「それじゃあ、お願いします」
まだ雪の降る寒空の中、一人の女性がとある民家の軒先で、そう言いながらお辞儀をしていた。黒いロングヘアーをストレートにしている女性は、とても悲しそうな顔で眼前に立っている老婦人の腕に抱かれているタオルの塊、いや柔らかそうなタオルに包まれた産まれたばかりの赤子の顔を見た。赤子は穏やかな表情のまま眠りについており、時折タオルの中からはスヤスヤという赤子の呼吸音が聞こえる。その赤子を老婦人は優しい手つきで撫でると、今にも泣き出しそうな表情の女性に黙ったままお辞儀をした。
「ごめんね。絶対に迎えに来るから・・・」
胸元に何かを持っている女性はそう赤子に向けて言うと、老婦人の隣にいる老人にもお辞儀をした。老人は微かに溜息を漏らすと、早く行きなさいと言わんばかしに目を女性の背後に向けた。そこ、民家の正面にある市道に堂々と駐車してある白塗りの乗用車の運転席からは、中にいる人間の視線が彼らに向けられていることが気配でわかった。女性は手にした何かを老婦人に手渡すと、背中に突き刺さるそれを自覚しながら、もう一度赤子の顔を見た。
女性は持っていた物、古いデザインの懐中時計を受け取った老婦人は、黙ってそれを赤子に見せた。
女性の頬を、一筋の涙が流れ落ちた。
路肩に雪が積もっている市道を白塗りの乗用車が駆け抜けていく。車内にはラジオから流れる音楽を除くと、静寂しか存在せず、助手席に座っている女性も運転席に座っている男性も何の話さずに黙ったままである。ガラス越しに見える外界では夜の街並みが遠くで輝いており、車内に男女二人きりのこの状況ではデートに見えなくもない。だが二人の表情は決して明るい物とは言えず、第三者がここにいるとしたら、すぐにこの空気に耐え切れず音をあげるだろう。
「本当によかったのか」
ふと、運転席でハンドルを握っていた男性がそう呟いた。それは助手席に座る女性―まだ成人していないであろう幼く可愛らしい顔つきの少女といっても差支えのない年齢女性―に当てられたものだ。女性はそれを耳にして、運転席に座る男性―こちらも女性とそう変わらない年齢だが、目付きが鋭く体格がよい大柄な男性―を見た。男性は正面を見たままだが、意識の一部が女性に向けられていることはわかった。だが今の女性にはそれに返事をする気になれず、口を閉じたまま外を見ていた。それを返事と受け取った男性は、小さな溜息を漏らすと意識を運転に向けた。
「あの娘はきっとお前と海奈、それに俺も恨むだろうな」
「・・・・・」
何気なく男性は心に思ったことを呟いた。だが女性はそれにすら返答する気は毛頭に無いらしく、閉口したまま沈黙に走っていた。
「それでも俺はあれが正しい判断だと思うぞ」
「・・・あれしかなかったのよ」
その時、車を出してから女性が初めて口を開いた。男性はそれに意外そうな目を向けると、そのまま女性の話を聞くために口を閉ざした。
「雫を守れる手段があれしかなかったのよ・・・!」
雫、その名前を呼んだ女性は噛み締めるように、まるで何かに耐えるように歯茎に力を入れていた。俯いてしまった女性の隣に座る、その訳を知っている男性は、波のように襲いかかる悲しさにひたすら耐える女性にどう言葉をかけるべきか考えていた。が、それすらも見つからず、男性は先ほどと同じ方向、沈黙に走ることにした。
車内に街灯の灯りが射し込む。
それは二人の身体を優しく照らすが、今の女性にとってはそれすらもうっとおしく感じられた。それを気配で察した男性は、街灯の灯りをどうこうする事はできないとわかっているのに、何か彼女のためにできないかと考えたいた。そして、その代わりに車内に響いていた音源であるラジオを消すことにした。
車内を静寂が支配する。
隣で小さく震えている女性を横目で見た男性は、信号が赤に変わったために交差点の手前でブレーキペダルをゆっくりと踏んだ。乗用車は段々スピードを落としていき、そして停止線の真上で停車した。
「あなたは、雫の事を殺したいんでしょう?」
顔をあげた女性がそう呟いた。何の脈絡も無い女性の言葉が静かな車内に嫌に響いていた。それは、例え言葉に疎い者でもこの状況での発言に相応しいものでは無いことはわかる。なのに女性はそれを口にした。そして、それを耳にした男性はヒラメのような横目で女性を見た。
その目は、とても冷たいものだった。
「五年前の俺なら、おそらく躊躇して殺さないだろうな」
だが、男性の声は存外穏やかなものであった。冷たい色をしていた目とは異なり、口から飛び出した言葉は物騒ではあるが、それほど危惧するものでもあるまい。
