マサゴタウンの北側に広がる大きくも小さくもない海岸にて。

ナナカマド研究所から少し歩き、神藤夫妻宅を過ぎた向こうにある海岸に、複数の人影がある。

「ダブルバトルのフリールール、道具無しで良いか!おっさん!」

「OK、先に二匹とも倒した方の勝ちだな」

水際と平行になるように互いに向き合っている希一とカンザキは、各々の手にモンスターボールを握り締めたまま立っていた。この寒空の中、希一は二の腕までしか袖の無いシャツにジーパンという、短パン小僧がそのまま成長したような格好でいた。対するカンザキはストライプのカッターシャツに黒のスラックスと、ネクタイを外してジャケットを脱いだ格好だ。互いに向き合っている二人から十数メートル離れた砂浜には、カーディガンを羽織った雫とお揃いのジャケットを着ているペトラとケイの姿がある。三人は辺りを走り抜ける北風に身を震わせながら、これから始まるポケモンバトルに備えて距離を於いたのだ。

先に希一が言ったように、社会にルールがあるのと同様にポケモンバトルにもルールが存在する。それを大きくわけると一対一のシングルに始まり、二対二のダブル、三対三のトリプルバトルになる。三種類のバトル形式には、ポケモンリーグの公式ルールに則った公式バトルと、トレーナー同士が気軽にバトル際に使われるフリーバトルが存在する。前者はバトルのフィールドから使用ポケモンや技の数、道具の有無など事細かに規定されている。逆に後者は使用ポケモンと大雑把なフィールド以外は特に規定が無い、ケース・バイ・ケースなバトル形式である。大会などの公式の場では公式バトルのルールが使われるが、今回のように非公式の場では、フリーバトルのルールが適用されることが多い。そして、希一の出した今回のバトルのルールは、使用ポケモン二体のダブル、フリーバトルだ。

「それで私が勝ったら雫さんが水着姿に、君が勝ったら彼女に告白する権利でいいな」

「おう!」

「・・・もう好きにしてください」

研究所で唐突に出てきた仰天な案件に、雫は既に諦めモードに入っていた。仮にカンザキが勝てば雫にとって屈辱(?)の水着姿を人前に晒す事になるが、希一が勝てば彼が雫に告白してくるだけで済む。どうせそれを断る気でいる雫にとっては、まだ希一が勝った方が彼女にとって都合が良い。かと言って雫は態々声を大にして彼を応援する気が無い。早い話が、被害者面をしているが雫も観客を決め込んでいたのだ。

「それじゃぁ、この石が砂浜に落ちたらバトル開始の合図ですよ」

ナナカマド博士が研究の疲れに備えて常備しているホットココアの缶を傾けながら、片手に持った小石を掲げたペトラは言った。それから漏れる甘いチョコレートのような香りが北風に運ばれて、雫の鼻を擽った。彼女の言葉に希一とカンザキは頷くと、ホルダーに付いているモンスターボールを二つずつ手にした。それを両手に持ち、対峙した二人は互いの目を見ながらペトラの合図を待っている。まるで西部劇の映画のようなシチュエーションが浜辺に展開していた。それは重苦しい空気を生み出し、甘い香りを運ぶ北風など瞬く間に打ち消した。あっという間にそれは十数メートル離れた場所に立っている雫達にも届き、彼女達は自ずと閉口せざるを得なかった(最も、ケイは黙ったままだが)

(凄い・・・・)

黙ったままペトラの合図を待つ二人の目は、真剣その物であった。例え非公式のフリーバトルとは言え、ポケモントレーナーとしての矜持が彼らに敗北という二文字の屈辱を決して赦さずにいる。片や活動力に溢れた明朗な少年トレーナー希一、片や静かに鎮座している青年トレーナーカンザキ。爪を磨ぐ勇猛な獅子と敵の喉笛を噛み切らんとする虎が睨み合い、その威圧は雫に言いようの無いプレッシャーを感じさせ、彼女の全身を呑みこんでいた。野生のポケモンとのバトルや、その辺にいるトレーナー同士のバトルなら雫もここまで空気に呑まれることは無かっただろう。だが、そこにいたのは幾度もポケモンリーグを制覇した凄腕のトレーナーだ。全国のポケモンリーグだけではなく、リーグの実力としては最高峰のセキエイ高原すら制した現役の直情なトレーナーの希一、対するは国連からスカウトを受けるほどのバトルの実力を持つ姑息なトレーナーのカンザキ。そんな二人のバトルに、息を呑まない方が無理な話である。
北風が二人の間を吹き抜け、場を沈黙が支配する。それは雫の顔に正面から拭き付け、彼女は僅かに目を細めた。そして、北風が吹き止んだ直後に、ペトラは手にした小石を空に投げた。重力による枷に逆らうそれは、ペトラの腕を離れて青空目掛けて駆け上っていた。だが、初速が零になり重力と拮抗した瞬間に、小石は空に停止した。一瞬の間、小石は空に停滞していたが、それは直ぐに地球の中心目掛けて自由落下を始めた。物理学の法則に従い、毎秒9.81メートルの割合で速度変化していく小石は、音も上げずにペトラの足元の砂の上に落下した。

