雫がマサゴタウンに到着する十数時間前。

シンオウ地方の空の玄関口、コトブキ国際空港。

国際空港と呼べる空港は国内に数えられる程の数しかないが(残りは地方の小さな空港ばかり)その中でもこのコトブキ国際空港はシンオウ地方唯一の国際空港であるために、自ずとその規模は大きくなっている。高度経済成長期に登場したボーイング社のジェット旅客機B-747__ジャンボ機の愛称で親しまれている機体も十分に離着陸が可能な3500m級の滑走路を四本も有しているアジア圏の一大ハブ空港である。北の大地の空の玄関口であるこの空港は、国際線国内線の他に貨物機などの離着陸も可能になっており、文字通り空の生命線である。そして、このコトブキ国際空港の最大の特徴は、シンオウ地方の一大都市であるコトブキシティから高速道路や鉄道で直結している、アクセスの良さである。たいていの国際空港を冠する空港は、その規模の関係上、都市部を離れた郊外に建てられることが多い。しかし、このコトブキ国際空港の建てられているシンオウ地方は、地価が元来他の地域に比べて安いため、このような空港の建設が可能である。
そしてこのコトブキ国際空港の国際線ターミナル。そこに十数人の集団の人影があった。

洒落たデザインの国際線ターミナルビルの到着ロビー。駐機場に停められている機体がよく見えるように広くデザインされた強化ガラス製の窓からは、夜空に羽ばたいている輝く鋼鉄の鳥の姿が幾つも確認できた。鳥たちは爛々と輝く満月の明かりの下、空港のあちこちで輝いている灯りを頼りにアプローチをしかけている。そんな姿を窓越しに見ている子供たちは歓喜して、はしゃいでいる。中にはその子供たちを煩わしそうに見ている待合客もいるが、大半の者は文句を口にしないのは民族柄か。

そんな空間で一人経済紙を読んでいた白髪で二十代半ばの男性がいた。上物のスーツ姿の男性は到着の便や予定時刻を表している電光掲示板を見上げると細い手首に巻かれた腕時計と見比べて、望みの便がそろそろ到着する事を確認した。手にした経済紙を傍のラックに戻すと、男性は重い足取りで立ち上がり飛行機の搭乗口に繋がるゲートへと足を運んだ。やがてゲートの上にある『サンタモニカ701便』という表示を視認した男性は、ゲートの奥から響く喧騒に耳を傾けていた。ざわざわという人の話し声に続き、ゲートを一番に走り抜けていったのは小学生くらいの兄弟であった。それ後を保護者であろうか、まだ若い夫婦が苦笑いで空港職員にお辞儀をしながら追いかけていた。彼らに続いて何人もの乗客達がゲートを通過して、北の大地へ足を踏み出していた。それは観光かビジネスか、はたまた人に会うためかはっきりとはしない。やがて、乗客達の中に混じり、十数人の人間が揃ってゲートに姿を現した。彼らは服装や手荷物はばらばらだが、揃って険しい目つきをしており、絶えず辺りを警戒していることが伺える。男性は、そんな彼らに近づくと先頭を歩いているレザーコートの茶髪の女に話しかけた。

「『猟犬は何を望んでいる』」

白髪の男性に突然意味不明な事を話しかけられたレザーコートの女性は、にんまりと毒々しい色の口紅の塗られた口元を歪めた。

「『ヴェルトロは少女の臓物を喰いたいそうだ』」

レザーコートの気味の悪い言葉に白髪の男性は頷くと、顎で付いてくるように示した。白髪の男性を先頭に、レザーコートの女性他怪しい人影十数人は国際線ターミナルを足早に抜けて行き、ターミナルビルのエントランスに駐車してある四台のワゴン車に分乗した。その車体には一つの王冠を奪い合う二匹の黒豹、イルクーツク・カンパニーの紋章が描かれている。そしてその内の先頭を走っているワゴン車の車内に白髪の男性とレザーコートの女性は座っていた。

「私はこの国の現地法人のイルクーツク・ジャパンの専務、セルゲイだ」

隣に座っているレザーコートの女性に当てた白髪の男性の言葉に、女性は小さく頷くと車外を流れていくネオンの灯りを見ていた。それはとても美しいもので、女性の毒々しい口紅とは似つかぬものである。そして少しの間を置いて、今度はレザーコートの女性が口を開いた。

