開け放たれた窓から心地良い春風が室内に吹き込み、事務机に向かっている頬が骨ばってる中年の男性は擽ったそうな表情で窓の外に広がる光景に目を向けた。野球場より広い敷地はアスファルトで舗装されており、敷地の外周に沿ってランニングしている一団の掛け声が室内まで響いてくる。彼らが通り過ぎたコースの近くでは、今年入隊した新人達が懸命に腹筋や腕立てなどの筋トレをしている。その腹や背中には教官が脚を乗せており、敢えて新人達に負荷をかけている事が見て取れる。普段から見慣れた光景に、中年男性は微かな微笑みを浮かべると、足元でまどろんでいる白い体毛と黒い鎌が魅力的なポケモン、アブソルの白い頭を優しく撫でた。薄霧の中を漂っているアブソルは、伸ばされた男性の手に気が付くと目を僅かに開けた。眠たそうなそれは、男性を見上げて「もっと寝かせろ」と催促している。男性はそれに楽しそうな笑みで応えると、再びアブソルの頭を一撫でして机に向き直した。

開け放たれた扉がノックされる音が響いた。

普段、部下やこの施設の人間が男性の部屋を訪れる際には声をあげて入室の許可を求める筈だ。だがノックをしてくるという事は、相手は男性の部下やこの施設の人間では無い事を意味する。男性は不思議そうにペン先で書類を叩くと、ゆっくりと扉の方を見た。

「お久しぶりです、仲原一佐」

そこには黒髪をオールバックで整えたスーツ姿の悪人面の大男、カンザキが立っていた。彼は扉の面に拳を当てたまま室内にいる男性、いや北部方面隊第四師団コトブキ駐屯地の司令官である仲原一佐の顔を見て右手で敬礼した。仲原一佐も突然訪れてきた嘗ての教え子の顔を見て、暫しの間動きを止めた。だが、すぐにそれは収まり、仲原一佐はカンザキに座るよう右手で促した。カンザキはそれに失礼します、と返すと椅子の傍まで脚を運んだ。その背中をカンザキより更に小さな影−黒い長髪に赤いメッシュの入った女性物のビジネススーツで身を包んだ細身の女性−椿が追う様に歩いていた。仲原一佐は初めて見る椿に興味深そうな目を向けるが、すぐにそれを逸らし、内線でコーヒーを持ってくるように電話した。

「久しぶりだな、秋本三佐・・・今はカンザキ補佐官の方が良いか?」

「お好きな様に呼んでください」

突然の珍客に仲原一佐の足元で寝ているアブソルは微かに目を開けた。そして彼の近くに座っているカンザキと椿に警戒の目を向けると、何時でも主人を守れる様に四肢に力を込めた。だが、仲原一佐はアブソルのそれを手で制すると、懐かしむような声でカンザキに問いかけた。

「それで・・・・そちらの女性は?君の奥さん・・・ではないな」

「彼女は椿、UNIAの諜報部の局員です。こう見えて彼女はとても優秀なエージェントで、諜報部の中でも群を抜いています」

カンザキの簡単な紹介に合わせて、彼の隣に座っている椿は「よろしく」と言いながら仲原一佐に手を差し伸ばした。一佐もそれを握り返すと、微かに漂う香水の匂いを嗅いだ。

「うん、これは・・・・ラベンダーの香りか?」

「____はい、ラベンダーは私が一番好きな花なので・・・」

語尾を濁しながら椿はそう返した。その時、扉がノックと共に開かれ、カップの載ったお盆を両手で持つ女性事務員が入ってきた。彼女は仲原一佐に一礼すると、上座に座っている彼の前に青色のカップを、その向かいに座っているカンザキと椿の前に来客用の赤いカップを置いた。事務員は3人の前にカップとお手拭を全て置くと、耳障りの良い声で「失礼します」と言い、一礼と共に部屋を後にした。女性を見送ったカンザキは、赤いカップに手を伸ばすとその中に注がれているコーヒーの匂いを噛み締めた。

