「痛っ・・・・・」

「__じっとしていろ」

シンジ湖の騒動で擦り剥いた膝頭にオキシドールが染み込み、その刺激で思わず雫は声をあげてしまった。椅子に座っている彼女の眼前にしゃがみ込んでいるゾロアークは、それを耳にして小声でそう呟くと、右手に持った湿ったガーゼを躊躇無く雫の膝頭に当てた。再び膝頭を中心に走る刺激に、雫は目尻に涙を溜めると恨めしそうにゾロアークを睨んだ。だが、彼は雫のそれを鼻で笑うと大き目の絆創膏を応急キットの入ったプラスチック製の箱から取り出し、優しい手つきで雫の患部に貼った。

「さてと・・・他に怪我は無いのか?」

室内に漂うオキシドールの僅かな匂いを嗅ぎ、鼻を鳴らしたゾロアークは雫を見下ろしてふてぶてしい笑みを浮かべると、彼女の頭を撫でた。雫は彼の手を煩わしそうに軽く叩くと、頬を微かに膨らませながら室内を見渡した。向かいのソファーで先ほどまで寝ていた希一とケイは、フレンドリーショップへの買出しから戻った陽の手で研究所の一室である客室の寝台に運ばれている。彼らが寝ていたソファーには、腕を組み、その美しい脚を惜し気もなく晒しているギラティナが座っている。彼女の横には買出しの際に購入した、先ほど希一とカンザキが騒いでいた件の物−雫が着る予定の水着(しかもビキニ)−が置かれている。ギラティナは不愉快そうな表情で、それを見ており、時折雫の方をちらりと見ていた(その顔は親に菓子を強請る子供のようであった。官能的な体躯に子供のような表情、実に奇妙な光景だ)。雫はギラティナに曖昧な笑みを返すと、肘掛け椅子に座り、ナナカマド博士に手渡された氷嚢を腫れた頬に当てているぺトラを見た。

数分前、雫がナナカマド博士に迎えられ、研究所の中に脚を踏み入れた。その時にぺトラは俯いたまま何かを我慢するように唇を噛み締め、彼女の前には居心地が悪そうに二人のUNIAの隊員が立っていた。ぺトラの異様に腫れた頬、そして二人の隊員の振る舞いから直前に何があったのか理解した雫は、彼らに非難の眼差しを向けると肩を震わせている彼女の傍に歩み寄った。そして、雫がぺトラの肩を優しく撫でた瞬間、彼女の中で張り詰めていた糸が切れ、ぺトラは大声をあげながら泣き出すと、雫の細い肩に顔を埋めた。普段のクールな振る舞いの彼女からは想像できない程感情を露にしているため、雫はぺトラの肩をゆっくりと抱き締めると、何も言わずに肩を貸した。
それから数分が経過しており、ぺトラの心境もだいぶ落ち着いてきた。頬の腫れも氷嚢のお陰で幾らか引いてきている。普段からクールな態度をとっているぺトラは人前で泣いた事が余程恥ずかしかったのであろう、微かに頬を赤く染めたまま俯いていた。

(・・・大丈夫みたいだよね)

そんなぺトラを見た雫は、心の内で安堵の溜息を漏らした。それから一呼吸置き、先の原因である二人の隊員を見た。

『お前ら、流石に女の子に手をあげるのはマズイと思わないのか?』

「は・・・・」

「はい___」

二人の隊員は揃って正座をしており、背筋を伸ばしたままルカリオのルーク、いや彼の持っているタブレット型のPDAを見ていた。その画面には呆れた表情のカンザキが映っており、テレビ電話越しに二人の隊員を諌めていた。オールバックに悪人面、唯でさえ普段から子供に泣かれる顔をしているのに、今の彼の顔はとてもじゃないが言葉で言い表せる物ではない。

『あの子はまだ子供だぞ。そしてお前らは何歳だ?』

「・・・・・」

『今回の件、後で然るべき処分を下す。お前達は本部で待機していろ』

「____了解」

カンザキの言葉に二人の隊員は不服そうに低い声で答えると、右手で画面に映るカンザキに対して敬礼をした。その後、画面はすぐに消え、それを皮切りに二人の隊員達はルークに背を向けて歩き出した。肘掛け椅子の傍を通る際、二人はまだ俯いているぺトラを一瞥すると、謝罪の言葉も口にしないまま、早足でエントランスに繋がる扉を潜り抜けた。

