2015年、1月1日、木曜日。

9時38分。

シンオウ地方、コトブキシティ。朝霧家、リビング。

北方の地であるシンオウ地方の冬は厳しく、『冬将軍』という異名を冠する程の厳冬がこの地を襲う。それは今年も同様で、新年を迎えたばかりのコトブキシティは例を見ない豪雪に襲われ、都市機能の一部が麻痺している。地面を覆う白いカーテンは歩行者や車両の脚を掬い、雲の切れ間から差し込む陽光を反射させる鏡は事故を引き起こす。道行く誰もが慎重な足取りになるそんな光景を見下ろせる高さまである高層マンション。その25階に朝霧家は存在している。

「明けましておめでとうございます〜」

「はい、明けましておめでとう」

まだ眠りの世界に誘われているのか、朝霧家の長女である雫は半分寝惚けている間延びした口調で母親の皐月に新年の挨拶を述べた。それに皐月は柔らかい笑顔で返すと、顔を洗ってくるよう彼女を促した。雫は皐月のその言葉に素直に従うと、覚束ない足取りで洗面所へと向かった。

「お嬢、タオル忘れているぞ・・・」

そんな雫の背中に声をかけたのは、国連情報局特別警護部の局員で雫の護衛兼恋人である桔梗だ。一年の最後、そして新年の夜明けを共に過ごしたいという雫の願いを聞き入れた彼は、昨晩から朝霧家に身を寄せていたのだ。それに母親の皐月は慈愛に満ちた笑みで迎え入れ、父親で桔梗の上司である海奈は言い様の無い、苦い表情で出迎えた。食卓を共にして、年末の特別番組を見て過ごした雫と桔梗は、除夜の鐘が鳴った少し後に寝床に付いた。もっとも、同じ寝台で寝る事を海奈は認めず、桔梗は雫の部屋の床に敷かれた布団で一夜を過ごした。

そして、新年を迎えた今。朝霧家は新たな一日を迎えていた。

「桔梗君、お雑煮ができたわよ。温かいうちに召し上がりなさいな」

「あ、ありがとうございます・・・」

4人分の御節を作っていた皐月は、雫にタオルを届けた桔梗に優しげに微笑みかけると、まだ余熱を保っている鍋を指差した。桔梗はそれに、はにかみながら応えると食器棚から幾つかの食器を取り出し、それを空いているスペースに並べた。

「たくっ・・・・新年早々、寝正月のつもりかしら」

廊下の奥から聞こえてくる水音に皐月は微かな苦笑いを浮かべると、挽きたてのコーヒー豆の香りを堪能していた。この場にいない雫の寝惚けた姿に桔梗も同じく苦笑を浮かべると、皐月と同じく淹れたてのコーヒーを喉に流し込んだ。

「おはよ・・・・・・」

桔梗がマグカップに注がれたコーヒーを飲み干した頃になり、ようやく目が覚めた雫がリビングに姿を現した。髪の毛が所々乱れている娘の姿を見た皐月は呆れたように息を吐くと、雫に手招きをした。雫はそれに頷いてみせるとゆっくりと皐月の傍に歩み寄り、彼女に背を見せた。

「女の子なんだから、少しは身嗜みに機を使いなさい」

「ふぁぁい・・・・」

こっくりこっくりと船を漕いでいる雫の髪を皐月は手櫛で整えながら笑いを浮かべた。雫もそれに曖昧な返事を返すと、焦点の合わない目で桔梗を見た。

「・・・・・・・はよ」

「おはよう、お嬢」

桔梗も恋人のそのような姿に苦笑を隠せず、冷たいミルクココアを入れるとそれを雫に手渡した。雫はマグカップから手の平に伝わる冷たさに微かに目を開くと、ゆっくりとそれを傾けていった。

「今日はお昼からぺトラ達と初詣に行く筈だろ。それまでに御節を食べて準備を済ませるぞ」

「ふぁぁい・・・・・・・・」

相変わらずの反応を示す雫は萎む目で桔梗を見上げると、リビングをゆっくりと見渡した。その動きは潤滑油の切れた機械人形のようにも見える。

「お父さんは・・・・?」

「海奈さんは部屋で電話中だ。何でも・・・・・カンザキから緊急の連絡が入ったそうだ」

「ふぅ〜ん・・・・・」

寝惚け眼の雫は桔梗の言葉に緩慢な動作で返すと、廊下の向こう、海奈の書斎のある方向に目を向けた。



肌寒い空気が停滞している薄暗い一室。

「・・・・・・状況はわかった」

通信端末に繋がれたイヤホンを耳にはめて、マイク越しに声をあげている三十路前後の男性、朝霧海奈は室内をゆっくりとした歩調で歩くと、ブラインド越しに見えるコトブキシティの摩天楼に目を向けた。近くのテーブルには倒れた空のグラスや幾枚もの書類が置かれており、その近くには万年筆や印鑑が転がっている。

