龍の刺青の彫られた男、ニコライは異端な人間であった。

今年で45歳になる彼は、ロシア連邦がまだソビエト連邦と呼ばれていた頃に生まれて、同国が崩壊するまで祖国で過ごしていた。士官学校を卒業したニコライはソ連の誇る特殊部隊スペツナズやエリート部隊である空挺部隊に所属するほど優れた技術と知識を誇る秀才であった。しかし、ベルリンの壁が崩壊して同国が解体されてからは、彼は給料が無くなり生活の保障も無い軍隊を見限り、誰よりも早くに祖国を去った。その際に彼は顔面に龍の刺青を彫った。それからは民間の警備会社や軍事会社に所属して様々な戦地で生き残り、時にはテロリストに協力もしてきた。
そんな彼がイルクーツク・カンパニー、そしてULTIMATEと出会ったのはイラクのとある町だ。その町の近くにある石油プランで警備員として従事していたニコライは、とある理由から今の仕事に不満を抱いていた。そんな折にULTIMATEの指導者であるオルロフとなのる白人男性と出会い、彼はテロリストになることを決意した。だが、彼は何故テロリストになる事を容認したのか。答えはとても単純だ。

彼は、重度の幼児嗜好の人間であった。早い話が、ロリータ・コンプレックスだ。

十代半ばで自身の性癖を自覚したニコライは、最初こそは罪悪感に呑まれていた。だが、戦地で生き残る内にそれは次第に無くなっていき、気が付いた頃には欲情の対象を金で買い、力で征していた。それは人道的にも倫理的にも赦されざる行為だが、ニコライはそのような綺麗事が通用する世界ではなく戦場で生きてきたのだ。戦地での兵士達が死や命を奪う恐怖から来るストレスに苦しむことは何ら珍しくも無い。たいていは酒やタバコ、ドラッグや売春でそれを発散しており、ニコライもその内の一人であった。彼に言わせれば、兵士が大人の娼婦を買うことも自身が子供を買うことも何も変わらない。それ故に、彼が罪悪感で苦しむ事はすぐに無くなったのだ。
そんな彼がテロリストに加担したのは、好きなように人を撃て、好きなように子供を抱けるからだ。テロリストの活動地域は発展途上国が多く、そういった国では法律や警察が満足に機能しておらず、売春や殺人など珍しくもなんとも無い。またテロリストは彼の性癖について横槍は入れなかった。だからこそ非人道的な性癖を持つニコライにとって、テロ組織はちょうど良い隠れ蓑であり、バックアップをしてくれる組織であった。自身の欲望のために、彼はテロリストの軍門に下った。大義も何も無い。
つまりニコライとはそのような男であり、その程度の男であった。

そんな彼は今回の作戦で狙撃ライフルを手にしてシンジ湖の畔にある森に隠れていた。観測手として同行しているのはアレンという二十代後半の青年だが、今のニコライにとって彼はどうでも良い存在であった。
彼にとって重要なのは、シンジ湖の湖畔で友人達と話している雫だ。十代半ばの割りに大人びた思考の持ち主である少女は、ニコライの好みのタイプであった。年の割に豊満な胸や括れた腰、そしてアジア人にしては彫りの深い顔つきには幼さが見え隠れしており、ニコライの劣情を誘うものであった。狙撃ライフルを構えて、スコープ越しに雫を見ているニコライの心情は黒い欲望に染め上げられており、彼はその少女を早く手篭めにしたくてうずうずしていた。
任務など、どうでも良い。ただあの少女を犯せればそれで良い。

そのような下品な思考の持ち主のニコライには、ある意味これはお似合いの最後であったかもしれない。

「ぁ・・・がぁ・・!」

先ほどまで構えていた狙撃ライフルを地面に落としてしまったニコライは、首に纏わり付く太い腕による拘束から逃れようと懸命に足掻いていた。だが彼の首を絞める人物、いや男は顔色一つ変えずに腕に力を込めると、彼の首の骨を折ろうとしていた。ニコライが目を最大限まで見開き、既に酸欠で真っ赤になった顔を微かに横に向けると、そこには首筋に銀色に輝く肉厚なナイフを突き立てられて絶命しているアレンの姿があった。
森に隠れていたアレンはいきなり後方から男によって、喉に穴を開けられた。最初は首から血を噴水のように噴出していたアレンは声にならない悲鳴をあげながら地面を転がって悶えていた。その音にスコープを覗いていたニコライが振り向いた瞬間、男が手にした別のナイフで彼の右手首を切り裂くと、そのナイフを彼の左手首に突き刺した。それにニコライが怯んだ瞬間に男はニコライの身体を柔道の要領で投げ飛ばすと、地面に転がった彼の身体を拘束して首に腕をかけた。当然ニコライも反撃を試みるが、既に両手首はナイフによる傷で機能せず、思うように男の拘束が逃げられなかった。
酸欠により、脳に十分な量の酸素が行き届かない為にニコライの視界は徐々に霞んできていた。頭蓋の中で命の危機を知らせる警鐘がガンガンと鳴り響くが、今のニコライにそれを止められる術は無かった。かつては彼も特殊部隊にて格闘術の訓練を受けていた。だが、この男はそんなニコライを軽々と征すると、そのまま太い腕で彼の首の骨を折ろうとしている。彼は足をバタバタと動かして、男に抵抗するが何の意味も無い。

(コイツは何もんだ・・・!?)

酸素不足で満足な思考もできないニコライの命の灯火は、徐々に消えかかっていた。そんなニコライは股間の辺りで何かが迸る感触を自覚していた。もしも彼が十代の頃に自身の性癖を恥じて全うに生きていれば、或いは自身の欲望を優先せずにテロリストの軍門に下らなければ、この平和な国で命を落とさずに済んだけもしれない。だが、歴史にもしもという言葉は存在しない。存在するのは、ニコライが下種な男で何者かに殺されかけているという事実だけだ。
死後の脊髄反射なのか、アレンの身体は陸に打ち揚げられた魚のように痙攣していたが、それはすぐにおさまった。それと同時に、ニコライの首を絞める男は腕に力を込めた。

延髄に鈍い感触が広がり、ボキリという音が後頭部を中心にニコライの全身に広がった。もっともそれが彼の鼓膜を刺激する頃には、既に彼の視界は暗闇に覆われて決して目覚めない永遠の眠りについていたが。




腕に鈍い感触が走った。それと同時に腕中の男の身体が微痙攣を繰り返しており、それはすぐにおさまった。

首が歪な方向に向いた男の死体を乱雑に突き飛ばしたカンザキは、ポケットから端末を取り出すと『CALLING』と表示されている画面を見た。一方でニコライの履いている迷彩柄のズボンの股間の辺りが黒く染まっており、辺りにアンモニア臭が漂った為にカンザキは不快そうにして鼻を抑えていた。