「あたしはULTIMATEの実働部隊ぃ、ヴェルトロのエイブルでぇ、後ろの傷の男は副官のユーリとニコライですぅぅ」

やたら間延びした口調のレザーコートの女、エイブルの言葉にセルゲイは後ろの列に座っている二人の男を見た。片や左目に深い傷のあるユーリと呼ばれた大男、片や顔の右半分に痛々しい龍の刺青の彫ってあるニコライと呼ばれた男が彼に浅く礼をした。セルゲイもそれに頷いて応えると、そのままエイブルの方を見た。先ほどは空港内を駆け足で歩いていたから気づかなかったが、レザーコートの下には隆起した筋肉が見られ、彼女の身体は相当鍛えられていることがわかった。

「それで今回の作戦の事だが、詳細は同士オルロフから聞いているか?」

「はぃぃ、事務総長の一人娘を拉致るんですよねぇ」

どこぞの使い捨てカメラのような口調で軽々しく物騒な言葉を口走るエイブルを、セルゲイは苦々しい表情で見ていた。見た感じ、自身より年上に見えるエイブルだが、その口調はまるでこの国の女子高生そのものである。痛々しい口調にセルゲイが米神を押さえていたが、エイブルは涼しげな表情のまま彼の横顔を見ていた。

「流石に今日は北欧からの長旅で疲れましたのでぇ、宿で一休みしますねぇぇ。作戦は明日に決行しますのでぇ、それまでにこれを用意してくださいぃぃ」

エイブルの言葉を耳にしたセルゲイは、彼女の差し出した紙切れを受け取った。揺れる車内でその紙切れ、いや必要な道具のリストを見たセルゲイは顔を強張らせた。

「・・・・何だこれは。戦争でも始める気か?」

「イルクーツク・カンパニーは武器売買にも手を出していますよねぇ。だったらぁ、それくらい用意できますよねぇぇ」

エイブルの言い分は正論であった。ヒュドラと表現できる程の規模を有するイルクーツク・カンパニーなら、彼女の望む物も容易く用意できる。それはイルクーツク・カンパニーの幹部であるセルゲイなら、十分理解している。だが、それでも彼女の望む物を用意する事に抵抗があるのか、セルゲイは渋い顔つきのまま隣に座る彼女を見ていた。それに気づいたエイブルは、毒々しい色の唇を大きく歪ませると、魔女のような醜悪な笑みを浮かべた。

「勘違いしないでくださいよぉ、今回の案件はイルクーツクの取締役会の意志でもあるんですからぁ」

「・・・わかっている」

その言葉を最後に、セルゲイは黙り込んだ。彼がリストを懐にしまったことを確認したエイブルは、良心の葛藤なのか、目を伏せている彼を見て嘲笑を浮かべていた。車内にはエンジンの動く音のみが響き、時折車体が細かく揺れていた。それから半刻程が過ぎた頃、四台のワゴン車はコトブキシティのビジネス街にある格安のホテルの前に停車した。そこはセルゲイがオルロフからの指示で用意していた、エイブル達実働部隊の為の宿であった。ワゴン車から降りて各々の荷物を手にしたエイブル達は、ガラス張りの自動ドアの向こうに消えていった。その幾つもの背中をセルゲイは憎憎しげに睨むと、運転席に座っている細身のオールバックの男に車を出すように指示した。

「____クソッ」

セルゲイの口から漏れた一言に、運転席の男は心配そうな顔で彼を見ていた。それに気づいたセルゲイは、彼に他所を向くように指示すると、苛立ち混じりに溜息を漏らした。それは自身の所属しているイルクーツク・カンパニーが子飼いのテロリストに非人道的な事を命令しているからか、それともエイブル率いる薄気味悪いヴェルトロの面々に対する嫌悪感なのかははっきりしない。だが、現地法人の専務であるセルゲイに、取締役会に口を出せる筈もない事だけは明白であった。

