神藤夫妻の家のあるマサゴタウンの隣町、フタバタウン。

シンオウ地方の片田舎と称されるそこは、ポケモントレーナーに必須なポケモンセンターやフレンドリーショップが無く、数少ない民家から成り立っている。そのために町全体に活気はそれほど無く、朝を過ぎたばかりの今の時間帯は、子供たちの駆け回る声くらいしか響いていない。
そのフタバタウンの中にある数少ないある一軒の民家、そこの軒先に彼女はいた。庭先に面した、所謂縁側に座っている十代半ばの少女はぼんやりとした顔のまま青空を漂っている真っ白な雲を見ていた。その肌は雪国の人間らしく、まるで陶磁器のように真っ白で、絹のように極め細やかである。瞳も美しい灰色で、その顔つきは彫りの浅いアジア人のそれとは異なり、まるで仏蘭西人形のような美しさと儚さを持っている。おそらく彼女は北欧かロシア圏の人種とモンゴロイド、アジア人のハーフであろう、仏蘭西人形のような気品の中に、年齢相応の可愛らしさもある。
ショートカットの黒髪が風に揺らされ、ぼんやりとしている少女の頬を撫でるが、それに少女は気づかないまま、青空を眺めていた。
そんな少女の隣に、緑茶の入った湯飲みが置かれた。
それは少女の隣に立っている大きな皇帝ペンギン、いやシンオウ御三家の一匹であるポッチャマの最終進化形であるエンペルトによって運ばれてきたものだ。羽のように丸まった手で器用にお盆を抱えているエンペルトは、頭頂部にある立派な王冠を揺らしながら少女の横に座り、同じように青空を見上げた。まるで年老いた夫婦のような一人と一匹の、縁側という静かな空間。それは何時までも続くと思われたが、家の奥から響く足音で音も無く壊された。その足音は段々彼らに近づき、その主は縁側のある座敷と繋がる廊下から顔をにゅっと覗かせた。

「ぺトラ〜、ペトル−シュカ〜、ピョートル・ヴォルコワ〜」

「うっさいですよ、このアンポンタン」

声の主の少年は成長期であるらしく、少し掠れた声で少女の名前を呼んだ。どうやら最初の二つは少女の愛称で、最後の一つが本名のようだ。このアジアの極東の島国にしては珍しい名前(ロシア人の、しかも男性に多い名前)の少女、ぺトラはエンペルトの運んできた緑茶を飲みながら掠れた声に少々冷たい返事をした。それに声の主−茶の混じった黒髪に焦げ茶色の瞳の白い帽子を被ったハンサムの部類に入る少年−はぺトラとエンペルトの背に意地悪そうな笑みを見せながら、二人の傍まで来た。

「何だよ___はるばるジョウトから会いに来たのに」

「別に来るように頼んでいませんよ、希一」

少年、希一は素気の無いぺトラの返事に肩を竦めると、エンペルトの隣に置いてあるお盆に載っている湯飲みを手にした。時間が経ち、少し冷えてきているそれを口内に流し込みながら、希一はずれていた帽子の位置を片手で直していた。

「相変わらず葵の煎れるお茶は美味しいよなぁ、ホントにポケモンかよ」

希一の漏らした素直な感想にエンペルト、いや葵は照れたようにして頭をかいていた。希一の言葉通り、葵の煎れるお茶は美味しいらしく、ぺトラも黙ったまま湯飲みを傾けていた。そんな無愛想なぺトラの態度に、希一は「悲しいよぉ」と叫びながら葵の背中に飛びついた。平均的な体格の希一に飛びつかれた葵は、何の苦も無く彼を背中で受け止めると、帽子をグリグリ押し付ける彼に悟られぬように溜息を漏らした。

「葵も大変だよなぁ、こんな執事のような真似をして・・・」

「何が言いたいんですか?」

ポツリと呟きながら葵の背中に体重をかけている希一に、ぺトラはぴしゃりと言い放った。それは先ほどの返事と同様に棘を含んだものだが、希一はそれを聞き流しながら葵に寄りかかっている。

