肌触りの良い、心地良い春先の風が家々の合間を駆け抜けていった。それはどの家にも平等に吹き、街の住民達の心を洗い、冬を厳しさを忘れさせるものである。そして、この小さな田舎町−ナナカマド研究所が所在するマサゴタウンと同規模−のフタバタウンの一角、赤い屋根の二階建ての民家、そこの二階に雫はいた。

「だから、ここで『that』から先を訳して文頭に持ってくるんですよ」

「あ〜、うん・・・・」

フタバタウンにあるぺトラの家の彼女の自室、床に放置されていた青いバランスボールに座った雫は、以前ナナカマド博士に課せられたレポートの英訳に苦しむ希一と、彼の傍で呆れ顔で翻訳を助けているぺトラを見ていた。時折ボールの上で身体を伸ばす雫は、そんな二人を見ながら呆れた様に溜息を漏らした。

シンジ湖の騒動から、一週間が経過した。

平和な田舎町でテロリストが銃火器を使用し、市民ではないが死者が出るほどの騒ぎであった。だが、メディアはそれに一切触れず、ただ新聞の地方欄に小さく『シンジ湖でポケモンが暴れた模様、死傷者はゼロ』と掲載されただけである。地元警察もこれについて捜査も行わず、一週間前の出来事は『誰かの』権力によって見事に握り潰された。

そして、テロリストに狙われた雫達は、当初は国連に軟禁されると考えていた。しかしUNIAの局員は一人を除いて全員帰国し、雫達の周りには一時的な平和が訪れた。だが、雫には若干それが不満気に感じられた。

(暇なんだよねぇ・・・)

そう、今の雫は学校にも行かず、働いていもいない。所謂無職の状態である(希一はポケモントレーナー、ぺトラとケイはナナカマド博士の助手権お手伝いとして働いている)。雫の年齢を考慮に入れても、まだ彼女は自由でいる時期である。しかし今まで学校に通い、授業(と虐め)を受けていた雫にとって、何もしないこの一週間は暇で仕方が無い。今は休みのぺトラ達だが、いずれは彼らも自身の課題をこなさなければならなくなる。そうなると雫には余計に暇に感じる。だからと言って、トレーナーズスクール通う年齢でも無く、働くにしても雫の身分を証明する書類は何一つ用意されていない。無意味に過ごす時間と、悪戯に消費される時間を考えた雫は無意識の内に頬を膨らませていた。

「・・・・・・」

ふと、雫は横から突き刺さる視線に気が付いた。雫は反射的にそちらを向くと、ケイが無言で彼女を見ていた。その目は雫を案じる色が含まれており、それを何となく理解した雫は微笑を浮かべるとバランスボールから降りた。

「どうかしたの?」

「・・・・・・」

穏やかな声で尋ねる雫を、ケイは微かに濁った眼で見つめ、すぐに自身の手元−近いうちにナナカマド博士に渡す予定のレポート−に目を落とした。相変わらず彼の真意を掴めずにいる雫は、若干の寂しさを感じると共にやり場の無い不愉快さを自信の中で持て余していた。

出会った当初から変わらない無口なケイを雫は一瞬だけ盗み見ると、机に置かれている四つの空のグラスをお盆に載せた。

「ジュースのお代わり、貰ってくるね」

雫は家主の娘であるぺトラに一声かけると廊下に繋がるドアに手をかけた。だがぺトラはそれを聞いていないようで、希一に手厳しい言葉をかけながら彼のレポート作成を手伝っている。その当事者である希一もまた、雫の言葉を聞いておらず、嫌々レポート作成に着手している。

「・・・・・・」

だがケイは違った。雫の言葉を聴いた彼は微かに頷いてみせると、何かを雫に投げ付けた。それは空中で弧を描きながら飛んでいき、雫の持つお盆の上に落ちた。彼の意図を雫は理解できなかったが、彼の濁った目を見て何を言いたいのか理解できた。

(悩むくらいなら甘い物、ね・・・・)

