「・・・・・・・」

「・・・・・・・」

シンジ湖の湖畔からマサゴタウンに通じる獣道。左右を雫程の背丈の草木が覆い茂る道を雫はゾロアークとルークにエスコートされながら歩いていた。もっとも、雫とゾロアークは何も話さず、ルークは周囲を波導で警戒しているため、自ずと空気は沈黙に支配されていた。時折ウサギやキツネといった小動物が辺りを駆け回っている音が遠くから聞こえ、その都度ゾロアークは警戒の目をそちらに向けていた(ルークは波導で相手の正体を把握しているため、特に気にしないでいる)。それでも一行は誰も口を開かず、雫は少し空気が重たく感じた。

まさか沈黙がこれほど居づらい空気を編み出すとは。

普段は希一やぺトラ、ギラティナという姦しい面々に囲まれているため、沈黙という言葉とは無縁の雫だが、今はその姦しい面々が恋しく思える程雫は居づらさを感じていた。

「・・・・・なぁ」

顔には出さないが、内心苦笑いを浮かべていた雫の背中にゾロアークは唐突に話しかけた。それは先頭を歩いているルークには届かない位の声量であったため、雫はゾロアークの問いかけが自身に向けられている事を理解した。

「何?」

「お前は・・・『あの』朝霧事務総長のガキだよな?」

ゾロアークの『ガキ』という発言に、雫はむっとした顔をゾロアークに向けるが、彼は飄々とした態度でそれを受け流した。これ以上その事を責めても意味が無い事は明らかであるため、雫は業とらしく溜息を付くと青年の言葉を脳内で反芻した。ゾロアークは『あの』という言葉を付けてから雫に問うた。普通なら『あの』という言葉は不要である筈である。だが、それが朝霧海奈、雫の実父の前に付けられているという事は、何らかの意味が隠されている。それを理解した雫は、言葉を選びながら口を開いた。

「そうだけど、それが何?」

「____いや、俺も朝霧事務総長に会った事は無いけど、カンザキからあの人の政治手腕の事、よく聞いていたからな」

ゾロアークは雫の返事にぶっきら棒にそう答えると、再び黙り込んだ。それは雫も同じであり、口を閉ざすと黙って足を動かし続けた。

(何なのよ・・・)

記憶には無い父親と母親。カンザキから生き別れた理由を聞いてはいるが、それでも雫は両親にどういう顔で会えば良いのかわからずにいた。恐らくその答えはぺトラや希一、ケイやナナカマド博士、そしてカンザキやギラティナといった第三者では決して提示できないものである。それでも雫にとっては血の繋がった両親だ。自身を守るために生き別れた、それでも再開時に嫌味の一つを二人にぶつけてしまうかもしれない。だが、被害者は雫だけではない、両親もまた被害者である。恨むべきは時代か、それとも世界か。今はまだ、どういう顔で再開すれば良いのか、そして先の答えもわからない。それでもまだ見ぬ両親、父親を『あの』呼ばわりされて雫は内心不快感を覚えていた。

ふと、背中に視線を感じた。

ジリジリと背筋を焦がされる様な感覚を覚え、雫は微かに眉間に皺を寄せながら視線の元、ゾロアークの方を振り向いた。唐突に振り向いた雫に、ゾロアークは一瞬目を逸らすと体裁が悪く感じたのか虚空に目を向けた。そんなゾロアークを雫は問いかける眼差しで数秒間見つめるが、彼の態度から霧が無いとわかったため、再び前方を向くと足を動かした。

獣道に、先ほど以上に重い沈黙の空気が漂い、それは自ずと彼らが開口することを許さなかった。

先頭を歩いているルークは、背後で起きている二人のやり取りに耳を傾け、その陰湿な空気を読んだのか、少し足の動きを速くすると二人と距離を置いた。一方、そんなルークの気遣いなど知らず、雫は若干不機嫌そうな表情を浮かべたまま、ゾロアークと目を合わせず、歩いていた。

