2010年、1月25日、月曜日。

10時30分。

ジョウト地方コガネシティ。リニアモーターカー、コガネ駅前広場。

ジョウト地方の心臓と例えても決して過言ではない規模の街、コガネシティ。それは国内最大級の一大商圏都市で、古くは武士が刀で支配する時代から商いが続く伝統的な街でもある。同時に、国内だけではなく国外からも観光客が訪れ、日夜活気に満ち溢れたこの街は、正しく眠らない街である。そのコガネシティ最大の名所と言える場所が試験的に引かれたヤマブキ・コガネ間を結ぶ国内初のの路線であるリニアモーターカーだ。高度経済成長期の代名詞である新幹線も、既に国内の主要都市を全て行き来できるまで発展している。そこで政府は新幹線より更に速いリニアモーターカーの導入を実現し、不景気に踊らされる中、経済大国としての誇りを取り戻そうとしている。同時に、リニア鉄道建設により、国内で新たな雇用が生まれた。この国の新たな発展の象徴たるリニア鉄道コガネ駅。その駅前広場にて、与党のある衆議院議員の演説が行われようとしていた。

秋本英一衆議院議員。

ジョウト地方議員を五年こなした後、衆議院選に出馬、見事に三十代で当選したエンジュシティの旧家出身の若手議員である。彼の掲げる政策、それは人間とポケモン、自然との共生を謡う、所謂ロハス主義である。近年では地球温暖化が徐々に深刻かしており、環境保全やクリーン・エネルギーに関心を抱く有権者も少なくはない。秋本議員はそのような有権者や環境保護活動に取り組む企業や団体からの支持が高く、四十路手前にして一大派閥を作り上げる程の手腕を有する。また、演説の巧みさ政治手腕や外交能力の高さを生かし、秋本議員は日に日に支持者を増やしている。それ故に黒い噂も絶えず、怪しい資金の流れや関連企業等との癒着の風説が絶えない。そのため、議員はしばしば『極東の独裁者』と揶揄される事があるが、それを口にしたアナウンサーや評論家は『不思議と』表舞台から忽然と姿を消している。噂が噂を呼び、秋本議員をある人は畏怖の目で、またある人は尊敬の目で見ている。

そして、本日行われる秋本議員の演説は、先月病死した与党幹事長を追悼するものである。

演説とは名ばかりの、幹事長の椅子を狙った演説。その魂胆は丸見えだが、彼の演説を止められる者はいない。第一に、国民が政治に無関心過ぎだからだ。口々に政権に対する不満は述べても、具体的な行動に移す者は極僅かである。第二に秋本議員の権力が強すぎるからだ。彼の演説に不満を抱く者は当然いるが、強すぎる議員の権力を前にして閉口せざるを得ない。

権力の権化。

彼を一言で表すのなら、これ程最適な言葉は存在しないだろう。
そんな議員の姿は見えず、広場には数多くの報道陣と聴衆の姿、そして雛壇を中心に周囲を警備しているSPの姿がある。黒いスーツを身に纏い、強化繊維のジャケットのボタンを外している彼らは何れも懐に拳銃を隠しており、白いイヤホンを付けている。中には有事の際に防弾シールドとなるブリーフケースを持つ者もおり、盾を持った機動隊も出動する程の厳重な警備が敷かれている事が伺える。

その警備網の中に、ポケモンの姿が見られる。

その目つきはとても鋭く、そうとう鍛えられている事が伺えるポケモン、その傍らには迷彩柄の服を身に纏い、その上からは防弾チョッキを重ね着している人間の姿もある。彼らの胸元には共通の徽章が付けられており、それがとある著名な団体である事は誰もが知っている事である。