無駄に悩んでいても仕方が無い、今は成り行きに任せろ。無言ではあるが彼の言いたい事を理解できた雫は「ありがとう」と短く言うと、部屋を後にした。

ぺトラの私室のドアを閉め、廊下を一歩進んだ時、雫が気がついた。

今までケイが無言である為に、彼の言いたい事を雫は理解できずにいた。しかし彼の幼馴染であるぺトラは理解し、的確な返事を返している。出会ってたったの数日しか経っていないが、雫も何となくではあるが、ケイの言いたい事を理解できるようになっている。

「・・・・・・・」

言葉を介さずに意思を共有できる、それほどケイは雫の事をぺトラと同じ様に見ているということだ(それは希一にも当てはまる事だが、彼はまだケイの意図を理解できずにいる)。それに気づいた雫は、胸中に嬉しさがこみ上げるのを自覚した。それは先ほどの不愉快さを打ち消し、彼女にささやかな幸福感をもたらしている。

雫は、口内でケイから受け取った甘い飴玉を転がした。



コトブキシティと程近い港町、ミオシティ。

シンオウ地方最大の貿易港を有するミオシティは、沖合いから吹いてくる潮の香りが町中に広がっており、訪れた者に自ずと大海のロマンを連想させる。特に町の中心部にある跳ね橋は一大名物となっており、この跳ね橋を渡りきったカップルにはダークライの悪夢に打ち勝つクレセリアの加護が与えられると噂されている。

今、その幸福の橋を一人の青年が不幸そうな顔で歩いていた。

銀色の髪にウールで編まれた高級スーツを身に纏う青年、現地法人イルクーツク・ジャパンの専務であるセルゲイは跳ね橋から見える巨大な貨物船を視界に捉えると、悪魔でも見たかのような絶望の表情を浮かべた。その貨物船には幾つものパラボラアンテナが搭載されており、甲板にはヘリポートやサーチライトも搭載されており、些か可笑しな雰囲気を纏っている。また甲板上には何人もの人影が見えており、彼らは周囲の人間の動きを警戒している事は何となく伺い取れる。勘の良い者なら違和感を抱くようなその貨物船、クリスタル号はエンジントラブルを理由に一月前からミオの港に停泊している世界最大クラスの貨物船だ。

そしてセルゲイはそのクリスタル号、いやイルクーツク・カンパニー子飼いのテロリストの本拠地へと歩いていたのだ。

元々は東欧で活躍していたクリスタル号であったが、所有する海運会社がイルクーツク・カンパニーに吸収合併されたため、同船は取締役会の意向でテロリスト達の手に渡った。それからテロリスト達は船体に改造を施し、今では通信用パラポラアンテナや衛星電話、ヘリポートに簡単な手術もできる施術室も設けてある。また、船内の至る所に銃火器が隠されており、船底に広がる貨物区画には脱出用の潜水艦のドッグも隠されている。

まるで軍隊の基地並みの装備を持つクリスタル号は、テロ組織ULTIMATE、そしてイルクーツク・カンパニーの力を表しているようである。

だが同船を見るセルゲイの顔色は決して良くない。

何故なら、これからシンジ湖に投入された実働部隊ヴェルトロの壊滅をテロ組織のリーダーであるオルロフに報告しなくてはならないからだ。既に齢五十を超えている白人男性のオルロフは、元はイルクーツク・カンパニーの幹部社員であった。北欧の大学で教鞭を取り、また同国の特殊部隊出身の彼は同社のセキュリティー部門のチーフであったが、取締役会がテロ組織の設立を決めたとき、彼はその経歴を買われて同組織のリーダーに納まった。過去に数多くの暗殺や爆弾テロ、BC兵器の臨床実験を行ってきたオルロフは、ほぼ独立部門として暗躍する程にULTIMATEを育て上げた。だが、その機密性と活動内容から数多くの幹部社員から邪険されており、また組織も持て余されている為に、今のオルロフに口を出せるのはイルクーツク・カンパニーの中でも取締役会の面々だけである。その彼らも自己保身しか考えておらず、今回の朝霧雫の誘拐もオルロフが立案した計画である。