「こちらキビ団子、森の鬼は退治した。他の鬼の様子はどうだ?」

画面の通話ボタンをタッチしたカンザキは、端末のマイクに向かって小声で奇妙な言葉を口にした。キビ団子と鬼、それは誰もが知っている某国の昔話のストーリーを彷彿させる。カンザキのその言葉がマイクに入り、端末を介して電波に乗ってから数秒後、スピーカーから聞き慣れた若い女の声がした。

『こちら雉、車内の男の鬼は退治したわ』

自らを雉と名乗った女の報告に愉快そうに口を歪めたカンザキは、次に来るであろう猿と犬の報告を待った。

『こちら猿、対岸の鬼は始末した』

『こちら犬、雑木林の鬼の絶命を確認』

雉の報告の数秒後、聞き慣れた男の声がカンザキに届いた。どちらも『桃太郎』と呼ばれる昔話の登場人物と精通しており、彼らが互いに無関係の人間でない事は暗にわかる。キビ団子、いやカンザキは足元に倒れている鬼と呼んだニコライの死体から狙撃ライフルを奪うと、そのスコープを弄りながら全体をチェックした。

「・・・テロリストの武器にしては中々の質だな」

そう呟いたカンザキは、端末を操作して近辺の航空写真を呼び出すと、シンジ湖の湖畔を拡大した。そこには楽しそうに戯れている雫達の姿があり、彼女らの体温に反応したサーモ(温度センサー)で赤い点となって端末の画面に表示されていた。そして、雫達を湖の方に追いやる布陣で数人分の体温が湖畔の彼方此方に表示されていた。それらはキビ団子や雉、猿や犬でもない事を知っているカンザキは、無用心に姿を現した鬼達を嘲笑いながらライフルの弾丸を装填した。

「桃太郎、桃太郎、こちらキビ団子。準備はできたか」

『こちら桃太郎、準備は完了している』

「・・・よし、襲撃の合図は私が出す。全員待機せよ」

マイクに向かってカンザキはそう言うと、大木に凭れかかりながら狙撃ライフルを構えてスコープを覗き込んだ。何十倍も拡大されたそれには、雫やペトラ、希一とケイの表情までもがはっきりと写りこんでおり、愉快そうに笑う雫の笑い声も聞こえそうである。

「___神の御加護を」

短くそう呟いたカンザキはトリガーに指をかけると、雫達の姿をスコープの中に捉えた。




「好きです!」

「ごめんね!」

希一の魂の込められた雄叫びに、雫はたったの四文字の言葉で切り返すと轟沈する彼を尻目にシンジ湖を見渡した。最大直径が二キロ近くまで及ぶこのシンジ湖は、リッシ湖やエイチ湖と並んでシンオウ地方三大湖として非常に名高いスポットである。湖に中心付近にはシンジ湖に住むと言われているエムリットを祭る祠があり、そこに渡るには小型のボートかポケモンの力が必須である。周辺一帯を深い木々で囲まれているこのシンジ湖は豊かな緑と清らかな湖水で様々な生命を育んでおり、雫達のいる湖畔付近には数多くの野生のポケモンもいる。
心地よい風が湖畔に吹き注ぎ、雫はそれに眼を細めた。仄かな春の香りが辺りに漂い、それは雫の心をとても落ち着かせるものである。眼を細めて湖を見渡す雫とは打って変わって、希一は折角カンザキから得た権利を僅か一瞬で失ってしまった事に苦痛の声を漏らしていた。だが、それはいつもの事と知っているペトラとケイは、跪く彼の身体を突いて遊んでいる。

「___何で付き合ってくれないんだよ・・・」

「じゃあ逆に聞くけど、いきなり見ず知らずの人に告白されて希一は付き合うの・・・?」

「美人なら喜んで!」

呆れ気味な雫の問いかけに希一は跪いたまま満面の笑みを浮かべると、唐突に立ち上がって雫の傍まで寄ってきた。そんな希一の動きに合わせて雫は後ずさると、胡散臭そうな視線を彼に向けていた。この頃には既に雫の話し方から敬語は無くなっており、改めて彼女が希一達に打ち解けている事がわかる。
良い笑顔で呆れた返事を返す希一に、雫は微かな頭痛を覚えると、彼の脇で二人のやり取りを見学していたペトラに眼を向けた。

(何なのコイツは?)

(面喰いなだけです)

雫の声に出さない問いかけに、ペトラは視線で返すとしつこく雫に纏わり付く幼馴染を引き離すと、彼を希一の方に押し飛ばした。ペトラに突き飛ばされて、思わず数歩踏み出した希一の腕をケイは掴むと、そのまま彼の腕を捻り上げた。喧嘩っ早いペトラもそうだが、ケイも何らかの武術に心得があるらしく、希一は「ギャア」と小さな悲鳴をあげると、彼の拘束から逃れようと懸命に暴れていた。だが、ケイは涼しげな顔のまま腕に力を込めると、ますます大きくなる希一の悲鳴に耳を傾けていた。
そんな二人を悪態と共に見ているペトラとは裏腹に、雫は何かを考えているのか物寂しそうな表情を浮かべていた。それに気づいたペトラは「どうしましたか」と普段の敬語口調で尋ねるが、雫は曖昧な笑みを浮かべると頭を微かに下げた。少し寂しそうな笑みを浮かべる彼女を見て何かを案じたのか、ペトラは思いつくままに手を動かしていた。

「ひゃ!?」

ペトラの細い指が大福のように柔らかそうな雫の頬を抓ると、雫は驚いて奇声をあげた。

「何を考えているんですかぁ」

「ひゃにひゅるのひょぉ!」

至極マイペースに問いかけるペトラの奇行に、雫ははっきりと話せないまま、抗議の言葉を口にした。だが、それを笑いながら彼女は受け流すと、雫の頬を抓る指先に更なる力を込めた。ペトラはケイや希一に比べると、良識的な方であった。そんな彼女のいきなりの奇行に希一は腕を捻り上げられたまま眼を見開き、ケイは微かな冷笑を浮かべると雫を見ていた。そして徐々に強くなるそれに、雫は思わず強い力でペトラの腕を叩くと、そのまま彼女の手の届く範囲から逃れた。

「痛いでしょうが!!」

それは、湖の対岸まで木霊するほどの声量であった。おそらく十数年間生きてきた中で嘗て無いほどの大声をあげた雫に、希一やペトラの奇異の眼が向けられた。それに気づいた雫は顔を赤めると、誤魔化すかのように小声で何かを言うと、顔を両手で覆ってその場にしゃがみ込んだ。