ポケモンレンジャー、または単にレンジャーとも呼ばれる彼らは、英雄という言葉が当てはまる一団である。

主にポケモン関連の事案が発生した際に活動する彼らは、自衛隊のレンジャーとは違った組織である。後者は隠密性が高く、工作員や諜報員の色が濃い、裏の世界で暗躍する組織である。しかしポケモンレンジャーはポケモンの乱獲や虐待、密輸や保護、環境保全や災害時の人道支援など多岐に渡る。その活動内容も明確なもので、しばしば自衛隊と比べられる事がある。国防関連の軍事的面の強い自衛隊とポケモンや環境関連の色が強いポケモンレンジャー、世論の多くはポケモンレンジャーに傾いており、彼らの活動には賞賛の嵐が止まない。特にこの国は他国に比べてポケモンレンジャーの権限が強く、近年では国家予算の配分も高く設定されている。

そんな彼らがロハス主義者である秋本議員の警備に当たっても何ら不思議ではない。

ポケモンレンジャーは制服隊員の他にも、聴衆の中に隠れている私服隊員、近くのビルには目の良いポケモンを連れた狙撃隊員が待機しているなど、数多い隊員を抱えている。それ故に資金も潤沢で、独自の施設を数多く持っている。

英雄と名高きポケモンレンジャー、その中にある童顔の女性隊員がいた。

他の隊員が各々の相棒のポケモンを傍らに出している中、一人だけポケモンを出さずに薄手の防弾チョッキを身に纏った女性隊員は不愉快そうに髪を後頭部で纏めた、茶色の頭を雛壇に向けていた。何故なら、女性隊員は権力の権化である秋本議員を毛嫌いしているからだ。特に理由は無い。ただ、権力者が好きになれないだけである。その事は女性隊員、いや東條遥隊員が一番よく知っていた。

(確かに幼いかも・・・・)

声に出さないが、自身の考えの幼さは熟知している。いくら遥隊員が厳格なポケモンレンジャーのエリート部隊である特務部隊の最年少の隊員で、研修期間を通常の半分で終えた優秀な人材とはいえ年相応の19歳の女の子である。ポケモンレンジャーに15歳の若さで入隊、16歳で特務部隊に配属され、今では特務部隊の星と例えられる彼女も、オフの日は唯一の家族である弟を連れ出し、買い物に勤しむ一人の少女である。

弟。

その言葉を思い出した遥隊員は、一人嬉しそうな笑みを浮かべた。強い意志を孕んだ、鷹のように鋭い眼差しの遥隊員も、家族の事を考える時くらいは穏やかな笑みになる。何せ今日は彼女の20歳の誕生日であり、幼少の頃に両親を亡くして以来、弟は毎年のようにバースデーカードを送ってくれている。それは反抗期を迎えた今も変わらず、幼少時と同じ、下手な字とイラストの描かれたカードは遥隊員にとって嬉しいものである。現在、彼女の弟は中等部に所属しており、2人とも寮生活の為に、中々合える機会が設けられない。

(今年は、久しぶりに顔を見せに行けるかも・・・・)

手紙や電話でのやり取りは日課となっているが、直に顔を合わせるのは久方ぶりである。最後に弟の顔を見たのは一月近く前だ。それを考慮に入れても、遥隊員は弟に会えることが楽しみで仕方がない。今ほど事前に休暇申請を出していて正解だと思う事は無いだろう。

母親似の自身とは異なり、父親似の弟の仏頂面を思い出した遥隊員は含み笑いを浮かべると、改めて周囲を見回した。

その時、観衆が揃って手を叩き出した。

誰が切り出したかは定かではない。しかし、彼らが何故行動を起こしたのかは明白だ。数人の武装したSPに囲まれる中、秋本議員がゆっくりと壇上に姿を現したのだ。それを視認した女性は一瞬、嫌そうな顔を浮かべるが直ぐにそれを掻き消すと、SP達に続いて議員の近くに歩み寄った。基本的に議員の警護はSPの仕事である。しかし、精鋭の中の精鋭である遥隊員は実際に経験を積むために、SPと共に行動する許可を得ていた。それ故に、彼女はポケモンレンジャーの中でも一番議員に近い所にいた。