詰まるところ、セルゲイは狼の巣に飛び込もうとしているのだ。

「はぁ・・・・・・」

今のセルゲイにとって、オルロフ達ULTIMATEは死神同然の存在である。シンジ湖の件でもバックアップを命ぜられている立場上、ヴェルトロの壊滅の責任の一部は彼にもある。自身が生きて帰れるか不明な為、セルゲイは一応遺書と部下への今後の指示も用意してある。

だが、それでも心の内はとても重く感じられる。

心なしか、クリスタル号が近づくにつれ、セルゲイは自身の脚の運びが重たくなる事に気づいた。だからと言って、この場から逃げ出せば粛清が下される事も避けられない。もしかすると、翌朝には仕事場に彼の生首が送られるかもしれない。

(最悪な場合は海に飛び込んで・・・逃げるか)

オルロフとその周囲の人間は何れも犯罪者か傭兵、軍を追われた兵隊崩ればかりである。そのような巣に、ほぼ堅気の人生を送ってきたセルゲイは飛び込もうとしている。正直な話、今すぐにでも逃げ出したい、そのような衝動にセルゲイは駆られるが、脚は勝手にクリスタル号の船体に付けられているタラップに近づく。

高層ビルのように巨大な船体が、彼の正面に広がった。



肌寒い風が吹き抜ける廊下を、お盆を持った雫は身震いをしながら歩いていた。幸いにも、冷たいフローリングの温度は履いているスリッパのお陰で感じずに済んでいるが、それでも肌を突き刺す寒さはそれなりに堪えるようで、雫は羽織った青いカーデガンの上から二の腕を擦っていた。春先とはいえ、北国のシンオウ地方の気候は訪れたばかりの雫の身体に容赦なく染み込み、心なしか精神的にも暗くなるように感じられる。

口角を下げた雫は僅かな溜息を溢すと、空のグラスを載せたお盆を持ったまま、キッチンに繋がる扉を開けた。ふと、キッチンの奥から漂ってきた甘い匂いが雫の鼻先を撫でた。

「あら、どうかしたの?」

キッチンにいた女性、いやぺトラの母親は扉の蝶番のあげる金切り声に反応して雫の方を振り向いた。ぺトラとよく似た顔だが、微かに見える皺と家事で荒れた指先の肌が、彼女が一児の母であることを知らしめていた。

「いえ・・・ジュースが無くなったので・・・その・・・・」

朗らかな笑みを浮かべるぺトラの母親とは反対に、雫は微かに歪な笑みを浮かべながらお盆を彼女の方に差し出した。それを見たぺトラの母親は、極自然な笑みを雫に見せると、彼女が言いたい事を察し、空になったグラスにジュースを注いでいった。

キッチンの壁に掛けられている振り子時計の針が刻まれる音が響いている。

カチッ、カチッという一秒毎に響くそれは雫の鼓膜をいやに刺激し、微かな焦燥を彼女に覚えさせた。今まで一人で生きてきた雫は、当然ながら友人と呼べる存在に恵まれた事は一度も無かった。故にぺトラの母親と合間見えた今、雫は彼女と何を話せば良いのかわからずにいた。これが今後会うことの無い人間なら適当な情報を羅列すれば済むが、相手は友人の母親だ。変な事を口にしてぺトラに迷惑を掛けるわけにもいかず、だからと言って話す事も無い。居心地の悪い沈黙がキッチンの空気を支配し、雫は目を彼女から逸らした。

(・・・・・あ・・)

不意に雫の目にキッチンの一箇所、幾年も使われ、薄汚れてきているガスコンロが目に留まった。複数の凹みが付いた圧力鍋からは湯気が上がっており、中で仕込まれているジャガイモの甘い香りがガスによって中途半端に熱せられたキッチンの空気に溶け込んでいた。