「____悪い、さっきのは嘘だ」

ふと、そんな雫の放つ雰囲気を察したのか、ゾロアークは唐突に口を開くと先の発言を真っ向から否定した。雫はゾロアークの言葉を耳にしたが、それでも足を止めずにルークの小さな青い背中を追っている。ゾロアークは、足の動きを一行に緩めない雫を見て、溜息を漏らすと彼女の背に向けて言葉を発した。

「以前、ずっと前にカンザキから聞いた事があったんだ。朝霧事務総長の娘はポケモンと人間のハーフだと・・・」

雫の足の動きが止まった。

ゾロアークの発した言葉、それは雫がポケモンと人間のハーフであるという事。つい先日、カンザキが迎えに来るまで、雫にとってそれは言われ無き差別と虐めの原因であった。両親が異世界の老夫婦に自身を預けた事はカンザキから聞いた。それが自身を守るために必要な手段であった事も理解した。それでも、雫は十数年間一人ぼっちにされて、理由の無い蹂躙に耐えてきたのだ。自身の体内には、半分人間でない血が流れている。それは人に言葉に表せない畏怖と不快感を与え、雫は誰にも頼れず、ずっと一人で虐めに耐えてきたのだ。以前カンザキが「人はあなたを忌み嫌い、恐れていた。何せ神の血を受け継いでいるから、言葉では言えない恐怖心があったんですよ 」と言った。それは常に誰かに虐められてきた雫の経験その物が、両親の子であるという証である。だが、頭で理解したつもりでも心では理解できていなかった。人に嫌われる原因と両親の子である証、鏡のように相反するこれは、雫にとって禁忌ともいえる領域である。ぺトラやケイ、希一といったポケモンと接する経験のある面々や、神藤夫妻やギラティナのように人の姿をとる面々、彼らは人間とポケモン、両方に接してきたために雫を忌み嫌ったりはしなかった。もちろんこれに触れる事も無かった。

だが、このゾロアークは雫のその領域に土足で踏み込んできたのだ。

雫が受けた衝撃は、相当なものである。全身を落雷で打ち抜かれたように雫は身体を震わすと、足を止めてその場に立ち止まった。その気配は前方を歩いているルークにも届いたようで、彼は怪訝そうな顔で振り向くと、俯いている雫を見た。そして、その原因であるゾロアークは雫が足を止め、俯いた事に疑問を抱いたのか、小首を傾げながら彼女の背中を見ていた。やがて、感情が心のダムで塞き止め切れなくなったため、雫の身体は小刻みに震え出した。

「ちょぉ、え!?・・・・・・」

突然泣き出しそうになった雫を目の当たりにして、ゾロアークは奇声を発すると慌てて彼女の傍に駆け寄った。それはルークも同じで、急いで雫の傍に寄るとゾロアークを責めるような目で睨みつけた。脇から突き刺さるルークの視線に、ゾロアークは額に冷や汗を浮かべると雫の様子を伺っていた。ルークの誹謗の視線に晒されたゾロアークは雫の周りを狼狽しながら歩き回ると、彼女の顔を覗き込んで何とか泣かせまいとしている。それでもゾロアークの不躾な一言が心に響いた雫は目尻に涙を溜めたまま俯いている。

「いや、その・・・違う_____」

「_____もう良いよ」

目に見えて慌てふためくゾロアークに、雫はそう短く言い放つと彼の手が届く範囲から逃れた。その為、ゾロアークの伸ばされた手は空を切り、雫に触れられないまま重力に任せて力なく垂れていた。雫も昔はこの程度の言葉で泣く事は一度も無かった為、ゾロアークの一言で泣き出してしまった自身に疑問と羞恥心を覚えながら手の甲で目を擦っていた。

(・・・涙脆くなったのかな)

こちらの世界に来るまで、理解者に恵まれなかった雫だが、人並みに心を許せる存在に出会えた事で年相応の感情が露にできるようになっていた。ある意味良い進歩であるが、それでも人に涙を見せたくない雫は鼻を鳴らすとゾロアークを視界に入れないようにそっぽを向いた。

(泣いてばかりだな・・・・・私____)