「ぺトラも少しは家事を勉強しないと、嫁に行けないぞ・・・」

「黙れ」

姑のように小言を漏らす希一の額に、ぺトラの手刀が決まった。ゴンッと言う鈍い音が座敷に響き、希一は帽子の上から底を押さえて罰の悪そうな顔でぺトラを見た。

「だってよ・・・俺は家事掃除料理は一通りできるし、ケイも多少は家事はできるぞ。何で男の俺らが家事ができて、女のお前ができないんだよ」

「ジェンダーは反対ですよ」

希一の言葉はどうやら核心を突いているらしく、ぺトラは何処かの人権活動家が口にしそうな言葉を彼にぶつけた。だが、それは蚊に刺される程の威力しかなく、希一の問うような眼差しから逃れるようにぺトラはそっぽを向いた。
その時、まるで示し合わせていたかのようにチャイムが鳴った。甲高い呼び鈴の音が鳴り、座敷にいた二人は互いに顔を見合わせて、客人の前に出るように互いを顎で示した。それは殆ど同じタイミングであり、ぺトラと希一は互いの顔を睨んでいた。そんな二人を呆れた表情で見ている葵の視界の端を、エプロン姿のぺトラの母親が通り過ぎていった。どうやら来客の対応は彼女がするらしく、すぐに玄関の扉が開かれる音がした。それでも来客の対応という面倒事に対応しなかったことを非難しているのか、二人は睨みあったままである。あまりに幼稚な二人のやり取りに、葵は再び溜息を漏らした。

「ぺトラ、ケイちゃんが来たわよ」

そこにぺトラの母親の声が廊下の方からした。二人は互いを睨みながらも、ゆっくりと母親の方を見た。そこにはぺトラの母親と、彼女の隣に立っている暗い金色の髪の少年がいた。ぺトラの母親にケイと呼ばれたその少年は、ほんの少し前まで二人が話していた件のケイであった。彼は黙ったまま座敷に入ってくると、ぺトラと反対側、詰まりは葵の隣に座った。

「・・・何しに来たの、お前は」

「・・・・・・・・」

訝しげにケイに尋ねる希一だが、ケイは何も言わずに葵に凭れ掛かると、そのまま青空を見上げていた。彼が無口でその考えが読めない事は今に始まった事では無いが、それでも長年の付き合いでなければ少々不気味に感じる。そんな希一の考えとは裏腹に、ぺトラは葵越しに彼を見ると、納得したように頷いていた。

「確かに希一はシンオウまで何しに来たんですか?」

「・・・・・」

希一とケイの付き合いは既に十年以上になるが、未だに彼はケイの考えや言いたい事が読めずにいる。だが、ぺトラはそんな希一とは真逆で、ケイのそれらは全て理解しており、極普通にコミュニケーションをとっている。これも、幼馴染であるからか。

「いやぁ、俺は女の子と知り合って、あわよくば彼女も欲しいんだよな・・・」

「_____あ?」

若干責めるような口調のぺトラとケイの眼差しに、希一は言葉を殺しながら返事をした。それは希一にとっては真面目でも、二人にとってはその程度でしか受け止めてもらえなかったらしく、葵の背後に隠れている希一にぺトラの冷たい眼差しが突き刺さった。

「だって、ジョウトの女の子はみんな気が強いんだぞ。それにシンオウの女の子は肌が綺麗だし・・・」

「黙れ」

「はい____」

希一の弁明は、何の効果も無くぺトラの二言の前に散っていった。無慈悲に放たれた言霊は、彼の心をいとも簡単に貫き、その身体を葵の陰に沈めた。だがぺトラとケイはそんな希一に慣れているのか、何も気にせずに庭を向いて座りなおした。傍から見て明らかに落ち込んでいる希一を慰めるかのように、葵は小さく鳴いたが、それは虚空に消えていった。

「・・・・」

「___本当ですか?」

落ち込んでいる希一の傍らで、ケイはぺトラに何かを言ったようだ。もっとも、それを常人が理解できる訳もなく、葵の背中に顔を沈めていた希一は怪訝そうに顔をあげた。それを横目で見たぺトラは、少し躊躇うかのように彼を見ると、改めて口を開いた。

「ナナカマド博士が希一を呼んでいるそうですよ」

「爺さんが?」

ポケモン生態学の権威で、名門シンオウ大学の名誉教授であるナナカマド博士のことを「爺さん」と呼ぶ希一の顔つきは、博士の若い頃に似通った点が幾つもあった。少年版ナナカマドとも謂えるその顔に疑問の色を浮かべながらも、希一は葵の背中から離れて立ち上がった。

「別に呼び出される理由は無いと思うけどな・・・」

「どうせジョウト地方のポケモン生態学のレポートの催促でしょうね」

「あ____」

ぺトラの一言は核心を突いているらしく、希一は嫌な汗を額に浮かべながら指先を顎に当てた。ポケモントレーナーの端くれである希一は、しばしばナナカマド博士からシンオウ地方以外に生息しているポケモンのレポートを纏めるように課せられている。今回もその例に漏れず、遥々ジョウト地方からシンオウ地方まで遊びに来たのは良いが、肝心のレポートを忘れてしまったようだ。

