春先のまだ肌寒い空気が寝ている雫の頬を撫でた。それは心地良い睡眠に沈んでいた雫の意識を現実へと引き戻し、それに伴って彼女の顔に僅かな動きが生じる。

「ん・・・・・・」

まだ眠たい、人肌の温かい布団の中に潜っていたい、数多くの願望が雫に次々と襲い掛かるが、何時までもそれに負けるわけにもいかず、彼女は徐々に目蓋を開けていった。まだ霞んでいる視界には見慣れぬ一室が映り込み、やがて雫はそこが昨晩から泊まっているぺトラの自室だと気が付いた。近くでは共に別の布団で寝ていたケイと希一の寝息、そして同じ布団で寝ているぺトラの寝息が聞こえ、朝焼けの室内に微かに木霊している。

(・・・・・眠たい)

隣で感じるぺトラの体温に雫は心を赦しながら寝返りをうつと、薄い緑色のカーテン越しに輝く光に目を向けた。既に午前5時30分近くになっており、窓の外からは徐々に顔を見せようとしている朝日の存在が感じられる。まだ早朝とはいえ、一度目が覚めてしまっては二度寝をする気にもなれない雫は、ゆっくりと布団の中で身を起こすと、音を立てないように伸びをすると、そのまま温かい布団から抜け出した。布団の外の空気は思いの外冷たく、雫は身震いをすると床に転がる植物辞典を避けながら足音を殺して、廊下に出た。フローリングの冷たさが脚の裏から雫の体温を吸収し、それが更に彼女の意識を覚醒させた。

薄暗い廊下の先、階段の最上段に腰掛けた黒い影が動いた。

「・・・・・お嬢?」

ここ数日間で聞き慣れた青年の声を聞いた雫は、小首を傾げる影、ゾロアークの傍に歩み寄った。

「ずいぶん早く起きたみたいだな・・・」

まだ六時前だぞ、と呟くゾロアークの吐く息は白く、彼の体温の低さが伺える。そんな彼の様子から、とある仮定に達した雫は訝しげに声を殺して彼に尋ねた。

「もしかして・・・・一晩中起きていたの?」

雫の疑問は当たっていた。ゾロアークは雫の質問に苦笑いを浮かべると、雫の顔を見上げた。以前、カンザキが彼とルカリオのルークを雫の護衛として傍に残すと言っていた。雫はそれを冗談と受け取っていた。だが、現にゾロアークは寝ずの番をこなし、別の部屋ではルークが雑魚寝になっている筈だ。この数日間、このような早朝に目が覚めることが一度も無く、今まで雫は彼らが影で護衛の任を全うしていた事を知らなかったのだ。

その時、雫の胸中に罪悪感が生まれた。

それはゾロアークの苦労も知らずに、自身が暢気に過ごしていたからだ。とはいえ、夜中に第三者が室外に立っている事を容易く想像できる者はそうそう居ない。

(悪い事、したな・・・・)

それでも雫は若干の罪悪感を感じていた。同時に、ある疑問も抱いていた。

「_____辛く、ないの?」

何故彼がここまで自身に尽くしてくれるのか。普通の者なら居眠りの一度や二度はするものだ。増してや彼は昼間と夜間、ルークとの二交代制とはいえ、24時間雫の警護に当たっているのだ。それなりに疲労も蓄積する筈である。その上で彼の行動の原因はカンザキに与えられた命令の為か、それとも別の何かに由来するのか。雫には見当もつかなかった。
ゾロアークはそんな雫の問いに、にかっと笑った。

「確かに寝ずの番は辛いさ。だけど、これが俺の任務だからな」

任務、彼が口にした言葉を聴いた途端、雫は若干の落胆を感じた。今まで、雫は誰にも必要とされずに生きてきた。故に彼女はその感覚を知らない。知らないからこそ、雫は誰かに必要とされてみたかった。義務ではない、自発的な感情からだ。
ゾロアークの言葉を聴いた雫は若干の落胆の気持ちを隠せないまま「そう」と短く呟くと、僅かに俯いた。そんな雫を見たゾロアークは、微かに笑みを浮かべると彼女の手を引いて隣に座らせた。雫はゾロアークの力に黙って従うと、静かに彼の横に腰掛けた。