「懐かしいですね、この安物の豆の匂いは」

「そうだろう、昔から変わらないのはこれ位だよ」

仲原一佐は小言と共に笑うと、蒼いカップを傾けた。それを皮切りにカンザキと椿もカップを傾け、暫しの間、静寂が室内を支配した。

「それで、今日は何の用だ?」

いち早くコーヒーを喉の奥に流し込んだ仲原一佐は、まだ口内でその味と匂いを楽しんでいるカンザキと椿を見ながら尋ねた。

「先日、数名のテロリストの捕虜がこちらに連行された件についてです。今から彼らの取調べを、彼女の同伴の下、行いたいのですが・・・・」

相手の都合を伺うようなカンザキの口調と彼の言葉から、何かを察した仲原一佐は黙ったままカップの中にある残りのコーヒーを飲み干した。数秒間の静寂が室内を支配し、その空気を肌で感じている椿は無意識の内に息を飲んでいた。

「____わかった。ただ、何人かはまだ治療や手術が終わっていないが、それでも良いのか?」

少し間を置いた一佐の問いに、カンザキは満足そうな笑みを浮かべるとゆっくり頷いた。

「はい、話を聞きたいのはエイブルと呼ばれる、女性工作員からです。彼女は太股を撃ち抜かれただけですから、取調べに支障は無い筈です」

「・・・・そうか。それなら、これを係官に見せるんだ。収監場所は特別病棟の隔離区画だ」

仲原一佐はそう言うと、事務机に置かれたバインダーから一枚の書類を取り出した。それに自身の名前を手早くサインすると、それをカンザキに手渡した。カンザキは「ありがとうございます」と一言返すとそれを受け取り、腰をあげた。それに倣い、椿もカップに残っていたコーヒーを飲み干すと、カンザキより先に部屋を後にした。その際、仲原一佐に向かい、軽く一礼した。

「秋本」

椿の細い影を追っていたカンザキは、仲原一佐の声を耳にして、脚の動きを止めた。

「レンジャー教官として・・・・戻らないか?」

仲原一佐の言葉が室内に木霊した。それはほんの少しの間しかそこに存在しない。

「お前ほどの実力なら、十分に教官として活躍できるぞ・・・何より、これからの時代を担う若手を育てて欲しいんだ」

それは暗に自身が年に勝てない事を意味していた。それを重々承知しているカンザキは、黙ったまま一佐の方を振り向いた。

「お気持ちは嬉しいですが、私は『三佐』より『補佐官』の方が合っています。何より・・・・・いえ、何でも無いです」

何かを言いかけたカンザキは、それを喉の奥に流し込むと、椿と同じ様に一佐に向かって一礼した。それを仲原一佐は黙って見送ると、カップを傾けた。だが、中身は既に無く、言いようの無い感情のみが喉の奥に流れていった。




「ねぇ」

タイル張りの床を革靴で鳴らしていたカンザキは、背後から掛けられた椿の声で脚を止めた。

「さっきの、仲原一佐?・・・・知り合いなの?」

「昔の恩師だよ。レンジャーの教官で、交換武官の経験もある軍隊格闘の達人だ」

駐屯地に設けてある病棟の一角、特別病棟隔離区画の出入り口にいる係員にカンザキは先ほどの書類を渡した。この区画は、事件や犯罪の重要参考人や国際指名手配犯、危険人物を抑留、監禁しておく警備が厳重なエリアである。その為、出入り口には二十四時間自衛隊員や専門の隊員が駐在しており、区画を出入りするには何重ものセキュリティーを受ける必要がある。また、区画にある窓には特殊合金で出来た鉄格子があり、窓ガラスも至近距離からの散弾にも耐えられる特殊な強化ガラスが使われている。そのガラス越しに書類を手渡したカンザキの後ろで、椿はセキュリティー区画にある監視カメラを見ながら溜息を漏らした。