「二年前なら、躊躇無く殺すだろうな」
いや、声色は至極穏やかなのだが、その言葉は目と同様に冷たいものであった。それに他意は無いらしく、文字通りそれが男性の本心であるようだ。普通なら赤子を躊躇無く殺すと聞くと怯えたり、その人間から距離を置いたりするのだが、それを耳にした女性はむしろ悲しげな表情に似合わない、不自然な笑みを貼り付けると男性の方を見た。男性の目は信号機と周りの自動車や歩行者に向けられているが、女性の視線には気づいているらしく、彼女の方を向かずに口を開いた。
「なら、今のあなたは?」
「・・・素直にあんたら一家の幸せを願うよ」
そう呟いた男性は、信号機が青色に変わったのを視認すると、今まで踏んでいたブレーキペダルから足を離した。それからオートマチック車の特徴であるスロープ現象によってゆっくりと前進しだすと、周囲の安全を再び確認して男性はアクセルペダルを優しく踏んだ。それに伴い、白塗りの乗用車は再び走り出した。
「俺はあんたのおかげで不幸のどん底に叩き落とされたよ」
男性はポツリと呟いた。その言葉は女性に当てられたものだが先ほどとは異なり、その含意は決して穏やかなものではない。しかし、その割には男性の目は冷たさが無くなり、少し哀愁の漂うものになっている。
「だけど人して強くなれる経験になったよ」
乗用車の脇を一台のバイクが追い越していった。50cc程度のそれには、二人の少年が乗っており、どちらもヘルメットを被っていなかった。それを見た男性は、彼らをまるで生ゴミを見るかのような目付きで見ていた。その二人組を、後方から白と黒のパンダのような配色のパトカーが追いかけていた。しかし、男性の運転する乗用車で前に出れないパトカーは、反対車線を大きく乗り越えると赤色灯を光らせながら走り去っていった。
「・・・一つ聞いてもいい?」
女性は泣きそうな声でそう男性に尋ねた。男性はそれに好きにしろ、と返事をすると眼前に消えていった赤色灯の残り火を見ていた。
「こんな私でも、母親になる資格はあるのかしら・・・」
「あるわけないだろ?」
不安げに尋ねる女性を、男性は一笑した。それは傷心の人間に対してあるべきではない態度であろう。現に女性は何も言わずに俯くと、男性のその責めるような言葉から少しでも逃れようとしていた。
「今のお前に、その資格は無い。だけど今から罪滅ぼしをすれば、或いは・・・」
「罪滅ぼし・・・」
女性の呟きに男性はそう、と応えた。彼の目はフロントガラス越しに輝く外界に向けられており、女性には目もくれない。その目には、街灯の明かりに混じって、パトカーの赤色灯が映っていた。
「確かにお前は多くの命を奪うような実験をしたよ・・・でもそれは俺にも言えることだ」
乗用車の進路方向に、先程のパトカーが止まっていた。その少し先には先ほどのバイクが倒れており、辺りに破片が散らばっている。その近くの塀にはバイクがぶつかった跡が残っており、その衝撃の強さが伺える。
「人殺しの俺に、あんな罪の無い赤ん坊に触れる資格すらない、それはお前も一緒だ」
バイクの脇には首や手足が歪な方向に折れ曲がった少年と頭から大量の血を流している少年が倒れていた。普通の人ならその光景に怯えたり、または物珍しそうに見ているだろう。だが男性はその光景を既に見慣れたものと言わんばかしに舌打ちをすると、事故現場をそのまま通り過ぎていった。
「ギラティナの話だと、次にこの世界と俺達の世界の時間軸が一致するのは・・・十年後だ。なら、その十年後までに出来るだけでいい、罪滅ぼしをしてからあの娘に会おうと俺は思っている」
「・・・具体的には?」
女性の目はバックミラーに映る事故現場に向けられた。そこには赤い血溜まりに壊れた人形のように横たわる少年達の姿があり、医療に精通している女性は一目で二人が絶命していることを見抜いていた。そのまま女性は、運転席の男性を見た。男性は女性の言葉に一旦黙り込むと、そのまま徐に口を開いた。
「あの娘、雫ちゃんやこれからの時代を担う子供たちが笑って過ごせる世界にすること」
男性の声は、非常に淡々としたものであった。
「あんな小さな子供が理不尽に殺されなくていい、いや虐殺や戦争のない世界にする」
「洋一、あなた・・・あの時のことを?」
洋一、そう呼ばれた男性は黙ったまま車を走らせていた。その目には周囲の情報が逐一飛び込んでいるが、その色は何も映らない、底なし沼のように奥が知れない黒をしている。まるで死んだ魚のような濁った眼の洋一は、そのまま周囲を見渡すと隣の車線へと車を移した。