「悪い、また言葉が足らなかったな。確かに俺はカンザキからお嬢の護衛を命令されたけど・・・・どの道俺は志願したよ」

「・・・・・・・」

「ギラティナの言うとおり、確かに俺達は脛に傷のある身だ。だけど、そんな俺をお前が望んだんだ。お前は同情でも義務感でもない、別の何かに突き動かされて俺を望んだろ?そんなお前に、俺が命令の義務感や同情心で付き合うと思うのか?」

ゾロアークは悪戯っ子のように歯をみせて笑うと、雫の頭を一撫でした。数日前に交わした言葉のやり取り、それをゾロアークは覚えており、その時の雫の意思を尊重していたのだ。それを理解した雫は再び俯くと、何も言わずに彼の肩に頭を凭れさせた。

(・・・・・ヤバイ、恥ずかしい・・・)

彼の言葉を聴いた雫は自身の顔が僅かににやけている事を自覚していた。故に俯いた彼女だが、その魂胆はゾロアークに丸解りであった。声を押し殺して笑う彼に誹謗の目を向けた雫は、口を開いて直ぐに閉じた。

(そういえば・・・・・名前・・・・)

雫はふと気が付いた。ゾロアークという名前は種族名であり、個人を示す名前を彼は持っていなかった。カンザキやルークにも『ゾロアーク』という名前で呼ばれる彼。その事に雫は激しく違和感を抱いた。
そして、雫は昨晩目を通していた植物辞典のある項目を思い出した。

「_____桔梗」

雫は小声で呟いた。その声を聞き漏らしたゾロアークは「何?」と雫に返すと、彼女の声に耳を傾けた。

「ゾロアークの名前だよ。それじゃあ、味気ないでしょ?」

「・・・・・・人間ごときに名前を付けられるのは屈辱だと思っていたけど、お嬢なら悪くはないな」

「で、その心は?」とゾロアーク、いや桔梗は雫に尋ね返した。雫は桔梗の言葉の返事を数秒間溜めると、ポツリと呟いた。

「桔梗の花言葉は『やさしい愛情』・・・・・桔梗がゾロアークの名前にぴったりだと思うよ」

「桔梗・・・・悪くないな」

「ありがとう、お嬢」と桔梗は呟いた。雫はそれに嬉しそうな笑みをみせると、彼の肩に頭を預けた。肌寒い空気の中、雫は桔梗の体温を感じながら、心中に安堵感が広がるのを覚えた。口角を緩める雫を見下ろしたゾロアークは、優しげな笑みを微かに浮かべて、彼女の頭を一撫でした。

夜明けは刻一刻と近づいていた。



同時刻、イッシュ地方ヒウンシティ、メインストリート。

昼下がりのヒウンシティ、まだビジネスや学業に勤しむ人々の姿はそこまで多くはなく(それでもフタバタウンに比べたら半端じゃない人数である)、何れも屋内に留まっているようである。それでも屋外に出向く者はアポイントのある者か非番の者であろう。老若男女、人種を問わず人やポケモンで溢れかえるヒウンシティは、正しくイッシュ地方の、いや世界経済の中心地である。その経済の中心地のメインストリート、そこには生餌に群がる蟻のような数の群集がいる。ビジネスマンにキャリアウーマンに学生に主婦に老人、果ては幼児や妊婦、馬に乗った騎兵隊や市警の姿も見えるその一団の視線は、一つのビルに向けられている。