(まるで精神病院ね・・・・この閉鎖的な空気は・・・)

椿が内心抱いている感想、それは強ち間違いではない。現にこの病棟にいる医者や看護師は、回診や手術、注射を一本打つ際にも武装した警備員の同行が義務付けられている。外部の人間に至っては、病棟内のトイレを使用する時も、警備員の同行が必須である。並みの精神病院以上に厳重なセキュリティーは、堅気の人間には受け入れがたいものである。しかし椿やカンザキは堅気という言葉とは無縁の人種である。現にこの異様な病棟の中を見ても、椿は嫌悪感を抱くだけでカンザキは涼しい表情のまま開けられたオートロック式の擦りガラスの扉を潜っていた。その際、二人は携帯していた拳銃を係りに預けた。これは受刑者が脱走した際のリスクを減らすためである。

奥まで続く白い壁の廊下は、窓から差し込む昼の陽光を嫌に反射させ、まるで天国に続く階段のように見える。しかし鼻から神を信じていない椿にとっては、それは恐ろしく不快に感じる通路にしか過ぎない。

「たくっ・・・・薄気味悪いわね・・・」

「そう邪険するなよ。俺もあんまり入りたくないんだから・・・」

小声で毒づく椿にカンザキは苦笑を浮かべながら返すと、廊下の両サイドに並ぶ強化ガラスのドアを見回した。何れも室内が廊下から見渡せるように設計されており、個室の中にはベッドに拘束されている受刑者や患者の姿が見える。天井で爛々と輝く蛍光灯の灯りがより薄気味悪い雰囲気を醸し出しており、それを肌で感じる椿は硝子戸の向こう側を見ないよう、僅かに俯いて歩いていた。

「こちらです」

二人を先導していた若い警備員が、『208』と記載されたプレートが飾られている硝子戸の前で脚を止めた。その少し後ろでカンザキと椿も脚を止め、腰から下げた拳銃の安全装置を震える手で外した警備員がゆっくりと硝子戸の鍵を外し、それを開けた。その瞬間、室内に溜まっていた消毒液の臭いが廊下に漏れ、鼻の良い椿は不快そうに手でそれを扇いでいた。「臭っ」と背後から漏れる椿の小言を耳にしながらカンザキは開かれた硝子戸を潜り、広い一室に唯一置かれているベッドに横たわっている『筈の』人物を見て動きを止めた。その広い背中に椿は鼻からぶつかり、鼻頭に手を当てた椿は不思議そうに彼の背中からベッドを覗き込んだ。

「っ・・・・はぁい・・・・・」

太股を撃ち抜かれたエイブルは、昨日手術を受けたばかりだ。しかし彼女は頑丈に固定されているカーテンレールを掴むと、それを鉄棒代わりに懸垂していた。麻酔から目覚めて数時間しか経っていない筈なのに、エイブルは持ち前の筋力と体力に物を言わせながらトレーニングに勤しんでいる。その光景に流石のカンザキと椿も驚きを隠せず、同行している警備員は「医者も匙を投げましたよ・・・」と呆れたように呟いた。

「____お前、一応怪我人だぞ?」

「高が太股に穴が開いただけですぅ。上半身は無傷ですよぉ?」

相変わらず間延びした口調にカンザキは何も返せずに髪を掻き乱すと、ベッドの傍に置かれているパイプ椅子に腰掛けた。その隣で椿も別のパイプ椅子に腰掛け、彼女と距離を取る警備員はエイブルにベッドに戻るように促すと、硝子戸を塞ぐようにして立っていた。

「この程度の傷で騒いでいては、傭兵失格ですよぉ」

懸垂を止めたエイブルは、ベッドの柵にかけてある白いタオルを掴むと、それで額に浮かぶ汗を拭いた。その際、包帯の巻かれている方の脚を僅かに引き摺りながら、彼女はベッドの端に腰掛けた。タフネスとしか言い様の無いエイブルの様子に、カンザキは苦笑いを浮かべた。