「博士もご立腹でしょうね・・」

「・・・・・」

湯飲みを傾けながら冷たい言葉を投げかけるぺトラと、威圧的な沈黙を保っているケイを希一は睨みつけるが、元を辿れば非は己にあるために恨み言すら発せずにいた。しかし、それでは博士に強く詰問されるのは目に見えている。

「どうしよう・・・」

ぺトラの「自業自得です」という言葉を耳にしながら希一は頭を抱えて、身体を『考える人』の像より捻らせながら希一は唸っていた。それはある種の呪詛の言葉であったが、それを向けるべき対象はどこにも居らず、言葉は座敷の空の中に溶けていった。
その時、希一の腰に付けられているモンスターボールが大きく動いた。彼の意思とは別に動き出したそれは、一筋の赤い光を放った。その光は真っ直ぐに畳の上まで伸びて、四足歩行の何かの形を描いた。やがて光は消えて、後にいたのは白と焦げ茶の毛を持つ狸のようなポケモン、マッスグマであった。北のシンオウ地方ではなく南のホウエン地方が主な生息地であるマッスグマだが、希一の持つボールから現れたそれは北の大地の寒さなど物ともせず大きく伸びをした。

「ポン太も心配だそうですよ」

ぺトラにポン太と呼ばれたマッスグマはその円らな瞳を希一に向けた。黒いビー玉のように輝くそれには苦悶に歪む希一の顔が映りこんでおり、その表情は『ムンクの叫び』を軽く凌駕している。

「とりあえず、博士に会ってから考えましょう」

傍らで哀れみの視線を投げかけるポン太を抱きしめている希一を尻目に、ぺトラは湯飲みに残っていた緑茶を全て飲み干した。彼女の喉は数度ゴクッという音を鳴らし、口内に残っていた緑茶を胃に流し込んだ。ぺトラは手にしていた湯飲みを葵の持っていたお盆に載せると、そのまま立ち上がった。それに続いてケイもゆっくりと立ち上がると、ポン太の名前を呼びながら抱きしめている希一の横を通り過ぎた。長年の幼馴染であるぺトラとケイは、長年のパートナーと更なる友情を育んでいる希一の事などほったらかしにして、そのまま玄関に向かっていた。既に彼女らの考えを察している葵もまた、手にしたお盆をぺトラの母親に託すべくキッチンに向かった。後には、白い帽子を被った少年と白い体毛のポケモンのみが残っていた。




その話題の渦中にいるナナカマド博士の研究所のある隣町マサゴタウン。

「ふむ・・・君が朝霧雫君か」

「は、はい____」

白塗りの外壁に覆われた立派な造りのナナカマド研究所の一室、乱雑に散らかっている応接間にて年の割にしっかりとした足腰の初老の紳士を前にして、雫は自身の頬が引き攣っていることを自覚していた。まるでサンタクロースのような真っ白な口髭を携えた充血した眼の紳士、ナナカマド博士は正面から雫の顔を覗きこむと、研究者らしく肥えた観察眼を彼女に向けていた。
雫が神藤夫妻の家を後にして、ギラティナと共にカンザキに連れて来られた場所が此処、ナナカマド研究所であった。西洋風の概観に太陽の光を爛々と反射させる白い壁が特徴的なこの研究所にカンザキが雫を連れてきた目的は、当初の通り、ここが雫がこちらの世界で滞在するための下宿であるからだ。何せこちらの世界に来たばかりの雫には、戸籍も住所も無い、謂わば『住所不明無職』という怪しさ全開の烙印が押し付けられているからだ。なのでそれらをカンザキが用意する間、雫はこのナナカマド研究所にてお世話になることになっている。もしも雫がトレーナーカード(ポケモントレーナーの身分証明書)を持っていれば、ポケモンセンターの宿泊施設を利用できた。だが、それは叶わず、こうして下宿という形に甘酢いている。
そして研究所の玄関を通された雫を待ち受けていたのは、地獄の淵と勘違いしそうな程に荒れている研究室と、幾つかの椅子を並べて寝ている博士の姿であった。どうやら博士は研究に疲れているらしく、その近くには大量の甘味の入っていたカップが置かれていた。事前にカンザキからナナカマド博士の偉業について聞いていた雫は、博士が案外普通な人間であることに脱力しながらも、カンザキと共に彼を起こすことにした(その間、ギラティナは我関せずといった態度を貫いていた)