「・・・薄気味悪いテロリストめ____」

苦い表情のまま、セルゲイは外界に広がるコトブキシティの摩天楼を見上げた。どこまでも伸びている暗い天は、そんな彼を飲み込もうとしているようであった。




エイブル達が入国して数十時間後。

マサゴタウン、ナナカマド研究所前。

田舎町であるフタバタウンとマサゴタウンを繋ぐ手段は、アスファルトで舗装されていないただ一つの獣道しかなかった。豊かな自然に恵まれているシンオウ地方では町と町を繋ぐ道が整備されていない事など別に珍しくも無い。現にこの二つの田舎町を繋いでいる獣道は、左右を雑木林に囲まれた環境にある。だが道幅自体はそれなりにあり、自動車や小型バスくらいなら十分に通れる幅を有している。またフタバタウンとマサゴタウンは地理的にも近く、車で三十分もかからない距離である。そしてマサゴタウンの入り口近くにあるナナカマド研究所。そこにマウンテンバイクに乗った子供の姿があった。

「それで、レポートの言い訳は思いつきましたか?」

白いブラウスに黒いネクタイ、黒いスカートという服装のぺトラは、苛めっ子のような笑みを浮かべながら苦悶の表情を浮かべる希一を見ていた。それは見る人によっては可愛らしい子悪魔のようにも見えるが、今の希一には極悪非道の閻魔大王の笑いに見える。それを重々承知のいぺトラは、隣で青いマウンテンバイクにチェーンをかけているケイの背中に寄りかかりながら、けらけらと笑っていた。

「最悪だよ・・・未だに一文字も書いてねぇ・・・」

そう毒づきながら頭を抱える希一の服装は、黒髪の上に白の帽子を被っており、茶色のハーフパンツに二の腕まで袖のある赤いシャツを着ていた。彼もケイと同じようにマウンテンバイクに鍵をかけると、そのまま近くの壁に額を当てて、ナナカマド博士に対する言い訳を懸命に考えていた。そんな希一を白けた目で見ていたのは、所々目癖のように金色の髪の毛が跳ねているケイだ。白いダウンジャケットに青いジーパンと、かなりだらしない格好のケイはマウンテンバイクの傍で立ち上がり、それにより彼の背中に凭れかかっているぺトラはバランスを崩して地面に転がった。「フギャッ」と猫の鳴き声のような物が彼女の口から飛び出して、その小さな身体は芝生の上に横になっていた。

「___頼む!爺さんに一緒に謝ってくれ!」

「だが断る」

パンッ、と顔の前で手を合わせて頭をさげる希一を、芝生の上で仰向けに倒れているぺトラはにべも無く一蹴した。

「鬼!悪魔!人でなし!」

「あんたの自業自得でしょうが」

そんなぺトラに希一は思いつくままに悪口を並べるが、ぺトラはそれを歯牙にもかけず、淡々とした口調で流していた。そして差し出されたケイの手を掴むと、彼女は芝生の上から起き上がった。

「だいたいジョウト地方のポケモンの生態を全部レポートに纏めると豪語したのはあんたでしょうが・・・」

「いやぁ、なんつーか、言葉のあや?」

あまりに情けない、あまりに無様な希一の言葉に、ぺトラは溜息を漏らした。こんなぐうたらな少年が、ジョウト地方やホウエン地方、シンオウ地方のポケモン・リーグだけではなく、全国のリーグの頂点であるセキエイ高原を制した凄腕のチャンピオンなのかとぺトラは何時もの癖で疑っていた。
普段から彼の傍にいるマッスグマのポン太も、ふざけた名前に反して凄まじい実力の持ち主であることも事実だ。ぺトラもケイもポケモントレーナーとして、それなりに自信はあるが、そんな彼女らでもポン太に勝てた事は一度も無い。それほどの実力の持ち主が、まさかレポート一つ纏められない程のぐうたらな人物であろうとは。

(全く情けない・・・)

笑いながら頭をかいている希一を、ぺトラは半ば呆れたような目で見ていた。だが、そんな希一も一度ポケモンバトルとなれば、鬼のような強さを発揮する。能ある鷹は何たらとよく言うが、この希一を表すのにこれ以上最適な言葉は他に無かった。
その時、ぺトラの全身を影が覆った。