「それで、情報局では何か掴めていないのか?」

『残念だが一切合切不明なんだよ。わかっているのは、ここ半年で有能な研究者が相次いで死亡した、それだけだ。後は野崎博士がエアロポリス7052便に乗っていた。それくらいだ』

イヤホン越しに聞こえるカンザキの報告に海奈は片手を目元に当てると、溜息を漏らした。何せ新年早々、忌々しき事態が発覚したからだ。

2014年の夏ごろから現在にかけて、世界の著名な研究者が相次いで死亡した。死因は様々で、事故死した者もいれば強盗に殺され、金品を奪われた者、毒殺された者、自殺、自然死等々。国連情報局が把握しているだけで、この半年で24名もの研究者が死亡している。その事が判明したのは昨年の末、乗員乗客357名も乗せた最新鋭の旅客機、エアロポリス航空7052便がヒマラヤ山脈で墜落した事故をエアロポリス社からの要請で分析していたNTSB(アメリカ合衆国国家運輸安全委員会)から情報が齎されたからだ。
NTSBの報告によれば、墜落した7052便に乗っていた人間は全員死亡したと思われ、また冬季のヒマラヤ山脈という事もあり、仮に生存者がいても二次災害が予想されるため、救助隊は送り込めないとの事だ。そして同機の残骸やブラックボックスの回収もまた然り、つまり事故原因を追究する事は事実上不可能という事になる。しかし乗客の中にアメリカ人がいた以上、NTSBも黙っている訳にもいかず、イスタンブール空港の国際線ターミナルに残されていたカメラの映像とエアロポリス社に残されていた搭乗員名簿から犠牲者と不審者を割り出そうとした。その過程で医学界でも名高い野崎博士の名前が見つかった。別に日本人が国際線に乗る事自体は何ら問題は無い。

問題は、野崎博士の名前がCIAやUNIAのデーターベースに載っていた事にある。

情報局にマークされていた重要人物が、当局の監視の目を擦り抜けて国際線に乗り込み、天津さえその旅客機が不自然な墜落を遂げた。怪しむべき要素は事足りた。

『7052便の機長は国際線の機長としては20年以上、副操縦士は元英国空軍のエースパイロットだ。それに客室乗務員も十分なキャリアを持つ者ばかりだ。NTSBも操縦ミスの可能性は低いと見ているそうだ』

「______それなら、自然現象による事故の可能性は?ヒマラヤ山脈付近なら、乱気流も当然発生するだろう」

『NTSBによれば、7052便は墜落する二分前に無線が途切れ、その後は急に降下を始めたそうだ。乱気流の影響なら、無線も切れずに一気に墜落する筈だそうだ。それなのに、7052便はゆっくりと高度を下げたんだぞ』

カンザキの報告を聞いた海奈は、苦虫を噛み締めたような表情を浮かべると、眼下に広がるコトブキシティの街並みを見下ろした。初詣に向かっているのか、数多くの人影が歩道に広がっており、それに反するかのように車道には動く影が見られない。

「つまり、第三者が意図的に墜落させた、と?」

『可能性は0ではないが、その場合は相当厄介な事態だぞ・・・・』

カンザキの言葉の裏に隠された意図を察した海奈は、低い声で唸ると壁に凭れ掛かった。人一人を暗殺する事は訓練された者にとっては容易な事だ。しかし、7052便には357名もの民間人が搭乗していた。これだけの人数を何らかの意図により殺したとは考えにくい。つまり、搭乗員の大多数は何の罪も無い、ただ巻き添えになった犠牲者である。そして、これだけの犠牲者を出させておきながら、当局の網に引っ掛からないという事は。