メインストリートの一角で、世界最高の地価を誇るそこに建てられている高層ビル、いや国際連合本部ビルから今正にある男が姿を現そうとしていた。

片道五車線の大型道路と広々とした歩道、近くのビルの屋上や何段も続く階段の先にあるガラス張りのゲート、その向こうにある大階段、何れも武装した国連兵や米兵、USSS(米合衆国シークレットサービス)の職員も姿があり、周辺の警備の任に就いている。上空にはアメリカの三大ネットワークの取材ヘリの他、海外の著名なメディアの特派員の乗ったヘリ、更には武装した警護用のヘリも飛行している。路上にはアンチマテリアルライフルの直撃にも耐えられる性能を持つリムジンと万が一に備えて待機している救急車、更には武装チームが乗った大型のSUVに装甲車も待機している。

そのような物騒な場にも関わらず、群集は誰もが手にした手旗を振っている。それは片面にこの国の国旗である星条旗が、もう片面には国連の象徴である国連旗がデザインされている。この無限にも思える人数は何れも愛国者であり、ある男を心棒していると言っても過言ではない。場を覆い尽くすような熱気が肌で感じられる状況の最中、一人の男の目が大階段を降りてくる人影を捉えた。

その瞬間、その男は歓喜の声をあげた。

その声を皮切りに、男の周辺にいた人々が次々とある人物の名前を叫んだ。その余波は瞬く間に周囲に広がり、静かな水面に小石が落ちたかのように声の波が円状に広がっていく。その声はメインストリートをあっという間に埋め尽くし、それに驚いた数羽の白い鳩が止まっていたポールから羽ばたいた。鳩の白い羽が群集の頭上を飛び、それはガラス張りのゲートの上を舞っていた。

その時、小銃を抱えて、大階段の左右に整列して並んでいた国連兵と米兵の混合部隊が踵を鳴らして敬礼した。左右に整列する彼らの間を、闊歩していたオーダーメイドの高級スーツを悠々と着こなす人影、国際連合の最高権力者にして国連軍の最高司令官である朝霧雫の実父、朝霧海奈は片手を彼らに振りながら優雅な笑みをみせると、一人の警護兵と握手を交わした。その警護兵は緊張の余り、肩に力を入れて生唾を飲みながら朝霧事務総長の手を握り返し、再び敬礼した。傍らに気の弱そうな秘書官と数名の護衛官を引き連れた朝霧事務総長は銀糸のように輝く長髪を揺らしながら再び歩き出すと、警護兵が開けたガラス張りのゲートを潜った。

それは、メインストリートに響く歓声が最大値に達した瞬間であった。

群集は手旗を振りながら彼を出迎え、数多くのメディアのカメラがその姿をフレーム内に捉える。上空を舞っていた白い鳩の羽が舞い落ち、朝霧事務総長を祝福するかのように彼の周りを踊っている。彼は上空で輝く太陽を目を細くして見上げると、片手を優雅に振りながら階段を降りていく。それは最早宗教といっても過言ではない光景だ。
階段を一番下まで降りて、路上の一部を陣取るメディアに向けて朝霧事務総長は手を振ると、リムジンの後部座席に乗り込んだ。彼の姿が車中に消えてもなお、群衆の歓声や報道陣のフラッシュは収まらず、それらは彼の権威を指し示しているかのようである。一方の朝霧事務総長は強化仕様の遮光フィルムで外界から遮断されたリムジン内に収まると、一度小さく息を吐いた。

「全く・・・酔狂な様だな。まるで神様になった気分だよ」

車外で歓声を上げ続ける群衆を横目で見た海奈は小声で漏らした。同じく彼の正面に座った茶髪にパーマのかかった気弱そうな秘書官は恐る恐るといった雰囲気で海奈にホットコーヒーの入ったカップを差し出した。

「ミルクを多めに、シュガーを少なめに入れておきました。疲れには糖分が一番です」

「ありがとう、コリン」

気弱そうな秘書官、コリン・アンダーソンは弱々しい笑みを浮かべると手元のPDAを操作した。その時リムジンと護送車両が動き出し、周囲の群衆が後方に流れていった。世界最高クラスの快適さを誇るこの強化仕様のリムジンは、様々なVIP御用達の車両だ。現に海奈も心地良い座席の背凭れに身を預けると、カップを傾けた。