「陽一から君の生い立ちや御両親については聞いていたが、まさか本当だったとは____」

「はぁ・・・」

ナナカマド博士の言動はまさに研究者のそれであり、雫の顔をまじまじと見た博士はカンザキの煎れてきたコーヒーカップを手にしていた。その香ばしい匂いは混沌という二文字の言葉が最適な室内の空気に混じり、それは微かに雫の鼻先を撫でていた。使用期限が切れ掛けの蛍光灯が二人の頭上で瞬いており、時折バチッという音をあげながら点滅した。その蛍光灯の照らしている範囲の一角には、カーテンで日光が遮られた窓際で、散らばっている資料をファイルに纏めているカンザキとギラティナの姿があった。
そして雫も博士に倣い、机に置かれているコーヒーカップを手にすると、中身を口内に注いだ。ほろ苦い黒い液体が彼女の舌を刺激した。その色は黒く染められた雫の胸中のようであり、その刺激は彼女の感情そのものであった。それを知っている雫は、それを打ち消すためなのか、近くに置かれているビンから砂糖を掬った。それを、黒い液体の中に入れると彼女はティースプーンでくるくるそれを回していた。

「その・・・ナナカマド博士は両親の事を知っているんですか?」

雫の向かいで同じように砂糖をコーヒーに入れていたナナカマド博士は、鷹のように鋭い眼光を雫に向けた。へこんだ眼孔から発せられるその視線は容赦なく雫に突き刺さっていた。それが堪えた雫は、先ほどかき回していたカップの中に目を落とした。

「__皐月君と陽一は昔からの私の弟子だからな」

博士はそう言うと、近くに置かれているパイプを手にした。上品な彫刻の施されたそれは、人目でそれなりの価値だとわかる。それの先に火を灯したマッチをかざすと、蒸気機関車が吐き出すようにして煙をあげた。それは幾つもの輪を作り出し、博士の頭上で次々と消えていった。

「雫君とそう変わらない年頃だった陽一はかなりの悪ガキだったなぁ・・・毎日喧嘩ばかりして、私や皐月君を心配させたものだ」

「____あの時は私も若かったんですよ・・・」

しみじみと感慨深そうに昔の事を思い出しているナナカマド博士に、カンザキは苦虫を噛み締めたような顔をした。その本人も過去の若かりし頃の自身の行動を恥じているのか、雫やギラティナから目を反らしながら『実験データ』と書かれたファイルを棚にしまっていた。そんなカンザキを見ながら、雫は自然と博士の言葉に納得している自分がいることに気がついた。初対面でのカンザキの印象は、文字通りヤクザそのものであった。そんな彼が雫と同い年くらいの頃には、毎日喧嘩していたという話に納得できるのも無理はない。そして、そんなカンザキを心配していたという弟子仲間の母親。

(お母さん・・・)

カンザキから自身の出生の真実を聞いて早十数時間が過ぎていた。今まで恨んでいた両親の本心は理解できても、恨んでいた自身が彼らに会ってよいものかという疑問が未だに雫の胸中を占めていた。それは二人を知る人に声を大にして問えばわかることだが、雫にはそれができずにいた。そのやり場の無い気持ちに、雫は自ずと俯いていた。

「____ギラティナ」

そんな雫の顔を見たカンザキは、彼女のその気持ちを見抜いていた。そして、傍でゴミを纏めていたギラティナの名前を呼ぶと、隣の部屋に続く扉を顎で示した。カンザキの言いたいことを理解したギラティナは、無言で頷くと早足で彼と共に部屋を後にした。その際、雫に見られないようにナナカマド博士とアイコンタクトを図っていた。

雫が顔をあげた頃には、既に二人の姿は室内に無く、向かいに座っている博士と二人きりになっていた。

(どうしよう___)

二人が掃除している音も無くなり、室内には静けさが漂っていた。それは雫とナナカマド博士の、どちらも喋らないことを意味しており、変な沈黙に雫は変に緊張していた。だが、それは雫だけであるらしく、ナナカマド博士は涼しい顔のまま、吹かしたパイプを傍のテーブルに置いてコーヒーを口に含んでいた。雫も先ほどと同じようにそれに倣い、少し温くなったコーヒーを口内に流し込んだ。砂糖の甘さがコーヒーの苦さを中和しているが、それでも雫にはそれが苦いものに感じられた。それは今の室内の微妙な空気によく似ていた。