議員を毛嫌いしている彼女が。

何とも皮肉な状況に遥隊員は苦笑を浮かべると、横目で議員を盗み見た。この手の職種の人間にしては議員は引き締まった大柄な体躯で、その顔は悪人面といっても過言ではない。オールバックに整えられた黒髪と顔に刻まれた微かな皺は見る人に精力的な印象を与え、より議員の活動を支持するだろう。そんな議員を見ながら、遥隊員は改めて溜息を漏らした。

(やっぱり・・・好きになれないかも)

拍手が十秒近く続き、やがてそれは収まった。それを皮切りに議員は爽やかな笑みを顔面に貼り付けると、聴衆に向けて片手をあげた。

『皆さん、おはようございます』

マイクを通じて、耳障りの良い議員のハスキーボイスが駅前広場に響き渡る。

『本日は私の演説の為に貴重な時間を割いていただき、誠にありがとうございます』

議員を見ていた遥隊員は、気が付いた。笑顔の彼の目が一切笑っていない事に。それは、一流の役者の演技に近いものである。愚かな民衆を見下し、日に日に権力を吸収していく壇上の役者である。

(あぁ、やっぱり好きになれないかも・・・・・)

その事に気が付いているのは遥隊員だけである。他のSPは不審者に警戒しており、壇上にいないポケモンレンジャー達もまた不審者に警戒している。議員の本性を見抜けたのは、間近にいた遥隊員だけである。この時ほど、遥隊員は上司を恨んだ事は無いだろう。こんな胸糞悪い議員の警護に就く、それは彼女にとっては虫唾が走る事である。

議員のハスキーボイスが響く中、微かに女性の悲鳴が木霊した。

それは議員の声で掻き消されたが、異変は掻き消されず、直ぐに続いた。一人の女性が前乗りになって倒れたのだ。それ自体は何ら不思議ではない事だ。しかし、倒れたのはその女性だけではない。女性を皮切りに、彼女の前方にいた観衆の内、数人が倒れたのだ。それはまるで後方から押された様にも見える。唐突に始まった異変に聴衆の一部と護衛のSP達は音源の方に目を向けた。

それは、遥隊員も同じであった。

音源の方、後ろから押されて倒れる女性の背後から飛び出した二人組みの男女は、険しい表情のまま駆け出していく。二人とも遥隊員と同じくらいの年代で、服装はありきたりの若者のそれである。しかし、二人が手に持つ金属製の玩具は違った。SPやレンジャー達の持つ正規ライセンスのハンドガンとは違い、粗悪な模造品のそれを構えた二人組みは群集を掻き分けると、壇上の秋本議員に銃口を向けて引き金を引いた。

広場に、乾いた銃声が響いた。

それに驚いた聴衆は我先にと逃げ出し、一帯は瞬く間にパニックに陥った。しかしSPやポケモンレンジャーの隊員達はそれに怯まず、壇上の者は議員を庇い、他の者は突然現れた襲撃者目掛けて発砲しようとした。だが、パニックに陥った聴衆が駆け回る広場において、襲撃者のみを撃つのは至難の業だ。故に護衛の者はブリーフケースの盾を広げると、それに身を隠して銃弾の雨に耐えていた。男の放った一発の銃弾が一人のSPの肩に風穴を開け、彼は苦悶の表情を浮かべるとその場に屈みこんだ。遥隊員もまたハンドガンを素早く引き抜くと、議員を防弾使用の壇上の机の影に押し込んだ。

襲撃者による一方的な発砲。それは唐突に終わりを迎えた。

ビルに待機していた狙撃手が男の襲撃者に向けて発砲した。放たれたライフル弾は回転しながら大気を切り裂くと、精確に男の右胸に吸い込まれていった。ライフル弾は男の肋骨を粉砕し、肺に穴を開けた。胸元に赤い花を咲かせた男は走る勢いが付いたまま前方に転倒し、その場で赤い池に沈んでいった。