「それにしても・・・流石は事務総長ですね。まさかルドルフ・シュタイナーを秘密裏に捕縛するとは・・・・・」

「秘密裏も何も、シュタイナーの一件はカンザキとUNIAに一任していたからな。私は外交に徹しただけだ」

群集がここまで騒ぐ理由はそこにあった。東欧の独裁者ルドルフ・シュタイナーがUNIAと米海兵隊により逮捕されたというニュースは今朝発表されたばかりだ。しかし、そのホットなニュースは瞬く間に世界中に広まり、その事を事前に知らなかった者は驚愕し、知っていた者は予定通りの行動を取った。何せ一国の独裁者が僅か数時間で捕まったのだ。それは国際連合の権力がどれ程なものか如実に表している。同時に、世界平和を訴えている朝霧海奈の名をあげた。
そして海奈は後者であった。UNIAと米軍によるルドルフ・シュタイナーの確保、それを知っていた海奈は大手メディアの報道と同時に会見を開くと、ここヒウンシティの国連本部ビルで開かれた安全保障会議に出席した。その内容はJ共和国に対する『人道支援』についてだ。しかし、その実態は『人道支援』とは名ばかりのJ共和国に対するNATOによる軍事侵攻である。確かにレーニンを心棒する社会主義者のシュタイナー将軍が逮捕された以上、最高司令官が不在の共和国軍並びに民兵組織は瓦解する。その後に起きるであろう内戦状態をNATOが鎮圧し、自分達の息のかかった人間を共和国のトップに据えれば、共和国をある程度思いのままに操れる。そうすれば共和国の資源も思いのままである。
一応共和国の国民に対する食料や医療などの『人道支援』は行われる。しかし、その実態を認知している海奈の顔は明るくはない。将軍の逮捕、そして国際裁判所に引きずり出すことは確かに彼も望んだ事だ。しかしその後の共和国の処遇、更にNATOの思惑を考慮に入れても彼は納得できない節があった。

(体の良いスケープ・ゴートか・・・・)

この件により海奈の名声は確かにあがる。しかし、それは共和国への侵攻とその後の処遇から世論の目を遠ざけるための、NATOの身代わりのように感じられるからだ。だからと言ってそれを安全保障の会議で口にする訳にもいかない。何故なら、海奈が事務総長の椅子に座っている限り、皐月が、そして雫の身の安全が保証されているからだ。

(まだ・・・・権力が足らないな・・・)

確かに海奈の権力は世界中に網羅している国連全体を掌握する程だ。しかし、それでも権力者は世界中に存在している。そのような輩から、愛する娘と妻を護るにはまだまだ権力が足りない事を彼は自覚していた。既にカンザキが何人もの権力者を影で始末し、世論を操作して海奈の椅子を押し上げてきている。それでも権力が足りない事は、それほど複雑で難儀な世界に彼が身を置いている事を意味している。

「____コリン、次の予定を教えてくれ」

「はい、この後は専用機でワシントンまで移動して、大統領との会談が予定されています。今日はホワイトハウスのゲストルームで一泊し、明朝にNATO軍司令部に移動、そこでJ共和国に対する『人道支援』に関する議決に参加して頂きます。その後、現地で作戦の同意書に署名し頂きます。午後には本部に戻り、当日中に拝見していただく書類がございますので、それの処理をお願いします。翌日も本部ビルにてシュタイナー将軍の裁判に関する書類の処理、並びにイルクーツク・カンパニーの取締役会の方々との会談が予定されています」

「・・・・・・・皐月は?」

「皐月様は現在フィラデルフィアにて開かれている学会に参加しておられます。学会は三日後まで続き、その後はジュネーブのWHO本部に戻られ、狂犬病とその亜種ウイルスに関するレポートの作成に当たられます。また、同時にアフリカの貧困地や紛争地における医療支援に関する議決に参加し、その後は」

「もういい、わかった・・・」

気弱だが、あまりに有能すぎる秘書官の言葉に疲れを覚えた海奈は空になったカップを彼に手渡すと、再び背凭れに身体を預けた。心地良い肌触りのそれだが、それでも海奈の疲れを癒す事は適わなかった。