それと同時に、希一とカンザキは手にしたモンスターボールを虚空に投げた。

計四つのモンスターボールが砂浜の上空を飛び、ほぼ同時にその中から『何か』が飛び出した。それぞれ大小四つの影が飛び、希一とカンザキの中間辺りでぶつかった。赤い光が収まった頃、そこには雫が始めて見る生き物が三匹いた。二つの小さい影の内の一つは前に雫が見た事のあるポケモン、ルカリオのルークだ。そのルークに大木すら真っ二つに出来そうなほど鋭利に輝く爪を突き立てているのは、白い細長い胴体に幾多の模様が目立つポケモン、マッスグマのポン太だ。ポン太の爪はルークの首を狙って突き立てられているが、それをルークは鋼の拳で防いでいた。互いに真っ向からぶつかった二匹は、その強靭な脚力から生み出された初速が互いのそれを殺し、逆に斥力となった。それにより二匹の身体が微かに離れた瞬間、ルークはその太い足でポン太の腹部を蹴ると、その勢いでカンザキの前まで跳躍した。ルークの蹴りを喰らったポン太は、その勢いを殺さないままクルクルと空中を飛ぶと、同じ様に希一の前で着地した。
ルークとポン太の二匹が組み合った際に、二匹の足元の空間では二匹の『怪獣』がぶつかっていた。空中でルークとポン太が衝突した際には、大した音はしなかったが、この二匹の怪物、いや山のように大きな緑色の身体のポケモン、バンギラスのソウエンと見るからに打たれ強そうな骨格に重厚な鎧のような外殻を持つポケモン、ボスゴドラのキングが衝突した瞬間、爆弾が耳元で爆発したような錯覚を覚える程の轟音が砂浜に響いた。その衝撃は凄まじく、二匹の衝突によるエネルギーが足元の砂を吹き飛ばし、二匹を中心に砂のカーテンができる程であった。その際に、ソウエンは自身の大木のように太い腕から放たれる、戦車砲並みの威力を有するパンチ(人間に当たると、頭が潰れたトマトのようになる事が避けられない程のパンチだ)をキングの顔目掛けて放った。それは慎重がほぼ同じの二匹だからこそ、巨体のキングの顔にソウエンの手が届いたのだ。だが、キングはソウエンのパンチを紙一重で避けると、ソウエンの腕を掴んで力任せにその巨体を『投げ飛ばした』。二メートルを超えるその巨体は空中を泳ぐと、大型トラックが壁に正面衝突したような音を響かせながら砂浜に落下した。その衝撃で大量の砂が空に舞い上がり、それから身を守るために二の腕を顔の前に出していたカンザキは口内に入った少量の砂を吐き出した。

「ルークは神速、ソウエンは地震!」

砂を吐き出したカンザキの命令を耳にした直後、ルークは文字通り『消え去った』。彼の速度は人間が視認できる速さを遥かに上回っており、雫の視界から消え去った直後にポン太の眼前に現れた。その余りに速過ぎるルークの神速にポン太と希一は息を呑んでいたが、そんな彼らに反撃を赦す暇も無く、ルークはその鋼の拳でポン太の胴体を殴りつけた。そしてルークは拳がポン太の胴体に触れると同時に、ポン太の弱点で格闘タイプの技であるはっけいを放った。だがルークの相手は幾度も殿堂入りを果たした希一の相棒である。ポン太は独自の判断で素早く後ずさると、ルークの拳から放たれるであろう一撃の威力を最小限まで殺した。そのため、ポン太に一撃を決めるつもりでいたルークは微かにバランスを崩した。傍から見れば気づかぬ程度の動きであったが、ポン太はそれを見逃さずにクルリとその場で回転すると、自慢の尾を鋼鉄化させて相手に叩きつける技、アイアンテールをルークの顔面に叩き付けた。ポン太の思いのほか素早い動きにバランスを崩していたルークは、ポン太のその一撃を避けられずに、それはルークの右の頬に直撃した。常人が喰らえば頬骨だけではなく頚椎も粉砕する威力の技だが、生憎な事にルークは鋼タイプを持ち合わせたポケモンだ。そのため、ポン太のアイアンテールはルークの口内を僅かに切る程度で終わった。大きく仰け反ったルークは、口内に染み出した血溜りを足元に吐き出すと、アイアンテールを放ったポン太が体制を整える前にその強靭な脚力を使い、空に飛び上がった。そのコンマ数秒後に体制を整えたポン太がルークの影を追いかけて上空を仰いだ頃には、既にルークの手中には波導ぼエネルギーが溜まっていた。
元来、波導は極一部の人間やリオル種やルカリオ種といったポケモンのみが司る事のできる物だ。万物は全て独特の『気』を有しており、それを利用して周囲の景色や相手の感情を捉えられるのは数多のポケモンの中で、リオル種とルカリオ種、或いは波導使いと呼ばれる人間だけだ。そしてルークはこのルカリオ種であり、この波導のエネルギーを弾丸として放つ技が『波導弾』だ。万物の有する気を利用している事もあり、またその命中率は対象の気を波導弾が追跡する事もあり、他の技に比べると比にならないほど高性能である。そしてその威力は、余りに高い命中率を利用しようとした米軍が試しに戦車に向けてルカリオ種に波導弾を放たせた際に、戦車が大破したと言われる位だ。前大戦時や戦後に歩兵が戦車を破壊するための兵器として、様々な物が開発されてきたが(ドイツ軍のパンツァーファウストやソ連軍のRPGなど)、波導弾はそれらを嘲笑うかのように対象を破壊してきた。その波導弾のチャージには通常では数秒のタイムラグが生じるが、ルカリオ種、しかもカンザキのポケモンであるルークはそのタイムラグが生じる前にチャージを終えると、空中で静止した瞬間に幾つもの波導弾を放った。青白く輝く光線が地上で上空を仰いでいるポン太に降り注ぎ、瞬く間にその白と茶の身体を飲み込んだ。その威力は砂浜、延いては大地を微かに振動させて、足元を掬われた雫は隣に立つペトラの肩に思わず凭れかかった。そして、地上に降り注いだ波導弾によって生じた砂埃は、沖合いから届く潮風によって何処かに吹き飛ばされていった。ルークは砂埃の上空から自由落下し、それにカンザキが目を細め、砂埃に隠された周辺の状況を把握しようとした時、唐突に希一は口を開いた。