カンザキやナナカマド博士の前で感情を露にした事を思い出した雫は内心苦笑しながら、それでも溢れ続ける涙を我慢していた。波導を司るルークと違い、雫の心情を理解出来ずにいるゾロアークは雫を何とか笑わそうと彼女の背後で変顔をしているが、それは何の効果も無い。やがて、自身の無意味な努力に気が付いたゾロアークは顔から手を離すと、少し離れてしまった雫の傍まで歩み寄った。

「・・・・・・すまない、その_____言葉が足りなかったよ」

小声でそう語るゾロアークは、俯いたまま雫の傍に立った。

「_______俺は、人間が嫌いだ」

ゾロアークの言葉に、俯いていた雫は微かに顔をあげた。

「人間は自分達の利益の為に、俺の故郷を焼いて、俺の家族を殺した・・・・・勿論、人間が全て悪い奴じゃないことは理解しているつもりだ。カンザキやナナカマド博士のような、良い人間もいる」

あの時カンザキがいなかったら俺も焼け死んでいたよ、と続けたゾロアークはまだ俯いている雫の隣で空を見上げた。昼時を過ぎた空には、微かに夕日の赤が広がっており、それは雫とゾロアークを照らしていた。

「それでも、人間は嫌いだ・・・・そんな時だよ。カンザキから人間とポケモンのハーフがいると聞いたのは」

ゾロアークの蒼い瞳が横に動き、俯いている雫を捉えた。雫もそれを気配で察したようで、ゆっくり顔をあげるとゾロアークを見た。

「俺は一年前にカンザキに拾われてから、ずっと訓練を積んできた」

その訓練がどのようなものか、薄々理解している雫は僅かに目を伏せると彼の話に耳を傾けた。

「訓練を積めば積むほど、いろんなポケモンと戦ったり、救ったりしてきたんだ。だけど・・・俺はずっと疑問に思っていたんだ」

人間に家族を殺され、人間に故郷を焼き討ちにされた者が人間を救う事ができるのか、と呟いたゾロアークは左手で前髪を掻き揚げると、煩わしそうにそれらを視界から除いた。

「人間が助けを求めてくる様な状況に出会ったとして、本当に俺は人間を救うのか?それとも、見捨てるのか・・・・・・俺の故郷を焼いた外道の様に・・・・」

「・・・・・・・・」

「でも、さっきシンジ湖でお前は俺を頼ってくれたよな」

ゾロアークはそう呟くと、先ほどシンジ湖で雫が無意識の内に握り締めていた服の裾を触った。そこには雫の体温がまだ残っているのか、ゾロアークは宝でも扱うかのように優しく触れていた。

「まだ迷っていた俺を、お前は頼ってくれたよな。アレがそこらにいる人間なら、多分俺は見捨てた筈だ。だけど、ポケモンと人間のハーフのお前が頼ってくれたおかげで、俺は迷わずお前を助ける事が出来たんだよ」

ポケモンの血を引いているからこそ、ゾロアークは無意識の内に雫を助けた。同時にそれはゾロアークが人間を助けるきっかけとなった。それはゾロアークにとって誰にも話せない悩みであっただろう。人間であるカンザキやナナカマド博士に言える筈も無く、二人以外に特に親しい者のいないゾロアークには大きな悩みの種であった。それを、偶然とはいえ、解決できる機会を雫がもたらしたのだ。だからこそ、ゾロアークはこの言葉を選んだ。

「その・・・・ありがとう」

雫の動きが止まった。今まで虐められてきて、謝罪されたり褒められたりする事は経験してきた(それもこちらの世界に来てからだ)。だが、誰かに感謝の意を伝えられるのは初めての出来事であった。

(・・・・・・・・・)

ゾロアークの言葉は水のように雫の心に浸透していくと、瞬く間に彼女のそれを飲み込んだ。だが、それは不快や嫌悪感とは違い、寧ろ心地良いものである。

その時、雫は理解できた気がした。

雫とゾロアーク、二人に共通している事は孤独を経験した事である。片や異世界にたった一人で放り出され、迫害と蹂躙に苦しめられてきた少女。片や人間に故郷を焼かれ、家族を殺された上に、その憎き人間に救われたポケモン。種族は違えど、孤独を経験した事は二人に共通している。その為、思い出したくない過去を背負っているゾロアークは自ずと雫にそれを話、互いに苦しみを共有しようとした。それは人間でありながらポケモンの血を引く、詰まりは多様な価値観を有している雫だからこそ話せた筈だ。