「・・・・何様のつもりよ」

人に危害を加えながら謝罪の言葉を口にしない隊員達の背中を、雫は悪態をつきながら見ていた。それは雫の前に屈み込んでいたゾロアークも同じで、声にしないが、非難の色を含む目を彼らに向けていた。やがて、その背中はエントランスの向こうに消え、研究所のリビングに一時の暇が訪れた。

「_____すまない」

ふと、雫の眼前で屈み込んでいたゾロアークがポツリと呟いた。彼は傍の床に置いてある応急キットの中にオキシドールの入った瓶をしまうと、腰をあげてそれを手近な机の上に置いた。

「言い訳にしか聞こえないかもしれないが、アイツらも悪気があった訳じゃないんだ」

「・・・・・でも、ぺトラは悪くないでしょ」

雫に名前を呼ばれたぺトラは、微かに肩を震わせたが、それでも顔はあげずに俯いていた。それを横目で見た雫は、二人の隊員に肩を持つゾロアークを睨むと、納得できないと小声で漏らした。
ゾロアークはそれにゆっくりと頷くと、再び口を開いた。その動きは雫にとって、とても遅いものに見えた。

「___いつ死ぬかわからない仕事をしているんだ。必要以上に相手を警戒するのは仕方ないんだよ」

「________」

ゾロアークの一言を聞いた雫は、反論しようとして言葉が出せない事に気が付いた。それほど彼の言葉は彼女に衝撃を与えたのだ。言われてみれば確かに理解できる節があった。シンジ湖の一件で、雫の感覚は些か麻痺していたが、それでも彼の言葉の重みは理解できる。いくら訓練を積んだ人間とはいえ、武器と接する機会がある以上、それに命を奪われる危険とは隣り合わせである。それは二人の隊員やカンザキも、そして眼前にいるゾロアークも例外ではない。もしかすると、明日にはこの世からいなくなっているかもしれない。それだけのリスクを抱えて彼らは活動しているのだ。

「___それでも、ゾロアークやあの二人や、カンザキさんが正しいとは思えないよ。結局、暴力に頼っているんだから」

「・・・・それを言われたら元も子もないな」

雫の意見を聞いたゾロアークは、白く輝く八重歯を見せて笑うと、彼女の頭を一撫でして立ち上がった。気のせいか、彼の背中には哀愁が漂っているように雫には見えた。

「・・・それでも俺達は、暴力に訴えなければならない場所で生きているんだよ」

寂しそうに彼は呟くと、カンザキに電話してくると言い、研究室の方に消えた。その背中を雫とギラティナは黙って見送り、やがてそれが見えなくなるとギラティナが唐突に口を開いた。

「あいつは・・・誰だ?初めて見る顔だが・・・・」

「___そうか、ギラティナは初めてだったな」

金色の髪を揺らし、疑問を口にする彼女を見た陽は、思い出したような口振りで話し出した。雫とギラティナは揃ってそれに耳を傾けると、黙って話の続きを待っていた。

「あいつはゾロアーク、外国の・・・イッシュ地方に住んでいたポケモンだ。確か、一年位前に故郷が人間に破壊されて、その時カンザキに助けられて研究所で保護したんだ」

陽の言葉を聴いたギラティナは、微かに頷いてみせ、彼に続きを話す様に促した。陽はそれを一瞥すると、雫の方をチラリと見た。それに気づいた雫も、ギラティナ同様に微かに頷いた。

「何せ故郷を人間に壊されて、家族も殺されたんだ。あいつに信頼して貰うのに、かなり時間がかかったな・・・・」

陽の言葉を聴いた雫は、ある事に気が付いた。シンジ湖から研究所まで移動する際に、ゾロアークは初対面である彼女に自身の過去の経験を話した。暫くの合間を置いて信頼された陽や博士、カンザキと違い、雫はいきなり彼の信頼を得る事ができた。

(これもお父さん達の子供だから、かな・・・)

それは彼女の中を流れている異種族の血が為せる業か、あるいは雫の人柄か。先に彼は雫がハーフだから助けられたと口にした。それは彼の本心であろう。それは先の疑問の答えが前者である事を暗に意味している。そう考えた雫は、少し不本意に感じながらも陽の話の続きを待った。

「確か、研究所に来てから一週間も経たない頃だったか、急にゾロアークがカンザキを師事し出したんだ。あいつも幹部候補生の自衛官だったからな、ポケモンバトルの他に色んなことを教えていたぞ」