「何か聞きたいことがあるんじゃないか」

ふと、ナナカマド博士が雫の顔を見ながら口を開いた。その言葉の裏には、先ほど雫の胸中を占めていたあの気持ちについて自由に尋ねて良いという事が含まれていた。それを察した雫は、少し遠慮するかのようにして口を開いた。

「・・・あの、お母さんの事を教えてください」

口に出せばほんの数秒で終わる言葉も、それを発する事に対して今の雫にはかなりの勇気が必要であった。それはナナカマド博士もお見通しであるらしく、大きく息を吐くと博士は口を開いた。

「皐月君はとても思慮深く、思いやりのある娘だったよ。私が始めて彼女に会ったのは、二十年近く前になるな」

「その時、カンザキさんも一緒だったんですか?」

「そうだ。あいつは皐月君の腐れ縁というか、幼馴染の関係だったな」

博士はそこで言葉を切ると、その当時を思い出すかのように目を閉じた。幾本もの皺の刻まれた顔が懐かしげにくしゃりと歪み、博士はパイプを手にするとそれを吸った。

「もともと陽一と皐月君の親御さんが仕事柄かなり親しかったな・・・」

「___『親しかった』?」

雫は博士の言葉に疑問を抱いた。それはまるで、今ではその事実とは異なるように感じたからだ。雫は、微かに喉が渇くのを自覚した。

「皐月君の御両親、雫君の祖父母は医者の家系で・・・彼女が小さい頃に病気でなくなったそうだ。それからは陽一の家族が彼女を育てて、トレーナーズ・スクールを卒業してすぐに私の下、シンオウ大学の私の研究室に弟子入りした」

「・・・それは、科学者として弟子入りしたんですか?」

「そうだ、彼女はトレーナーズ・スクールで必修過程だけではなく、大学の勉強にも手を出していた」

「____」

皐月君は私の知る限り一番の天才だったよ、と博士は付け足した。普通の子供は、親が天才と評されて喜ぶ者もいれば逆に嫌がる者もいる。前者は言わずと知れず、後者はその親の子供である自身と天才と評される親と比べられるのを嫌悪するからだ。だが雫は後者であったが、その理由は微妙に違った。
こちらの世界に来る前に、カンザキは雫に皐月が殺人ウイルスの研究に手を染めていたことを話していた。つまり、皐月は天才と呼ばれながら大量殺人に加担していたのだ。それはある意味『殺人の天才』とも言える。

(そんなお母さんなんて、イヤだよ・・・・)

雫は声に出さないが、内心そう考えていた。ある程度の話はカンザキから聞いていたから、殺人に加担した者の娘としての『覚悟』はそれなりにしていた。だが、改めて有名大学の名誉教授である程のナナカマド博士の口から、皐月が天才だと聞いて雫のそれは微かに揺らいでいた。鳥肌が雫の二の腕に広がり、先以上に喉が渇いてきた。それは雫の喉をゴクリと鳴らして、彼女にほろ苦いコーヒーの入ったカップに手を伸ばさせた。震える手でカップを掴んだ雫は、どうにか溢さないようにそれを口に含むと、口内に広がる苦味に耐えながらそれを飲み込んだ。その苦さは、雫の心情のようであった。

「・・・安心しなさい」

微かに震えていた雫の耳に、ナナカマド博士の穏やかな声が響いた。その声量は決して大きいものではなかったが、何故かそれは雫の耳に嫌に響いていた。そして、その声はとても落ち着くものであった。雫は震える自身の身体を鼓舞して、ゆっくりとナナカマド博士の顔に目を向けた。

「皐月君は確かに非人道的な実験に協力していたが、自分でそれを止めて全て廃棄したんだよ」

ナナカマド博士の目は、とても穏やかなものであった。それは雫の内面を全て見通しているかのようであり、雫には至極落ち着けるものであった。長年の人生経験からなのか、雫が何を考えているかなど博士にはお見通しであるようだ。

(お爺ちゃんみたい・・・)

雫が博士の事をそう感じたのは、白い口髭や顔に刻まれた皺などの外見によるものではない。博士の言葉、そして目に宿る人を落ち着かせる力、そして見抜く力を実感したからこそ、雫はそう感じたのだ。育て親の老夫婦とは違った博士の雰囲気に、雫は心の内で笑みを浮かべていた。