「・・・何か言い訳はあるのか」

「いや、うん・・・・ごめんなさい」

羞恥心に溺れて息も出来ずにいる雫を見た希一の言葉に、ペトラは罰の悪そうに語尾を濁らせながら言った。そんなペトラの謝罪の言葉が今の雫に届くわけも無く、彼女はしゃがみ込んだまま顔を隠していた。
それは大人びた少女が、年相応の振る舞いをみせた瞬間でもあった。




『痛いでしょうが!!』

指向性マイクの集めた雫の叫び声がカンザキの鼓膜を遠慮無く叩き、それに思わず怯んだ彼は耳に付けていたイヤホンを投げ捨てると、狙撃ライフルのスコープから眼を離した。残響音がキーン、と彼の耳の中に不快な余韻を刻み、ついつい下品な言葉を溢したカンザキは再びスコープを覗くと、引き金に指をかけた。

「たく、子供は呑気だよな・・・」

口では余裕の言葉を弾き出すカンザキだが、その心情は決して穏やかではない。何故なら、雫と希一のやり取りが過去の自身と皐月とのやり取りに酷似しているため、希一の(口だけの)思いが身のならないことが明白であるからだ。そして、それにより嘗て皐月に振られた傷心の思い出も思い出してしまい、カンザキは苦い味が舌の上に広がっている事に気が付いた。それは辛辣で苦い記憶を思い出してしまったからなのか、はたまた別の何かのよるものなのかははっきりとしない。だが、ただ一つだけわかることは雫と希一のやり取りから彼らの間に恋愛感情が芽生える可能性は毛ほども無いことだけだ。

その時、カンザキの投げ捨てたイヤホンから雑音が響いていた。それを耳にした彼は急いでイヤホンを拾い上げると、それを耳に入れた。直後に雑音に混じり、聞き慣れた女性の声と別の女性の叫び声の入り混じった音が彼の鼓膜を刺激した。

「こちらキビ団子、何かあったのか」

カンザキはそれに声をかけてコミュニケーションを図るが、応答は無い。いや、空気を切り裂くような音がイヤホンから響いた直後に女性の声が再び聞こえ、カンザキが意識をそちらに傾けた瞬間に、『それ』は響いた。

『おおありよ!!』

その大声に怯んだカンザキは、再びイヤホンを投げ捨ててしまった。

場所は変わってシンジ湖から幾分か離れた場所に駐車してある黒塗りの二台の大型バンの直ぐ傍、眼を血走らせ顔面を血塗れにしたケイトが手にした肉厚なサバイバルナイフを振り回し、眼前にいるスーツを着た黒髪に赤いメッシュの入った女、椿の身体を膾切りにしようとしていた。大きく振りかざされたそれを、上半身を反らすことで避けた椿はケイトの血塗れの顔面に数発のジャブを放つと、素早く彼女との距離を稼いだ。だがケイトは腰の下げられたホルスターからサイレンサー(銃声を消す装置)の付いたオートマチックの拳銃を引き抜くと、椿の胴体目掛けて発砲した。普通の人間なら一発で相手をしとめようとして、相手の頭を狙って銃を発砲するが、訓練を受けた者なら本能的に頭に向かって放たれた銃弾を回避することも可能だ。しかし、頭と違い胴体目掛けて発砲されると、それを回避する事はいくら訓練を積んでいる者でも至難の技だ。それを知っているからこそ椿の胴体目掛けて発砲したケイトには、幾分かの冷静さがまだ残っていた。
だが椿は胴体目掛けて放たれた鉄の刃を人間ではありえない動き−軽く跳躍して、回転しながら身を捩じらせた−でかわすと、着地と同時に足元に転がっていた小石をケイトの持っている拳銃目掛けて蹴り飛ばした。それはプロのサッカー選手顔負けのフォームで蹴り飛ばされて、椿が銃弾を新体操の選手さながらの動きで回避したのを視認したケイトが次弾を放とうとした拳銃の銃口にすっぽり『填まり込んだ』。銃口に異物が入ったまま発砲すれば、拳銃が暴発する事は広く知られている。それは血塗れのケイトも知っており、拳銃が使えないとわかるや否や、それを身体のバランスを整えて後退している椿めがけて投げつけた。だが、椿はそれをキャッチすると逆にケイトの顔面目掛けて投げつけ、打ち揚げられるスペースシャトルのような勢いで駆け出すと一気にケイトに襲い掛かった。椿に投げつけたつもりが、逆に投げ返された拳銃を頭を動かして避けたケイトは、凄まじい勢いで走ってくる椿を見てサバイバルナイフを構えた。そして、椿がケイトの身体目掛けて腕を突き出した瞬間にケイトは微かに身体を彼女の射線から反らすと、椿の剥き出しの首筋を狙ってナイフを一閃した。だが、ナイフを握るケイトの手首を椿はケイト目掛けて突き出した腕とは反対の手で掴むと、自身の首筋と皮一枚の距離でナイフの動きを抑えて、それを彼女の手から奪い去った。更にケイトとすれ違いざまに椿は彼女の太股の肉を最初に突き出した方の手、いや指先の爪で抉り取ると、それを彼女の足元に投げつけた。
ビチャ、という水の入った袋が落ちたような音をあげながらケイトの肉体の一部であった『肉塊』は彼女の足元に落とされた。それを信じられない眼差しでケイトは見ており、そして椿の爪はケイトの太股の肉を大動脈近くまで抉り出しており、それにより彼女は野獣の様な悲鳴をあげながら、痛みに立っていられずその場に倒れこんだ。椿はそのままの勢いでケイトとの間合いを稼ぐと、倒れこんでいる彼女を見ながら奪い去ったナイフを地面に突き立てた。ケイトの太股からはどす黒い血が湯水のように溢れており、彼女に履いている迷彩柄のパンツを黒く染め上げていた。