「それでぇ、何の用ですかぁ?」

まさか治療費の請求ですかぁ、と軽いジョークを溢すエイブルは、水差しから冷水をコップに注ぐと、それを一気に煽った。彼女の喉が上下に動き、その様子を椿は冷ややかな目つきで見ていた。

「・・・・個人的には治療費を請求したいが、ここは税金で賄われているからな。今日は取り調べに協力してもらうぞ」

「断りますぅ」

カンザキの言葉にエイブルはきっぱりと言い返した。それに彼は落胆した様に顔を下げると、小さく溜息を漏らした。その様子を見ていた警備員と椿は微かに笑うが、カンザキに睨まれた警備員は誤魔化す様に咳をした。

「あのな、この話はお前にとっても悪くない話だぞ・・・・」

「何で私が国連に協力しなくてはならないんですかぁ?」

「それもそうね」

容疑者であるエイブルに取調べを拒否され、更には部下である筈の椿までもが彼女に賛同し、立つ瀬の無いカンザキは頭を抱えて俯いた。その光景を警備員は声を殺して笑っていたが、再びカンザキに睨まれて、誤魔化すように咳をした。

「・・・・椿、お前はこちら側だろ」

「ぶっちゃけ国連とかテロリストとかどうでも良いわ。大事なのはどれだけ沢山報酬が貰えるかよ」

唐突に椿に腹の内を暴露され、カンザキはそれを聞いて大笑いするエイブルを憎憎しげに睨みつけた。だがエイブルは嘲笑を浮かべたまま完全にカンザキの事を見下していた。

「良いですねぇ、報酬第一。私も同じ考えですよぉ」

「勘違いしないで」

心底嬉しそうに肩を揺らして笑うエイブルに、椿は冷淡な口調で返した。それに彼女とカンザキの動きが止まり、僅かな間、室内の空気が固まった。

「報酬以前の問題よ。私は人間の様な外道に落ちる気は微塵も無いわ」

「・・・・・・ほぅ」

椿の言葉にエイブルは若干引き攣った表情で言葉を返すと、二人は黙って睨みあっていた。急に重くなった空気に耐え切れなくなったカンザキと警備員は、少しずつ二人から離れると、黙ったまま事の成り行きを二人に任せた。

「____つまり、あなたは国連もテロリストも人間も嫌いだとぉ?」

「八割方正解ね、私が嫌いな物は外道よ。自分の利益の為に他の命を貪り食う外道が大嫌いなのよ」

「じゃあ、そこにいるあなたの上司はぁ?」

「勿論大嫌いよ、殺したいほど憎いに決まっているわ」

椿の冷た過ぎる言葉に、カンザキは唖然とした顔で隣に立つ警備員を見た。

(え?俺嫌われているの?)

(知りませんよ)

無言で、目によるカンザキの問いかけに警備員は同じ様に無言のまま視線で返した。話の内容が当事者にしかわからない物なので、警備員が的確な答えを返せる訳が無い。それはカンザキも理解していたが、みなまで中傷され、あまつさえそれが普段から傍に居る椿の言葉であるため、彼が受けた衝撃はかなりの物であろう。

「それならぁ、テロリストを殺して報酬を欲しがるあなたもぉ、他の命を貪り食う外道じゃないんですかぁ?」

「違うわ。私は守りたい存在の為に報酬を求めるのよ。金があれば、大切な存在・・・家族を守れるでしょう?」

家族。椿の口から飛び出した言葉を聴いたエイブルは、一瞬だけ苦い表情をみせた。紛争で唯一の家族を民兵に嬲り殺された経験をした彼女にとって、家族という言葉は聞きたくない物である。それを知ってか知らずか、椿はエイブルを睨みながら手にした何かを彼女に見せ付けた。

