――誰かが、トキワの名を呼んでいる。

眩しい程の金色と目に焼き付いて離れない赤色。
優しく、愛おしそうにトキワの髪を梳く華奢な手を絶対に忘れてはいけなかった。なのに、どうして。

――どうして、忘れてしまったのだろう。


*****


濃紺の帳を下ろした空にぽっかりと浮かぶ淡い月。仄かな月明かりがトキワの手元を照らした。
窓辺の冷たい床に散らされたいくつもの本。その中から一冊を拾い上げ感慨も無くぱらぱらとページを見送った。もう何度も繰り返した事だ。

ローマの皇帝。その中でも最も最悪と言われた暴君ネロ。バビロンの妖婦。
彼の略歴を調べ尽くした。彼の事を書かれた本を全て読み、どんな些細な情報も貪欲に求め続けたがトキワの納得する物はどこにもなかった。裏付けされた歴史の真実である筈なのにトキワにはそうは思えなかった。

(違う、違う、違う……!)

ぐしゃりと本のページを破り捨ててトキワは頭を抱えた。こんな時は決まって涙が溢れそうになる。同様に、金色と赤色を思い出す。けれど、その色が何を指すのか全く思い出せなかった。

どうして忘れてしまったのか。どうして忘れる事が出来たというのか。
――何故、忘れてしまったの。
あんなに大切だったのに。あんなに思っていたのに。あんなに愛おしかったのに。
恋しくて堪らない、トキワの大切な《剣》を。

「――っ」

喉が張り裂けるまで《彼》の名をを呼びたくても、どうしても言葉が出なかった。それがトキワを焦らせ、追い詰め、苦しませる。

明らかにトキワの憔悴は酷かった。
夜の殆どは月を見上げながら数えきれない程の本を読み解き、眠れぬ夜を過ごした。食事も少なく、睡眠も足りていない。身体が弱るのは当たり前だ。破綻は目の前に迫っている。それでも《記憶》を放棄するという選択肢はどこにもない。

あともう少しで思い出せる気がするのだ。もう少しで、《彼》の名を呼んでやれる筈だ。
トキワがここに来てから、幾夜が過ぎたろうか。一つ、夜が過ぎ、月が沈む度に胸に重く焦燥がのしかかる。

「トキワ」

ふわりとトキワの肩に夜を溶かしたような濃紺のカーディガンがかけられた。
優しく甘い匂いを漂わせながら、皆本光一は困ったように微笑んでいた。彼の手にはゆらゆらと湯気が踊るカップが二つ。甘い匂いは、ココアだろうか。

「君が焦るのはわかってるつもりだけど、無理はしちゃダメだ」

二つの内、一つ。朱色のカップをトキワに渡して、皆本は紺色のカップを口に運んだ。トキワをのろのろとカップを受け取り礼を述べ、皆本を倣うようにしてカップを口に運び、程良く温かいココアを喉に通す。気付かぬ内に冷え切っていたトキワの身体にじんわり温度が戻ってきた。

「……ごめんなさい」

「いいや、こっちも力になってやれなくてすまない。何とか君の記憶を取り戻してあげたいが、現状、手詰まりでね」

心底申し訳なさそうに眉尻を下げる皆本が優しくトキワの髪を撫でた。ゆっくり落ち着かせるように撫でられて彼がトキワにもたらす安心感とはまた違うものが胸中に広がる。今までトキワを追い立てていた焦燥がほんの少しだけ腰を落ち着けた。

「幸せ者だね」

「え……」

「《彼》は。君にこんなに思われて、幸せ者だ」

先程までトキワがしていたように夜空に浮かぶ月を見上げて皆本は言う。

「だってそうだろう?トキワは自分の名前以外を忘れてしまった。今までどこで生きていたのか、どんな風に生活していたのか思い出せない。そんな君が一番最初に思い出したのが《彼》の事だ。きっとそれだけ大切だったんだろう」

何もかもを忘れて。それから自分の事を思い出すよりも先に《彼》の事を思い出した。
《彼》の人となりも、姿形も、声も、仕草も未だどこかに無くしてしまっているけれど。《彼》が大切で、愛おしく恋しいという感情だけが取り戻せた。トキワが記憶を失う以前それだけ思っていたから、何を置いても一番最初にそれを思い出したのではないだろうか。

「……でも、忘れてしまった」

それだけ大切で愛しかったくせに、綺麗さっぱり忘れてしまった。なんて薄情な、と思わずにはいられない。

「ちゃんと理由があったんだろう。それだけ思っていたのに忘れてしまったなら、そうなるに至る事象は必ずある」

「酷いと、思わないのか?」

こんなにも簡単に忘れてしまった事が。

「さあ、どうかな。僕は《彼》を知らないからどうとは言えないけど。でもトキワがそれだけ大切に思っていた人は、そんな事で怒るような人なのかい?」

怒る、だろうか。記憶の彼方でトキワを待ち続けるあの人は。忘れてしまったトキワに怒って、責めて嫌うような人だろうか。――違うだろう。
《彼》は怒らない気がする。こんな事で怒ってトキワを詰る事はあり得ない。そんな人ではない。そんなに器の小さい人じゃない。

「怒らない。……でも、すごく拗ねるだろうな」

「なら、今からご機嫌取りの台詞でも考えておかないとな」

皆本はトキワの髪をくしゃくしゃとかき撫でるようにしてからカップを取り上げて立ち上がらせた。

「さあ、もう寝なくちゃダメだ。カップは僕に任せて、君はベッドに戻って休むと良い。ああ、本は明日片付けてくれればいいよ」

やんわりとトキワの背を押して、異論を唱える前に宛がわれた部屋まで送られた。部屋のドアの前で皆本を振り返れば優しげな笑みを浮かべてトキワを見下ろしている。

面倒見の良い彼は何かとトキワを気にかけてくれる。自身の身体を省みる余裕を持てないトキワにとって彼は良いストッパーだった。傍から見れば世話焼きな兄と手のかかる妹で。
故に皆本の部下であり仲間であるチルドレンの三人には良く思われていない。その件を除いても三人とトキワが衝突する事はしばしばある事から仲裁役にも駆り出されてしまうのは大変申し訳無い。いつも皆本には迷惑をかけてばかりだ。だからその都度謝るのだけれど、困った事に謝罪を受け付けてはもらえない。

「皆本」

「なんだい、トキワ?」

「皆本がいてくれるから、まだ壊れずに済んでる。まだ諦める事無く頑張れる。だから、ありがとう」

最後に、おやすみなさい、と声をかけてからドアノブに手をかけて部屋に入っていった。安らかに夢の中へ旅立っている隣室の三人を起こさないように静かに扉を閉める。
トキワは部屋の窓から見える淡く輝く月を見上げて、ようやくベッドに入って行った。


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