それを見た雫の脳内に、自然とジャガイモの調理方法が浮かんできた。

それを皮切りに次々と料理の工程、そして『以前』の世界で何時もの様にこなしていた一連の家事の記憶が脳内を過ぎった。ふと、雫は自身の両手に目を落とした。雫の目に十代の少女にしては痛んでいる指先が、家事によって荒れた皮膚が映った。普通の少女ならお洒落をして、恋に落ちる年代である筈だが、一人で生きてきた雫にはそのような余裕は露程も無かった。奨学金と貯金を切り崩し、毎日を懸命に生きてきた雫は、ぺトラの母親の姿を見た瞬間、口に表せられない感情に襲われた。

(悲しい・・・・違う・・・)

それは羨望の気持ちであった。

両親に囲まれ、平穏に生きてきたぺトラに対して、雫は無意識に羨望の気持ちを抱いていたのだ。自身と対極に位置する彼女に。

(あぁ・・・・)

それを自覚した瞬間、雫は胸中に黒い絵の具が広がっていく事を自覚した。初めて出会えた友人に対して羨望を、嫉妬の感情を抱いてしまった自身に対する嫌悪感が彼女の心の中を占めていった。言葉にできない不快感を覚えた雫は、その発端である圧力鍋を、いや生活を感じさせる存在から目を逸らした。

だが、不自然なタイミングで目を逸らした為に、それは逆にぺトラの母親の目に留まる事になった。

歪に横を向いた雫を、ぺトラの母親は不思議そうな顔で見ていた。だが、彼女の視線が向いていた空間、即ち圧力鍋の方を見ると僅かな苦笑いを浮かべた。

「良かったら、今晩は泊まっていかない?」

「え・・・・」

唐突な提案に雫は呆けたような声をあげてしまった。それに気づいた雫は慌てたように口元を片手で覆うと、のぼせた様に真っ赤になっている顔を隠すように俯いた。だがぺトラの母親はそんな雫の両肩に優しく手を載せると、俯いている彼女に、まるで小さな子供に言い聞かせる様な穏やかな声で言った。

「ぺトラに聞いたんだけど、お父さんもお母さんも仕事で海外にいるんでしょう?つまり、あなたは一人暮らしなのよね?」

「_____はい」

雫は喉の奥から搾り出す様な声を出した。それを耳にしたぺトラの母親は、慈しむかの様な、慈愛に満ちた眼差しを雫に向けた。

「それなら殆ど自炊か外食でしょ?たまには人の作ったご飯でも食べなさいよ」

あんまり味には期待しないでね、と愉快そうに笑うぺトラの母親は、家事で荒れた手で雫の頭を撫でた。一家を陰から支えるその手の広さに、雫は俯いたまま顔をあげれずにいた。

「_____その、ありがとうございます」

恥ずかしがる様に礼を述べる雫を、ぺトラの母親は満足気な笑みと共に見ていた。

「よし!それじゃあ、このお盆をぺトラ達に・・・・・・」

ぺトラの母親の声が徐々に擦れている事に気が付いた雫は不思議そうに顔をあげた。彼女の目は雫、いや雫の肩の向こうを見ていた。雫はそれに倣う様にゆっくりと自身の背後を振り向いた。

「お嬢、少し良いか?」

そこには雫の護衛として唯一マサゴタウンに残っていたUNIAの局員であるゾロアークが立っていた。彼はぺトラの母親に浅く礼をすると、「ぺトラ達が待っているぞ」と小声で雫に言った。雫はそれに慌てたように頷くと、ぺトラの母親からお盆を受け取り、急いでぺトラの私室へと駆けて行った。その背中をゾロアークも小走りで追い、そんな二人にぺトラの母親は「溢しちゃダメよ!」と我が子を叱るように声を高らかにした。