「少なくとも、あなたも家族は守りたいと思うでしょうね」

椿に手中には、スナッチマシンと呼ばれるポケモンレンジャーが開発した機械で国連兵に捕獲されたエイブルのかけがいの無いパートナー、スイクンのミランダの入ったモンスターボールが握られていた(ボールはカンザキが持っていたが、何時の間にか椿はそれを盗んでいたのだ。現にカンザキは椿を戒めるような目で見ていたが、空気を読んで黙っていた)。それを見たエイブルは、顔を強張らせると油の切れた機械人形のような歪な動きで椿を睨み返した。

「・・・・返せ、ミランダは無関係だ」

「そうかしら?少なくとも、テロリストのポケモンである以上、殺処分が適切だと私は思うわ」

「____!!」

殺処分。その三文字の言葉を耳にしたエイブルは全身の筋肉をバネのように伸縮させると、一気に椿目掛けて襲い掛かった。風穴の開いた太股など露知らず、野生の獣のような雄叫びを上げながら椿の気管を圧し折るべく、エイブルは彼女の白い首筋目掛けて手を突き出した。だが、椿は突き出されたエイブルの腕を掴むと、脚払いをかけながらその勢いを利用して、エイブルの身体をリノリウムで覆われた床に叩きつけた。その衝撃でエイブルは肺の中の空気の塊を吐き出すと、椿を忌々しそうに睨んだ。だが椿は涼しい顔のまま床に倒れたエイブルを見下ろすと、術後の患部を革靴で踏み付けた。

「あ、ガァ・・・・・・」

まるで地面に落ちているゴミを踏み潰す様に椿は脚に力を入れ、その痛みにエイブルは声にならない悲鳴をあげた。額に脂汗を浮かべ、抵抗しようにも痛みで力が入らないため、エイブルの手は空を掴むだけであった。

「痛い?」

苦しげな声をあげるエイブルとは対象に、椿は地べたを這いずる羽虫を見るかのような、サディスティックな目でエイブルを見下ろした。いくらテロリストとはいえ、怪我人に対するあまりの仕打ちに警備員は止めようと椿の肩に手を伸ばした。だが、それはカンザキに制され、警備員の手もまた、空を掴むだけであった。

「痛い筈よね。手術したばかりだから・・・・」

「貴様ぁ・・・・!」

縫合された傷口が開いたのか、椿の革靴の底辺りから赤い血が滲んできた。だが、それを見ても椿は一向に脚の力を緩めず、更に力を込めた。

「その痛みを存分に噛み締めなさい。今のあなたは無力なんだから・・・・」

冷徹な笑みを浮かべた椿は、片手に持っているモンスターボールを弄りながらエイブルを見下ろした。踏みつける力も益々強くなっているようで、エイブルの太股からはミシミシと骨があげる悲鳴が聞こえてくる。

「その粗末なお頭でも理解できるかしら?このスイクンの命を握っているのはあなたではなく私達、勘違いしない事よ」

微かに薄ら笑いを浮かべた椿は、反対の手を腰に回すと入り口のセキュリティーで預けた筈の拳銃を取り出した。それにエイブルと警備員は驚愕の表情を浮かべ、カンザキは平然とした態度のまま彼らを眺めていた。

「わかる?あなたに私達の提案を断る権利は無いのよ」

手にした拳銃の安全装置を外しながら椿は呟くと、銃口をミランダの入っているモンスターボールに押し付けた。外からボールの中の様子は確認できないが、ミランダも間近で向けられた銃口に怯えているようで、ボールは椿の手中で微かに揺れていた。

その時、椿の視界は端で警備員が動くのを捉えていた。

唐突に取り出された拳銃の安全装置を外した椿に、警備員は「動くな!」と大声をあげながらホルダーから取り出した拳銃を椿に向けた。だが、警備員の手は横から伸ばされたカンザキの手で押さえつけられた。同時にカンザキは警備員の自動式の拳銃のスライド部分を一瞬で外して使用不能にすると、彼の身体を壁に押し付け、取り出したボールペンの先端を眼球スレスレに突き付けた。
その後、スライド部分が音を立てて床に落ちた。