「組織的に動く者、それも大きな力を有する組織がバックにいるという事か」

『・・・・そう考えるのが自然だろう』

海奈は虚空を見上げると、大きく息を吐いた。体内から体外へと出された呼気は直ぐに白く曇ると、冷たい室内の空気に溶けていった。その光景を見届けた海奈は壁に掛けられた時計に目を向けると、リビングから聞こえてくる雫と皐月の声に意識を向けた。

「CIAやUNIAでも把握できていない事態か・・・・SISやNSAも何も掴んでいないのか?」

『それどころかFSBやSVR、GRUにDGSEも初耳だそうだ。つまり、諜報とは無関係のNTSBが第一発見者という事だ・・・・』

「皮肉だな」と溢したカンザキの声を海奈は聞き流すと、ゆっくりと開く扉に目を向けた。開かれた扉の間から顔を覗かせた雫は海奈の状況を伺うような目を向けると、「御節ができた」と指で指し示した。海奈はそれに手を上げて返すと、一旦小難しい話を切り上げ、愛しい家族と新年を祝う事にした。

「話の途中で悪いが、今日の俺は非番なんだ。そろそろ皐月達と御節を食べるから切るぞ」

『・・・・・・待て、こっちは新年早々仕事に励んでい』

カンザキの声が途切れた。通信の回線を強制的に遮断した海奈はカンザキの反論を鼻で笑った。そして、ロックをかけた端末を机上に置くと、扉の所で待つ雫の方へと脚を運んだ。

「_____良かったの?カンザキさん、まだ話があるみたいだったけど・・・・」

「元より今日は休みの身だ。あくまで『ボランティア』の範疇でしか働かないつもりだ」

心配そうに呟く雫の頭を撫でた海奈はぶっきら棒に呟いた。そんな父の姿に雫は微かな苦笑いを浮かべると、先に歩いていく海奈の背中を追った。ふと、雫の視界の端に、何時の間にか絨毯の上に落ちたグラスが映り込んだ。だが、雫はそれを意に介さず、再び脚を動かしだした。




同時刻、カントー地方、タマムシシティ。高級住宅地。

マイク越しに話していた海奈からの通信回線が切断されたカンザキは、微かに眉根を寄せたままイヤホンを耳から外した。忌々しそうにそれを睨んだ彼は、一回溜息を漏らすと再び室内を歩き出した。

高級住宅地に建てられた一軒家らしく、無駄に広いリビングには暖炉や高級AV機器、ミニシアターなどが取り付けられており、一目で富裕層の住む家だと理解できる。そして、リビングをゆっくりとした歩調で歩いていたカンザキはガラス張りのテーブルにA4サイズの茶封筒から取り出した写真や手紙を何枚も並べると、同じく机上に置いてあるグラスに氷塊を入れた。その上から封を開けたブランデーを注ぎ、瓶を置いた。瓶のラベルには、ブランデーとしては世界的に名高い品名が書かれており、それの市場価値は20万円を超えていると言われている。カンザキはそのグラスを一瞥すると、医療用のプラスチック製の手袋越しに乱暴に机上から叩き落した。グラスは空を落下すると肌触りの良い絨毯の上に落下し、ブランデーは味覚を持たない布に吸収されていった。

その時、カンザキの懐に仕舞われていた携帯端末が着信を知らせる悲鳴をあげた。

カンザキはイヤホンとマイクをそれに接続すると、画面の着信部分をタッチした。

「どうした?」

高級ブランデーを無駄にしたカンザキは軽やかな口調で話し相手、いや自身の妻に返した。

「仕事はもうすぐ終わる予定だ。この調子なら・・・・午後には戻れるからな」

そのままカンザキはリビングを後にして寝室に脚を運ぶと、そこの片隅にあるシャワールームへと革靴のまま入っていった。そのまま半透明のフィルターを取り出すと、それを鏡やシャワーヘッドに貼り付けると、デカールシールを貼り付ける様にして部位に擦り付けた。その後、フィルターをゆっくりと剥がすと、そこには誰かの指紋が付着していた。

「あぁ、午後には親父の所に顔を出すから・・・・・準備だけしておいてくれ」

そしてカンザキはピンセットを取り出すと、誰かの髪の毛を持っていた手の平サイズのビニール袋から摘み出した。それを排水溝の上、脱衣所、ヘアブラシ、タオル、寝室の幾つかの場所に置くと、シャワールームを後にした。ふと、彼の視界に赤い寝台が飛び込んできた。元は白い清潔なシーツが敷かれていたそこには、一組の全裸の男女の死体が転がっており、二人とも頭と胸に風穴が開いていた。近くには小さく黒く焦げた穴の開いているクッションが置かれており、周囲には羽毛が散っている。それをスルーしたカンザキは同じく袋から使用済みのコンドームをピンセットで摘み出すと、嫌そうな顔のままそれを寝台の傍に置いてあるゴミ箱に入れた。