「いい加減に降参してよね・・・」

疲れたように呟く椿だが、彼女の息は全く乱れておらず、その事からも彼女はカンザキ以上に訓練を受けた者(有り得ない銃弾の避け方やケイトとの肉弾戦からわかる)だと第三者でもわかる。一方のケイトは血の溢れる傷口を手の平で押さえているが、出血は収まる気配を微塵と見せず、むしろ先ほどよりも酷くなっている。それはケイトが大量出血で絶命する時を暗に示しており、それを理解しているケイトは顔を青ざめながら自身の左足首に手を伸ばした。一方の椿は息こそ乱れていないが、精神的に披露を感じているらしく、溜息を漏らしながら落ちていた拳銃を拾うと、瞬く間に弾装を抜き、本体に装填されていた弾丸を抜くと銃身のスライドを外して拳銃を使用不能にした。
椿の意識が拳銃に向けられている瞬間に、ケイトは左足首に隠されていた投擲用の小さなナイフを引き抜くと、それを椿の胸に目掛けて投げつけた。空をナイフが切る音が響き、それは瞬く間に椿の胸に突き刺さると思われたが、人間離れに反射神経でそれを捉えた椿はナイフが突き刺さる寸前に身体をナイフの軌跡から外すと、飛んでくるナイフの柄を握った。傍から見れば、余所見をしていた椿に向かって投げつけられたナイフを、彼女はキャッチしたのだ。もしもこれが雑技団の、その専門的な訓練を積んだ人間ならナイフをキャッチできるかもしれない。だが、それは互いに向き合って、ナイフが飛んで来ることがわかっている場合である。椿は前触れも無く投げつけられたナイフを、余所見をしながらキャッチしたのだ。

「だから降参しなさいよ___」

半ば呆れ気味の声でそう椿は言う。顔面を血塗れにして身体の節々を切られた形跡があり、太股に重傷を負っているケイトとは違い、全くの無傷である彼女は溜息を溢しながらケイトの血で塗れた爪を拭いていた。そう、ケイトの全身にある傷も太股の傷もナイフではなく、椿の『爪』で傷つけられたものである。先ほどの肉塊といい、全身の傷といい、とても人間の手、いや爪で傷つけられる範疇を凌駕している。
ケイトは傷口を押さえながら自身の肉体の一部であった肉塊を見て、激しい嘔吐感に襲われていた。背筋が震え上がり、彼女は思わずその場で胃の中身をぶちまけた。据えた臭いと共に、辺りにはケイトが朝食べた物が完全に消化されていないままの姿を晒していた。それらは大量に溢れている血の臭いに混じり、言いようの無い不快感が辺りに広がった。胃酸により喉に焼けるような痛みが走り、ケイトは激しく咳き込みながら畏怖の眼差しで椿を見ていた。

彼女は地中海沿岸の国で生まれ育った人間だ。その国は北と南での貧富の差が激しく、彼女はその貧しい南部の生まれだ。ハイスクールを出ると同時に国内の貧富の差を是正するためという大義名分を掲げる組織に身を置き、様々なテロ行為に走ってきた。時には空港や大学を爆破して、富裕層の人間の命を奪ったりしてきた。だが所詮は烏合の衆の集まり。やがて組織は国の警察や軍隊を前にしてなす術も無く散り、彼女は着の身着のまま祖国を脱した。それからは国際指名手配犯として堅気とは無縁の生活を送り、数年前にULTIMATEの軍門に下った。例え生粋のテロリストとはいえ、彼女も人並みに仲間は欲しかった。

そんな二十数年の生涯の中で、ケイトは感じたことの無い恐怖を椿に覚えていた。エイブル達をシンジ湖まで送り、その近辺で逃走に備えてネスと呼ばれる弾性と彼女は待機していたが、いきなり現れた椿の手により、彼は一瞬の内に射殺された。そして自身も彼女を抹殺するべく、全力を尽くしたが椿を倒すことは敵わず、それどころか自身が返り討ちに合っていた。ケイトが椿を畏怖の眼差しで見たのは、当然の反応であろう。

「____化け物」

まるで、人の皮を被った化け物を見るかのように。





「それで何で落ち込んでいたんですか?」

希一とケイが互いにプロレス技を繰り出している光景(ただしケイによる一方的な攻撃)を眺めていた雫に耳に、ペトラの疑問の声が飛び込んできた。それに雫が振り返ると、そこには不思議そうな顔で己を見ているペトラの姿があり、気のせいか彼女の顔の右半分は太陽光による影で黒く染まっていた。喜劇に出てくる化粧を施した道化のような顔になっているペトラを雫は内心奇妙さを感じていたが、彼女はそれを口にせず、ペトラの疑問に答えるために唐突に口を開いた。

「その___私も自分のポケモンが欲しいな、何てね・・・」

小恥ずかしそうに語る雫は、心の奥底に込み上げるそれを誤魔化すべく、乾いた笑い声をあげながらペトラを見た。それは玩具を強請る子供のようだ。ナナカマド博士や陽、カンザキにペトラといった面々に接するうちに徐々に本音を溢せる様になってきている雫が自身の欲求を口にする事はある種の良い傾向といえ、それだけ彼女が彼らを信頼している事が伺える。そして雫の振る舞いからその事を察したペトラは、細い顎に華奢な指先を当てると雫が口にした文句、自身のポケモンが欲しいという彼女の願いについて暫し考え込んだ。
人間とポケモンは遥か昔から互いに協力して、時にはパートナーとして、時には敵として存在してきた。それは『地球は太陽の周りを廻っている』という14世紀の天文学者コペルニクスの唱えた地動説に匹敵するほど幅広く知れ渡っており、同時にそれはこの世界での真理といえる概念である。『ポケモンがその実力を全て出せば、たちまち人間は滅ぼされる。だが人間がその知力を全て使えば、たちまちポケモンは滅ぼされる』。これはとある学者の唱えた説であり、この世界に於いて絶対的なものである。だからこそ人間とポケモンは敵対する事よりも協力し合う事を選んだのだ。一部、ポケモンハンターと呼ばれる国際法に反する人間も存在するが、大部分の彼らはポケモンと手を取り合っている。
そして、それはペトラやケイも例外ではなく、それぞれのパートナーとなるポケモンがいる。例えばペトラの場合は、シンオウ御三家(各地方で旅立つトレーナーに行政から与えられる、初心者向けのポケモンの事)の内の一体、エンペルトの葵がいる。皇帝ペンギンとよく似た風貌のポケモンだが、ルークと同じ鋼タイプを持っており、その耐久性は他のポケモンを抜きん出ている。一方のケイは、ドダイトスの雲雀をパートナーにしている。大木を背負った巨大な亀のような風貌のこのポケモンは、エンペルトと同様にシンオウ御三家の内の一体である。また、ペトラやケイと違い、希一のように御三家と呼ばれるポケモンを持たずに旅立つ者もいる。彼の場合だと、パートナーはマッスグマのポン太だ。希一とポン太の出会いは彼が幼少期の頃であるらしく、それだけ彼らは長い付き合いなのである。
そのような世界であるからこそ、少年少女がポケモンと共に旅立つのは何ら珍しくも無く、むしろ旅立たない者の方が珍しい始末である(一概にトレーナーズ・スクールを卒業出来た者や国家試験−自動車免許と同等の合格率の試験−に受かった者が旅立つ風習がある)。故に、雫がこの世界を訪れて、様々な風習や住人と触れ合う事でポケモンを欲する気持ちを抱くのは、自然の摂理とも言えよう。