「穴を掘る!」

その声に応えるかのように砂埃の中心付近が微かに揺らいだ瞬間、煙を分断する勢いで飛び出したポン太が重力による自由落下で身動きの取れないルークに牙を剥いた。その短い足から想像もできない高さまで跳躍したポン太は、身体中に静電気を纏わせながら驚いて目を見開くルークに突撃した。ルークの放った波導弾が砂浜の表面を抉る直前にポン太は持ち前の素早さに物を言わせて地中に潜ると、波導の雨が止む時を虎視眈々と狙っていたのだ。そして、翼を持たないルークが自由落下で身動きの取れなくなった瞬間に地中で静電気を身体中に発生させたポン太はルークに襲い掛かったのだ。空中で思うように動きの取れないルークは腕を眼前で交差させると、ポン太の攻撃の威力をできるだけ殺そうとした。だが、それを先読みしていた希一とポン太はルークのガードを無効化できる技、即ち『電磁波』を彼に向かって放ったのだ。マッスグマはスピードが最も長けており、それに次いで体力と攻撃力が長けている。そんなポン太が特殊技である電磁波を放つとは、カンザキの読み違いである。ポン太の体当たりで電磁波を喰らい、身体を十分に動かせられないルークは空中で衝突したポン太の身体を掴むと砂浜目掛けて投げつけた。投げ飛ばされたポン太は、クルクルと落下しながら体制を整えると、そのまま砂浜に着地しようとして『失敗』した。ポン太の足が砂浜に触れる直前、彼の足場が急に崩れたのだ。まるで紅茶の中に入れられた角砂糖のように唐突に壊れた砂浜に足を取られたポン太は、嵌った後ろ足を砂の中から出そうともがくが、逆に足は砂の中に飲み込まれていくだけである。イレギュラーな出来事に希一は舌打ちをしながらその原因であるソウエンを見た。
バンギラス種は攻撃に秀でており、他の能力も優れているが、その体格の関係から素早さで劣るきらいがある。それは技の繰り出す速さにも依存しており、ルークが神速でポン太に接近していた頃にソウエンは地震を繰り出そうとして、実際に繰り出されたのは二匹の攻防の終盤であった。その間、同じく速さが劣るボスゴドラ種のキングも弱点の地面タイプの大技である地震の発動を阻止しようと、砂浜の上を駆けてソウエンに肉薄した。だが、平地での機動力に劣るポケモンが、移動しづらい砂浜の上を高速で動けるわけも無く、結果としてソウエンの地震は時間差で発動した。鋼と岩という、地震はキングにとって鬼門の組み合わせの技である。しかし、これが平地でのバトルなら致命傷に成りかねないが、ここは砂浜である。それ故にソウエンの放った地震は思うようなダメージをキングやポン太に与えられず、牽制といった感覚の攻撃になった。
間合いと時間を稼いだソウエンは、迫りくるキングを退けると一旦場を立て直すためにルークが着地するのを待った。本来のバトルなら、足を取られて動けずにいるポン太は絶好の獲物であるが、麻痺と自由落下で動きが制限されるルークや砂浜で思うように動けないソウエンは無理な追撃より態勢を整えることを選んだのだ。それはキングも同様であり、下手にソウエンに攻撃をしかけて移動に時間をかけるよりは、ポン太が砂の中から這い出るのを待った方が賢明と考えていた。そしてルークが砂浜に着地したタイミングと、ポン太の身体が自由になったタイミングは、奇しくも同じであった。それはカンザキと希一が各々のポケモンに新たな指示を与えるタイミングでもあったが。

「キング、ラスターカノン!」

「ソウエン!」

希一の声に、キングは高らかな雄たけびをあげた。それはどこまでも響き、周囲の野生のポケモン達の背筋を震えさせる声量であった。キングが雄たけびをあげると、まるでそれを待っていたと言わんばかしにポン太が駆け出した。四匹の中で最も体重の軽いマッスグマ種であるポン太は、体格や重量、そしてタイプの関係で上手に動けない三匹とは裏腹に、砂浜の上を滑るようにして駆けると、ルークとソウエンの前に飛び出した。それにカンザキはソウエンの名前を高らかに叫ぶと、彼女はキングにも負けない声量でその性別に似つかわしい雄たけびをあげた。その瞬間、ソウエンの足元を中心に砂浜一帯が砂嵐に覆われた。バンギラスの特性、砂起こしである。鋼タイプのルークやキング、岩タイプのソウエンには無害な現象であるが、ノーマルタイプのポン太にとってはじわじわと体力を削るイヤらしい技である。状況に大きなターニング・ポイントが見られない以上、場を掻き乱す事を考えたカンザキの苦肉の策である。それはカンザキや希一だけではなく、二人から離れた場所で見学していた雫やペトラ、ケイも巻き込んで当たりを薄茶色の空間に染め上げた。それに彼女達は目元を腕で覆いながら、少しでも砂嵐の猛攻から逃れられるようにと揃って屈んだ。だが、当人であるカンザキと希一は僅かに目を細めると、相手のポケモンが砂嵐で何処にいるのかわからないままバトルを続けるためにその場に踏み止まっていた。視界の大半を砂嵐が埋め尽くしてきた頃、目を閉じて持ち前の波導で周囲を探っていたルークは、迫りくるポン太の影を捉えることに成功した。それと同時に、脳内に浮かび上がった波導のよるイメージを頼りに、ルークはポン太が次に現れるであろう空間目掛けて波導弾を放った。だが、それはポン太や砂嵐の向こうにいたキングの放ったラスターカノンによって相殺され、その周囲の砂嵐を一瞬だけ吹き飛ばした。

砂嵐が吹き飛ばされた狭小の穴の向こうに、ポン太の白い影が見えた。

それを視認したルークは、ポン太を追撃するためにその影目掛けて走り出そうとした。その隣では、キングの執拗なまでのラスターカノンの連射に黙って耐えていたソウエンが、彼を挑発するかのように雄たけびをあげた。

「今だ!」

その声は彼女の持つ戦闘本能があげさせたものであった。だが、それは皮肉にも砂嵐でソウエンやルークの所在を希一に知らせる鐘の音となった。希一の声にキングは大声で応えると、撤退してくるポン太を支援するために先ほどの地震で地表に露出した砂中の岩を拾うと、砂嵐の中にいるソウエンとルークを狙って投げつけた。しかし、それらが視界が不明瞭な砂嵐の中にいる二匹に当たるわけも無く、単なる牽制の意味で終わった。

だが、希一の狙い−ポン太がキングの下に戻るまでの時間稼ぎ−は成功した。

波導を司るルークならまだしも、砂嵐で視界が不明瞭なソウエンは突如砂嵐の中から現れた投擲された岩から身を守るために、その場に踏み止まりガードに徹した。そんなソウエンを支援すべく、ルークもポン太を追撃する事を諦めると、波導で迫りくる岩石の位置を掴むと、ソウエンに当たる前に破壊した。飛来してくる全ての岩石を打ち落とす頃には、既にポン太はキングの所まで下がっており、二匹はルークとソウエンから十分な距離を稼いでいた。砂嵐の風が拭き溢れる中、希一の奇妙な言動にカンザキは首を傾げたが、その狙いに直ぐに気が付くと、ルークとソウエンにその場から逃げるように叫ぼうとした。

