼の足がしびれて感覚が無くなるまで倫理とTPOを説いてみた。
因みに後日友人達に相変わらず良く通る綺麗で素敵な声ね、と褒められた。

「――で、次の日から彼は私の前に現れなくなりました」

事の顛末を伝えて、心配してくれてありがとうございました、と伝えたらお兄さんは腹を抱えて笑っていた。一応声を抑える気はあるのだろうが抑えきれなかった声が漏れてお兄さんの喉がくつくつと鳴っていた。なんなんだ、一体。

意味が分からずにおもいっきり顔を歪めていればお兄さんは悪い悪いと手を振った。笑っていようがなんであろうが様になっているのはムカつくかもしれない。
私にも彼の色気があと30%位あればいいのに。

「話を聞いてりゃタチの悪そうな男だったんでな、大丈夫かと思ってたんだが、自分で追っ払っちまったとはなァ!」

「大人しそうで言う事聞きそうだと思ってたらそうじゃなくて失望したんでしょう、多分」

ティラミスをまた一口。ほろ苦いコーヒーの味が口内に広がった。

「気をつけろよ、ネーロ。お前はまだガキだが魅力的で将来有望な女だからなァ、寄ってくる害虫にゃあ気をつけろ。困った時は俺に連絡しろ」

「お兄さんは私の名前を知らないし、私もお兄さんの名前を知らないのに?」

私達はまだ名乗っていない。私は留学やら学校やら話したが、名前は教えていなかった。
呼び名なんかなんでも良くて、私は彼を「お兄さん」と呼んで、お兄さんは私を「ラガッツァ(お嬢ちゃん)」と呼んだり「ネーロ(黒色)」と呼んだり。他にも色々。
私達の間でそれで困るような事は無かったから。

お兄さんは私の事を少し知っているけれど、逆に私はお兄さんの事を殆ど知らない。
年は二十代半ばで仕事は不定期。着ている服はいつも有名なブランド物で、頼りになりそうなお兄さん。弟分がいるらしい。私が知っているのはこれくらいだろう。

名前も知らないし、勿論連絡先だって知らない。お兄さんの言う「困った時」に一体どこに言えばいいのか。

「プロシュート」

「へ?」

「プロシュート、だ。で、コイツが俺の連絡先」

お兄さん、もといプロシュートさんは着ているスーツの胸ポケットから一枚のカードを取り出した。綺麗な数字で書かれているのは電話番号だろうか。

「それで俺のニンフェッタ、お前は?」

「えーと……ナマエ、です」

「ナマエ、な。困った時は電話しろ。できる限り出てやるし、助けてやるさ」

私はバールでラテとドルチェでのんびり読書したり勉強したりするのが好きだ。生活費以外のバイト代の殆どをバールで使ってまでいるのは確かにそんな時間が好きだから。
でも今は、というか彼が私の前に現れてからラテとドルチェを楽しむよりもずっと好きで楽しみにしている事がある。というか正直に吐いちゃうと既に目的はすり替わっていると言っていい。
自分の時間を満喫すると言う名目よりも、いつ会えるのかわからない彼をバールで待っている方が楽しみだった。

きっと彼は知らないだろう。
初めて知った彼の名前を心の中で何度も反芻している事とか、さっき注文を取りに来ていたお嬢さんのように踊り出したいくらいの歓喜に襲われている事とか。

「ああ、別に困った事がなくても連絡してくれても構わないぜ?」

ぐしゃりと私の黒髪を撫で付けて空になったカップを持って立ち上がる。アリーヴェデルチ、とドルチェみたいに甘い声で囁いて去っていった背中を見ながら渡されたカードを握った。

――ああ、もう、とにかく私も彼に射抜かれた屍の一人という訳だ。

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