「お前ら何してんだ・・?」

彼女の耳に、まだ若い青年の声が届いた。自分の両親よりは若いがケイや希一よりは年上とわかるその声は、ぺトラ達には当に聞き慣れている者の声であった。その姿を予想しながら彼女が声のした方を振り向くと、そこには彼女の想像通りの青年が立っていた。赤のメッシュの混じった金色の長髪をニット帽の中にしまっている精悍な顔つきの青年、ナナカマド博士の助手でシンオウ大学助教授の陽が怪訝そうな顔で彼らを見ていた。カーゴパンツに厚手のシャツに軍手という格好から、どうやら陽は研究所の外回りを掃除していたらしい。

「希一がナナカマド博士に出すレポートがまだ終わってなくて、言い訳を考えているんですよ」

「あ〜、なるほど・・・」

彼女の言葉で事態を把握した陽は、出来の悪い教え子を叱る教師のように苦笑いを浮かべていた。そのことからも、希一が博士に課せられた課題を完遂させないことは、どうやら一度や二度ではないようだ。その証拠に、希一は陽の声を耳にして油の切れた機械人形のような歪な動きで彼の方を振り向いた。

「こ、こんちわ〜」

「__たく、お前はいったい何時になったら学習するんだよ」

ニット帽と軍手を外した陽は苦笑しながら希一の頭を小突いた。それに希一は誤魔化す様な笑いを顔面に貼り付けるが、その本心を目ざとく見抜いた陽は彼の頬を軽く抓った。

「ぺトラちゃんもケイ君も久しぶりだな、元気にしてたか?」

「・・・・・」

「相変わらずですよ、とケイは言っています」

私も相変わらずですが、とぺトラは付け足すと頬を抓られている希一の顔を見た。変に歪んでいる彼の顔からは普段のハンサムといえるそれが全く見られず、若かりし頃のナナカマド博士の面影も一切見られない。ぺトラの視線でそれに気づいた陽は気づかぬうちに力の篭っていた手を離すと、歪んでいた希一の頬を解放した。結構痛かったのであろうか、僅かに目尻に涙を浮かべた希一は陽に抓られた箇所を撫でていた。そんな希一に小声でスマンと謝罪した陽は、僅かな声で「う〜ん」と唸ると顎先に指を当てた。

「確か博士がお前達を呼んだのは、客に会わせるためだったと思うんだが・・・」

「客、ですか?」

何気なく漏らされた陽の呟きに、ぺトラは小首を傾げた。それを真似て隣でケイも黙ったまま小首を傾げていた。

「あぁ、俺も久しぶりに会うお客さんだよ・・・」

そう呟いた陽の目は、何処か遠い場所を見ていた。それは物理的に遠いのか、はたまた時間的に遠いのかははっきりとしないが、彼が懐かしんでいる事だけはぺトラにも理解できた。それはケイと希一も同じであり、何となく口を出してはいけない気がした。

「・・・と、こんな所で立ち話をして悪かったな」

唐突に現実に帰った陽は肌寒い北風が一同に遠慮なく吹き付けていることに気づき、三人に研究所の中に入るように指で示した。

「いえ・・・」

それに応えたのは訝しげに彼を見ていたぺトラだけであり、ケイは黙ったまま、希一は痛む頬をおさえたまま研究所の敷地内へと入っていった。






「何で私が皐月さんに告白した事も話したんですか・・・」

椅子に座っている雫の隣で額に手を当てていたカンザキは、まるで恨むような目つきでナナカマド博士を見ていた。博士はそれに涼しい顔のまま接すると、手にしたパイプを口に咥えていた。

「なぁに、雫君を笑わせるにはちょうど良い肴だったからな」

「だからと言って・・・!!___もういいですよ・・・」

はぁ、と疲れた表情で机に寄りかかっているカンザキを見た雫は、若干の罪悪感を胸の内に覚えていた。いくらナナカマド博士が気を使って自分を笑わすために話したとはいえ、やはり人の失恋話で笑えるほど雫は冷たい人間ではない。それに彼女も思春期の少女だ。そういった恋愛話には自ずと興味を持ち、誰かを恋い慕う年頃でもある。