「逃げ・・」

「草結び!」

カンザキの声は希一の叫び声に掻き消された。彼の声を耳にしたポン太は、ソウエンやキングに遠く及ばないが、それでも同族に比べると覇気のある声を張り上げると、砂嵐を睨みつけた。次の瞬間、砂嵐の中にいたソウエンとルークの鳴き声が砂浜に響いた。

「うわぁ・・・」

そして砂嵐が徐々に止んでいき、雫が見たのは現れた幾本もの太い蔓の数々、そしてそれにより四肢の動きを制限されているルークとソウエンの哀れな姿である。先ほど、ポン太が砂嵐に乗じてルークとソウエンに接近した際に、彼は二匹の足元に草結びの核となる種子をばら撒いたのだ。自慢の毛並みに隠されていたそれらは二匹を取り囲むようにして撒かれると、後はポン太の合図によって同時に成長して最寄の二匹に襲い掛かった。希一の策は見事に決まり、ルークとソウエンは動きを封じ込められたまま、砂浜の上で全く動けずにいた。そんな二匹を見た希一は「よっしゃぁ!」と喜びの声を上げると、自信に満ち溢れた顔でカンザキを見た。

「どうだおっさん!俺の勝ちだぜ!」

ちゃっかり雫にウィンクしながら高らかに宣言する希一とは裏腹に、カンザキは黙ったままソウエンとルークを見ると、おもむろに口を開いた。

「まだ戦えるが?」

だから何だ、と語尾に嫌味を込めながらカンザキは希一に言った。それに彼は微かに眉根を寄せると、先に決まったこのバトルのルール−二匹とも倒したら勝ち−を思い出した。まだ、ルークとソウエンの意識はあり、二匹ともキングとポン太を睨んでいた。その視線に対してポン太は油断せずに相手の出方を伺っており、キングは二匹に止めを刺すために岩タイプと鋼タイプの共通の弱点、地面タイプの大技である地震を放とうとしていた。
キングが地震を放つ直前、虚空を呆れたような眼差しで仰いだカンザキはポツリと呟いた。

「引き千切れ」

文字にするとほんの五文字で終わる命令に、ソウエンは目を輝かせて忠実に応えた。緑色の外殻に覆われた腕を振りかざすと、彼女は電柱程の太さの蔓を文字通り『引き裂いた』。自身とルークの身体に絡み付いている蔓を力任せに、強引に引き裂いたソウエンは、そのまま砂浜から生えている蔓の根元を引き抜いた。そこはかなり太く、概算でも直径一メートルは下らない蔓を引き抜いたソウエンは、それをポン太とキング目掛けて振り回した。そしてソウエンの力技でルークの身体を拘束していた蔓に歪が生まれ、彼は柔軟な身体に物を言わせて蔓の拘束から抜け出した。キリストの如く磔にされていたルークは、着地するのと同時に駆け出して、ポン太とキングとの間合いを一気に詰めた。それにポン太は汎用性の高い必中の技として名高いスピードスターを、キングは足元に転がっている先ほどの岩の破片の中でも鋭利な物を利用するストーンエッジで迎え撃とうとした。正面から突っ込んでくるルークを狙い、二匹が技を放とうとした瞬間、ソウエンの振り回す蔓が二匹の間に落下した。まるで振り子時計の錘のように振り回されるそれは、キングの足元に転がっていた他の岩の破片を『粉砕』してみせた。それにより、キングは地震を放つ事を中断しなくてはならなかった。ソウエンが振り回しているのは決して不良の使う金属製のチェーンやカウボーイが愛用する牛皮の鞭ではない。

ただの、植物の蔓である。

にも拘らず、ソウエンの振り回す蔓は、それらを遥かに上回る威力を有しており、岩石くらいなら容易に粉砕できる。重量の有る、鋼鉄の身体を有するキングならまだしも、細身が体重の軽いポン太がそれを喰らえば屠殺される家畜よろしくミンチになるだろう。ソウエンによる蔓の一撃に、キングは防御の構えを取ってその衝撃に耐えて、ポン太は咄嗟に感じた生命の危機に無意識の内にそれから逃げていた。岩を粉砕して、砂浜に大きな陥没鉱を作る蔓、いやソウエンの腕力にポン太は背筋に冷たい何かが駆け抜けていくのを自覚した。だが、驚いて硬直しているポン太を尻目にキングはその蔓を太い二の腕で掴むと、力任せに思い切り引き寄せた。それによりソウエンの身体−体重が200キロを軽く超える巨体−が僅かに空を飛び、轟音と共に砂浜に沈んだ。その重さが堪えたのであろう、流石のキングも若干息を乱しながら砂の中に沈んだソウエンの緑色の身体を見ていた。
海岸に転がる小さな緑色の小山を飛び越える影がキングの視界に写ったのは、その直後であった。ソウエンの蔓による攻撃にポン太が行動を起こすのに躊躇して、キングがソウエンを迎撃している間に間合いを詰めたルークは、固まっているポン太を無視して、放たれたライフル弾のような勢いで迷うことなくキングに襲い掛かった。

「ルーク、インファイトだ」

虎は静かに命じた。

素早さに劣るボスゴドラ種のキングが、攻撃と速さに長けたルカリオ種のルークの突撃を防げる筈が無い。あっという間に肉薄したルークは、反射的に振るわれたキングの拳−コンクリートの塊を易々と破壊できる拳だ−の軌道を見切ると、上半身を右に傾けてそれをギリギリのタイミングで避けた。頬を拳が掠める音がルークの耳に届くが、彼はそれを一切意に介さず、加速したままキングの胴体に殴りかかった。鋼の拳がキングの黒い胴体に吸い込まれ、鈍い音をあげながらその巨体を数歩後退りさせた。だがルークの追撃はそれで終わらない。キングの胴体に打ち込んだ拳と反対側の拳で同じくキングの胴体を殴ると、彼の腹を駆け上がった。垂直の壁を走る忍者のようにキングの腹を駆け上ったルークは、彼の顎目掛けてサマーソルトキックを放った。顎を強かに打ちつける音、そして衝撃と共にキングの視界には幾つもの星が飛び散った。同時に強引に視界は青空を向き、その勢いでソウエン以上に体重のあるキングの身体は後方に傾き、彼の意識は電源の切れたテレビのようにぷつりと切れた。その眼前で、ルークはクルクルと空を回転しながら着地に備えていた。