だが、女は止まらない。

横目で男が絶命したのを見た女は弾切れになったハンドガンを投げ捨てると、代わりに一本の紐を掴んだ。それは彼女の服の中に繋がっており、女は出来る限り議員の近くを目指し、走り続ける。

再び銃声が響いた。

直後、女は地面に倒れ込んだ。

ビルに待機していた狙撃手の放った銃弾は女の太股を貫通し、石畳の地面に銃痕を刻み込んだ。大動脈と骨を負傷した女は苦悶の表情を浮かべながら倒れ込んだ。そのタイミングになり、ようやく待機していた機動隊が盾を構えて聴衆と襲撃者の間に割り込み、数台の警察車両が同じく盾になるために機動隊の前に割り込んだ。

『撃ち方、止め』

耳穴に入れてある通信機からSPの隊長の命令が響いた。それに合わせて壇上のSPやポケモンレンジャー達は揃って発砲を止めると、銃口を襲撃者達に向けたまま新たな脅威に警戒している。そんな中、数人のSPの隊員と警察官が倒れた襲撃者を拘束するために慎重な足取りで歩み寄った。

(終わり、かもね・・・・・)

遥隊員も同じく銃口を襲撃者に向けると、何時でも発砲できるように待機していた。その時、彼女は異変に気が付いた。女が薄ら笑いと共に壇上の遥隊員を見ると、何時の間にか手に持っていた紐を引いた。

「_____逃げ」

その紐の正体を見抜いた遥隊員は女に歩み寄る彼らに警告を発しようとした。しかしそれは間に合わず、女が紐を引いた事により、彼女が服の下に隠していた爆弾が作動した。所詮細身の女性が隠し持てる量の爆薬とはいえ、至近距離で爆発した際の衝撃は計り知れない。爆発と同時に女の服の下に隠してあったガラス片や釘などの十分凶器となりえる鋭利な物が周囲にいた彼らに襲い掛かった。それらは警察官やSP達の身体を傷付け、周囲の人間やポケモンに牙を剥く。幸いにも聴衆側には盾を装備した機動隊や警察車両があるため、破片が聴衆を襲う事はなかった。せいぜい数人の機動隊員が軽症を負ったくらいだ。
しかし壇上は違う。防弾使用の机に隠れられたのは秋本議員と彼の傍にいた二人のSPだけだ。他のSP達は飛んでくる破片から急所を守り、ボロ雑巾のようになりながら倒れた。そして、それは遥隊員も同じである。爆発の衝撃で飛んできた五寸釘が防弾チョッキを貫き、遥隊員の脇腹に突き刺さった。焼け付くような痛み、そして失われゆく血液の感覚を覚えた遥隊員は、力無く壇上に倒れ込んだ。痛みのあまり、苦悶の表情を浮かべる遥隊員の目に映ったのは、自身の腹部から流れ出す赤い川とSPに誘導される議員の姿であった。広場には救急車も待機しているが、議員の手当てが優先される事は明白である。

(間違いない・・・・好きになれない・・・・)

薄れゆく意識の中、遥隊員は冬の寒空を見上げた。澄んだ大気は遠くの光景まではっきりと見え、旅客機の描く飛行機雲が遥隊員の視界を真っ二つにした。

(・・・・・ごめんね)