「紙おむつと粉ミルクだな?わかった、買って帰るからな」

リビングに戻ったカンザキはその一角に立っている三十代くらいの男性の傍に歩み寄った。魚のように目を見開き、脂汗を流している男性は椅子の上に立っており、両手は腰の辺りでマジックテープ式の丈夫な布により拘束されている。何より、男性の首には物置に置かれてあった太いロープが巻かれており、その先は天井の太い梁に結ばれている。そして、男性の口はテープで塞がれていた。

「わかっている、俺も愛している。じゃぁ、切るぞ」

妻に愛の言葉を囁いたカンザキは電話を切ると、イヤホンを外した。そして男性の口元に手を伸ばすとテープを剥がした。その瞬間、男性は息苦しさから無意識に新鮮な酸素を吸うために、短い間隔で呼吸を繰り返した。

「た、頼む・・金ならやる!俺が誰か知っているだろ!?」

呼吸が整った男性は、口早にカンザキにそう言った。カンザキは男の顔を一瞬だけ見上げると、足元の椅子に目を向けた。

「知っているさ」

一言、そう返したカンザキは男性の足元にある椅子を蹴り飛ばした。足元を支える存在を失った男性は重力に任せて落下し、天井の梁から下げられたロープが男性の首を容赦無く締めていく。息が吸えず、苦しみと迫り来る死の恐怖から男性は懸命に脚を振り動かし、床に立とうとする。しかし、その脚が床に届く筈も無く、暫くの間、男性は苦悶の声を漏らしながら暴れていたが、やがて動きは収まり、手足が力無く垂れていた。それを見届けたカンザキは寝室の男女を射殺した消音器付きの拳銃を取り出すと、両手を拘束していた布を外して、男性の利き手でそれのグリップを握らせた。そして銃口を近くのバー形式のカウンターに置かれている写真立てに向けると、引き金を絞った。くぐもった銃声が室内に微かに木霊し、撃ち抜かれた写真立ては床に落下した。

それには窒息死した男性と射殺された女性が仲睦まじげに映る写真が入っていた。

カンザキは拳銃を男性の手から奪うと、それを床の上に置いた。そのままカンザキは『自殺現場』と『殺人現場』を後にした。



一分後、一軒家の正面の道路に停めてある乗用車の横にカンザキの姿があった。

彼は偽装に使った道具をリアシートに放り投げると、運転席に座った。その巨体が乗用車で収まる筈も無く、天井に頭をぶつけたカンザキは微かな舌打ちを漏らした。

「ルーク、状況は?」

『人っ子一人、姿も見えません。やはり、お正月だからでしょうか・・・』

カンザキのポケモンで、自慢の波導で周囲を警戒していたルカリオのルークはカンザキの問いにそう答えた。カンザキはそれに「そうか」と返すと、ルームミラーに映る大きな黒い生き物、バクフーンのクレアを見た。偽装に入る前から寝ていたクレアだが、仕事が終わってもまだ寝ている為、カンザキは微かに目を細めると手にした携帯端末を彼目掛けて投げ付けた。それはクレアの頭に直撃したが、当のクレアはそれを一切意に介さず、相変わらず寝たままだ。

「・・・・・コイツは何時まで寝ているんだ?」

『まるで冬眠中の熊ですね・・・・』

テレパシーで脳内に響くルークの声に、カンザキは苦笑を浮かべるとキーを鍵穴に差し込んだ。そのままエンジンをかけると、車内に置かれている時計を一瞥した。

『この後は、どうするんですか?』

「一旦ヤマブキの支部に戻って書類を作成して、それから帰るか・・・・あ、スーパーに寄るか」

「新年早々、嫌な仕事だな」と呟いたカンザキは、隣でクレアについて小言を漏らすルークを横目で見て笑った。それに気づかないルークと、あくまで寝た振りをしているクレアを乗せた乗用車は、新年を迎えたばかりのタマムシの街並みへと消えていった。


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