だがルークが相手にしていたのは打たれ強さと破壊力に定評のあるボスゴドラ種のキングだ。途切れかけた意識を寸前の所で繋ぎ止めたキングは大きく一歩後ずさったが、ぐりんと勢い良く顔を起こして猛獣のような目でルークを見た。まさか鋼・岩の複合タイプを持つキングが格闘タイプの最高クラスの威力を誇るインファイトを耐えるとは予想していなかったルークの驚愕の眼差しが、キングの鋭い眼孔に映っていた。ルークのインファイトは確かにキングを沈めるだけの威力を有している。だが、今の彼はポン太の電磁波により身体が麻痺しており、通常より数割減の威力のインファイトしか放てなかったのだ。それを知らないルーク、そしてそれに気づいたカンザキは時間が異常にゆっくりと進んでいるように感じられた。だが実際には時間は通常と何ら変わらないペースで進んでおり、カンザキがルークの防御の体制を取るように指示するのと同時に、希一は大声を張り上げた。

「ギガインパクト!」

後方に僅かに引かれたキングの拳が、空中を落下しているルーク目掛けて放たれた。

「鉄壁!」

それに遅れること零コンマ数秒後、カンザキが叫んだ。ルークはそれに気づき、慌ててボディを守るようにして両腕を胴体の前で交差させるが、それと同時にキングの凄まじいパンチが放たれた。
人類は過去から現在に至るまで、様々な兵器を開発してきた。それこそマスケット銃やライフル銃、機関銃にミサイルなど多岐に及ぶ。その中に、歩兵が戦車を破壊する際に用いる武器として、対戦車ライフルがある。これの発展型に対物ライフルがあるが、これは人体を掠めるだけでその部位を根こそぎ『奪い去る』威力を持っている武器だ。腕を掠めれば半身が無くなり、頭に当たれば夏の風物詩であるスイカ割りが何時でも見られる。キングの放ったギガインパクトのパンチには、それすら上回る威力があった。ルークは咄嗟に守りの技の鉄壁でカバーしたが、対物ライフル並みの勢いで放たれたキングのパンチは、ルークの細い身体を吹き飛ばした。常人が当たれば、上半身と下半身が泣き分かれする威力の一撃だが、鋼タイプのポケモンであるルークは吹き飛ばされる程度で済んだ。
だが、ルークの蒼い身体は砂浜の上をジェット機のような勢いで飛ばされると、そのまま砂浜に接触して大きくバウンドした。まるで墜落する飛行機のような動きでルークの身体は空に弾かれ、そのまま倒れているソウエンを超えて落下した。砂埃が大きく舞い、それは希一やキング、ポン太の視界を奪った。やがてそれが止み、後に見えたのはその威力で出来上がった大きなクレーターの中心で倒れているルークの姿であった。

「・・・流石はおっさんの鍛えたポケモンだぜ」

吹き飛ばされたルークを見ながら、希一はポツリと呟いた。カンザキはそれに手を振って応えると、クレーターの真ん中でゆっくりと起き上がるルークの姿を見て笑っていた。キングのギガインパクトがルークに当たる直前に、彼は鉄壁を発動させるのと同時に僅かに後方に身体を動かしていた。それにより、ギガインパクトの威力は最大限より幾分か弱まり、そしてルークが落下した砂浜がクッションの役割を果たした為に、ダウンせずに済んだのだ。だが、既に体力はギリギリの所まで追い込まれているのは目に見えてわかる程ルークは疲弊しており、蔓を手放して起き上がったソウエンはキングとポン太の二匹を睨みつけていた。

(さて・・・)

声には出さないが、カンザキはこの勝負の結末を予想して、どうするべきか考えていた。彼がバンギラスのソウエンとルカリオのルークを選んだ理由は、攻防に優れたソウエンを速さと小回りに長けるルークがサポートする戦略を描いていたからだ。だが、砂浜という悪条件で戦うなら彼のポケモンには他にも攻守に長けた者がいる。しかし、ソウエンなら砂起こしという特性で砂浜の環境を最大限に活用でき、尚且つそれは鋼タイプのルークの吉となる。それに対して、希一もまた攻守に長けたボスゴドラのキングとサポート役のマッスグマのポン太を選択した。つまり、二人の描いた戦略はほぼ同じであった。
だが、サポート役のルークが既に倒れかけており、このままではソウエン一匹でキングとポン太を相手にしなくてはならない。砂浜という状況で、速さに大きく劣るソウエンがポン太を補足する事は難しいのは明白だ。仮にルークとキング、ポン太という図式なら、スピードでキングを翻弄しながらポン太と戦うことも可能だ。しかし、それはあくまで絵空事。現状のままではルークがダウンすることは明らかで、砂浜でいつも以上に動けないソウエンのみでキングとポン太を倒すことはかなり苦である。

何より、カンザキは大人だ。

昔の血気盛んな彼なら躍起になってバトルを続行するが、結婚して家族のいる今の彼は勝負の結果よりも仲間が傷つく事を重視している。それは、この勝負の結末を意味していた。

「私の負け、だな」

身構えているルークと、何時でも攻撃できる体勢を取っているソウエンを見ながら、カンザキは良く通る声で言った。それは公の場で演説する際の声と似通っており、雫や希一の耳に十分届くものであった。それにまだうら若いルークは信じられないといった表情を浮かべるが、カンザキと長年の付き合いであるソウエンは彼の意図を理解して拳を下げた。それを見たポン太とキングも希一が指示するよりも速く勝負の体勢を解くと、身体を伸ばしながら希一を見た。