(どうしますかね・・・)

雫のそのような気持ちに、ペトラは友人として応えたいのは当たり前だ。同時に、ペトラがそれを危惧する事も当たり前である。一般的に、トレーナーズ・スクールを卒業した者や国家試験に通った者には、ポケモンを捕まえて戦わせる免許が与えられる。それは自動車免許と似ており、数年に一回は更新が必要な物で、近年ではこれの不携帯によるポケモンバトルが問題化している(それ自体は罰則者に然るべき処分の必要な問題だが、ただ家族や仲間、友人としてポケモンが人間と一緒にいる分は問題ではない)。この免許があればその者にポケモンバトルを行う権利が認められ、様々な行政によるサービス−ポケモンセンターでの無料の治療や食事、宿泊や通信インフラの使用、ポケモンの健康診断など−が受けられる。
この免許を携帯できる資格は二つある。一つ目は年齢で、トレーナーズ・スクール卒業時の年齢に合わせられて、12歳以上と法律で定められている(それ未満の子供は、親の保護管理の下でポケモンと過ごすことができる)。そして二つ目は、受験者の身元が明白である事だ。大抵の場合は学生証や保険証、或いは運転免許や住民票でこと足りるが、既に雫の身の上話を聞いているペトラは、それらが彼女に無い事を知っている。前者の条件はクリアしているが、後者は然るべき事務処理を役所で済ませない限り、雫には受験する資格が与えられない(とは言え、恐らくカンザキが職権を濫用してでっち上げるに違いない)。また、仮に受験資格を得てもその専門の講座を指定された時間数だけ受講しなければならない。それ故に、今すぐ雫がその資格を得ることは不可能である。

だが、その事をみなまで雫に言うべきか。

ペトラはその事を悩んでいた。まるで子犬のように目を輝かせてペトラに助言を求めている雫を見た彼女は、言いようの無い罪悪感を覚えていた。ポケモンが欲しければナナカマド博士や陽に掛け合えばポケモンやポケモンの卵を譲り受けることは可能だ。しかし、そのポケモンを健康にかつ安全に育てるには資格が必須である。それを持たない雫がポケモンを譲り受けても、それは自動車の無免許運転と何ら変わらない。流石に友人を犯罪者にする気はそうそうにないペトラ、だが彼女の期待に満ちた眼差しは彼女に「ノー」という言葉を口にする事を憚らせている。そんな彼女が黙考の末に辿りついた考えは・・・・

「____後にしませんか」

「____なんでよ」

問題の先送りである。物を壊した子供が親に叱られる事を忌み嫌い、それを隠して叱られるという不可避の出来事を少しでも未来の事にしようとしているいかようである。ペトラのそのような言葉に雫は頬を微かに膨らませると、訳を彼女に尋ねるがペトラは余所見をしたまま閉口していた。彼女らの視界の端では、ケイに関節技を極められて身動きの取れない希一の姿があった。




雫達のいる湖畔から200メートル程離れた森の中に、武装したエイブル達の姿があった。彼女は手にしたマシンピストルの愛称で知られるH&K MP5(警察や特殊部隊でも愛用されている高い命中率を誇るドイツ製の短機関銃だ)の30発入りの弾装を確認して、安全装置を外すと小型のヘッドセットに付属しているマイクに向かって囁いた。

「こちらハンター、全隊準備はできたか」

『こちらスナイパーA、スタンバイ』

スナイパーAと自身を呼んだ男、いや既にカンザキによって首を圧し折られた筈のニコライの声がヘッドフォンから響き、エイブルはそれに満足そうに頷くと続く部下達の報告に耳を傾けていた。それらは何れも準備が出来ていることをエイブルに知らせて、それに歪な笑みを貼り付けたままエイブルは口を開いた。

「さてと、いよいよ作戦開始ですぅぅ。例の娘は生け捕りに、他は消しなさいぃぃ」

ULTIMATEにとって、それなりに重要な作戦である筈だが、それを直前にしてエイブルは普段と何ら変わらない間延びした口調のまま部下に命じた。彼らはそれに大きく頷くと、各々の手にした銃器に弾を装填して、腰のホルダーに付けられていたモンスターボールを地面に向かって投げた。全部で二十近くあるモンスターボールの中からは様々なポケモンの影が現れ、それらは湖畔に佇んでいる雫達を見て低い唸り声をあげていた。

「神の御加護を・・・」

エイブルが囁いた瞬間、彼女の脇に控えていた数匹の黒いポケモン−大型犬と同等の体格を有する黒い身体に白い肋骨のような模様が目立つヘルガーだ−が微かに頷くと、一気に駆け出した。四足歩行の彼らは地を這う影のように素早く移動すると、その自慢の筋力を存分に使い、瞬く間に雫達との距離を詰めた。木々の合間を黒い影が走りぬけ、それらは湖畔の付近に飛び出した。それを見届けたエイブルは、続けて手を軽く振った。それを合図に青い体毛に黒の鬣が特徴的なライオンのようなポケモン、レントラーの集団が駆け出した。ヘルガー達が雫に感づかれないように彼女達を包囲している間に、レントラー達は万が一雫達が逃げ出す際に備えて退路を塞いでいた。だが、雫は低い唸り声をあげながら牙を剥く彼らの存在に全く気が付いておらず、むしろ楽しそうにペトラ達と笑っていた。
隣でアサルトライフルの安全装置を外す音がして、エイブルはそちらを見た。そこにはサディストの眼で雫を見ているユーリの姿があり、彼は舌なめずりをすると発砲するタイミングを今か今かと待っていた。ユーリはニコライと同じ国の出身だ。年は彼の方がニコライより一回り下だが、それでも技術は彼と同等のものであった。元は祖国の特殊部隊に所属していた彼は、とある作戦で無抵抗の民間人を誤って、いや故意に射殺して不名誉除隊となった。この事からわかるように、ユーリはテロリストの中でも一際人間を甚振る事に快感を覚える男であった。西に反抗勢力がいれば自慢の技術で皆殺しにして、東に非武装の民間人がいれば足を撃ち抜いて逃げられない様にして、ナイフで無抵抗の彼らを甚振り殺した。幼児嗜好のニコライとは違った意味で異端の男は、国際警察にも指名手配されており、彼の首には『正義のための報奨金プログラム』の名の下で30万$の懸賞金がかけられている。それほどの危険人物が、すぐ近くの木々の合間から雫を狙っているのだ。
やがてヘルガーとレントラーの混合部隊は雫達を鼠も逃げられる隙間も無く包囲した。それを視認して嘲笑を顔面に貼り付けているエイブルの周りでは、四人のテロリストが各々の手にする銃器を準備すると、彼女の合図を待っていた。