「ちなみに告白の言葉は?」

「『お前の事が好きなんだよ』だったかな」

「ちょ・・・」

にやけるギラティナの問いかけにナナカマド博士は即座に答えた。それこそカンザキに横槍を入れる隙も与えず、彼の赤裸々な過去は博士は何の躊躇も無く暴露していた。それを耳にしている雫は、笑うべきと頭で理解しているが笑えないために、取り合えず眉尻を下げた曖昧な微笑みを浮かべていた。

「カンザキさん・・・お母さんの事が好きだったんですね・・・」

「___まぁ、所謂幼馴染でしたので」

過去の恥ずかしい出来事を思い出したカンザキは、隣で得意げな表情で脇腹を小突いてくるギラティナの肩を小突き返した。初恋の話など、できれば胸の内にしまっておきたい筈なのに、こう人前で暴露されては怒りのやり場も無い。小声でナナカマド博士とギラティナに対する呪詛の言葉を漏らしながら、彼は片手で目を覆っていた。

「皐月さんのお父さんが私の親父の担当医で、昔から世話になっていましたので・・・」

「へぇ、何のお仕事をしているんですか?」

雫は何気なくカンザキに尋ねた。その瞬間、カンザキの顔に嫌悪感が露になり、不愉快そうな表情のまま顔を硬直させていた。やがて棒読みのまま「役人ですよ」と応えると、半分死んだ魚のような目で雫を見返した。

(___仲が悪いのかな・・)

十数年しか生きていない雫でも、カンザキのそんな態度から彼が父親に抱いている感情を読み取る事ができた。どうやら父親との仲は悪いらしく、それを見ていたナナカマド博士は「相変わらずだな」と溢しながら笑っていた。

「いい加減に仲直りでもしたらどうだ?孫の顔も見たがっているだろう・・・」

「___家督は兄が継いでいるから、私も別に怒っていませんよ」

そう呟いたカンザキは重たげに腰をあげた。それは昔は父親を嫌っていたが、今は違うことを雫に感じさせた。

「じゃあ、私もそろそろ反転世界に戻るか」

カンザキが立ち上がった際に、隣で彼を小突いていたギラティナは壁にかけられているアナログ式の時計を見上げて言った。暴力的な彼女も、普段は反転世界を統治する立場にあるために長らく席を外すわけにもいかない。ギラティナの言葉に雫は少し悲しげな眼差しで彼女を見上げたが、ギラティナはそんな雫の耳に口を近づけると何かを囁いた。

(私は何時でもお前の味方だから安心しろ___)

今まで雫にはカンザキやナナカマド博士がいた。だが、彼らは男であり雫にとっては異性である。いくら頼れる存在とはいえ、やはり雫にも同性の味方は欲しかった。そんな雫にとってギラティナの言葉は、胸の内が温まるような、どこかくすぐったさを覚えさせるものだった。

「・・・また、会えるよね?」

それは雫の本心でもあった。今日までずっと苛められて、友人のいない雫にとってギラティナは数少ない信頼できる存在だ。それは友人、あるいは姉のようなものだ。
泣き出しそうな声色の雫の言葉に、ギラティナは妖艶な笑みを浮かべると「当たり前だ」と言って、エントランスに繋がる扉を開けて颯爽と部屋を後にした。その後姿はカンザキやナナカマド博士と比にならないくらい頼もしく、広いものであった。それを見送ったカンザキは「相変わらす男前だな・・・」と無意識の内に呟いており、その言葉でギラティナの懐の広さが窺い知れた。それはナナカマド博士も同意しているらしく、何も言わずに首肯すると閉まっていく扉を見ていた。
その時、雫達が見ている扉とは別の扉、廊下と繋がっているそれが開かれた。曇りガラスの嵌め込まれた扉が音をあげながら開き、それは雫達に来訪者の存在を知らしめる合図となった。

「博士、希一達が来ましたよ」

そう言いながら扉を開けたのは金色の長髪に赤いメッシュの入ったニット帽を持っている青年、陽である。カンザキと同じくらいの目線の彼は室内に入ってくると、椅子に座っている雫を見つけて足を止めた。その意図を理解しているらしく、カンザキとナナカマド博士は何も言わずに陽が切り出すのを待っており、雫はいきなり見つめられて硬直している青年を見上げてどうすれば良いのかわからずにいた。