「___なるほど、だからあの馬鹿二人の肩を持つのか」

陽の話を聞いたギラティナは、鼻で笑うとゾロアークの消えた方向を見た。彼女の言葉は事実であり、無闇にそれを否定できない陽は彼女から目を逸らすと、黙って眼前のカップを口元に運んだ。

「____なぁ、雫。これは私の女の勘だが、あのゾロアークは関わらない方が良いぞ」

「・・・・は?」

いきなりゾロアークを駄目だしするギラティナを、雫は一瞬呆けた目で見た。だが直ぐに彼女が口にした言葉を理解し、その真意を問う為にギラティナを改めて見た。

「何を言って・・・」

「あの男は、間違いなくカンザキと同じ種類だ。ナナカマド博士や陽、鴇や天とも違うタイプの生き物だ」

雫はギラティナの言おうとしている事が何となくではあるが、理解できた気がした。彼女のあげた面々とカンザキとの違い、それは人を殺した事があるか否かという事だ。雫はナナカマド博士からカンザキの過去の経験を聞いた事があった。まだ雫と変わらぬ年齢で同世代の少年を射殺し、それからずっと手を汚してきた。そしてギラティナは、あのゾロアークもカンザキと同様に手を汚す事を予言したのだ。恐らく彼女に悪気は無い筈だ。ただ、大切な人間である雫に人を殺した経験のある人間と関わってほしくないだけである。14世紀のラテン語の諺に、『pomum compuctum cito corrumpit sibi junctum.』という物がある。これは時を経て、『The rotten apple injures its neighbours.』、つまりは『腐った林檎は周囲に悪影響を与える』という意味となった。ギラティナはこれを心配していたのだ。そのような経験をしたカンザキ、そしてこれから経験するであろうゾロアークが雫に与える影響を心配していた。

「・・・・・ありがとう、ギラティナの考えは正しいと思うよ」

だからこそ、雫は自身の考えを導き出した。ギラティナは雫の返事を聞いて、雫が自身の考えに同意したと思い、一瞬だけ安堵の笑みを浮かべた。

「でも。私はゾロアークの事、もっと知りたいな・・・」

雫はその一言で、ギラティナの表情が固まるのを見逃さなかった。彼女の漏らした言葉は、本心からの物であり、嘘偽りは無かった。勿論聞く人によっては、プロポーズとも取れる言葉であるが、雫はそれを自覚しておらず、ギラティナの動きが止まった事を不思議そうに見ていた。ギラティナも雫の言葉に何か反論をしようとしたが、彼女の目を見て、直ぐにそれは無駄だと悟った。そして開きかけた口を閉ざすと、額に左手を当てたままギラティナは雫を見た。

「____間違いない、絶対に後悔するぞ」

「後悔するかどうかは私が決める事だよ?」

ギラティナの忠告を耳にした雫は、口角を微かに持ち上げてクスリと笑うと、ギラティナの美しく輝く瞳を見返した。水の様に澄んでいるそれには雫の顔が映っており、やがてそれはギラティナが瞬きをした事により消失した。

「・・・・・だ、そうだ。お前はどうする?」

目を伏せたギラティナは、雫ではない第三者にそう呼びかけた。雫も彼女が何を言っているのか理解できずにいたが、甲高い金属音と共にゆっくりと開かれた扉の向こうを見て彼女の考えに納得した。

「嬉しい限りだな・・・俺としても・・・」

そこには照れ臭そうに頬を指で掻いているゾロアークの姿があり、彼は廊下の壁に凭れ掛かると雫を一瞥した。

「カンザキから伝言だ。入国したテロリストは全員『片付けた』が、一応護衛として俺とルークさんをお嬢に付けるそうだ」

ゾロアークの『お嬢』発言に、雫は擽ったそうに笑うと、すぐに目を逸らした彼の顔を見返した。

「私はお嬢じゃないよ、私の名前は雫。よろしくね、ゾロアーク」

「・・・・あぁ、こちらこそ」

雫の言葉に、ゾロアークは微かな笑みと共に手を小さく振ると、はにかみながら雫の方はと歩み寄った。徐々に詰まりつつある自身とゾロアークの距離を見ながら、雫は心の中に広がる充足感を味わっていた。




数時間後、コトブキシティ。

夕刻を迎え、薄暗くなった街並みはネオンは煌々と照らし、住民にまだ休息の時を知らせずにいる。そんな街並みの一角、オフィスビルが立ち並ぶ区画に建てられた、三十階程のフロアを有するビル。そのビルのあるフロアを、黒髪にオールバックの細身の男が焦燥の表情を浮かべながら速足で歩いていた。男は額にうっすら汗を浮かべており、廊下の一角にある板チョコのようなデザインの扉を、勢い良く開けた。その扉の向こう、あまり広くはない会議室に集まっている面々は突如乱入してきた男を、怪訝そうな顔で見ていた。