「それにしても・・・ずいぶん可愛らしい娘ね」

キッチンで一人佇むぺトラの母親は、小声でそう漏らすと噛み締めるような笑い声をあげた。もっとも、それは中途半端に熱せられた空気の中に溶けていったが。




「・・・・・以上がシンジ湖の一件の顛末です」

ミオシティに停泊している世界最大クラスの貨物船、クリスタル号の船底に設けられた貨物区画。そこの一角にある整備デッキに佇む大柄の白人男性を前にして、セルゲイは搾り出すような口調でシンジ湖の一件を報告していた。セルゲイの前に立つ人物−齢五十を超えた白人の大柄の男性−いや、テロ組織ULTIMATEの指導者でイルクーツク・カンパニーセキュリティー部門のチーフであるオルロフは全体的に丸みを帯びた身体を安物のスーツで包んでいる。一見すると極普通の中間管理職のサラリーマンに見えるが、彼の胸元と腰は微かに膨らみを帯びており、拳銃を携帯している事が暗に理解できる。そしてオルロフは、その鷹のように鋭い眼光を覆う眼鏡を中指で持ち上げると、セルゲイを見た。

「ヴェルトロが壊滅した報告は一週間前に受けていたぞ。何故報告が遅れた?」

「シンジ湖でUAVが撃墜され、精確な情報収集が不可能だったため、事態の把握と処理に手間取りました。そのため・・・・ヴェルトロを襲撃した部隊並びに指揮官、ターゲットの情報、一切合切不明なままです」

セルゲイの言葉を聞き届けたオルロフは、深く溜息をつくと背後に広がる光景を見下ろした。世界最大の貨物船の船底に鎮座する黒い影、全長が200m、全幅が30m近い『それ』を見下ろしながらオルロフは口を開いた。

「既に『ポセイドン』のメンテナンスも九割は終わっているぞ、肝心の『例の小娘』の身柄が確保できていないままでは、コイツの意味も無くなってしまう・・・」

「____承知しております。今後はイルクーツク・ジャパンの総力をあげて、アサギリシズクの身柄確保に貢献していきます」

「・・・・わかっているな?もう後は無いんだぞ」

セルゲイはその言葉に慎重そうな表情で頷くと、オルロフの隣に立った。そして、彼と同じ様に眼下に広がる『ポセイドン』の姿を目に映した。

「アサギリシズク、そしてアサギリサツキ博士の二人を誘拐して初めて『ポセイドン』が意味を成します。その為に大枚を叩いてソ連から手に入れたんですから・・・・」

「冷戦の遺産がまさかこのような形で我々の役に立つとは・・・物事の流れはわからないものだな」

オルロフは遠くを見るように目を細めると、『ポセイドン』の周囲で整備しているテロリスト達を眺めていた。所詮犯罪者や軍を追われた者の集まりとは言え、軍隊に所属していた以上、粗方の整備の知識や専門的な知識を持った者もいる。単にテロリストとは言え、その知識量は相当なものである。そしてそのような面々を束ねるオルロフもまた、非常に優秀な人間である。特殊部隊を経験し、大学で自然人類学の教鞭を取っていたオルロフは、所謂インテリゲンチアと呼べる者である。故にテロリスト達を先導できるだけの知識と技術を持ち合わせており、同社のセキュリティー部門のチーフを勤められるだけの技量も持ち合わせている。そんな彼は眼下の『ポセイドン』を見下ろしながら、部下達の働きを満足そうな顔で見ていた。

「____そう言えば、アサギリシズクの身柄を確保して、利用価値が無くなったら処分するんですか?」

セルゲイの問いにオルロフを口角を歪めた。それはとても醜悪な笑みで、まるで悪魔のような笑みである。

「当然だ。そもそもアサギリシズク、この娘は殺さなくてはならないからな。我々ニンゲンの為に・・・・」

唐突なオルロフの言葉にセルゲイは「はぁ・・・」とよく理解できていない様な相槌をみせた。それをオルロフは鼻で笑うと、再び『ポセイドン』に目を向けた。

「セルゲイ、お前は大学で何を専攻していた?」

「・・・・・私は経済学と語学を専攻していましたが、それが何か?」

「それなら仕方あるまい・・・・私はこれでも人類学、自然学を専攻していた。他にも遺伝学や環境学・・・・色々と手を伸ばしていた」

オルロフは虚空を見上げながら目を細めると、自身の過去を顧みるかのように呟いた。それは彼の意図を如実に表していたが、セルゲイはそれを理解できないようで、小首を傾げるとオルロフの顔を見た。