そんな彼らを見回したエイブルは、不気味な色の唇を歪めながら手を振り下ろした。

その瞬間、ヘルガーとレントラーの牙が、雫達に向かって剥けられた。音も無く木々の合間から飛び出した彼らは風の様に素早く間合いを詰めると、先頭を駆けていた一匹のヘルガーが、その灼熱の牙で背を向けて立っている希一の首筋に噛み付こうと飛び掛った。だが、希一はその存在に全く気が付いておらず、雫やペトラと話しながら笑っていた。そしてヘルガーの牙が希一の首筋に突き刺さる寸前に、希一の身体は突然地面に倒れこんだ。いや、立っていた彼の脇腹をヘルガーに気が付いたケイが蹴り飛ばしたのだ。肋骨は折れないが、それでも少年を蹴り飛ばす程の威力に調節されたケイの蹴りが希一の脇腹に当たり、吹き飛ばされた彼は地面の上を転がった。その直後に、今まで希一の首筋のあった空間をヘルガーの牙が噛み締め、その攻撃は空振りに終わった。だが、希一は突如現れたヘルガーの攻撃に眼を丸くしたまま仰向けに転がっており、そんな彼を狙い、別のヘルガーの攻撃が迫ってきていた。呆然と固まっていた希一だが、ヘルガーが飛び掛ってくる寸前に腰のホルダーに付いているモンスターボールを空に投げた。ヘルガーの黒い身体が希一の上に覆いかぶさる直前にボールの中から姿を現したキングは、自慢の豪腕でヘルガーの開かれた顎を殴りつけると、地獄の番犬の身体を吹き飛ばした。それにより、このヘルガーは白目を剥き、戦闘不能に陥っていた。
そして希一を噛み殺そうとして空振りに終わった先頭のヘルガーは、牙を剥いたまま着地すると、そのまま四肢に力を込めて雫に襲い掛かった。いきなりの襲来に全身を硬直させているペトラの脇をすり抜けたヘルガーは前足で雫の両肩を突き飛ばすと、強引に雫の細い身体を仰向けに倒すと、その剥きだしの白い喉笛に喰らい付いた。いや、牙を雫の皮膚を穿つ寸前で止めたヘルガーは、そのまま雫の眼を見た。それは「少しでも反抗したら噛み殺す」という意味だという事に、雫やペトラは直ぐに気が付いた。
そこに、別のヘルガーが襲い掛かった。鋸のように鋭い牙を剥きだしにした彼らは硬直しているペトラに襲い掛かった。それにペトラは眼を限界まで見開くと、恐怖で動けないまま襲い来る彼らを見ていた。だが、そんな彼らの身体を横から突如伸びてきた幾本もの蔓が雁字搦めにした。その中には雫の喉笛を噛み切ろうとしたヘルガーの姿もあり、その黒い肢体は瞬く間に漁師に捕まった鮫のように空に吊り上げられると、そのまま大地や湖面に叩きつけられた。喉笛を噛み切られそうになる危機から解放された雫は、そこを抑えながら起き上がると、蔓が延びてきた方向を見た。それはケイの相棒であるドダイトすの雲雀の仕業であった。友人と幼馴染がヘルガーに襲われている事に気づいたケイは、何時の間にか外に出していた雲雀にヘルガー達を拘束する様に言ったのだ。雲雀の攻撃により湖面に叩きつけられた何匹かは戦闘不能になり、湖畔の大地に叩きつけられた三匹はふらふらになりながらも再び雫達に襲い掛かろうとした。だが、そんな三匹を雲雀の地震が襲った。悪・炎タイプのヘルガーが地面タイプ一致の、攻撃力に長けた雲雀の地震に耐え切れる筈もなく、あっという間にその身体は大地に沈んだ。
次の瞬間、何本もの雷が晴天の湖畔に降り注いだ。それらは既に体力の尽きたヘルガーの身体をも吹き飛ばし、辺りに轟音を鳴り響かせた。突然の事に雫は耳を押さえて、その場に屈み込んだ。それに続いてペトラと希一、それにケイも屈んだ。そこに次の落雷が襲い掛かった。閃光が閉じられた瞼の上から網膜を刺激して、雫は視界に幾つもの影が横切るのを感じていた。それはレントラー達の仕業であった。十数メートル離れた場所から屈んでいる雫達やキングを狙い、電気タイプのレントラー達は雷を落としたのだ。その技は威力が大きい代わりに当たり辛い事で知られているが、これだけの数のレントラー達が間も無く雷を落とせば、雫達に直撃するのは時間の問題であった。

だが、無慈悲に雷を打ち落としていたレントラー達の青い身体を、雲雀の蔓が吹き飛ばした。鋼・岩タイプのキングとは違い、草・地面タイプを有する雲雀に電気タイプの技が通用するわけも無い。例え落雷が直撃しても無傷の雲雀は、ケイの声(雫や希一には聞こえないが)に従い、容赦無くレントラー達の身体を吹き飛ばした。赤子の手を捻る、という慣用句があるが、今の光景は正しくそれであろう。レントラー達も雲雀の存在に眼に見えて焦りだすと、雫達を狙い闇雲に雷を放った。だが、雲雀は自慢の蔓を高々と掲げると、落ちてくる雷を一身で受け止めた。所謂避雷針の役割を果たす蔓がレントラー達の雷を地面に逃がしてしまい、悪戯に彼らの体力を消費させるだけであった。そこに雲雀の蔓が襲い掛かり、数秒後にはレントラー達も全滅した。

「・・・いったい何なのよ」

この間僅か三十秒足らずの出来事であったが、雫の理性を掻き乱すには十分過ぎる所業であった。黒い犬に喉笛を噛み切られると思いきや、次の瞬間には青いライオンの雷が辺りに落ちる。いきなりの出来事に雫は心に抱いた言葉をそのまま口にしていた。

「__それより、誰ですか!?人を殺そうとしたのは!!」

ポツリと呟く雫とは裏腹に、ペトラは大声でそう叫ぶと辺りを見回した。その間に希一とケイはキングと雲雀を呼び寄せると、付近を警戒していた。ペトラの叫び声は湖一帯に響き渡り、それに雫は耳を塞ぎながら眉根を顰めた。

「あれぇぇ、アイツらは失敗したんですかぁぁ?」

そこに流暢な女の声が響いた。

雫はその声に反応して森の方を見ると、そこには一人の女の姿があった。片手にモンスターボール、反対の手にマシンピストルを持った、迷彩柄のコンバットスーツに迷彩柄のマスクを身に纏う女の全身は筋肉の鎧で包まれており、彼女はマスク越しに雫達を見ると冷笑を浮かべた。