「会議中だぞ、チェンコフ」

室内の一番奥、夕暮れのコトブキシティが広がる広いガラス窓を背に座っていた銀髪の男、イルクーツク・ジャパンの専務であるセルゲイはチェンコフと呼ばれたオールバックの男を涼しい顔のまま見た。だが、チェンコフはそんなセルゲイとは裏腹に、息を乱したまま室内を見渡すと、震える足で彼の下に歩み寄った。そして、訝しげに見てくるセルゲイの耳元に口を運ぶと、会議室に居る他の面々に聞こえないよう、チェンコフは小声で話しだした。

「・・・ヴェルトロが、全滅しました」

チェンコフの言葉を耳にしたセルゲイは、信じられないといった表情で彼の顔を見返すと、しばし黙り込んだ。だが、セルゲイはチェンコフの雰囲気からそれが嘘ではないとすぐに理解すると、会議に参加していた他の面々を見回し、ゆっくりと口を開いた。

「____会議は中止だ。今回の件の詳細は、追ってチェンコフから知らせる」

「しかし専務、この件は火急の物で」

「聞こえなかったのか、中止だ」

ブラウスを着た茶髪の女性が、急に会議の中止を命ずるセルゲイに喰らいついた。だが彼は彼女の言葉を遮ると、有無を言わせぬ重圧と共に彼女を見た。それに女性は怯むと、黙って机上のファイルを脇に抱えて、そそくさと会議室を後にした。会議に参加していた他の顔触れも、セルゲイの気迫とチェンコフの慌てぶりから、只ならぬ状況である事を理解し、ブラウスの女性に続いて会議室を後にした。

「・・・・・・・被害状況は?」

「エイブル以下数名が国連軍の捕虜になりました。副官のニコライ、それにアレン以外のヴェルトロの面々は・・・・・死亡しました」

重い口調でそう報告するチェンコフを、セルゲイは言いようの無い表情で見返すと、数秒間口を閉ざして考え込んだ。やがて、ある結論に達したセルゲイは大きく息を吐きながら天井を仰ぐと、傍に立っているチェンコフの方を見た。

「これは忌々しき事態だ、恐らくオルロフも取締役会も黙ってはいないだろうな・・・・」

セルゲイは憎憎しげにそう漏らすと、背後に広がる、夕焼けに染まるコトブキシティの街並みに目を向けた。オルロフ、その名を耳にしたチェンコフは心底嫌そうな顔を浮かべた。何せオルロフはテロ組織の指導者であり、実働部隊であるヴェルトロに直接指示を出す立場にある。そんな彼がヴェルトロの全滅を知ったら、必ず横槍を入れてくるに決まっている。二人はそれを忌避しているのだ。

「___とにかく、黙っていても事態を悪化させるだけだ。私はクリスタル号に向かうから、チェンコフは本社の取締役会に報告に行ってくれ」

セルゲイの言葉を聴いたチェンコフは、何か言いたげな視線を彼に向けたが、すぐにそれは無駄と悟り、黙って一礼すると退室した。チェンコフはイルクーツク・カンパニー本社の取締役会に報告に行くが、こちらはまだ事態を報告して叱責されるだけで済む。だが、テロ組織の本拠地、世界最大クラスの貨物船に向かうセルゲイは、報告の内容次第では帰ってこれないかもしれない。まだ命の危険が無いチェンコフは、それを危惧していた。もっとも、黙って退室した時点で彼の意思に同意している事は明らかである。

(遺書を書いておくべきだな・・・・)

誰もいなくなった会議室の中、セルゲイはこれから迎えるであろう、テロリストの洗礼を考えて、一人溜息を漏らしていた。



同時刻、カントー地方クチバシティ。クチバ港に停泊中のクイーン・ユリアナにて。

「失礼します」

所狭しと本が積み重ねられている部屋に入った副頭取のダンテは、室内に唯一置かれている古びた机に向かっているコバルトの傍まで歩み寄った。彼の声を耳にして、ノートパソコンから顔を上げたコバルトは彼が差し出した小皿を受け取ると、それに盛られている数枚のクッキーに手を伸ばした。仄かに香るバニラエッセンスの匂いをコバルトは深く吸い込むと、その感覚を堪能していた。

