「話を続けましょうか」

古びたアパートの二階、雫が一人暮らしをしているワンルームの薄汚れた畳張りの部屋、そこのリビング兼寝室の真ん中に置いてある卓袱台の前に腰掛けたカンザキは、そう言いながら雫の出した湯飲みに手を付けた。安っぽい湯飲みに安っぽいお茶、正直なところ、お客をもてなすには些か役不足な代物である。だが、カンザキはそれを口に含み、外の空気で乾燥している口内を潤すと、ヒビの入った窓ガラスを背に向かい側に座っている雫を見た。

「雫さんはパラレルワールドという言葉をご存知ですか?」

「パラレル・・・ワールド」

カンザキの言葉をゆっくりと反復した雫は、全く聞き覚えの無いそれに首を傾げていた。二人のちょうど中間辺りの位置にはルークが座っており、突然の訪問者に備えて耳を澄ませていた。

「所謂平行世界というやつです。そして、あなたも私もその平行世界の住人なんですよ」

まるで的を得ない、急なカンザキの言葉に雫は目を丸くしていた。ただでさえ、両親のこと、ポケモンという未知の生き物、自身の生い立ちなど、理解の難しい話にくわえて、今度は平行世界ときた。雫が目を丸くして、その後に訝しげな眼差しでカンザキを見たのも何ら不思議ではない。

「・・・頭、大丈夫ですか?」

「君も案外言うな、それと私の頭はいつも大丈夫だ」

胡散臭い商法を前にした消費者のように、疑念の目でカンザキを見ていた雫は、手にした湯飲みを傾けた。中に注がれている安っぽい茶が彼女の喉に流れ込み、意の奥底から湧いてきていた疑問の声をそれで流した。

「それに、ルーク・・・ポケモンがここに実在する以上、そう考えた方が自然でしょう」

「思ったんですけど、カンザキさんは結構胡散臭い人ですよね」

横目で傍に座るルークを見ながら話を勝手に纏めたカンザキに、雫は辛辣な言葉を浴びせた。彼は肩を竦めると、湯飲みに残っていたお茶を飲み干した。

「そこで、雫さんにはある選択肢がありますけど・・・」

そして、カンザキは雫の機嫌を伺うように声を潜めると、彼女の顔を見た。雫はそんな彼を不躾にジロジロと見つめると、同じく残っていたお茶を飲み干した。

「その平行世界に行くかどうかですか?」

ぷはっ、と湯飲みから口を離した雫は、そう言いながら手にした湯飲みを卓袱台の上に置いた。木製の古びたそれに湯飲みはコツリと小さな音をたてながらぶつかり、雫の言葉で静かになった室内をそれが一瞬だけ支配した。そして、雫の言葉に満足そうに頷いたカンザキは、左手首に巻かれた腕時計を見た。

「二つの世界の時間軸が一致するのは後38時間で終わります。それまでに、雫さんには必要最低限の荷物を纏めてもらいます、例えば思い出の品や買い直しの効かない物ですね。それらの荷造りが終わり次第出発しますよ」

ようやく本題を切り出せたカンザキは、腕時計の文字盤を見ながら安堵の溜息を漏らした。それは残された時間内に雫を元の世界に連れていけるという喜びか、或いは自身が元の世界に時間までに戻れると核心したからなのかは不明だ。だが事態はようやく進展し、少なくともこの考えで困る人間は、その場にはいないだろう。

「一つ、聞いてもいいですか」

「どうぞ」

「仮に、その平行世界に行くとして、今のこの世界には戻れるんですか?」

雫は思ったことを口にしただけだ。だが、それは雫の考え以上に重たい質問であったらしく、カンザキは動きを一瞬だけ止めた。それから、鋭い目を雫に向けると、手に持っていた湯飲みを卓袱台の上に置いた。

「・・・恐らく、今のチャンスを逃せば、次に時間軸が一致するのは十数年先です。一度向こうに行くと、二度と戻れないと思ってください」

「それなら今すぐ行きましょう」

カンザキの重苦しい口調の言葉を聞いた雫は、満面の笑みを浮かべながら彼を見返した。それにカンザキは目を真ん丸とさせると、口を開けたまま間抜けな表情で雫を見ていた。

「二度と帰れないんですよ?」

「二度と嫌いな奴に会わなくてすみます」

「・・・挨拶したい人は」

「誰もいません、爺様と婆様が亡くなった以上、この世界になんの心残りもありません」

あまりにはっきりとした、あまりに堂々とした雫の物言いにカンザキは己の腹の底から笑いが込み上げてくるのを自覚した。普通の人間なら、何らかの心残りの一つや二つはあるものだ。だがこの少女にはそれが全く見られず、むじろ今すぐにこの場、いやこの世界から離れたいと考えていることがまじまじと見てわかる。

「何というか、随分強い意思をお持ちですね」

二人にそっくりだ、とカンザキは笑いながら言った。それを耳にした雫は、まだ見ぬ両親と似ていると言われて微妙な表情を浮かべた。今まで自分のことを捨てたと憎んでいた両親が、実は自分を守るために危険を犯していたと理解しても、まだ完全に二人のことを許せたわけでは無いからだ。だが、それをここで徒にカンザキに話してもどうしようもないことは分かりきったことだ。