二人の間を春風が駆け抜け、草木の香りが鼻を擽った。

(_____この人は)

ゾロアークは初対面の雫を信頼してくれた、苦しい過去を赤裸々にしてくれた、それだけゾロアークは雫を信頼しているのだ。それなのに、雫は彼と言葉を交わそうとしなかった。ゾロアークからの一方的なコミュニケーションである。いくら雫にとって禁忌といえる領域に踏み込んだとは言え、それが命の恩人に対する態度であろうか。

その間、僅か三秒足らず。

瞬く間に結論を導き出した雫は、伏せていた顔をあげてゾロアークを正面から見た。精悍な顔つきの青年が雫の瞳に映り、態度を改めた雫を見て、ゾロアークは息を呑んだ。

「_______」

たった五文字の言葉が喉の奥につっかえているような感覚が雫の中に広がり、思うように言葉にできない雫は一回息を整えると、改めて青年の顔を見て口を開いた。

「____ありがとう・・・・・」

恥ずかしげに呟く雫の姿、それを見たゾロアークは数秒間唖然としていたが、すぐに雫の言葉を理解し、頬を持ち上げると僅かに声を漏らした。雫は羞恥心から他所を向き、爆弾のように鳴り響く心臓を落ち着かせようと大きく息を吸った。

その直後、彼女達の頭上を轟音と共にジェット機が飛んでいった。




同じ頃、ジェット機のエンジンの轟音はシンジ湖の湖畔でも響いていた。

「あぁ、そうだ。すまない・・・・後は管制官の指示に従ってくれ」

小型の無線機に向かって、そう声を出していたカンザキは、頭上を通過した航空自衛隊の戦闘機F-15を敬礼と共に見送った。機影はコトブキシティのある方角へと飛んで行き、その怪鳥のように巨大な身体は山並みの向こうに消えていった。
先ほど、テロリストのUAVがシンジ湖に飛来してきた際に、カンザキの要請した応援が時間遅れで到着したのだ。既にテロリストのメンバーもUAVも片付けた後であった為、F-15はその役割を果たさず、コトブキ駐屯地へと機首を向けた。それはパイロットにとっても、元自衛官であるカンザキにとってもありがたい事である。

ふと、胸ポケットの入っている携帯電話が振動している事にカンザキは気が付いた。

「・・・・・」

取り出したそれのディスプレイに表示された名前を見て、彼は微かに眉間に皺を寄せると、着信音が鳴り続けるそれの通話ボタンを押した。

「_____はい」

『私だ、報告しろ』

電話越しに響く高圧的な口調に、カンザキは苦笑いを浮かべると、恐らく眉間に深い皺が掘られているであろう、相手の顔を連想しながら口を開いた。

「UAVは撃墜しました。F-15の出撃は杞憂で済みましたよ」

『・・・・・・テロリスト達は?』

「生け捕りが六人、殺害数は九人です。内四人がインターポールに指名手配されているテロリストです」

カンザキの報告に電話越しの相手は低い声で唸ると、何秒間か間を置いて言葉を発した。

『____それで、他に収穫はあったのか?』

「ええ、エイブルと呼ばれる雇われ工作員を生け捕りにしました」

エイブル、その名前をカンザキが口にした途端、電話越しの相手は息を呑んだ。それはカンザキも気づいていたようで、薄ら笑いを浮かべたまま傍らに転がっている死体袋を見下ろした。その中にはシンジ湖の一件で片付けられたテロリスト達の死体が入っており、中にはマタドガスのガス爆発に巻き込まれて見るも無残な有様となった物もいる。