「あの、博士は私のお爺ちゃんやお婆ちゃんの事は・・・」

「学会などで見た事はあるが、直接の面識は無いな。私が皐月君に初めて会った時には、彼女は陽一の家にいたからな」

ナナカマド博士はそう言うと、手にしたカップに残っていたコーヒーを飲み干した。カップの底に残っていたコーヒーも飲もうとしたため、大きく傾けたカップにより博士の白い口髭は僅かに茶色くなっていた。

「私も最初は皐月君と陽一が結婚すると思っていたが・・・」

ふと、博士は何かを思い出したのか、そう言いながら苦い顔を浮かべた。雫はそれに首を傾げると、博士の言葉の続きを待った。それを視認したナナカマド博士は、コホンと咳払いをした。

「皐月君が本格的に私の研究室に入り浸っていた頃、陽一に国連で働く話が舞い込んだんだ。あの頃の事務総長が補佐官に腕の立つ人間を探していて、ちょうどあいつもポケモン・リーグを何度も制覇して暇を持て余していたから私が紹介したんだ」

「カンザキさん、そんなに強いんですか?」

「強いぞ。トレーナーズ・スクールの生徒だった頃からその時まで、ポケモン・リーグを制覇した回数は二桁はいっていたな」

雫が真っ先に感じた疑問に、ナナカマド博士はすぐに答えた。だが、鋭い観察眼を持っている博士のお墨付きとはいえ、ギラティナに何回も力負けしているカンザキを見ていた雫には信じられないものであった。そのため、雫は僅かに眉根を寄せると、カップの中身を飲み干した。

「何か・・・信じられない話ですね」

「確かに、だが陽一はポケモンバトルと喧嘩『だけ』は秀でていたからな」

博士の言葉を聴く限り、どうやらカンザキは相当のやんちゃ坊主であったようだ。当時の気苦労を思い出したのか、博士の眉間の皺はより深いものになった。

「それで陽一が国連で働く数日前に、あいつは皐月君にプロポーズしてな___」

「プロ!?」

やれやれ、といった雰囲気の博士とは裏腹に、雫は思わず大きく咳き込んでしまった。苦しそうに咳き込む雫を博士は心配そうに見ていたが、雫は何とか「続けてください」と言うと、暴れる肺をどうにか落ち着かせていた。それでも雫の事が心配なのであろう、腰をあげたナナカマド博士はガラスのコップに水差しから水を注ぐと、それを雫の目の前に置いた。雫はそれに小声で例を言うと、ゆっくりとコップを傾けた。僅かに水の中に混ぜられているのであろう、口内に爽やかなレモンの香りが広がり、口の端から垂れた水が細い滝のように流れていた。それは雫の首筋を伝い、彼女の着ているブレザーに浸み込んだ。だが、普段なら不快に感じるその冷たさも、咳き込んでいる今は何故か心地よいものに感じられた。コップの水を半分ほど飲んで落ち着いてきた雫は、博士に「ありがとうございます」と言いながらそれを手編みのコースターの上に置いた。

「・・・それで、カンザキさんがお母さんにプロポーズしたんですか」

「あぁ、だが皐月君はそれを断ったんだ」

雫はナナカマド博士のその言葉を聞いて、やっぱりと内心考えていた。そうでなければ、自分は今頃あの悪人顔の男の娘といことになるからだ。正直な話、雫は何故皐月がカンザキを振ったのか、その理由を聞きたかった。だが、それはあまりに深入りな事であるのはわかりきっているため、雫はそれを水と共に喉の奥に流し込んだ。

「そして陽一が振られて国連で働き出した頃、私と皐月君はある研究に参加しないかと誘われていたんだ」

「・・・まさか」

ナナカマド博士の言葉を聞いた雫は、内心嫌な予感がしていた。それは博士もわかっているらしく、ナナカマド博士はゆっくりと頷くと口を開いた。

「ルギアとホウオウを使った新しい生物兵器の開発だ」

雫の喉がごくりと鳴った。生唾を飲み込んだ彼女は、博士の静かな言葉にどういうリアクションを取れば良いのかわからずにいた。だからと言って話しの続きを聞かなくて良いという訳ではない。過去にあった真実から、決して目を反らしてはならないのだ。それでも話の続きを聞くことが怖い、雫がそう感じる事も無理はない。母親が大量殺人に加担していたという事実は、若干十五歳の少女の肩にはあまりに重過ぎる代物であった。

「その研究が国連、それも国連軍と深い関係があると知った私は辞退した。あやつらと関わっても、碌な事はないからな。だが皐月君はまだ分別のつかない子供だったからな。彼らの言う『世界平和のため』という言葉を信じて研究に参加していたんだ」