「えぇと、事務総長の娘とご友人方で間違いないですかぁぁ?」

「_____違うと言ったら?」

エイブルの問いかけに雫は試すような口調で返した。それにエイブルは鼻で笑うと、手にしたマシンピストルの銃口を雫達に向けた。それにペトラは気丈に睨み、希一とケイは黙ったまま女、いや彼女の背後の森を睨んでいた。そして雫は冷静を装いながらも内心激しい焦りに駆られていた。先ほど、エイブルが口にした言葉はどう考えても雫の事を指していた。つまり、彼女の狙いは雫という事もすぐにわかった。雫達が今いるのはシンジ湖の湖畔だ。もしエイブルの意識が他所に向いた瞬間に湖目掛けて、或いは森目掛けて全力で逃げ出せば、雫一人なら助かるかもしれない。今までの彼女なら周りの人間を見捨ててでも一人で逃げ出しただろう。だが、今の雫の周りには失いたくない人間がいる、守るべき人間がいる。そんな雫が一人で逃げ出せる筈があるだろうか、答えは否だ。
だからこそ雫はエイブルに試すようにして問いかけたのだ。もしかして彼女が雫を別人と勘違いしてくれたら、四人で逃げられるかもしれないという甘い彼女の希望であった。

「別人ならぁぁ、大変申し訳ございませんがぁぁ・・・死んでください」

エイブルは淡々と言った。そして、雫がそれに反論する前に彼女はマシンピストルの引き金を引いた。それにMP5は精確に反応すると、銃口から毎分800発という発射速度で9×19mmパラペラム弾を毎秒400mの速さで吐き出した。エイブルがマシンピストルを発砲するのと同時に、彼女の背後の森から四人のテロリストが雫達目掛けて手にしたマシンガンやアサルトライフルを発砲した。
その銃弾は、呆然と立ち尽くす雫達に襲い掛かった。眼前から飛来する鉄の刃に雫は反応できずにいた。だが、それらが彼女の身体をボロ雑巾のように切り裂く寸前にキングが彼らの前に飛び出すと、その巨体で飛んでくる銃弾から雫達を守った。カンカンとキングの鋼の身体を銃弾が叩く甲高い音が湖畔に広がり、それに我に返った雫は慌ててペトラの手を引いた。産まれて初めて聞く銃声に、現実と理解できずにいたペトラは雫のおかげで危うく飛んできた銃弾に当たりそうになった。その横で、希一とケイはキングの陰に隠れながらも、エイブル達の方を覗き見ていた。そこにはエイブルの他に森の中から姿を現した四人のテロリストがおり、いずれも銃火器で武装している。

「たく・・!何なんだよ、アイツらは!」

「知るわけないでしょうが!」

毒づく希一に、ペトラはそう返した。幾ら希一が凄腕のトレーナーとはいえ、銃火器で武装したテロリストを目の当たりにして冷静にポケモンに攻撃の指示を出せるわけが無い。何より、仲間に人殺しはさせたくない筈だ。それはケイも同じであるらしく、銃弾に抵抗のある鋼タイプではない雲雀をモンスターボールに戻すと、身を屈めながら飛んでくる銃弾の嵐に耐えていた。
そんな中、雫は一人状況を観察していた。敵は銃火器で武装しているテロリストが五名、恐らく森から出てきた事を考慮に入れると、森の中にもまだテロリストはいるかもしれない。仮にいるとすれば、姿を現さない以上、それは狙撃手の可能性が非常に高い。雫の危惧は当たっており、実際に森や雑木林、果ては湖の対岸にエイブルの配下が狙撃ライフルを手に隠れていた(もっとも、既に彼らはカンザキや隊員によって始末されているが)。そしてテロリストの狙いは雫だ。反撃も出来ない以上、この状況を打開できる策は一つしか存在しない。

「・・・みんな、あいつらの狙いは私だから、私が囮になっている間に逃げて___」

雫は響き渡る銃声に負けない声量でペトラとケイ、そして希一に言った。雫のその言葉に彼らは互いに顔を見合わせると、雫の顔を見返した。確かに雫は状況を精確に分析して、テロリスト達の目的を見抜いていた。だが、彼に雫が彼らに頭を垂れても、果たして残った三人をテロリストが生かして帰すという保証は何処にも無いのだ。このような非常識的な状況で、雫は常人以上に状況を分析してみせた。惜しむべきは、もう少し非情な現実に眼を向けなかったことだろう。
数秒間、誰も喋らずに屈みこんでいた。その間に銃弾はキングの身体を遠慮無く傷つけ、彼はくぐもった声を微かにあげた。

「___悪いけど、それは却下だから」

そんなキングの身体を撫でて、励ましの言葉をかけた希一は雫の提案を両断にした。

「流石にこんな状況で逃げられる訳がないでしょうが・・・」

希一の言葉に賛同の意を露にしたのはペトラだ。彼女は希一の言葉をフォローするような事を呟くと、キングの陰からエイブル達の方を盗み見た。その隣でケイもペトラと希一の意思に首肯すると、雲雀のボールとは別のモンスターボールを手にした。
だが、雫はそんな三人を信じられないといった眼で見ていた。

「敵は五人・・・現役チャンピオンならどうやって打開しますか?」

「そうだな____ポケモンバトルなら一番に戦力の分散を考えるぞ」

「ちょ・・ちょっと待って!!」

ペトラの問いかけに、ポケモンバトルに長けた希一は打開策を口にした。だが、それは直ぐに横槍を入れた雫によって遮られ、二人とケイは怪訝そうな顔(ケイは無表情だが)で彼女を見た。

「私が囮になるから逃げてよ___」

「いや、だからね・・・話聞いてた?」

「それは却下と言ったでしょうが___」

雫は悲痛な声をあげた。ずっと一人で生きてきて、大人や子供、同年代の人間から蔑ろにされてきた雫にとって、希一達は初めての友人だ。そんな彼らが殺されるくらいなら、自身が代わりにテロリストの下に行けば良いと雫は考えていた。
だが、希一はそんな雫の言葉に呆れた表情で返すと、逆に問い返してきた。ペトラもまた希一と同様に呆れたような口調で溜息を漏らすと、雫を見た。そんな二人を雫は納得できないといった表情で見ていたが、それは横から伸びてきたケイの手によって壊された。