「___お前、もしかして雫か?」

初対面でお前呼ばわりしてくる陽に雫は若干眉を寄せたが、ここで不愉快さを露にしても何も意味が無いことを把握して、すぐにそれを消して首を縦に振った。だが、陽は黙ったまま雫を見下ろしたままである。その眼差しは不快や怒りといった負の感情は一切無く、むしろ喜びや悲しみの入れ混じった複雑なものであった。

(誰だよ・・・この人___)

何も言わずに見つめてくる陽に雫は若干薄気味悪さを感じていたが、陽はそんな雫にお構いなしに彼女の小さな身体を上から下まで眺めると、突如『泣き出した』。切れ長の目に涙を溢れさせた陽は泣き声もあげずにただ涙を流すだけである。ポロポロと零れ落ちる涙と、突然陽が泣き出したことに雫は唖然としていたが、何か対応策が思いついたわけも無く、どうすることも出来ずに口を開けたまま彼を見ていた。そんな奇妙な空間を編み出している二人にカンザキは溜息を漏らしながら歩み寄ると、陽の頭にチョップを放った。バチン、という気持ちの良い音が室内に響き、それで現実に意識が戻った陽はハッとしたような表情でカンザキを見た。

「たく、お前が何も言わずに泣いているから雫さんが怯えているぞ」

「あ、あぁ。すまん・・・・」

カンザキのその言葉に雫は別に怯えていないと言おうとしたが、それより先に陽が謝ったためにそれは言えずに終わった。だが、あの奇妙な空間はそれで終わりを告げたため、結果としては雫も助かったわけである。そしてようやく話が進められそうになり、雫は安堵の溜息を漏らしながら陽を見た。

「で、あなたは誰ですか?」

「_____覚えていないのか?」

質問に質問で返すという、コミュニケーションの基本が成っていない陽の返事に雫は若干頭の痛みを覚えた。ただでさえカンザキと出会ってから非現実的な出来事が連発しているのに、そこにきて初対面でいきなり泣き出す青年ときたものだ。正直な話、今の雫にこれ以上のリアクションを求めてもそれに応えられるわけが無い。それを察したカンザキは、肩を落として落胆している陽を励ますような言葉をかけると、怪訝そうに彼を見ている雫を見た。

「こいつはナナカマド博士の助手でシンオウ大学の助教授をしている陽といいます」

「えっと、陽さん・・・始めまして」

「始めましてじゃねえよ!!」

カンザキの紹介に雫は『取り合えず』挨拶をしたが、それに陽は激高したかのように叫ぶとメソメソと顔を覆って泣き出した。彼はカンザキとそう変わらない目線の持ち主である。そんな彼がメソメソと泣いているその姿は、滑稽を通り越して聊か不気味である。それ故に雫も「あのぉ・・・」と彼に掛けるべき言葉が見つからずに困っていた。先ほどと大差無い光景に、カンザキは再び頭を抱えると陽の頭に再度チョップを放った。やはり気持ちの良い音が室内に響き渡り、それにより陽は何とか溢れ出す涙を堪えながら、雫の方を見た。

「雫が生まれた頃に会っただろう・・・」

「____生まれた頃は覚えていませんよ」

真っ赤に充血した目を見開きながら陽は言った。その言葉に半ば呆れたように返した雫は、彼が泣き出した理由を考えて再び頭に痛みを覚えた。それは十代半ばという青春の輝きを謳歌している筈の少女が抱くには可笑しな気持ちであり、それを重々承知している雫は更に頭が重たく感じた。そんな雫の眼前で泣いている陽と、彼の隣で苦笑いを浮かべていたカンザキを見て雫は今すぐにこの場から逃げ出したい衝動に駆られていた。

「それで・・・何だっけ」

「知りませんよ___」

苦笑いのカンザキが何かを説明しようとしたがそれをうっかり忘れてしまったらしく、彼はタバコを一本取り出して咥えた。だが雫はそんなカンザキに咎める様な目を向けて、話の続きを促した。それを見たカンザキも何を言いたいのか思い出したらしく、タバコを咥えたまま口を器用に動かした。