遥隊員は飛行機雲を掻き消すように手を伸ばした。まるで、弟との今生の別れのように広がる飛行機雲。それを打ち消したいが、既に遥隊員にそれを赦す力は無かった。

伸ばされた手は力無く赤い海に沈んだ。




2014年11月15日、土曜日。

15時48分。

ヒマラヤ山脈付近の空路。

雲よりも高い空を、一機の旅客機が飛行している。周囲360度のキャンパスは全て青色の絵の具で塗り潰されており、その中を一筋の白の絵の具が走っている。ずんぐりとした胴体は全てが二階建てで、凡そ600人もの人間が搭乗できる世界最大クラスの旅客機A380ことエアロポリス7052便はイスタンブール空港を発ち、上海国際空港を目指していた。7052便の乗員乗客の大半は西アジアへの出張から戻るアジア人で、その中にくたびれた旅行着を身に纏った初老の男性の姿もある。機体中央部に設けられたビジネスクラス、その一席に男性は冷や汗を流し、周囲の人間を探るような目つきで腰掛けている。その膝にはビジネスバッグが置かれており、男性は大切そうにそれを抱えている。男性の隣には動きやすそうなカジュアルな格好の銀髪の女性が座っており、両手で広げた機内誌に目を通している。心地良い温度に保たれた客室内にも関わらず、男性の冷や汗は止まらず、奥歯をカチカチ鳴らしている。

「映画でも見て落ち着いたらどうですか」

銀髪の女性が唐突に口を開いた。彼女の目はバイザー越しに機内誌の記事の上を走っているが、意識自体は男性の方に向けられている。

「いや・・・大丈夫だ。心配ない・・・・」

「そうですか、映画も文学と同じで人生の役に立ちますが・・・・」

笑う膝を叱責しながら男性は弱弱しい口調で返した。それに女性は肩を竦めると、再び記事に目を向けた。そこには大手ゴシップ大衆誌の記事が書かれており、それに目を通した銀髪の女性は口を開いた。

「確認しますが、上海に着いたら予定通りに日本経由で渡米します。その後は、イッシュ地方のヒウンシティの国連本部に向かいますが、異論はありませんね」

「あ、あぁ・・・・私としても逸早くこれを国連本部に引き渡したいよ」

銀髪の女性は有無を言わせぬ口調で男性に言った。男性は膝に抱えたビジネスバッグを撫でながら返事をすると、僅かに安心したのか、溜息を漏らした。

「何せ国連情報局の捜査官である君が警護に就いてくれているんだ。嬉しい限りだよ」

「_____えぇ、私も貴方に同行できて嬉しいでしよ。野崎博士」

銀髪の女性は国連情報局の捜査官の名を語った。

「ところで博士、万が一バッグの中身が漏れ出す事は・・・・」

「そこは安心してくれ。あれは最新の防護パックで封をしている。仮に漏れ出してもパックを覆う薬品があれを即座に死滅させる。パックを無理に開封しても同じだ。開けるには、私のIDが必要になる・・・」

「・・・・・それを聞いて安心しましたよ」

博士の話を聞いた捜査官は薄笑いを浮かべると、再び機内誌に目を落とした。博士も凄腕の捜査官の賛同を得た事に満足し、再び溜息を漏らすと窓の外に目を向けた。

その二人の後頭部を、同じくビジネスクラスに登場している白人の男性が見ていた。男性は博士の後頭部から目を外すと、手元のPDAを操作した。そして、それを懐にしまうと男性は座席を離れ、機体後部へと移動していった。彼の袖から見える手首には、刺青が微かに見えていた。




7052便、貨物室。

暗闇に支配された貨物室には幾つもの乗客の荷物が置かれている。その中に成人男性も入りそうな大きさのスーツケースが置かれている。それは刺青の男性の荷物である。そして、その中には客室にいた男性の荷物があり、その中には首を折られた成人男性の身体が入れてある。



7052便、コックピット。

四十路を迎えたばかりの副操縦士の眼前に、酸素マスクが天井から落下してきた。その直後、耳障りな警告音がコックピットに鳴り響き、その警告音の意味を知っている副操縦士は横に座る白人の機長に目を向けた。