「動くな」

身動きも取れず、眼球スレスレにボールペンを突き付けられた警備員は肝を冷やしていた。逆に余裕な態度のカンザキは、椿に恐喝を続けるように顎で指し示した。それに首肯した椿は、カンザキの早業に恐れの混じった目で見るエイブルを再び見下ろした。

「もう一度言うわよ。あなたは『無力』なのよ・・・・」

椿の発言とカンザキの動き、それらが暗に意味する事を理解したエイブルは背筋を駆け上る悪寒に身を震わせた。

逆らったら、警備員諸共息の根を止める。

先ほどの動きから、エイブルはカンザキと椿がそれなりの訓練を受けている事がわかった。その腕は警備員より遥かに優れており、彼らを止めることは無理だということも。

「____用件は何だ?」

悪戯に逆らっても無駄だという事を悟ったエイブルは、観念したような口調で椿にそう問うた。それに椿は満足そうな笑みを浮かべると、エイブルの太股から脚を退け、彼女に手を差し伸ばした。エイブルは不服そうな顔で椿の手を掴み、上半身を起こすと、彼女の助けを借りながらベッドの端に座った。それを見届けたカンザキも警備員の顔からボールペンを遠ざけ、拘束を解いた。若い警備員は青い顔のまま腰が抜けたのか、その場で尻餅をついた。

「エイブルはJ共和国のシュタイナー将軍を知っているか?」

ジェノサイドでICCに指名手配されている、と続けたカンザキは懐から取り出した将軍の顔写真をエイブルの前に突き出した。だがエイブルはそれを嫌そうな顔で見ると、カンザキから写真を引っ手繰り、ゴミ箱に破り捨てた。

「忌々しいあのド変態の事ですかぁ?もちろん覚えていますよぉ」

いつもの間延びした口調に戻ったエイブルは、ゴミ箱の底に散らばっている将軍の写真を不愉快そうに見ていた。そんなエイブルをカンザキと椿を意外そうに目を丸めた。

「そんなに嫌いなの?」

「コイツは『趣味』の範囲で人間の、女を陵辱する事に快感を覚えるド変態ですぅぅ。こんな奴、生かす価値なんかありませんよぉぉ」

「だが我々の求める情報を握っているのも事実だ」

エイブルの言葉に苦い表情を浮かべた椿とは違い、カンザキは感情を一切見せないままカンザキは呟いた。それにエイブルは興味深そうな目を向けるが、彼は手帳と先ほどのボールペンを持つと口を開いた。

「今回の、シンジ湖の一件・・・・何であれだけの装備の国連兵がいたのかわかるか?」

「あの小娘の護衛、にしては物騒すぎますよねぇ」

エイブルの言葉に頷いたカンザキは、何も言わずに腰の抜けた警備員を見た。そして「席を外してくれ」と言うと、改めてエイブルを見た。規則上、警備員もそれに従う訳にもいかないが、先ほどのカンザキと椿の手腕を見た以上、二人に逆らう気力も無く、力無く頷くと生まれたての小鹿のような覚束無い足で病室から出て行った。

「正直に腹の内を晒すか・・・・あの兵士達は朝霧雫の護衛も兼ねていたが、本当の任務はお前を生け捕りにする事だったんだよ」

「___あたしを?」

エイブルはカンザキの言葉に不思議そうに反復すると、彼が話しを続けるのを待った。

「J共和国のシュタイナー将軍、彼を生け捕りにするには将軍と寝た事があり、且つ周囲の警備状況を把握している人間が必要だったんだよ。国連軍の作戦とはいえ、UAVが墜落したんだ。普通ならこの国のマスメディアは黙っていないだろ?」