「あの時も、今も俺は無力だ。なら、虐殺や戦争を止められるような権力と地位を手に入れる。俺は海奈と、そこを目指そうと思う」
「茨の道よ・・・」
「茨だろうが血の海だろうが俺はあいつと進んでいくよ。そして、俺は海奈を事務総長にして俺がそれを支えるんだ」
車は首都高の料金所に来た。洋一は車をETCレーンに入れると、そのままゲートの下を素通りしていった。そして、車は加速車線に続く坂道を登り出した。
「でも、あなたや海奈がそんな事をしなくても・・・」
「あの時の虐殺は止められた筈だ。だけど俺はそれをしなかった、怖くて逃げたんだよ」
車は首都高の加速車線を走ると、そのまま本線に合流した。辺りに何台もの自動車が走っており、その中を白塗りの乗用車は法定速度をやや超えた速度で走っていた。首都高に付けられた防音壁の向こうでは、摩天楼のネオンが怪しく輝いており、まるで宝石のようである。しかし洋一と女性はそれに全く反応せず、互いに黙ったままである。
「なら私も、新しい薬やワクチンを研修するわ、それを海奈とあなたの功績にするの」
女性が急に洋一にそう話しかけた。洋一はそれを耳にすると、遠くに映る電光掲示板を見ていた。そこには首都高の交通状況が大まかに記されており、それによると一部の区間で制限がかけられているようだ。
「それがお前の罪滅しか?」
「ええ」
洋一の問いかけに女性は短く応えた。車内には車の走る走行音のみが響いており、それは二人の鼓膜を等しく叩いていた。少し耳障りなそれだが、二人は全く気にせずにそれぞれ別の方を見ている。
「・・・お願いがあるの」
「何だ」
「十年後、私たちの代わりにあなたが雫を迎えに行ってくれないかしら」
女性のその一言に、洋一は黙ったまま横目で彼女を見た。そこには、今まで悲しみに打ちひしがれていた女性の姿は無く、何かを覚悟したような表情の彼女の姿があった。その目には決意の焔が爛々と輝いており、彼女の決意の硬さが伺える。
「・・・それは皐月、お前の役目だ」
皐月、そう呼ばれた女性は首を左右に振ると、美しい蒼色の瞳を彼に向けた。まるで澄んだ湖のように水底まで見える瞳は、真っ直ぐ洋一の姿を捉えており、彼に反論も逃げも許さない。
「私たちの中で、一番死にそうにないのはあなたなのよ」
「遺言のつもりか?・・・くだらん」
洋一は吐き捨てるようにそう言うと、そのまま遠方に広がるネオンの海を見ていた。それは何処までも広がっており、どんなものよりも明るかった。しかし、それを見ていると何故か惨めな気持ちになってしまう。
「・・・雫ちゃんを抱きしめるのはお前たちの役目だ」
洋一はそう言うと、心の底から安心したように微笑む皐月から逃れるようにアクセルペダルを踏み込んだ。
白塗りの乗用車は、ひたすらに走っていく。
『マスター、仕事ですよ』
リアシートから聞こえてきた若い、まだ少年と言ってもおかしくない声でヨウイチは目を覚ました。まだ眠たいのか、目を擦りながら左手首に巻かれた外国製の洒落た高級時計に目をやると、小さく伸びをして後ろに倒していた運転席の座席ごと、身体を起こした。
「今は・・・何時だ?」
『16時48分50秒です、そろそろ雫様が歩いてくる時間ですが・・・・今16時49分と1秒です』
良く言えば律儀、悪く言えば細かすぎるその報告にヨウイチは苦笑いを浮かべながら外を見た。そこには一面の雪景色が広がっており、未だ空からは白い粉雪が舞い落ちている。辺りを歩いている歩行者は、誰もが防寒着に身を包んでおり、なかには長いマフラーを互いの首に巻いているカップルもいる。
「若いなぁ」
その光景を目にしたヨウイチは、自身が若い頃に経験できなかった全く甘くない青春を恨みながらルームミラーに目を向けた。それには、リアシートの上にある橙色の毛布の塊が映っており、中に誰かいるのだろうか、時折毛布はモコモコと動いている。
「外から見えるから大人しくしていろ」
『了解・・・』
毛布、いや中に隠れている誰かはヨウイチの言葉に素直に従うと、極力外から目立たないようにするためにリアシートに横になった。それを見たヨウイチは、フロントガラスの向こうに意識を向けた。そこには複数の人影があり、彼らは揃って近くの路地裏に入っていった。ヨウイチはその中の一人、周りの人影に突き飛ばされる細身の少女を見ていた。
「さて、仕事の時間だ」
ヨウイチはそう言うと、ドアを開けて寒さが支配する大気の中に躍り出た。サクッという雪を踏みしめる音が、彼の足音を消していく。ヨウイチは、少し老けた顔に厭らしい笑みを貼り付けたまま、路地裏へと足を運んでいった。
全てがこの瞬間に動き出した。