(皐月の体温が恋しいな・・・・・・)

数日前に抱いた愛妻の体温を思い出しながら海奈は溜息を漏らした。有能な権力者であるがいえ、多忙である。この切っても切れない関係は彼にとっても、また皐月にとっても憎々しげなものであろう。

体温。

その言葉で、海奈は胸中に秘めていた思いが沸きあがることを自覚した。それは十年近く前、まだ自身が何の権力も有さない頃に贈られた愛娘の事だ。大海で孤独に生きてきた海奈、いやルギアが生まれて初めて愛した女性、その女性との間に生まれた人間とルギアの混血の幼子。その頃には国連や諜報機関に狙われていた二人であったが、そのような状況で幼子を育てられる訳があるまい。良くて3人揃って処刑、悪くて娘は貴重な混血児として実験室である。そのような状況で、あ朝霧夫妻、そして皐月の幼馴染である秋本陽一は彼女をギラティナの住む反転世界と平行して存在する異世界に送り出す事を決めた。世界中に網羅された権力者の目から逃れるには、それしか手段がなかったのだ。同時に、夫妻はこの世界に残り、権力者と闘う事を決意した。人間とポケモンが共存し、平和な世界を築くために。幸いにも皐月の幼馴染の陽一は権力者の息子で、彼女が学のある身であった。そして海奈は人を魅了するカリスマ性を生まれつき持っていた。彼らと戦う素質は十分あった。その後、皐月は研究者としてWHOの中枢に入り、陽一は自衛隊の情報部隊、それから国連職員として事務局に入局した。海奈自身は政治家としてのノウハウを陽一の父親に叩き込まれ、二十代前半で政界デビューを果たした。

あれから数年。

既に海奈の権力は世界中に網羅され、情報局を影で操るカンザキや研究者として海奈の功績をあげる皐月の助けもあり、雫を迎えられる状況になりつつある。それでも力不足なのは否めない。

(情けないな・・・・・)

父親として娘の乳児期や七五三などのイベントも見れず、共有できる記憶が一切無い。それはこれから娘に再会できる資格が無いという事を、暗に示している気がする。

(それでも逃げるわけにはいかない、か・・・・・)

十年前に身重の皐月と共に一度逃げ出した身、それでもナナカマド博士や陽一、皐月の養父にあたる彼の父親は二人を赦し、出来る限りの支援を確約した。様々な助けを借り、ようやく現在の地位に就いたのだ。それなのに娘に会わないわけにはいくまい。

(あの子は、私を憎んでいるだろうな・・・・・)

様々な政治家や独裁者との交渉を成功させ、数々の内戦や虐殺に歯止めを掛けてきた一流の政治家も十年ぶりに会う娘の事を思うと憂鬱になっていた。会いたいが会いたくない、いや会いたいが娘の心情を知りたくない。そのような相反する気持ちが胸中をい占めていく中、海奈は再び溜息を漏らすと窓の外に目を向けた。灰色に淀んだ空を目指すように生える高層ビルの数々、そして自身を歓迎するヒウンシティの市民や警護者達。自身の権力の表れといっても過言ではない光景だが、今の海奈にとっては空虚な物に感じられた。

観衆の中にいる報道陣のカメラがフラッシュを焚いた。



乱雑に衣服や雑誌が放置された一室。カーテンが引かれた窓からは夜明けを迎えたばかりのコトブキシティの街並みを照らす朝日が差し込み、それは机に凭れ掛かって寝ている青みがかった黒髪に赤いメッシュの入った細身の女性、椿の姿を照らしていた。彼女の頭上には幾本もの安酒の瓶が転がっており、近くには溶けかけの小さな氷塊が入ったグラスが置かれている。付けっぱなしのラジオからは昨晩流れていた洋楽の気配が一切感じられず、代わりにアナウンサーのシュタイナー将軍の逮捕に関するニュースを読み上げる声と朝霧事務総長を褒め称える評論家の声が聞こえる。二人の男性の声がBGMとして響き渡る室内で、僅かに意識を取り戻した椿は小声で唸ると、机上に転がっている時計に目を向けた。