「ぅ、ふが・・・!」

ケイの金色の瞳がまっすぐ雫の蒼い瞳を捉えていた。いきなり頬を抓ってくる彼の手を払おうと、雫は手をあげたがそれは希一によって妨げられた。

「何で雫ちゃんが犠牲になる必要があるんだよ」

『マジで生意気なんだよ!死ね!』

あの路地裏で、不細工な顔の同級生に言われた言葉を雫は思い出した。

「どうせアイツらに捕まっても大丈夫という保証も無いですし、何より目撃者を生かしておくような連中に見えませんよ」

『こんな不細工でもよぉ、一応生きてんだぜぇ?』

ペトラの言葉とは別に、不良ぶった少年の言葉が雫の脳内に響いた。

「・・・」

無表情のケイが彼女の眼を心配そうに覗き込んでいた。彼の表情は微かに曇っており、それは雫が始めて見たケイの表情の変化だったかもしれない。

大丈夫。

何も言わない、何も話さないケイの口から、そんな言葉が放たれたような気がした。

三人の言葉は、本心からのものであろう。だからこそ雫は彼らを守りたかった。特殊な出自の自身に普通に接してくれている彼らを。それなのに彼らは雫の気持ちを無視して、あくまでもテロリストに抵抗しようとしている。普通に考えれば、出会ったばかりの雫を犠牲にして既知の仲である三人で逃げ出すであろう。だだ彼らはそんな一般論とは掛け離れた言動を取ると、呆然としている雫を無視して打開策を模索している。

『何も心配しなくて良いですよ』

ふと雫は先ほどカンザキに言われた言葉を思い出していた。それは彼なりの三人についてのコメントだが、雫はその意味をよく理解できずにいた。
だが、このような状況になって初めてそれを理解できたかもしれない。

彼らはあなたを迫害しない、あなたを蔑ろにしない、あなたを見捨てない、だから何も心配しなくて良いですよ。

カンザキはその三つを言いたかったかもしれない。

(私って・・・ホントに馬鹿だよね・・・)

信じられる友人に出会えたのに、何故彼らを信じなかったのか。失いたくないと思いながら自身から距離を置こうとしている。何故なのか、それは関係が壊れる事を雫が恐れていたからだ。折角出会えた気の置けない彼らとの仲を壊したくないからだ。だからと言って、自身が犠牲になる事を選ぼうとしていた雫は愚か者である。その時になって、彼女はそれを自覚できた。

哲学の用語に、『ヤマアラシのジレンマ』というものがある。『自己の自立』と『相手との一体感』という二つの欲求によるジレンマで、寒空にいる二匹のヤマアラシが互いに身を寄せて暖まりたいが、針が刺さるので近づけないというとある哲学者の寓話から来ているそうだ。
特にこれは心理学では前述の否定的な意味と『紆余曲折の末に、両者にとってちょうど良い距離に気づく』肯定的な意味がある。今の雫は正しくこの寓話のハリネズミであった。関係が壊れる事を恐れてなかなか近づけずにいた。だからこそ、これからは心理学のヤマアラシになれば良い。考えてみれば非常に単純な話だ。

その事に気がつけた雫は、愚者から一歩踏み出せたのだ。

ぼんやりと内心で自責の念に駆られていた雫の隣で、何かを思いついたのか希一は唐突に口を開いた。

「さてと・・・俺とケイでアイツらを足止めするから、雫ちゃんとペトラは先に逃げてくれ」

「は?」

希一の言葉に、ペトラは呆けた声を返した。それに雫も何らかの反論をしようとしたが、それはケイの手によって遮られた。彼の表情はまっすぐ希一を見ており、彼の考えを既に察しているようだ。

「別に俺達が囮になるわけじゃねぇよ。ヤツラが雫ちゃんを狙っているなら、ソッチに戦力を割くよな」

「まぁ___普通はそうですよね」

そこから希一は端的にペトラと雫に作戦を説明した。彼のポケモントレーナーとしての勘が五人のテロリストのうち厄介なのはエイブルとユーリの二人だけと判断したそうだ。ならば、その二人に雫達を追わせて、残りの三人を即座に倒して雫達を追う二人を倒そうというものだ。それはとても単純な作戦で、下手すれば子供でも思いつきそうなものであった。

「____大丈夫なの?」

それを聞いて心配そうな表情を浮かべる雫。だが希一は彼女に笑いかけると自身ありげに頷いてみせた。

「ペトラの黒江のテレポートを使えば、四人全員は無理でも二人くらいなら逃げられる筈だ。アイツらは雫ちゃんを狙っているなら必ず強いトレーナーが追うはずだ」

「・・・なら、私達はマサゴタウンとは反対方向に逃げますか」

希一の言葉にそう返したペトラは、キングの身体に回復用のスプレーをかけながら言った。彼に黒江−緑色の身体に白いスカートが特徴的な雄のサーナイト−の力でマサゴタウンに逃げて警察や研究所にかけこんでも、逆上したテロリストが街中で銃を発砲するかもしれない。それなら人里離れたシンジ湖の対岸を目指して逃げれば余計な犠牲者を出さずに済む。
ふと、雫はキングの身体の陰からテロリスト達を覗き見た。彼らは銃を発砲しながらキングの方へと歩み寄っており、既に雫達との距離は短くなってきている。そのような危険な状況でも、希一とケイは諦めずに反撃の機会を伺っている。

「死なないでね・・・」

雫が二人にかけられる言葉はそれ位しかなかった。希一とケイはそれに黙ったまま頷くと、ペトラと拳を交わした。そして希一は傍に落ちていた小石を拾うと、それを湖の水面目掛けて投げた。小石は弧を描きながら飛んでいき、音をあげて湖面に落ちた。それはほんの小さな音であったが、テロリスト達の意識を集めるには十分であった。

「行け!」

希一が叫んだ瞬間、ペトラはボールからサーナイトの黒江を出した。彼は不快そうに眉根を寄せたまま辺りを見回すと、状況を理解したのかペトラと雫の手を掴むと、一瞬の内に姿を消した。それは、テロリストの目にも留まっていた。

「ユーリ!」

エイブルは彼の名前を叫ぶと、モンスターボールから彼女の相棒を外界へと出した。蒼いに白い斑点、紫色の鬣を有するそのポケモンは高らかな叫び声をあげると、エイブルを背に乗せて駆け出した。それに一瞬遅れたユーリもまたモンスターボールから赤いポケモンを出した。炎の鬣を有する馬のようなポケモン、ギャロップは前足を掲げて威嚇するように鳴くと、ユーリを背中に乗せて駆け出した。
そして残ったテロリスト達は手にした銃を発砲しながら、希一達との距離を詰めてきた。既にキングのダメージもそれなりの段階まできているため、希一達は早いうちにケリをつけなくてはならない。

もっとも、この決断は彼らにとって最悪なものとなったが、それを知るものは誰もいない。

シンジ湖に、幾つもの銃声が響いていた。



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