「機長、キャビンの気圧が下がってきています。高度の変更をリクエストしますか?」

「そうだな。おそらく乱気流か与圧システムの影響だろうな・・・・ムンバイ管制塔に高度10000mのルートをリクエストしてくれ」

機長の指示に副操縦士は「了解」と短く返すと、無線の周波数を司る白い摘みを回した。それを横目で見た機長は、手元のマイクのスイッチを入れると、何時もと同じ様な口調で話し始めた。

『こちら機長です。ただ今ヒマラヤ山脈上空に差し掛かりましたが、激しい乱気流が予想されるために酸素マスクの装着をお願いします。装着の仕方が分からない方はお近くの乗務員にお尋ねください』

慣れた口調で放送した機長はマイクのスイッチを切ると、副操縦士を見た。彼は慌てた様子を微塵も見せず、至極冷静な態度でムンバイ管制塔に高度を下げることを伝えると、高度計に指を添えた。それを見届けた機長は無線機の回線を開くと、今度は彼からムンバイ管制塔にコンタクトを取った。

「ムンバイ管制塔、こちらエアロポリス7052便。ヒマラヤ山脈付近の天候が荒れてきています。リアルタイムの気象情報を送信してください」

『こちらムンバイ管制塔、直ちに送信しま・・・・・』

管制官の返事が途絶えた。それは無線を聞いていない副操縦士も気づかず、唯一気づいていた機長は微かな笑みを浮かべると無線を切った。

「この辺り一帯の気流が乱れているようだ。君も酸素マスクをつけるんだ」

「わかりました」

機長の指示に素直に従った副操縦士は、眼前にぶら下がっていたマスクを口元に当てた。マスク内に流れ込む酸素は機体に設けられたタンクから送られてくる。実に数分間しかもたない量だが、機体の異常を修復するには十分な量だ。それは今回も同じで、特に不安そうな顔を浮かべない副操縦士はマスクを付けたままコックピットの計器を見ていた。その横で機長は繋がらない無線機で交信する振りをしながら、副操縦士を横目で見た。彼は酸素マスクを付けたまま、眼前の計器を見ていた。だが、鼻腔に違和感を覚えた副操縦士は機長の方を見た。

「機長、酸素が・・・・・」

その直後、失神した副操縦士は身体を操縦桿に凭れさせた。酸素マスクと繋がったタンクに施された細工は精確に作動し、機内にいる全員のマスクに正気ガス、または正気麻酔で知られる亜酸化窒素を供給していた。鼻腔に甘い香りを覚えた副操縦士が異変を機長に報告するより早くガスは彼の意識を奪い去り、それを見届けた機長は副操縦士が完全に失神するのを待った。
そして、副操縦士の意識が失われた事を確認した機長は、高度計の白い摘みに手を伸ばすと、それを操作した。表示された高度は10000mから8000mに変更された。



7052便、キャビン。

博士は奥歯をカチカチと鳴らしていた。

客室内の天井から突如落下してきた酸素マスクに、最初はどの乗客も不安そうな顔を浮かべていた。赤子を連れた親子、仲睦まじげな白髪の老夫婦、二十代半ばの学生の集団。誰もが怯えた目をしていたが、乗務員の適切な指示と行動に安心していた。博士も通路を歩いていた白人男性の搭乗員にマスクの装着を促され、隣に座っている捜査官も男性の言葉に従った。

そこまでは何らおかしくはない。

だが、マスクを付けた者達−座席に座った乗客や通路を歩いていた乗務員、つまり機内にいたほぼ全員−は一人、また一人と動かなくなっていく。その中には先ほどの男性の客室乗務員の姿もあり、彼らは各々の座席に座ったまま、或いは天井からぶら下がっている予備のマスクを付けたまま通路に倒れこんでいる。徐々に静かになる客室。その不気味な雰囲気から、異常事態を察した博士は痙攣する子供のように目玉を細かく動かしていた。

「・・・・・どうやら、時間のようですね」

博士の隣に座っていた捜査官が口を開いた。何時の間にか彼女は酸素マスクを外しており、そこからは微かな甘い香りが漂っている。

(これは、亜酸化窒素・・・・!!)

