物事に於いて、動機というものは切っても切れないものである。人が物を食べるのは空腹を感じるから、水を飲むのは喉が渇くから、全てに於いて大前提となるのは動機である。それは森羅万象、ありとあらゆる事に於いて共通している。然らば、黒の長髪に赤いメッシュの入った精悍な顔つきの青年、桔梗がその顔を恐怖に歪ませながら雑木林の中を全力疾走している事にも何らかの理由がある筈だ。

(逃げろ・・・逃げろ・・・!)

心の内で自身を鼓舞する桔梗は時折背後の光景に目をやりながら、全力で動かしている足を緩める事も無く走っている。恐らくは走っている内に小枝や草木で傷ついたのだろうか、桔梗の腕や足には幾本もの赤い筋が描かれている。

いったい何が彼をここまで追い込んだのか。

それは十五分前に遡る。




十五分前、ナナカマド研究所にて。

「何だこれは?」

研究所の一室、普段は大量の研究資料で埋め尽くされているリビングのソファーに訝しげな表情を一切隠そうとせずに座っているのは国際連合の最高権力者にして雫の実父、朝霧海奈その人であった。大海を統べるルギアの擬人である彼はきめ細かな銀糸を連想させる髪を煩わしげに掻き揚げながら眼前に立つ大男、カンザキヨウイチを睨み付けた。彼の整った顔から放たれる負の感情は、普段から発せられているカリスマ性と相まって対象に畏怖の念を抱かせる代物だが、カンザキはそれに涼しげな表情のまま手にした書類を彼に投げつけた。

「何って、休暇申請だけど____」

「俺が聞いているのはそうじゃない、クソ忙しいこの時期に何休暇申請しているんだ?」

カンザキの投げた書類にざっと目を通した海奈はペーパーナイフを置いてそう溢すと、それを彼に付き返しながら疲れた表情のまま彼を再び睨み付けた。
海奈が先に言ったように、今の海奈は事務総長としての仕事、ギリシャの財政破綻に対するIMFの融資に関する会議の準備に追われており、その補佐官であるカンザキもまた仕事に追われていた。だが、まだ海奈は定時上がりで済んでいるが、カンザキは補佐官として海奈に代わり残業(日に18時間労働、三週間休み無し)している。そのため、今の彼はとてもじゃないが表を歩けるような顔をしておらず、とてもやつれている。

「_____毎日18時間働いて睡眠時間は3時間を切っている俺と定時上がり且つ三連休
明けのお前、休みを取るべきなのはどっちだろうな?」

そう言うカンザキの顔は連日の寝不足と疲労により、まるでゾンビのような土気色をしている。対して海奈は血色の良い顔に嘲笑を貼り付けたまま、彼の差し出した休暇申請を二つに折るとカンザキにつき返した。

「IMF事務局に送る書類の草案を作ってから出直して来い」

IMF事務局に送る書類の草案、それは主要先進国の過去十五年間の金融データを比較、検討したものである。だが、それを今から作るとなると少なくとも三日はかかる作業である。それを十二分に理解しているカンザキは土気色の顔を強張らせると、休暇申請の書類を海奈の眼前に突き出した。

「流石にこれ以上は働けないぞ」

「・・・だが、俺も書類をこれ以上待てないぞ」

両者の主張が食い違い、カンザキと海奈は黙ったまま互いの顔を睨んでいた。僅かな間、重たい沈黙がナナカマド研究所のリビングを支配した。その中でまともに動きが取れたのは、研究所の主であるナナカマド博士と彼の弟子である皐月、そして博士の助手である陽だけである。最近、研究に行き詰っていた皐月が恩師で師匠であるナナカマド博士に助言を求めて研究所を訪れたのだ。それに海奈は少し遅れた暑中見舞いを兼ねて同行して、余った時間を使い、出来る限りの仕事を終わらせようとしていた。
そんな中、連勤に疲れ果てたカンザキと海奈が衝突したのだ。いったい、この重たい空気は何時まで続くのであろうか。お茶菓子のクッキーを咥えた皐月は、亭主と幼馴染の争いを見ながら溜息を一つ零した。