「・・・・つまり、政府高官が関与している、とぉ?」

「そう、国連総会と日本政府が裏取引をしたんだ。我々の作戦を黙認する代わり、次回の総会で便宜を図ると」

自身の参加した作戦の裏で、高度な政治的駆け引きが行われていた事を知ったエイブルは関心した様な溜息を漏らすと、カンザキに話を続けるように顎で示した。

「最近になって雫さんが帰郷したのもお前達を誘き寄せるタイミングに合わせた。そしてイルクーツク上層部は見事に罠に引っ掛かったという訳だ」

「_____で、国連の求める情報とは何ですかぁ?」

エイブルの問いかけに、カンザキは「答える義務は無い」と短く返した。しかし、彼女は自身の太股を指差しながら風穴を開けた本人を見て、今一度カンザキを見た。彼は数秒間黙り込むと、唐突に口を開いた。

「冷戦の終わりに、ソ連崩壊時に市場に流出した核兵器は何発っだと思う?」

「あまり考えたくない数字ですねぇ・・・」

カンザキはエイブルの言葉に首肯すると再び口を閉ざした。代わりに口を開いたのは椿であった。彼女は持っていた拳銃をエイブルに見せるように振ると、一瞬の内にそれを『消して』みせた。

「およそ三百発の戦術核がソビエト政府の管理外、第三国やテロリストの手に渡ったのよ」

だがエイブルは消えた拳銃を気にする程の余裕は無かった。何故なら椿の言葉は、それほどまでに衝撃であったからだ。三百発の核弾頭が行方不明になった。冷戦が直後とはいえ、新たな核戦争の勃発の危機であった事を彼女は今更であるが理解した。

「冷戦が終わってもUNIAが活動を続けた理由はこれよ。表向きはテロリストと戦うため、でも実際の目的は流失した核弾頭を回収する事よ」

「だが、ソ連崩壊から二十年近く経っているからな。流失した核弾頭の殆どはUNIAや合衆国、EUで回収して原発の関連事業や研究施設で実験に使われている。それでもまだ二十五発の核弾頭の行方がわからないんだ」

「・・・・なるほどぉ、将軍はその二十五発の核弾頭の行方を知っている、と」

納得した様にエイブルは言葉を漏らした。それにカンザキは頷くと、手帳を開きながらエイブルの傍に椅子を持ってきて座った。

「将軍を生け捕りにすれば核弾頭の情報も手に入り、ジェノサイドも止められる。良い事尽くしだろ?」

「でもぉ、何で将軍と寝た事のある人間をわざわざ選ぶんですかぁ?米軍や情報局の特殊部隊でも誘拐できるでしょうぅ?」

「既に国連軍は世論に負け、J共和国から一回手を引いている。現状で特殊部隊を投入しても、安全保障理事会を通していないと事務総長が無駄に批判される事になるだろうな。仮に通しても反対されるのがオチだ。だからこそ、少数の直属のエージェントを秘密裏にJ共和国に侵入させる必要があるんだ」

「で、私が将軍と寝る役目なのよ」

そう呟いた椿は、心底不愉快そうに眉間に皺を寄せると、カンザを半目で睨んだ。それに彼は苦笑いを浮かべると、誤魔化すように明るい口調で言った。

「別に実際に寝るわけじゃない、寝る『直前』まで持ち込んで将軍の身柄と情報を入手するんだ・・・・それで、将軍の好みの女性、人種、性癖、そして警備と情報管理について全て教えてくれ」

「・・・・・・・・・」

ようやく合点がいったエイブルは、心の内で反復しているのか何回か頷きながら僅かに俯いた。僅かな間、沈黙が病室内に広がり、時計の針が刻む音だけが響いていた。

「・・・・わかりましたぁ」

数秒後、エイブルは唐突にそう言った。それにカンザキと椿は満足そうに笑うと、互いの拳をぶつけ合った。

「だけど見返りも欲しいですねぇぇ・・?」

嫌らしい声でエイブルは呟いた。それはミランダの無事だけではない、別の何かを求めるような声であった。そして彼女が暗に示している答えを重々理解しているカンザキは、薄ら笑いと共にそれに応えた。