嗅ぎ慣れたその香り、そして客室内の現状。それらが意味する答えが理解できない者は精々赤子くらいであろう。現に博士は冷や汗を額から流し、膝を笑わせると薄気味悪く微笑む捜査官を見た。

「____博士はご存知ですか?」

捜査官は薄ら笑いを顔面に貼り付けたまま口を開いた。

「昔の映画で、これと似たようなシーンがある事を・・・・」

博士は生唾を飲み込み、喉を鳴らした。

「『偽物』の捜査官に『偽物』のパイロット、『本物』の博士に『本物』のサンプル」

捜査官の白く、細い指が博士の膝に置かれたビジネスバッグを指さした。そして彼女の言葉の意味を理解できない程、博士も無知ではない。

「・・・・・・君達は何者だ?」

緊張と恐怖が限界まで達した博士は、搾り出すような声量で捜査官に尋ねた。捜査官はそれに薄ら笑いを浮かべて見返すと、一瞬の内に博士の喉に手刀を叩き込んだ。鋭いその一撃は博士の脳を頭蓋の中で揺らし、彼の意識を瞬く間に奪い去った。そして、捜査官は力無く背凭れに凭れかかった博士の頭を脇で抱えると、腕に力を込めて首の骨を折った。

「芸術は現実を模倣する・・・・その逆もまた然り」

口角から舌を垂らした博士の身体を、捜査官は乱雑に突き飛ばした。腕を伝わる鈍い感触から博士が絶命した事を確認した捜査官は、彼の膝にあるビジネスバッグとポケットから抜き取った博士のIDカードを手にすると、誰一人動かないキャビンを闊歩しだした。

いや、動く影がある。

捜査官が行動を起こしたのと同時に通路に倒れて失神した振りをしていた男性の客室乗務員は目を開くと、ゆっくりと起き上がった。

「クレマン、乗客リストの改竄は」

「既に済んでおります、J様」

男性の客室乗務員、いやクレマンは女性捜査官、いやポケモンハンターとして国際警察に指名手配されているJに頷いてみせた。Jは彼の言葉に首肯すると、コックピットから歩いてくる機長に目を向けた。

「アール、オートパイロットと高度は」

「設定済みです、墜落までおよそ二分です」

機長、いやアールと呼ばれた男はJに素早く返事をすると、首元に巻いてある黒いネクタイを外した。そしてアールが歩いてきた方向とは逆、機体後部から先ほどの男性客が肩に何かを担いで速足で歩いてきた。

「クルーザー、亜酸化窒素のタンクの交換と脱出の手筈は」

「全て終了しました」

クルーザーは冷酷な笑みを浮かべてJに敬礼した。3人からの報告に耳を傾けたJは一度小さく頷くと、機内全体を見渡して口を開いた。

「よし、アールとクルーザーはコックピットに機長の死体を運べ。クレマンは私と退路の確保だ」

Jの指示に3人は素早く頷くと、各々の任務を全うすべく、二手に分かれた。クルーザーとアールは離陸前に始末した本物の7052便の機長の死体をコックピットまで運び、Jとクレマンはハンドガンを構えたまま床の絨毯を捲った。そこには貨物室に繋がるハッチが設けられており、工具を取り出したクレマンがそれを開けた。二人はそこから貨物室に抜けると、乗客の荷物が置かれているそこを駆けて行く。

「ここだ」

機体側面に設けられた貨物用のハッチの正面まで来たJとクレマンは周囲を警戒しながら立ち止まった。そしてJは腰のホルダーからモンスターボールを取り出すと、それを貨物室内に解き放った。