「___苦戦したぞ」

「やっぱり現代のチャンピオンには勝てないか」

恨めしげな眼差しで睨んでくる希一に歩み寄ったカンザキは、苦笑いと共に彼の拳に己の拳を軽くぶつけた。(ポケモンバトルの後は、相手に敬意を払うために握手をする事が普通だ。だが既知の仲であるカンザキと希一のように、握手の代わりに拳をぶつけ合ったり腕を組んだりする者もいる)カンザキの言う通り、希一は普段からバトルばかりしている現役のポケモントレーナー、延いてはリーグチャンピオンである。一方のカンザキは最近では仕事の合間に少しバトルをする位で、その手腕は錆付いていた。昔は歴戦のトレーナーであった彼も、ブランクと若手のトレーナーには勝てずにいた。

「しかし雫さんの水着姿が拝めないのは残念だな___」

「私としては嬉しいけどね・・」

とりあえず寒空の下で水着姿を披露せずに済んだ雫は、残念そうに見てくるカンザキに悪態をつきながら束の間の平和を心の内で祝っていた。それを毛ほども知らないカンザキは、雫に告白する権利(直ぐに振られる事は目に見えているが)を手に入れた希一の喜ぶ様を見ながら、持っていた応急処置用のスプレーをルークとソウエンにかけていた。パートナーそっちのけで雫に向かって駆け出す希一の姿を同情するような、見限ったような眼差しで見ているポン太とキングの身体にも、彼はそのスプレーをかけて応急処置を施した。

「相変わらず落ち着きの無い子供だな___」

笑いながら溢すカンザキの言葉に、ポン太とキングは否定の意を表せる程、間抜けではなかった。現に二匹は彼の言葉に触発されて溜息を漏らすと、キングは肩を落としてポン太は希一から目を反らしていた。そんな二匹を笑いながら見ていたカンザキは、遠くから響く希一の叫び声と雫の悲鳴、ペトラの罵声を耳にしながら彼らの方を向いた。そこには喜びの余りに雫に抱きついて、ペトラに張り倒されている希一の姿があった。彼の近くには、無言で佇むケイの背中に隠れている雫の姿もある。

(まぁ、そちらの方が都合が良いけどな____)

そんな四人組を見ていたカンザキの目は、とても冷たいものであった。そこに人を人として見る当たり前の気持ちは微塵も無く、代わりに相手を『物』として見る色があった。それにはポン太やキング、そして波導を司り相手の気持ちを把握できるルークですら気が付かなかった。唯一、カンザキの後方にいたソウエンのみが彼の雰囲気が一気に変化している事に気が付いたが、彼女にとってはそれは何時もの事なので、特に指摘する気は無かった。
その冷たい眼差しのまま、カンザキは雫達の方に向かって一歩踏み出したが、その時には彼の目は普段と同じものになっていた。

「で、今度は何をやらかしたんだ?」

「この馬鹿が、雫にどさくさに紛れて雫にキスしようとしたんですよ!」

敬語で怒り口調という、一風変わった話し方をするペトラの返事に、カンザキは納得したかのように首を縦に動かした。その尻目には涙目でケイの背中から自身の背中に隠れようとしている雫の姿が映っており、過去の自身以上に手の早い希一にカンザキは呆れが礼に来ているのを実感していた。

「お前・・・それは流石にセクハラだぞ」

彼としては見知らぬ少年が逮捕されるのは至極どうでも良い話である。しかし、希一は恩師ナナカマド博士の孫である。そんな彼がセクハラで逮捕されてしまうと、恩師の名に傷が付くので、カンザキは口を挟む事にした。だが、それに彼は膨れ面で応えると、ポン太とキングをボールに戻しながらカンザキ、いや彼の背後に隠れている雫に向かって歩み寄ってきた。その際に、カンザキの背後に隠れている雫は彼のシャツの端を力強く握ってしまい、それにカンザキは顔を微かに歪めた。

「いや、でも・・・あれっすよ!俺は雫ちゃんに喜ばれると思った訳で____」

どうやらカンザキが顔を微かに歪めた事を、自身に対する誹謗の意と捉えた希一は、典型的な小物犯罪者の弁明の言葉を口ずさみながら足を止めた。カンザキは国連の幹部であり、様々な司法機関や諜報機関にコネクションがある事は博士の孫である希一も知っていた。そんな彼に睨まれた事により、自身の失態を咎められることを希一は恐れていたのだ(ならば最初から雫にセクハラしなければ良い話である)

「___だそうですよ、雫さん」

「・・・・・・知りませんよ」

どうしますか、という意味を暗に含んでいるカンザキの言葉に、雫は狐を前にして振るえる兎のように縮こまったままカンザキの背中に隠れていた。その時、カンザキは気が付いた。

雫の声が震えている事に。

(・・・失敗したな)

雫は老夫婦に預けられてからカンザキと会うまで、ずっと一人で生きてきた。そんな彼女にとっては冗談でも、異性に襲われかける事は恐怖以外の何者でもない。唯でさえ同性の友人が一人もいなかった彼女に、いきなり異性を、しかも抱きついて帰すをしようとする男を信じろというのはかなり酷な話だ。同じ異性でも、雫にとってカンザキは父親、或いは信用できる兄といった存在だ。だが、同年代の希一は過去に雫を苛めていた連中の事を彼女に思い出させるだけである。思わぬところで彼女を怖がらせた事に、希一だけでなくカンザキも罪悪感を覚えていた。同時に、それは彼にとってますます好都合な事象であった。

「___雫さん、ここは一旦冷静になりましょう。とりあえず、ペトラ達と一緒にシンジ湖に行ってみたらどうですか」

「__でも、大丈夫ですか?」

カンザキの提案に、雫は怯えた目で彼と希一を見た。それは再び希一に襲われることを危惧しており(しかし希一は冗談のつもりで雫に抱きついたのだ)、それをすぐに理解したカンザキは笑いながら雫の頭を撫でた。

「ペトラは乱暴者、ケイは無口、希一に至っては馬鹿なだけですから何も心配しなくて良いですよ」

傍から聞けば、失礼の域に当たる言葉を連発するカンザキの言葉に、雫は若干の怯えの色を隠せずにいたが、ゆっくりと自身の足で彼の背後から姿を現した。それは誰かに強要された訳でもなく、雫の意思による行動である。見知らぬ人間、特に異性に自身から接する事は、ずっと苛められてきて、一人で生きてきた彼女にはかなりの勇気のいる行動の筈だ。それでも雫は信頼しているカンザキの言葉に背を押されながらも、ゆっくりと三人の前に歩いていった。