それを壊したのは、意外な事に四人の少年少女であった。

「だからぁ!ホントに優勝したんだぞ!」

「何回も言わなくてもわかっていますよ・・・」

「・・・・・」

「はいはい信じてますよ信じてますよ」

それは上から大声で何かを捲くし立てるナナカマド博士の孫の希一と幼馴染のぺトラとケイ、そして彼らの友人で海奈と皐月の娘である雫であった。雫は希一の訴えを軽々とあしらいながらリビングに入ると、ソファーに腰掛けた。その隣にぺトラが、向かい側のソファーに希一とケイが座った。

「さっさと運ばんか!」

「はいはい・・・」

四人に続いて入って来たのは、大量の書類の入ったダンボールを抱えた桔梗と彼の背中を蹴り飛ばす椿の姿であった。カンザキに劣るが、桔梗もまた疲れた表情を浮かべたままダンボールをローテーブルの上に置くと、背中を蹴ってくる椿の射程から逃げた。椿はそんな桔梗を歯痒そうな表情で見ると、机上に置かれたダンボールの中から書類の挟まったファイルを幾つか取り出すと、それらをカンザキの前に置いた。

「で、何でこんな険悪な雰囲気になっているのよ」

椿は重苦しい空気の中、椿は溌剌とした声で言い放つと、睨みあう海奈とカンザキの二人を見ていた。

「___コイツが俺の休暇申請を受理しないんだよ」

「今は忙しい時期だろう・・・」

互いに一歩も譲らない上司達に椿は呆れたような眼差しを向けると、ダンボールを運んでへばっている桔梗とその向こうに見える彼の友人達の顔を見た。「あれくらいで情けない・・・」と椿は漏らしながら彼女は雫達の会話に耳を傾けた。

「マジだよ!?マジ優勝したんだよ!」

「はいはい凄いねぇ」

「凄いですねぇ」

「・・・・・」

会話から推測してみると、どうやら希一は何らかの競技かイベントで優勝した事を執拗に三人に話していてたが、雫達はそれを一切意に介さず、むしろどうでもよさげな口調で聞いていた。希一はそんな三人に声にならない文句を漏らすと、苛立ち紛れにクッキーを口に運んだ。

「_____で、希一は何で優勝したの?」

希一の訴えにいい加減飽きのきていた椿は至極めんどくさそうに口を開くと、相変わらず乱暴にクッキーを食べている希一に問いかけた。それに希一はやっと相手にして貰えた嬉しさからであろう、満面の笑みを浮かべるとクッキーを急いで飲み込んだ(その際、誤嚥して噎せていた)。

「聞いて驚くなよ・・・俺は、何と!」

「早く言いなさい」

もったいぶって話す希一に、ぺトラはピシャリと横槍を入れると彼と同じようにクッキーを口に運んだ。彼女の周りにアーモンドの香ばしい薫りが漂い、それは嗅いだ者の食欲を擽る。希一はぺトラの言葉に苦虫を噛んだ様な表情を浮かべると、話を続けた。

「実は___第3回エンジュシティ鬼ごっこ大会で優勝したんだよ」

「______で?」

希一の言葉を聴いた雫は、ある程度予想できていたのか、冷淡な反応を見せると眠たそうに欠伸をした。そもそも、希一がこのように過去の栄光について騒いでいたのは、ぺトラの「希一はポケモンバトル以外に特技は無いのか」という質問が原因である。彼女にとっては、軽い冗談のつもりで言ったのだが、思いの外、希一はその話題に固執して自身の記憶を思い返していた。そして先ほどのようにどうでもよい(雫談)栄光を口にしたのだ(そもそも子ども会が中心となって行われるお祭り事で優勝しただけである)。
雫の反応に希一は悔しさの感情を露隠さず、彼女の顔を見ていた。そんな二人のやり取りをケイと桔梗は傍らで眺めていた。