『・・・エイブル、確かシュタイナーの下にいた記録があるな』

「性格には五年前から一年前の四年間、J共和国のシュタイナー将軍の親衛隊で特別警護として暗躍していました」

J共和国シュタイナー将軍。それは戦争の世紀が終了した今世紀におけるヒットラーとも言える独裁者である。元は東欧の生まれのシュタイナー将軍は幼少期を外国で過ごし、そこでレーニンの唱える社会主義思想を学んだと記録されている。共和国に帰国後、将軍は青年団に入隊し、当時の穏健派の首相を追放するクーデターに参加した。クーデター自体は失敗し、将軍は投獄されたが、出所後に議員選挙に出馬、社会主義思想を唱え、見事に議員の椅子を獲得した。その後、国家元首の椅子を獲得し、軍部と繋がりを持つ事で自身に歯向かう人間を容赦無く消していった。

そして、民族浄化を謡い、自国の国民を粛清していった。

その頃になって、当時の国連安全保障理事会が軍事介入を将軍に臭わせたが、軍部と密着な関係を持つ将軍はこれを拒否、多国籍軍と戦争状態に入った。だが、共和国軍はゲリラ戦を展開し、多国籍軍は戦争反対の世論に負け、結局多国籍軍は撤退、粛清は一時的に阻止されただけであった。エイブルはその頃の将軍に雇われ、護衛として傍にいたのだ。

『____エイブルがシュタイナーの情報を握っているなら、ICCに将軍を突き出せるチャンスだな』

ICC−国際刑事裁判所−の名前を耳にしたカンザキは、死体袋から目を離すと生け捕りになったエイブルの顔を思い出していた。悔しげな表情で自身を見ていたエイブルの顔を、脳内に描いたカンザキは再び電話越しの相手に意識を向けた。

「彼女は将軍の護衛と専属のフッカーを兼ねていたから、今でも将軍に繋がる抜け道や警備に関する情報は握っている筈です。既にコトブキ駐屯地に護送しているので、尋問が終わり次第、事に移ります」

『・・・・・・くれぐれも、将軍は殺すなよ。生け捕りにしてICCに突き出すんだ』

「わかってますよ、兄さん」

兄さんとカンザキに呼ばれた相手は、くぐもった声で笑い声をあげるとスピーカー越しに咳き込んでいた。カンザキはそれを笑いながら聞き流すと、普段は忙しい彼の秘書官の姿を思い出していた。

『今後、何か用があれば周防を通せ。私もそれなりに忙しいからな』

「はいはい・・・・・」

細渕の眼鏡をかけ、柳眉を常に持ち上げている神経質そうな表情の女性秘書官の小言を思い出したらしく、電話越しの相手が身震いする気配がカンザキにも伝わった。有能だがスケジュールに五月蝿い周防の小言は、カンザキも聞きたくはない。故に近くにいるであろう、周防の光る目から逃れて電話している『兄さん』の姿を連想したカンザキは、愉快そうに小声で笑った。
数秒後、電話の向こうから甲高い女性の声と低い中年男性の悲鳴が響き、電話は切断された。

(さて、と・・・・・)

F-15の事務処理は『兄さん』に任せる事にしたカンザキは、携帯電話を懐にしまうと、近くに歩み寄ってきた椿の方を見た。女性者のビジネススーツに身を包んでいる椿は、電話を終えたカンザキの傍まで寄ると、「ん・・・」と声を漏らして数枚の紙が閉じられているバインダーを手渡した。

「死体の身元が判明したわ、どれも指紋が残っていたのは幸いね・・・」

「全くだ。それと、いきなりで悪いが・・・・次の仕事を頼む」

報酬は弾むぞ、と呟いたカンザキはスマートフォンの画面を操作すると、誰かの顔写真を呼び出した。それを受け取ったバインダーと交換するようにして椿に手渡すと、自身はそのバインダーに目を通しだした。一方、カンザキに手渡された端末の画面を見た椿は、怪訝そうな顔をみせるとカンザキを黙って見た。