「___えっと、その・・・よろしくね」

もじもじと恥ずかしそうに小声で雫は呟いた。そんな彼女を見た三人は黙ったまま立っており、数秒の間、奇妙な空気に場は飲み込まれた。三人の視線は遠慮なく雫に投げかけられており、それに萎縮したかのように雫は顔を下げると、彼らの返事を待っていた。やがて、何かを思いついたのか、はたまた沈黙に耐え切れられなくなったのか、ペトラは足早に雫の傍まで駆け寄ると、彼女の頭を『叩いた』。しかも平手打ちではない、喧嘩で相手を殴り倒すような勢いの拳で雫の頭を叩いたのだ。パシッではない、バキッという痛々しい音が砂浜に響き渡り、それに希一とカンザキは目を丸くしていた。ただ一人、ペトラの考えを理解しているケイのみは相変わらずの無表情のままで雫達を見ていたが。そして、これに一番驚いているのであろう、いきなり殴られた雫は痛む頭を押さえたままペトラの顔を見た。彼女の顔は何時も変わらない筈だが、その時の雫には何故か般若のように見えていた。

「あんた・・・いい加減にしろよ」

小声で漏れたペトラの言葉には、普段の敬語が一切見当たらず、彼女の言葉をうまく理解できず、痛みに悶えている雫の襟首を掴むと、そのまま顔を近づけた。

「いつまで被害者面してるんだよ、何上品ぶってんだよ、そこの木偶の坊がいなかったら何もできないのかよ」

まるでテレビドラマに出てくる不良のような口調で雫の襟首を掴んでいるペトラは小声で言っていた。だが、その声量は全く大きくないのに、雫は身体の底から恐怖が込み上げてくるのを実感した。それは腹の底を凍らせ、背筋を震え上がらせる程だ。そんなペトラの変貌振りに希一は頭を抱えており、木偶の坊と呼ばれたカンザキは若干落ち込んだような表情を浮かべていた。

「あたしはね、別にあんたの『周り』の事なんかどうでもいいのよ。ムカつくのはね、あんたが自分の意思で動かないからよ」

「え・・・」

ペトラの言葉に、雫の動きは止まった。考えてみれば、彼女がはっきりと自身の意思を表したのは、カンザキとあのアパートにいた時くらいである。元の世界に戻ってからの雫の行動はいずれも誰かに触発されたものだ。そして今もカンザキに促されてペトラ達と向き合った。どうやら彼女はそれが気に入らないらしく、雫に憤慨していた。その事を察した雫は、脳髄に響き渡る痛みなど直ぐに忘れてしまい、思わず至近距離にいるペトラの顔、いや彼女の目を見た。そこには、怒りというより人を案じる気持ちが見えており、彼女自身も雫を叩いた事を苦しんでいるのに雫は気が付いた。

粗暴なペトラは、彼女なりに雫を心配していたのだ。

そんな雫が彼女を案じて声をかけようとした希一とカンザキを制したのは最もな事であろう。そして雫はゆっくりと口を開いた。

「それなら、これがみんなに見せる初めての『意思』だね」

「は?」

雫が何の事を言っているのか理解できなかったペトラは少々間抜けな声を漏らすと、雫を見ていた。だが、彼女の視界はすぐに大きく歪むと、火花が飛び散った。次の瞬間、ペトラは砂浜の上に倒れていた。鈍い痛みが額に残っており、能がシェイクされたかのような錯覚を覚えながらも、彼女はいったい何が起きたのか理解しようと周りを見回した。彼女の視界の隅には、ポーカーフェイスを崩して目をまん丸と見開いているケイの姿があり、その反対側には硬直している希一とカンザキの姿があった。そして両者の中央には、目に涙を貯めたまま額を赤くしている雫の姿があった。ペトラが雫の言葉に呆気に取られている間に、雫は彼女なりの意思、いや仕返しをペトラにしかけた。それは至近距離での頭突きであるが、人を殴る事に慣れていない雫は遠慮も無くぶつけたために、彼女自身もその反動に涙を浮かべていたのだ。
今までの雫の振る舞いから予想もできない行動に、カンザキは頭を抱えて希一は口を開けたままペトラと雫を見ていた。そんな彼女らの近くには、何時の間にか普段のポーカーフェイスに戻っているケイの姿もある。そして雫は全員が自身を見ている事を流れ目で確認すると高々に宣言するように声をあげた。

「一発は一発だから!!」

雫の言葉は、一般的に言う『目には目を、歯には歯を』である。これはハムラビ法典や旧約聖書にも見られる言葉で、害を与えられたら、相応する報復を相手に与えることを意味している。それを実行した雫は、倒れたまま呆然としているペトラに歩み寄ると、彼女の手を掴んで強引に立ち上がらせた。雫のその行動に、カンザキや希一は再び雫がペトラを殴ると思い込み顔を強張らせ、ケイは無表情のまま立っていた。
だが、雫はペトラを立たせると、彼女の身体に付いている砂埃を払いながら彼女の手を取った。

「・・・これで、恨みっこ無しよね?」

目尻に涙を貯めながらもはみかむ雫の言葉に、ペトラは唖然とした表情のまま彼女を見ていた。ペトラに指摘されるまで受動的な言動が目立つ雫であったが、彼女の乱暴な思いやりに雫なりの意思を表したのだ。常識的に考えれば喧嘩になりそうな二人のやり取りに、他の三人は黙って見ているほかなかった。
そして、頭突きを喰らったペトラは、雫の顔を睨みながらも立ち上がると、黙ったまま彼女の手の平と自身の手の平をぶつけた。それはペトラなりの仲直りの行為であったが、長年の付き合いで熟知している希一やケイはそれを見て安堵の溜息を漏らした。二人のそんな反応から、ペトラの意思を読み取った雫は、未だに痛む額を押さえながらも再びペトラに笑って見せた。それは相手を嫌う気持ちや恨む気持ちが一切無い、とても無垢な笑顔であった。