「5時46分・・・・・・」

小声で現在の時刻を読み上げた椿は僅かに頭を持ち上げると、頭蓋の中で鐘の音のように鳴り響く痛みを自覚した。喉の奥に違和感と共に乾きを覚え、口から漏れる息からは微かにアルコールの香りも漂っている。
J共和国におけるシュタイナー将軍の逮捕という任務を成功させた椿は、東欧を後にすると生活の基盤であるコトブキシティの安アパートに舞い戻り、手にした休暇を堪能していた。だが、休暇の最中でも心境に陰りを帯びており、それを紛らわすためにも彼女は安酒に浸っていたのだ。

安酒と安物のツマミと共に朝を迎えた椿は、喉の奥に広がる乾きを潤そうと重たい腰を持ち上げた。

その時、玄関の呼び鈴が鳴らされた。

それを耳にした椿は眉根を寄せると、気だるそうに身体を起こした。だが、思いの外身体が重たく感じられ、また早朝という事もあり椿は唐突に現れた来訪者を無視する事にした。しかし来訪者による呼び鈴の音は収まらず、むしろ呼び鈴を連打する始末である。いくら住人が殆ど居ないオンボロのアパートとはいえ、早朝から傍迷惑な行動である。それを重々承知している椿は溜息を溢すとゆっくりと身体を起こした。そして玄関に移動すると、覗き穴からドアの向こうにいる来訪者の顔を見た。

「・・・・・・・・はぁ」

来訪者、いや直属の上司であり友人でもあるカンザキの顔を見た椿は心底嫌そうに溜息を漏らすと、鍵とチェーンを外した。春先の寒空に晒されていたカンザキは開錠の音を耳にするのと同時にドアを開けると、玄関に侵入した。天井に頭が付きそうな大柄の男の顔を見上げた椿は皮肉な笑みを見せると、口を開いた。

「全く・・・・一人暮らしの女の家に朝っぱらから何の用なのよ?」

「お前が連絡を無視するから態々(わざわざ)脚を運ぶ羽目になったんだぞ。幾ら休日とはいえ、連絡がつくようにしていろ」

社会人の常識だぞ、と続けるカンザキを睨んだ椿は、顎で靴を脱ぐように指し示すと、片手を前頭部に当てながら気だるそうに机の前に戻った。その細い背中を玄関にスーツケースを置いたカンザキも追い、彼は椿の向かい側に腰掛けた。

「何だこの有様は・・・・・掃除しろ換気しろ寝酒をするな・・・そもそもベッドで寝ろ」

「五月蝿いわね・・・・あんたはあたしの親父か」

(悪い意味で)皺一つ付いていないシーツと机上の惨状を一瞥したカンザキは呆れた声で小言を漏らした。それに椿は嫌悪に満ちた顔を浮かべると、近くに転がっていた通信端末を手にした。画面には着信履歴が表示されており、それからは半日前からカンザキが連絡を試みた事が伺える。一方、件の本人は机上に転がっている瓶のラベルに目を向けると、「安酒か」と小馬鹿にしたような口調で笑った。

「で、既婚者が独身女の家に何の用?」

股は開かないわよ、と続けた椿は空いていたグラスにミネラルウォーターを注ぐと、それを一気に呷った。

「いや・・・・シュタイナー将軍の一件の報告書が上層部の審議を通過したからな。これで将軍の首にかかっていた懸賞金は全額お前のものだよ」

シュタイナー将軍には自国民の虐殺に対して、国際裁判所からおよそ700万$の懸賞金が掛けられていた。手続きや為替などの関係で幾らかは減るが、それでも数億円が椿の手元に転がり込んだ事になる。カンザキの話を聞いた椿は心底安心したような表情を浮かべると、「そう」と短く返した。そして、やや陰りを帯びた笑みを浮かべると、ミネラルウォーターの入ったグラスを額に当てた。