あれは仕方の無かった事だ、と漏らした博士は静かに息を吐いた。それは弟子の過ちを許した自身に対するものであったのか、それとも別の事に対するものか。それは雫にはわからずにいた。

「皐月君の研究していた生物兵器、ウイルスが仮に外界に放たれていたら、スペイン風邪や黒死病以上のパンデミックを引き起こしていた筈だ」

スペイン風邪と黒死病。どちらも過去に起きた大規模なパンデミックで、その累計の死者数は一億人近くと謂われている。学生である雫もそれくらいの知識はある。故にそれだけ事態の重さを理解できていた。それだけの物を皐月が研究していたことは、雫の小さな双方では支えきれずにいた。

「同じ頃、陽一も国連の事務総長の補佐官としてアジアのある産油国で起きていたクーデター、いや民族浄化の鎮圧のために派遣されていたんだ」

「民族浄化・・・ですか?」

「そうだ。早い話が、虐殺だな」

虐殺。

その言葉を聞いた雫は、全身の筋肉が硬直していくのを感じた。背筋を冷や汗が垂れて、今まで以上に喉が渇いていく。

「国連軍はその虐殺を止めるという名目で派遣されたが、実際は虐殺で不安定になった石油の採掘権の確保のためであったそうだ」

静かな博士の言葉は、雫の心に重く圧し掛かっていた。母親の話と同様に、虐殺という事実は雫にはあまりに酷過ぎるものであった。

「そして陽一は・・・そこで子供を射殺したそうだ」

「_____」

カラン、と水差しに入っていた氷が溶けて音をあげた。それは嫌に雫の耳に響き、残響のように残っていた博士の言葉を際立たせた。

「武装した、少年兵に殺されそうになって撃ち殺したそうだ。正当防衛と言えば耳障りが良いが、あいつはそれでPTSDに陥った」

ふと雫の脳裏に、あちらの世界のアパートでカンザキが拳銃を持っていた事を思い出した。今までは警察官と同じような、相手を制する武力の象徴だと思っていたが、実際は違うことに雫は気がついた。それは、自身が殺されないために人を殺す道具である事に。

「それから一年くらい後だったかの・・・陽一が帰国した頃に皐月君もウイルスを完成させた。だが皐月君はその威力と使い道をその時になって理解したんだ」

あの馬鹿弟子どもめ、と博士は小声で毒づいていた。雫はそんな博士の言葉に、びくりと肩を震わせた。その馬鹿弟子の娘である自分が、博士に責められたように感じたからだ。それを見たナナカマド博士は、若干バツの悪そうな顔を浮かべると、雫に心配するなと一声かけた。雫はそれに泣き出しそうな笑みで応えると、博士の話の続きを待った。

「・・・皐月君は実験体であったルギアとホウオウを解放して、生物兵器やウイルスに関するデータやサンプルを全て破壊して失踪したそうだ。その捜索に陽一が当たっていた」

「そしてカンザキさんはお母さんとお父さんを見つけ出した___」

雫は静かにそう呟いた。ナナカマド博士はその呟きに大きく首肯すると、一度目を閉じてから雫を見た。

「私も皐月君とは久方ぶりに会ったが、まさか彼女がルギアの子供を妊娠しているとは夢にも思わなかったよ・・・それから陽一は二人を死んだことにして、私の所に力を借りに来たんだ」

後は君の知っている通りだ、と続けた博士は、改めて知った事実にただ呆然としている雫を見ると、黙ったままパイプを手にして、それを吸った。仄かに甘い匂いがそれから漂い、雫の鼻先を擽っていた。しかし今の雫にそれを感じる程の余裕は無く、ぼんやりとした表情で俯いていた。

「___おそらく君には都合の良い話に聞こえるかもしれないが、生まれたばかりの赤子と離れ離れになった皐月君と海奈君の苦しみも理解してくれ。何も被害者は君だけではない、君の両親も被害者なんだ」

恨むなら世界を恨んでくれ、博士の言葉の裏にはそれが隠れていた。それは雫にも十分届く言葉であり、泣きそうな笑顔を浮かべていた雫は視界が揺らぐのを自覚した。同じような事を以前にカンザキから聞かされたが、それでも雫の心のダムを塞き止める事はできずにいた。