「全く予想外だよ・・・」

雫とペトラが互いを赦してから数分後。

ソウエンとルークを引き連れたカンザキは歩きながらそう呟くと、手にしたスマートフォンを弄りながらマサゴタウンの外れを目指していた。あの後、改めて親交を深めた雫とペトラ、希一にケイの四人は揃ってシンジ湖に向かった。彼らと別れ、別行動に移ることにしたカンザキは、数分前の出来事を思い出して顔を歪めていた。カンザキは雫に対して少し過保護な面がある事を自覚していた。それが結果的に雫を受動的な行動を取らせて、それに腹を立てた乱暴者のペトラの怒りを買った際に、彼は肝が冷える事を覚えていた。まさか落ち着いた雫が粗暴なペトラに対して頭突きをかまして、あまつさえそれで親交を深めるなど、完全に彼にとって予想外なものであったのだ。それでも雫が年上の人間以外に本音をぶつけられる同年代の友人を得られた事は、カンザキにとっても嬉しい話である。

だからこそ、彼女を利用する事に多少の罪悪感を覚えていた。

「雫さんも案外お転婆だったとは___」

『・・・それは、朝霧事務総長に似たんでしょうか?』

「いや、あれは皐月さんに似たんだろうな・・・」

ルークの言葉にそう答えたカンザキは心当たりがあるのか、目を細めながら空を見上げた。白い雲が広がっており、時折吹き付ける北風が彼の身体を撫でていった。その中には、空を自由に飛びまわっている鳥の姿があり、大地を歩く事しかできないカンザキを見下すように彼の頭上で旋回していた。

「俺もよく皐月に泣かせられたからな___」

遠い過去の出来事を思い出したのか、カンザキの口調は普段の彼とは異なり、また皐月の呼び方も昔のものに変わっていた。そんなカンザキが懐かしんでいるそれはルークにとっては与り知れぬことで、彼は不思議そうに小首を傾げていた。それとは反対に、カンザキの言葉に心当たりがあるのかソウエンは溜息を漏らすと、カンザキの肩を軽く叩いた。ソウエンのそれで現実、そしてこれから待ち受けている『仕事』を思い出したカンザキは慌ててスマートフォンに目をやると、その液晶画面を指で触れた。そこにはどこかの航空写真、いやマサゴタウン周辺の航空写真が映っており、その一部を拡大したカンザキの目に、緑色と青色の点を引き連れて海岸付近を歩く黒い点が映った。それら、緑色の点はソウエン、青色の点はルーク、そして黒い点はカンザキだ。彼のスマートフォンに映っている航空写真は、今正に撮影されている映像であり、試しにカンザキが空を仰ぐと画面に映るカンザキも空を見上げていた。そしてカンザキ達のいる場所から幾分か離れた場所を拡大してみると、和気藹々と一緒に歩いている雫達の姿も画面に映し出された。

これは、高高度を飛んでいるUAV−無人航空機と呼ばれるカメラやセンサーを搭載した大きなラジコンの飛行機−から送られてきた現在のマサゴタウン近辺の映像だ。

端末を弄りながらカンザキは雫達の周囲の状況を見回すと、今度は彼が向かっている場所、マサゴタウンの外れを拡大しいた。そこには数台の黒いバンの屋根が映し出されており、その車列と雫達との距離を見たカンザキは薄ら笑いを浮かべた。そんなカンザキの傍にいるルークの表情は彼と異なり、どこか陰りを帯びていた。それに気が付いたカンザキは、ルークの蒼い毛で覆われている頭を撫でると、心配するなと謂わんばかしに穏やかな目をルークに向けた。

『・・・先ほどはバトルに負けてしまい、すいません』

「あれは私の判断で負けたんだ、別にお前達に非は無いさ」

そう言ったカンザキは足を止めると、後ろで沈黙を保っていたソウエンの頭の優しく撫でた。常人なら身長が2メートル強のソウエンの頭を撫でることは難しいだろう。だが、カンザキ自身も身長が190センチ近くあり、彼の手は簡単にソウエンの頭に届いたのだ。自身より小さな男に頭を撫でられることに、ソウエンは言いようの無いくすぐったさを覚えるが、それは不思議とそこまで不快なものではなかった。

「それに、本音を言えば希一が勝った方が好都合だったからな___」

『好都合、ですか?』

ソウエンの硬い頭を撫でながら呟いたカンザキの言葉に、ルークは疑問の目を彼に向けた。でが、カンザキはそれに曖昧な笑みで応えると、スマートフォンの画面に再び目を向けた。そこには先ほどよりだいぶ近くまで来ている車列の姿があり、数十秒足らずで合流できる事が容易く想像できた。

「あぁ・・・そういえば、アイツは今どこにいるんだ?」

車列を見ていたカンザキは、何かを思い出したのか傍に立っているルークにそう問うと、辺りを見回した。その行動から質問の意図を察したルークは、僅かな間、考え込むとすぐに口を開いた。

『今の時間なら、フタバタウンの近くの雑木林で自主トレをしている筈です』

「・・・ルークはアイツを呼んできてくれ」

カンザキの言葉にルークは大きく頷くと、音も立てずに跳躍するとフタバタウンの方向にある雑木林の中に消えていった。普通なら木々が揺れる音が鳴り響く筈だが、ルークの動きはそれすら赦さず、彼がそれなりの訓練を受けている事がわかる。ルークを見送ったカンザキはモンスターボールを手にすると、ソウエンに労いの言葉をかけながら彼女をボールの中に戻した。そのまま彼は歩き出すと、手にしたスマートフォンの画面を見た。車列は既にカンザキのすぐ近くまで来ており、背の高い草の向こうからバンのエンジン音も聞こえていた。やがて、草の陰から現れた、大手運送会社のロゴの描かれた車列はカンザキの目の前で停車した。そして助手席の扉が開き、中に乗っていた人物がカンザキの前に姿を現した。その人物、銃火器を手にした女性を前にしてカンザキは薄ら笑いを顔面に貼り付けたまま歩み寄った。

「作戦開始だ」

その短い言葉に女性は頷くと、手にした肉厚なナイフと銃をカンザキに手渡した。それを受け取ったカンザキは、マガジンの中身を確認して銃の安全装置を外すと、シンジ湖の方角を見た。
そちらには、何も知らない雫達がいた。信頼している悪人面の計画など露知らずな雫がいた。









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