「陽は海奈と同じで、ホウオウの擬人ですよ」

ホウオウの擬人。

その言葉を聴いた瞬間、雫は全身の血液が音をあげて引いていくのを実感した。カンザキが始めて雫に彼女の生い立ちを説明した際に、かつて皐月はルギアとホウオウを使った実験をしていたそうだ。だが罪悪感のために皐月はその二匹を逃がして自身も姿を眩ました。
今、雫の眼前に立っている男は自身の母親がかつて実験の被験者にした者だ。当然皐月は彼に恨まれているだろうし、その娘である雫も赦される筈が無い。そこまで一瞬で考えた雫の顔色は一気に青くなり、心なしか足元が不安定になっていた。視界がグラリと大きく歪み、気のせいか視界に映っている陽やカンザキ、ナナカマド博士の姿が幾つも見えた。そのままバランスが崩れて、雫の視界に部屋の天井が映った。

「っ!」

高等部からフローリングにぶつかりそうになったが、その前に傍で泣いていた陽が雫の細い身体を支えた。倒れ行く彼女の身体は陽の腕の中で止まり、雫の視界には心の底から心配そうな眼差しで雫を見ている陽の顔が映りこんだ。その目には憎しみの色は一切無く、純粋に人を案じるそれであった。ぼんやりとそんな陽を見ている雫の耳にカンザキの案ずる声が響くが、それは彼女の鼓膜を叩くだけで彼女の意識には決して届いていなかった。

「おいおい・・・大丈夫か?」

しかし、雫は陽の気遣う言葉には首肯した。どうやら彼以外の言葉に耳を傾ける余裕は無いらしく、身体を小刻みに震わせながら彼の手中で身を任せていた。そんな雫の態度から彼女の考えを見抜いた陽は、腫れが少し引いてきている目で雫を見ると優しく微笑んだ。恨まれているかもしれない人物に笑いかけられ、緊張が解れたのか雫は硬直している全身の力が徐々に抜けていくのを感じた。

「あの、お母さんが・・・」

「ストップ」

罪悪感に襲われているのであろう、雫は人目で意気消沈しているとわかるような口調で陽に言った。まるで大型犬に睨まれている子犬のようであるが、そんな雫の眼前に手の平を差し出しながら陽は口を開いた。それで雫は思わず閉口して、息を呑んで陽の言葉の続きを待った。

「別に今は気にしていないから雫は何の心配もしなくて良いからな」

「え・・・」

てっきり陽の口からは侮辱の言葉が出ると思っていた雫には、彼の返事は予想外であった筈だ。蒼い目を不思議そうに丸めて、呑気に頭を撫でてくる陽を雫は異端の何かを見るような眼差しで見ていたが、そんな彼女を陽は声に出して笑い飛ばした。

「確かに皐月は俺と海奈を実験体に使ったが、そんな十数年前の事を今更どうこう言っても仕方ないだろ?何より俺も海奈も皐月を赦しているからな」

カラカラと笑う陽の言葉に嘘は一切無く、そこには彼の本心のみが映し出されていた。彼は皐月を赦していると言った。ならば、それは当時生まれていなかった娘の雫も赦すということだ。仮に雫が人の心を察することに疎くても、それくらいは理解できる。

「___怒って、いないんですか?」

「怒るどころか感謝しているよ。皐月のおかげでこうしてナナカマド博士の下で働けているんだからな」

爽快。

今の陽の心情を表すのに、これ以上最適な言葉はあるだろうか。たったの二文字で表せるほど雫に対して彼の抱いている感情は至極単純なものである。言い換えれば、それほど皐月の事を赦しており、それほど皐月に感謝しているという事だ。それなのに皐月の一人娘である雫を恨む理由が、何処にあるのであろうか。
それでも雫は陽の目を見ないように視線を落とすと、彼に何を言えば良いのか迷っていた。目の前にかつて母親に苦しめられた男が現れれば(カンザキも皐月に失恋した被害者だが)、その状況に苦い顔をしない者はいないだろう。それは雫も同じであり、俯いたまま彼女は陽の好奇の視線にただ耐えていた。