「・・・私はお父さんとお母さんに会っても良いんですか?」

「_____今の海奈君は国連事務総長、皐月君はWHOの主任研究員。十分に君を守る力がある、昔と違ってね」

雫の頬を、冷たい何かが滴り落ちた。液体のそれは彼女の頬に一筋の軌跡を描き、それは次に続く何かを導く線となった。

「それに陽一も私もいる。あいつはふざけた男に見えるが、あれでも世界中の諜報機関や司法機関と繋がりがあるから大丈夫だ。私も世界の著名人とはそれなりに互いを知っている仲だからな」

一人で良く頑張ってくれた。

雫はカンザキが迎えに来るまで、養父母が死んでからずっと一人で生きてきた。毎日理由も無く苛められて、学校でも家庭でも良い思い出など一つも無かった。そんな雫が頼れる人間、増してや褒めてくれる人間など誰一人居なかった。あちらの世界で、カンザキは雫に「すみません」とは言ったが、彼女の事を褒めはしなかった。だが、たった今雫が求めていた言葉を、ナナカマド博士が言ってくれた。それは雫の心のダムを決壊させるには十分な爆薬であった。

とうとう耐え切れなくなった雫は、まるで幼児のように大声をあげながら泣き出した。視界が歪み、喉の奥がヒリヒリと痛むが、今の雫にはそれすら心地よく感じていた。

そんな雫を前にして、ナナカマド博士は目を閉じたまま黙ってパイプを吸っていた。室内に甘い匂いが漂っていた。




「・・・お前も雫を褒めるべきだったな人殺し」

「___面目ない」

雫とナナカマド博士のいる部屋の隣、大量の資料が入っている本棚の並んでいる書庫で壁に凭れていたギラティナは、密封されたダンボールに腰掛けているカンザキを見下ろしながら言った。彼はそれに苦笑気味に応えると、目を伏せたまま手にしたファイルを床に置いた。

「それで、お前は今まで何人殺してきたんだ?」

「_____」

ギラティナの皮肉めいた言葉に、カンザキの動きが止まった。まるで再生しているビデオをワンカットで止めたように固まっているカンザキに、ギラティナは嫌らしい笑みを向けると、人殺しと呼んだ彼の返事を待っていた。それにカンザキは数秒間考え込むと、やがて口を開いた。

「虐殺のあった時は、毎日何人も撃ったよ。実際に死んだのは、数えていない。あれから今まで、たぶん殺した人間の数は二桁はいっている筈だ」

「ハッ、殺人鬼め」

カンザキは無表情のままそう言うと、侮辱の言葉を発するギラティナを横目で見た。それは、肉食獣が獲物となる草食獣を狙う際の目とは全く異なり、むしろ穏やかさが垣間見えるものであった。

「・・・人間は70億もいるんだぞ?その内の数十人が死んだ所で、何ら変わらないよ」

そう呟いたカンザキは、腰のホルスターに手を伸ばすと、黒光りする拳銃を取り出した。それの弾倉に銃弾が入っている事を確認すると、音をあげて銃身をスライドさせた。ガチャリと金属製のパーツが動く音が薄暗い室内に響き、それを耳にしたギラティナは不適な笑みを浮かべた。

「それが例の子供を撃ち殺した拳銃か?」

「あぁ」

拳銃、ベレッタM92を指差したギラティナの言葉に、カンザキは小さな声で返事をした。それに対して何の感慨も込められていない目は、死んだ魚のような濁ったものであった。

「今でもあの時の子供の顔が思い出せるよ」

あの時、もしもカンザキが子供を殺していなかったら、今頃は彼と変わらない年の青年に成長していたであろう。カンザキ同様に誰かと結婚して、子供を儲けて日々を過ごしていたかもしれない。だがそれは叶わない事象であった。その事を熟知しているカンザキは、愉快そうに笑っているギラティナを脇目に、拳銃を腰のホルスターの中に戻した。

「人が俺を人殺しと罵るのは当然の事だよ、実際に何人も殺してきたんだから」

「国連の仕事は嫌なもんだな」

「そうだ、だけど嫌なら辞めればいいだけだ。これは俺の意思なんだよ・・・」

そう呟いたカンザキは、懐から封の切られたタバコを取り出すと一本咥えた。それを見たギラティナが嫌そうな顔で「ここは禁煙だぞ」と漏らすが、それにカンザキは片手を振って応えると火を点けずにいた。

「これを咥えるだけで落ち着くんだよ・・・」

そう言ったカンザキは火の点いていないタバコを咥えたまま、残りのファイルを片付けるために手を動かしだした。その背中が、何故だろうか、とても恐ろしい化け物のようにギラティナには感じられた。







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