「_____これ、J共和国のシュタイナー将軍よね。確かジェノサイドで国際指名手配されている・・・」

「そうだ。さっき生け捕りにしたテロリストの中に将軍の娼婦だった者がいるから、そいつから情報を聞き出し次第、将軍をICCの法廷に引きずり出す予定だ」

「・・・・それを私にやれ、と?」

椿の呟きを聞いたカンザキはゆっくりと頷いてみせると、納得のいかない表情で睨みつける椿を見て笑った。

「安心しろ、権力者は自分で気づかない内に情報を誰かに漏らしてしまうんだよ。『男は下半身で物を考え、女は頭で物を考える』と言うだろう」

「_____あんたも下半身で物を考える性質なの?」

カンザキの言葉に椿はそう返すと、訝しげな視線を彼に向けた。カンザキはそれにわざとらしく肩を竦めると、椿の手中から端末を取るとそれを胸ポケットの中に戻した。

「諜報においてセックスは基本中の基本だ。相手を篭絡する為には一番手っ取り早い手段だからな」

「言っとくけど、あたしは誰とも寝ないから」

「お前は人に偽物の快楽を見せられるだろ?それで十分だ」

椿の不平をそう切り捨てたカンザキは、彼女の方を見て笑ってみせた。その表情は不思議と独裁者より悪人に見え、椿は内心不快感を抱いていた。もっとも、それを声に出した所で何の意味も無い事はこの一年の付き合いで理解しているため、椿は黙ったままカンザキに背をみせて歩き出した。

「_____ボーナスも付けなさいよ」

去り際にそう溢した椿は、カンザキの返事を聞く前に近くに止まっているSUVに乗り込むと、そのままエンジンをかけて急発進した。そして、黒に塗られた車体はシンジ湖の湖畔からすぐに姿を消して、辺りにエンジンの残響音のみがその存在をアピールしていた。SUVの残した轍を見下ろしたカンザキは、薄ら笑いと共にそれの消えた方向を見ていた。

それは、コトブキシティに繋がる獣道であった。



「ただいまぁ・・・・・・」

雫は恐る恐る小さく声に出すと、ナナカマド研究所のエントランスの扉をゆっくり開けた。白い壁紙の張られたエントランスの天井には小さなシャンデリアが輝いており、それは真上から雫を照らしていた。エントランスに雫の小さな声が微かに反響し、それは雫の鼓膜を僅かに叩いた。薄汚れた壁紙と埃の積もった床は雫が研究所に戻るのを拒んでいるかのように感じられる。内心、研究所の中に踏み込んで良いのか迷っていた雫は、一回大きく息を吸うと腹を決めた。エントランスに一歩踏み込んだ雫の背中を追う様にゾロアークとルークが続き、一行はエントランスを中ほどまで進んだ。

エントランスと廊下を繋ぐ扉が開かれたのはその時であった。

がちゃり、と錆びた蝶がねの耳障りな音が響き、それを耳にした雫は思わず足を止めてしまった。その背中にゾロアークが、彼の背中にルークがぶつかり、その反動で雫は前に押し出された。天然石が敷き詰められたエントランスの床の上を転がった雫は、強かにぶつけた額を押さえながら顔をあげた。その先には開かれた扉の前に立っているナナカマド博士の姿があった。彼は呆けた様に口を僅かに開けており、雫も床の上で尻餅をついたまま、苦笑いを浮かべるとスカートの裾に付いた埃を掃いながら立ち上がった。

「えぇ・・・と、その_____」

雫は呆けた表情の博士に、何と言って良いのかわからず、人差し指で頬を掻きながら彼を見上げた。そんな雫を見下ろしたナナカマド博士は、大きく溜息を漏らすと雫の方に歩み寄った。

「おかえり」

博士は短くそう呟いた。その言葉の裏には雫の身を案じている博士の気持ちが滲み出ており、それを重々承知している雫は、一瞬だけ目を伏せると再び博士を見上げた。

「その、ただいま・・・・・」

家出娘が帰宅した様な雰囲気に、ゾロアークとルークは閉口したまま二人を見ていた。彼らの視線を背に浴びながら、中に入るように博士に促された雫は、ゆっくりと博士の背中を追いかけた。広いそれは、何故か雫に安堵感を与えるものであった。




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