「わかっている、君とスイクンの身の安全は保証する。望むのなら、別の人間の戸籍や住居、仕事も用意する。テロリストではない、新たに堅気として生きていかないか?」

カンザキの提案、それは正にエイブルが長年望んだいた物であった。武器を手放し、血と火薬の臭いを嗅がなくて済む暮らし、普通の人間なら当たり前に感じるだろうが、エイブルにとっては喉から手が出るほど得たい物である。それを彼女が断るだろうか。

「・・・・・OK、全て話しましょうかぁ」

いや、断る訳が無い。エイブルは心の底から幸せそうな笑みを見せると、素直にカンザキの提案を受け入れた。それにカンザキは手を振って応えると、それに反応した椿は手にしたモンスターボールをエイブルに投げ渡した。既に拳銃は彼女の手中に無く、それは代わりに何処からとも無く取り出したボイスレコーダーが握られていた。

「将軍の好みは・・・・」

そして、エイブルはゆっくりと語りだした。



一時間後、特別病棟正面入り口。

取調べを終えたカンザキと椿は揃って強化ガラスで覆われた扉を潜ると、ロータリーに駐車してある黒塗りの4ドアの乗用車に乗り込んだ。運転席に座ったカンザキはブレーキを踏みながら鍵を差し込み、エンジンをかけると助手席の椿がまだシートベルトを締めていないのを承知で急発進させた。その反動でシートに押し付けられた椿はカンザキを横目で睨むと、直ぐにシートベルトを締めた。

「で、これからどうするの?」

「決まっている、将軍の身柄の確保だ」

助手席から聞こえた問いかけにカンザキは正面を見たまま応えた。敷地内で訓練に勤しんでいる自衛官達を横目で見たカンザキはギアの近くに置かれたPDAを横目で見た。そこには国連事務局とUNIAから送られてくる最新の情報が羅列されており、それらを脳内で纏めたカンザキは微かな笑みを浮かべた。

「作戦が成功すれば海奈の評判はあがりICCに借りもできる、何より核弾頭の情報は重要だからな」

「____そのために、私に寝ろと?」

「あくまで『フリ』だ、将軍の寝首をかければ良いんだ」

駐屯地の入り口に設けられたゲートで通行許可証を係りに見せたカンザキは、開かれた門を通り、車体を幹線道路に載せた。追い越し車線を何台もの乗用車やトラックが走りぬけ、それを椿はつまらなそうな表情で見ていた。

「その為にあんたは雫ちゃんを利用したのね・・・」

「結果的に海奈の椅子を安定させるんだ、詰まりはあの一家を守ることに繋がるだろう?」

金も世論も要るんだよ、と呟いたカンザキは車内に置かれていたペットボトルを片手で開けた。車内に仄かな甘い香りが広がり、椿はそれを煙たそうに手の平で煽っていた。

「・・・身柄を確保したら、給料弾みなさいよ」

「わかっている、特別ボーナスも付けるぞ」

「_____あと、旅費とロシア人名義のパスポートも用意しておいてね」

椿の要求を聞いたカンザキは、怪訝そうな顔で彼女の横顔を見た。窓から外の流れる景色を見ている彼女はカンザキの視線に気づかず、手にしたペットボトルのお茶を傾けていた。やがてカンザキの視線に気づいた椿は、「あぁ」と小声で呟くと手にしたペットボトルを見た。

「ちょっと飛ぶ用事ができたから、作戦と平行になるわよ」

「飛ぶ・・・?」

プラスチックの胴体に映る己の顔を見ながら椿は安っぽい笑みを浮かべると、流し目でカンザキを見た。

「こっちも忙しいのよ」

そう呟いた椿は、ボトルのラベルに描かれた紋章−一つの王冠を奪い合う二匹の黒い黒豹−を指差して言った。その意味を理解したカンザキは「了解」と小声で返し、車体を追い越し車線に移した。

助手席に座っている椿は、憂いを帯びた目で雲一つ無い青空を見上げた。




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