ただ、唯一椿だけは口元に指先を当てて、考え事をしていた。

「・・・どうせなら、鬼ごっこで決着をつければ?」

椿は睨み合っているカンザキと海奈の二人を見て言った。

これが全ての始まりであった。




『ルールは普通の鬼ごっこと同じだ。見つけても実際に触れないと捕まえた事にならないからな』

『OK、鬼は俺だな』

『ヨウイチは私と雫、ぺトラ君にケイ君、希一君に桔梗君に椿君、それと陽を時間内に全員捕まえたら勝ちだ。範囲はマサゴタウンとシンジ湖周辺、時間は二時間』

『・・・・それで、俺が勝ったら五連休の休暇申請を認めろよ』

『もちろんだ。それで私達が逃げ切ったら・・・』

『今夜の晩飯は全員分俺の驕り、だろ?』

それは、ほんの十五分前に交わされた海奈とカンザキの会話であった。単なる鬼ごっこのルール確認の会話、桔梗はそう思っていた。しかし、これは悪魔のカウントダウンであったことを今更彼は理解した。

「何なんだよ・・・」

カンザキを鬼とした鬼ごっこが始まって既に十五分が経過した。始まりの五分は研究所のリビングでカンザキは待機しており、その間に逃亡役の8人は思い思いの方角へと逃げていった。つまり、鬼が行動に移ってから実質十分しか過ぎていない。範囲は建物を除くマサゴタウン全域とシンジ湖周辺、およそ数キロに渡る範囲に逃亡役は散った筈だ。それなのに、十分が経過した時点で勝利を豪語していた希一が、ぺトラとケイが捕まった。8人中3人が僅か十分で捕まるとは、桔梗にとって想像外の出来事であるのは間違いない。

そして、今も後方の木々の合間を桔梗目掛けて鬼が駆けていた。

桔梗は希一達が捕まった時点で、彼らのいた場所から数十メートル離れた木の上に隠れていた。ここなら人間であるカンザキがそう簡単に登ってこられないと踏んでいたからだ。なのに、カンザキは希一達を捕まえた時点で、視界の悪い雑木林の中にも関わらず数十メートル離れた場所に隠れている桔梗を『見ていた』。それは比喩ではない。文字通り彼は首を桔梗の方に向けて、口を動かしていた。

つ ぎ は お ま え だ

工作員としての特殊な訓練を受けている桔梗は、当然ながら読唇術も心得ていた。そしてポケモンの擬人である彼は通常の人間よりも五感や身体能力に長けており、数十メートルという距離がある中で桔梗はカンザキが何を言ったのか精確に把握していた。

この時、桔梗は恐怖で全身に鳥肌が巡るのを自覚した。

そこからの桔梗の行動は異常に速かった。

音も無く木の上から飛び降りた桔梗は、少しでも鬼との距離を稼ぐために雑木林の中を我武者羅に駆け出した。擬人である桔梗の脚力なら、カンザキとの間合いは十分に稼げる筈だ。

だが、その距離は伸びるどころか逆に縮まっている。

(逃げろ、逃げろ・・・・・)

後方の木々の合間をカンザキは足音一つ、草木の擦れる音すら経てずに駆けており、その気配は全く感じられない。音も無く接近してくる存在に、桔梗は半端ない恐怖心を覚え、懸命にそれから逃れようとしていた。だが、鬼は常に桔梗の考えを読んでおり、数歩先をいっている。このような状況で桔梗が鬼から逃れる事はできるのであろうか。

それは、どう足掻いても不可能である。

「はぁ、はぁ・・・・・」

林の一角に生えている大木に背中を預けた桔梗は、何時の間にか鬼の存在が消えていた事に気づいた。彼は安堵の溜息を漏らすと、額を伝う汗を手の甲で拭った。既に鬼ごっこを始めてから17分が経過しようとしていた。残りの逃亡役は5人、この内一人でも二時間逃げ切れば、夕食はカンザキのポケットマネーで済む。それは金欠の桔梗にとっては非常にありがたい話である。

(何としても逃げ切ってやる・・・!)