「・・・・・・シンジ湖の一件、片がつきました」

ダンテの呟きを耳にしたコバルトは、身体の動きを一瞬だけ止めるとすぐにノートパソコンに目を向けた。彼女はキーボードを叩き、マウスをパッドの上で動かすと、画面上に小さなウィンドウを呼び出した。

「_____状況は?」

「UAVからの情報を分析したところ、実働部隊のヴェルトロは数人を残して全員死亡、残りはUNIAにより拘束されています。カンザキ補佐官の目論見通り、エイブルと呼ばれる工作員の生け捕りにも成功したそうです」

「流石はカンザキだな・・・・・」

唇に指先を当てたコバルトは、小声で呟くと再びパソコンに目を向けた。直ぐ傍に立つダンテは、彼女の指示を待っているのか、時折パソコンの画面を盗み見た。

「そういえば、『ツキナリキイチ』という名前に覚えはあるかい?」

横に立つダンテに、コバルトは小声でそう尋ねた。それに彼は身体の動きを一瞬止めるが、やがてすぐにそれは収まり、普段通りの涼しげな表情のまま彼女を見た。

「____昔、カントー地方にいた頃に縁があっただけです。別に彼個人に対しては何の感慨も抱いておりませんし、何より彼は赤の他人です。今の私と何の関係もありませ」

ふと、ダンテは脇から突き刺さるコバルトの視線に気づき、怪訝そうな顔で彼女を見た。それにコバルトは微かな苦笑を浮かべると、小皿に置かれたクッキーに手を伸ばした。

「君が私以外の人間にそれほど饒舌に・・・・興味を抱くなんて意外だよ。その少年・・・・キイチは君のお気に入りの人間かい?」

嫉妬してしまうね、と溢したコバルトは、ダンテの映えるように輝く銀糸を蒼い瞳に映しながら、僅かに溜息を漏らした。それは極度の人見知りであるダンテが他人に関心を持った事で、嬉しさを感じたのか寂しさを感じたのかは定かではない。
しかし、コバルトにそう指摘されたダンテは、恥ずかしそうに俯くと足早に彼女の傍を離れた。そして、コバルトが声をかける前に扉の前で一礼すると、そのまま部屋を後にした。

「・・・・・・・・・」

そんな彼をコバルトは慈愛に満ちた眼差しで見送ると、パソコンの画面の端にあるウィンドウに目を向けた。そこには階下で働いている部下からのメールであった。流暢な英語で綴られたそれに目を通すコバルトは、再びクッキーを一枚手にすると、それに噛り付いた。

(・・・『パンドラ』は既に完成している。だが実際に使えるかはわからない、か)

半年前、クイーン・ユリアナの船上でカンザキとアポロと密会した際、パンドラは完成間近まで来ていた。それが今では既に完成しており、後は試験段階を経て実用に移されるのを待つだけである。

(だが、今は時じゃない・・・・・・)

例えパンドラが完成していても、実験無しで実用するのは些か危険過ぎる。だが実験を行うにしても、パンドラを起動させれば十中八九UNIAや国連が勘付くに決まっている。ハイリスクが纏わりつく以上、変なタイミングでパンドラを起動させるのは吉ではない。

ポケモンと人間のハーフである朝霧雫と事務総長である朝霧海奈、二人の身内である朝霧皐月が生み出した殺人ウイルス『リムファクシ』とワクチンである『シンファクシ』、イルクーツク・カンパニーとテロ組織ULTIMATE、国連とUNIA、ダンテとカンザキとアポロ、そしてパンドラとクイーン・ユリアナ。

自身の手中で幾つもの駒が、組織が、人間が転がっている事を自覚したコバルトは、思わず口角を上げると恍惚した表情で天井を仰いだ。既にコバルトはカンザキやアポロが気づかぬ内にパンドラという強大な力を手に入れていた。それは彼女とダンテのみが知る事実であり、これからの世界の運命でもあった。シンジ湖における一件ですら今の彼女にとっては取るに足らない出来事だ。朝霧雫など、どうでも良い存在である。カンザキの持ち出した儲け話も、パンドラ完成と実用の足掛かりにしか過ぎない。いや、彼ですら今のコバルトに取っては地面を這う蟻程度の存在に思える。

「ふふぅ・・・・・・」

閉じられた唇から嬌声とも取れる声が漏れた。それは、コバルトの耳だけに届き、他の誰にも知られる前にこの世から消失した。それは、コバルトの描くパンドラの力のようでもあった。




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