それは、文字通り龍であった。

空のような澄んだ青い身体に力強く羽ばたく二枚の羽、鷹のような鋭い目つきで辺りを威嚇するドラゴンポケモン、ボーマンダである。ボーマンダは低い唸り声をあげてクレマンを睨むと、近くに立つJの細い身体に頭を擦り付けた。ボーマンダの強さは名高いものである。そのボーマンダが服従する事から、Jのトレーナーとしての技量の高さが伺える。

「墜落まで後一分です」

ボーマンダの威圧感にクレマンはたじろぎながらJに報告した。Jは無言でそれに頷くと、貨物室のハッチのロック部分に機内に隠していた爆薬を設置した。その時、コックピットへ証拠を捏造しに向かったアールとクルーザーが降りてきた。二人はいち早く現状を察すると、貨物室の一角に置かれているボストンバッグから何かを取り出した。

「J様、これを」

アールの差し出した物、それはゴーグルと小型の酸素ボンベであった。Jはそれを受け取ると空き缶サイズのボンベから伸びるチューブを咥えた。それに倣い残りの3人もボンベを装着して、ゴーグルを身に着けた。

「墜落まで後40秒です」

クレマンの言葉が貨物室に響いた。それを合図にクルーザーもモンスターボールを取り出し、それを機内で解放した。姿を現したのは鋼・飛行の複合タイプを有するポケモン、エアームドだ。エアームドはその背中をクレマンに背中を向け、甲高い鳴き声をあげた。アールとクレマンも彼に続いて各々の飛行ポケモンを貨物室に放ち、脱出の準備をする。

「行くぞ」

Jが短く言った。そして彼女は起爆スイッチを押した。

その瞬間、ハッチに仕掛けられた爆薬が爆発し、ロックを破壊した。高度10000m近くで保たれていた気圧の均衡が乱されたのだ。次に起こる事を想像するのは容易い。貨物室のハッチは大空へ轟音と共に吸い出され、貨物室で急減圧が起きた。鼓膜が破けそうなほどの轟音が鳴り響き、機内の空気と一緒に乗客の荷物がハッチに続いて吸い出されていった。

「集合ポイントはβだ!GO!GO!」

轟音に負けじとJは声を張り上げた。彼女の指示に3人は頷くと、最初にエアームドの背中に乗ったクレマンが大空へと飛び出していった。その後にアールが、クルーザーが続き、最後にボーマンダに乗ったJが飛び出した。その際、Jは減圧に晒される7052便を一瞥すると、微かに笑みを浮かべた。

4人の工作員は澄み渡った青空を切り裂くように飛び出すと、落ちつつある機体から離れていった。




7052便、コックピット。

貨物室で起きた急減圧、そして山脈が近付きつつある為、副操縦士が凭れ掛かっている操縦桿が細かく振動していた。

『Pull up・・・・・・Pull up・・・・・・Pull up・・・・』

コックピットに響く無機質な女性の声による警告、そして操縦桿と大きく揺れだした機体の振動により亜酸化窒素により失神した副操縦士は徐々に意識を取り戻し始めた。視界は靄がかかったようにはっきりとしないが、それでもパイロットとしての職務を全うしようと、身体をゆっくりと起こした。

『Pull up・・・・・・Pull up・・・・・・Pull up・・・・』

耳障りな警告音、そしてそれが意味する現状を徐々に正常に戻りつつある思考回路で把握した副操縦士は目を見開いた。7052便の機首は下がりつつあり、既に視認できる距離にヒマラヤ山脈の岩肌が見えていた。角膜を通して網膜に焼き付けられるその光景、そして姿の見えない機長、その二つにより副操縦士は胃の内容物を逆流させそうな吐き気を覚えた。

「・・・・・機長?」

力無く呟いた副操縦士は何とか高度をあげようと、操縦桿を引いた。だが、時既に遅し。7052便の機首が上がり始めた頃には、機体の一部が山肌に接触していた。

結局、7052便の乗員乗客の中で、墜落の恐怖を味わったのは副操縦士だけであった。

山脈に、轟音が響いた。



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