声にこそ出さないが、今月の財政事情が厳しい桔梗は確固たる決意を抱いていた。
その瞬間、視界の端、いや大木の反対側かわ急に伸びてきた二本の腕が桔梗の口を押さえ、強引に顎を上に向かせた。そこに冷たい何か、いやナナカマド研究所のリビングに置いてあったペーパーナイフの刃が押し付けられ、桔梗は肝を急速に冷やした。

それは、逃げ切れたと思っていた鬼の腕であった。鬼はナイフの腹を桔梗の首筋に押し付けると、小声で何かを呟いた。

「捕まえた・・・」



数分後、ナナカマド研究所のリビングにて。

「皐月君は参加しなくてよかったのか?」

鬼ごっこに、と続けたナナカマド博士は眼前でレポートを纏めている皐月の顔を見ていた。皐月はそれを耳にして不思議そうな顔を浮かべると、直ぐに破顔して愉快そうにコロコロと笑い出した。そして「何を言っているんですか」と呟くとノートパソコンを閉じた皐月は席を離れ、三杯目のコーヒーを注いできた。

「あの人が鬼ごっこやかくれんぼの天才だと、博士もご存知でしょう。それに大学が大学ですし・・・」

「むぅ・・・」

皐月の返事にナナカマド博士は低い声で唸ると、ソファーに座っている希一達を見た。座っている、いや疲れを隠せないやつれた表情を浮かべた希一とぺトラ、そして硬く唇を噛み締めているケイは揃って目を伏せていた。彼らは鬼ごっこが始まって僅か十五分で捕まると、外で何があったのか、抵抗する気力も全く見せず、カンザキ(鬼)の手によって研究所まで連行されてきた。それを予期していたのか、皐月とナナカマド博士は苦笑とも哀笑ともとれる笑みで迎えると、3人に甘いココアを振舞った。

「それにしても、子供相手に本気を出しすぎではないのか?」

あの馬鹿は、と続けたナナカマド博士はコーヒーカップに砂糖を並々と注ぐと、それをスプーンで掻き混ぜた。誰が見ても入れ過ぎといえる量の砂糖が入ったコーヒーを博士は何の苦も無く飲むと、それを胃の中に流し込んだ。見ているだけで胸焼けのする光景であるが、皐月はそんな博士の行動を見慣れているらしく、平然とした態度のままコーヒーを飲んでいた。

「・・・まぁ、あれくらい本気の方がいざという時に大丈夫なんでしょうね」

皐月は小声でそう呟くと、研究所の壁に掛けられている写真に目を向けた。そこには数十人の異常に短髪の若者が固い表情のままカメラの方を見ている。彼らの格好は緑と茶の迷彩柄の服を着ており、背中には大きな荷物を背負い、右肩には陸上自衛隊で正式採用されている小銃を担いでいる。

若者達の中に、一際大柄の身体と悪人面の青年が映っていた。それを見た皐月は過去を懐かしむような笑みを浮かべると、コーヒーを飲み干した。

その時、エントランスに繋がる扉が開かれた。そこにはやつれた表情の椿、桔梗、陽、海奈の姿があり、彼らは揃ってリビングに入ってくると、ソファーや椅子に座り込んだ。その直後に引き攣った表情のままの雫が続き、彼女はぺトラの隣に腰掛けると彼女の肩に頭を預けた。そして、最後に室内に入ってきたのは素晴らしく良い笑みを貼り付けたカンザキであった。彼は皐月とナナカマド博士の責めるような視線を無視すると、休暇申請の書類を片手に海奈の前に腰掛けた。

「約束、覚えているよな?」

カンザキの問いかけに、海奈は力無く頷くと、震える手で書類にサインをした。それを満足そうな顔で見届けたカンザキは、コトブキシティのGTS内にある国連事務局に書類を送信するために、ファックスのある廊下へと歩いていった。8人の逃亡役を僅か二十分で捕まえた鬼の背中を、海奈は憎憎しげに睨み付けるが、その全身から力が抜けているのは一目でわかる。

「流石は元レンジャーだな___」

有り余る体力と精神力、そして異常なまでの隠密性を持つ、元陸上自衛官の弟子を見送った博士はそう呟いた。その当時から彼の実力を知っていた皐月は、改めてこのゲームに参加しないで良かったと内心安堵の溜息を漏らしていた。

もっとも、それは哀れな犠牲者である亭主と娘に気づかれなかったが。





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