直後、雫の両頬がバチンと音をあげた。

「んな!?」

少し落ち込み気味の雫を見かねた陽は、雫の両頬を自身の手の平で挟むと、強引に彼女の顔を持ち上げた。唐突に思いついたのであろう、陽の行動に雫は思わず奇声をあげてしまった。だが陽は雫のそれに満足せずに、そのまま彼女の頬をグリグリと捏ね回すと、粘土で遊ぶ子供のように彼女の顔を弄くっていた。

「ちょ、止めてください!!」

突然頬を手の平で挟まれて、粘土のように捏ね繰り回されて喜ぶ人間はまず居ないだろう。いたとしてもそれは重度、或いは軽度のの被虐愛好家くらいだ。雫もそれに違わず陽に反抗するが、陽はそんな雫を見てにんまりと満面の笑みを浮かべた。

「よし!やっと笑ったな!」

「___は?」

満面の笑みの陽とは裏腹に、雫は不良が喧嘩の際に相手を威嚇するような声で陽を見上げると、彼の両手を叩き落とした。それに陽は「つれないなぁ」と打たれた箇所を気遣うように撫でながら呟くと、再び雫を見て嬉しそうに笑った。

「女の子がそんな辛気臭そうな顔するなよ!ガキは笑っている事が仕事なんだからな!」

だろ!?、と陽は所謂ドヤ顔で近くに立っているカンザキに問う。それに彼はタバコを指に挟んだ手を動かして賛同の意を露にすると、それに子供のように喜んでいる陽を見て笑っていた。
いきなり叫びだす陽とそれを見て笑っているカンザキ。そんな二人を見て雫は次に紡ぎ出すべき言葉に迷っていた。

「それでも・・・やっぱり____」

私が私を赦せません。

雫が最後までそれを言うことは叶わなかった。陽の右手が雫の開きかけた口を強引に塞ぐと、そのまま雫の顔を正面から見つめた。

「あ〜!めんどくせぇ!ガキが細かいことを気にすんな!」

あまりに傲慢、そしてあまりに身勝手な陽の言葉に雫は目を丸くしていた。生い立ちや育った環境のために、雫は同年代の少女に比べると現実的で悲観的なきらいがある。そのために彼女の思考や発言にはかなり後ろ向きな傾向があり、それは雫自身が熟知していた。だが陽はそんな雫のきらいを一蹴すると、彼女に逆になるように求めた。それは人に心配された事があまり無い雫にとっては驚くべきことであり、同時に対応に困ることでもあった。そのために雫はどういったリアクションをとるべきか全くわからず、それを伺うような眼差しでナナカマド博士やカンザキを見た。しかし二人はそんな彼女と陽を見て笑うと、博士はパイプを咥えて、カンザキは廊下に続く扉に歩み寄った。

「ふむ・・・あまり偉い事は言えないが、陽の言う通り雫君が気に病む必要は何も無いぞ」

「____そう、ですか」

パイプの先から煙を吐き出しているナナカマド博士の姿はまるで蒸気機関車のようである。そうぼんやりと考えていた雫は、陽と博士の言葉に自身が赦されたような気がした。それはこの世界に生を受けて、今までずっと否定されてきた人生の中で始めてそう感じられるものであった。
若干表情が緩んできている雫を見たカンザキは、彼女の硬直していた心が溶けている事を実感して安堵の溜息を漏らした。それは第三者に見えないように心の中で漏らしたものである。そしてカンザキは廊下に続く扉のノブを掴むと、一気に扉を開いた。その瞬間、開かれた扉から複数の人影が室内に雪崩れ込んだ。いきなりの出来事に雫はビクッと身体を震わせて、陽は希一達がいた事を思い出したのか、手を叩きながら扉の方を見た。そしてナナカマド博士は相変わらずパイプを吸っていた。

「盗み聞きとは、行儀が悪いな」

カンザキの皮肉を耳にしたぺトラは罰が悪そうに笑いながら雫に向かって手を振り、希一はフローリングの床にぶつけた鼻頭をおさえていた。その二人の背中の上には無表情のままのケイが横たわっており、じっと雫の方を見ていた。

(何なの、この三人組は・・・)

彼らを見た雫が抱いた感想は、ありきたりのものであった。




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