「これで・・・・治療費は完済できたの・・・・?」

「あぁ、十分お釣りも来るぞ。一応を考えて報奨金はバハマやパナマ・・・世界中の租税回避地にプライベートバンクを設立して、そこに分けて振り込んである。必要な書類の準備に暫く時間がかかるが、手続きは事務局で行うから安心しろ」

カンザキの言葉に椿は安堵の溜息を漏らすと、力なく机に凭れ掛かった。その姿をカンザキは黙って見つめると、近くに転がっていたグラスにミネラルウォーターを注ぎ込んだ。

「それと・・・これが君の家族の診断書だ」

グラスに氷解を入れたカンザキはPDAを操作すると、ドキュメントのファイルを呼び出してそれを椿の前に置いた。椿は力の入らない手でそれを掴むと、画面上に目を走らせた。

「弟さんの傷は完治しているが、如何せんあの一件でのPTSDとそれに伴う記憶障害が確認されてな。専門の医師もいない以上、情報局で見つけ出した心理学の専門家にカウンセラーを依頼しているよ」

「・・・・・・・」

「親父さんの状態だが、片目は完全に失明しているそうだ。直撃した破片による傷で眼球そのものが機能していないらしい・・・・・そしてお袋さんだが・・・・頭部の傷がかなり酷いらしい。意識は未だに戻らず、仮に戻っても大脳のダメージも酷いから言語野に障害が残るかもしれないらしい」

「・・・・・・・・・」

「一応3人とも十分なリハビリを受けさせるつもりだが、この分野の医療はまだ発展途上にあるからな。担当医は完璧な回復は諦めて欲しいとの事だ」

そこまで話したカンザキはグラスを傾けた。一気に捲くし立てて乾いた喉を潤す為なのか、はたまた重症の家族の思い、伏せたまま肩を小刻みに揺らして涙を流す椿にかける言葉が見つけられない為なのか不明である。人に涙を見せまいとする気丈な椿の振る舞いを、カンザキは悲しげな瞳に映し出すと腕時計に目を向けた。

(6時過ぎ、か・・・・)

一時間ほど前にコトブキ国際空港に到着した便で帰国したカンザキは、顎に生えてきた無精髭を撫でると大きく息を吐いた。

「さて、そろそろ俺もお暇しようかな」

業とらしい口調でカンザキは言うと、グラスに残っていたミネラルウォーターを飲み干した。その動きを伏せたままの椿は気配で察すると、ゆっくりと身体を起こした。彼女の目は赤く腫れており、鼻を微かに鳴らしていた。

「・・・・・この後は、どうするの?」

「とりあえず事務所に荷物を置いてシャワーを浴びて、それから飯を食ってからナナカマド博士の所に行く予定だ。やっと雫さんの住民票やトレーナーカードが用意できたからな」

そう言ったカンザキは腰を上げると、玄関まで歩いていき、スーツケースを手にした。

「で、お前はどうする?」

カンザキは背中越しに椿に尋ねた。その言葉が意味する事を察した椿は赤く腫れた目を擦ると震える声で反論した。

「もちろん仕事を続けるわよ。あたしは・・・・テロリストを赦すつもりは微塵も無いわ」

「_____そうか」

椿の返事にカンザキは満足そうな声で返事をすると、脚を動かそうとした。しかし、それは直ぐに止まり、彼は肩越しに椿に尋ねた。

「そういえば、イルクーツク・カンパニーの・・・・・・セルゲイ、だったか?彼は今どうしているんだ?」

「今頃は壊滅したヴェルトロの報告書に追われているわよ」

「なるほど・・・・・・チェンコフはイルクーツクの本部から何時帰国するんだ?」

「______三日後よ」

椿の言葉にカンザキは薄ら笑いを見せると、そのままスーツケースを引き摺って歩き出した。ガタガタと車輪のあげる悲鳴を聞き流しながら、椿は腫れた目で彼の背中を見送ると小さく口を動かした。

「___ありがとう」

それは彼に届かず、散らかった室内に僅かに反響した。

だが、それはすぐにラジオから聞こえるアナウンサーの声に掻き消された。


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