「それが、アサギリシズクの殺処分と何か関係ありますか?」

殺処分、この言葉を使う事から、セルゲイもまた雫を人間ではない、『物』として見ている事が伺い取れる。それはオルロフも共通しており、彼もまた近くの壁に貼られた雫の顔写真を無機質な目で見た。

「・・・・商売人にはわかるまい・・・・あの小娘がどれほど人類に悪影響を与えるかは・・・・」

そう呟いたオルロフは、手にした肉厚なナイフを写真めがけて投げた。ダーツの要領で放たれた銀色に光るそれは、手の平サイズの写真の顔の部分に音をあげて突き刺さった。広大な空間に反響音が鳴り響き、それを耳にした整備員達は一瞬だけ作業の手を止めた。だが、すぐに意識を各々の仕事に戻すと、黙って作業を続けた。

「本国の方に増援を要請しておいた。全員が軍隊ど同等の訓練を受けた指折りの工作員だ。今後、セルゲイはイルクーツク・ジャパンの総力をもって、彼らの作戦のバックアップにあたれ」

「・・・・・了解しました」

セルゲイは短く返すと、オルロフに右手で敬礼して足早に去って行った。その背中をオルロフは無機質な目で見送ると、天井のライトの当たらない一角、暗闇に満ちた壁際に目を向けた。

「クレマン、ベアトリーチェ」

オルロフがそう名前を呼ぶと、暗がりから二人の人間が姿を現した。どちらも消音器の付いた拳銃を持っており、その銃口はセルゲイの背中に向けられていた。二人の内の一方−冷たい目付きの短髪の男性−クレマンは消えていくセルゲイの背中に銃口を向けたままオルロフの傍まで歩み寄った。一方のもう一人の女性−赤みがかった茶髪にパーマをかけて、首にチョークを巻いている−ベアトリーチェは壁に突き刺さったナイフを抜くと、それを腰の鞘に収めた。

「エイブルとユーリ、ニコライ達が捕まり、ヴェルトロが壊滅した。今後はヴェルトロを再編成し、クレマンに指揮を任せる。ベアトリーチェはその小娘とヴェルトロを壊滅させた国連軍に関する情報を集めろ」

オルロフの指示にクレマンは「お任せください」と返し、ベアトリーチェは何も言わずに頷いてみせた。

「そうなると、アサギリシズクとアサギリサツキ博士の誘拐はベアトリーチェが情報を集めてからの方が良いですね」

「そうだ、理想的なタイミングは二人が一緒にいる瞬間が好ましいな」

クレマンはオルロフの言葉から、彼が何が言いたいのか察すると作戦司令室兼ブリッジのある上層へと足を運んでいった。その背中をベアトリーチェも追随し、オルロフの前から去ろうとした。

「ベアトリーチェ」

彼女の背中を、オルロフが呼び止めた。それを耳にしたベアトリーチェは、ゆっくりと彼の方を振り向いた。その際、首に巻かれたチョークがずれて、彼女の細い喉が露になった。

そこには、大きな手術痕があった。

ベアトリーチェはそれを隠すようにチョークを直すと、改めてオルロフを見た。

「まだ未確認情報だが、どうやらイルクーツク・カンパニーの幹部クラスにスパイがいるらしい。今まで何度か疑わしい事があったが、ヴェルトロが待ち伏せされていた事で確信できた・・・」

「・・・・・・・」

無言、いや喋れないベアトリーチェはオルロフの顔を見たまま頷くと、彼の話の続きを待った。オルロフは数秒間、間を置くとやがてもったいぶる様に口を開いた。

「セルゲイをマークしろ」

それは暗に「セルゲイがスパイ」という意味であった。それを理解したベアトリーチェは再び頷いてみせると、音も無く歩いていった。そして自身以外誰も居なくなった整備デッキで、オルロフは葉巻を懐から取り出すとそれに金属製のオイルライターで火を付けた。

オイルライターの灯りが、オルロフの背後に広がる『ポセイドン』の巨体を映した。

だが、すぐにそれは暗闇の中に消えていった。



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