突然、カンザキの傍で耳を澄ませていたルークが顔をあげた。

顔をあげたルークは、雫とカンザキがその動きに反応する前に雫の腕を掴むと、強引に畳の上に引き摺り倒した。突然のルークの行動に雫は目を丸くしたまま畳の上を転がり、背中を強かに打ち付けた。そんな雫の上に、ルークが庇うように覆い被さると、雫に体重が掛からないようにしながら彼女を窓際から遠ざけた。カンザキもルークの暴挙に対して言葉を発する前に、彼の焔のように輝く赤い瞳を見た。それに宿る彼の意思を垣間見たカンザキは、素早く眼前の卓袱台の端を掴むと、それを上に乗っている湯飲みごと持ち上げた。それと同時にカンザキは卓袱台を盾のように構えると、その巨体を卓袱台の影に隠した。カンザキによって持ち上げられた湯飲みは、クルクルとそれは空を回転しながらボロボロの壁にぶつかって割れる音が室内に響いた。

いや、それより大きな音が室内に響き、湯飲みの割れる音はその中に溶けていった。

つい先ほどまで雫の座っていた位置の背後にあるガラス窓が突然割れ、大きな何かが室内に飛び込んできた。それは勢い良く回転しながらカンザキの隠れている卓袱台に当たり、鈍い音をあげながら彼の足元に落ちた。
畳の上に転がっている雫は、窓ガラスを割ったそれ、いや人間の頭くらいの大きさのコンクリートの塊を見て背筋が震えるのを自覚した。もしルークが雫の手を引かずに、そのまま座っていたら雫の後頭部に塊は直撃した筈だ。どう考えても命に関わる規模の怪我をしかけた雫は、冷たい汗が首筋を伝うのを感じていた。細かく砕けたガラス片が畳の上に飛び散り、その内の幾つかはカンザキの隠れている卓袱台や雫を庇っているルークの背中に当たった。

「たく、何の騒ぎだ」

悪態をつきながら卓袱台の陰から顔を覗かせたカンザキは、畳の上に落ちている塊と割れた窓を見ていた。塊には僅かに雪が付着しており、割れた窓からは寒い風が吹き込んでくる。

「あ、ありがとう・・・」

一歩、ルークに守られていた雫は、小声で彼に礼を言いながら身体を起こした。室内を見渡せば、畳張りの上には無数のガラス片が散らばっており、天井の頼りない蛍光灯の光によってキラキラと輝いていた。裸足で歩けば確実に足の裏を切ってしまう状況だが、ルークは雫に頷いてみせると素早く窓際に歩み寄った。彼が歩くたびにパリッ、とガラス片の割れる音が微かに響くが、どうやらポケモンは人間より遥かに頑丈であるらしく、ルークは痛がるような仕草を全く見せなかった。

「雫さん、大丈夫ですか」

ルークと違い、この状況で素足では歩けない雫は身動きの取れないまま、カンザキの方を見た。そこには同じく歩けずにいるカンザキが卓袱台の陰で笑いながら雫を見ていた。カンザキは横目で雫の無事を確認すると、腰に手を回した。そして、雫の見ている目の前で金属製のL字型の物体を腰にあるホルスターから取り出した。それは黒く光っており、一目でこの国では市民が携帯することの認められていない代物だとわかった。

「カンザキさん、それって・・・」

「ベレッタM92・・・所謂拳銃ですよ」

そう呟いたカンザキは、弾倉に弾が入っているのを確認すると銃の安全装置を外した。ガチャッ、という部品の動く音が小さく鳴り、カンザキはそれを構えたまま窓際の壁に張り付いているルークを見た。

『どうやらガラの悪い連中の仕業のようですね』

「ガラの悪い?」

ぽつりと呟いたルークにそう返した雫は、カンザキに言われるがままにその場で伏せると、外から見えないようにして周囲を警戒しているルークを見た。ルークは不思議そうに眉間に皺を寄せると、窓際から離れて雫達の下に戻った。

『外に少年が数名います。武装はせいぜい金属バットやナイフのようです』

「・・・テロリストではないのか」

ルークの報告を聞いたカンザキは、安堵の溜息を漏らしながら拳銃に安全装置をかけて腰のホルスターに戻した。しかし、そんなカンザキとは反対に雫は、ルーク曰く『ガラの悪い連中』に心当たりがあるのか、訝しげに眉根を寄せていた。そして不安げな面立ちの雫を見たカンザキは、ルークにその連中の特徴を伝えるように手で合図を送った。

『・・・何処かの学校の制服を着崩した格好です。デザインは緑のブレザーにチェックのカーゴパンツ、あとは革靴を履いています』

「・・・うわぁ」

相手の特徴を的確に伝えるルークの言葉に、雫は頭を抱えた。それは対象を知っているためであろう、そう判断したカンザキは雫に目で連中は何者かと尋ねた。

「私に絡んでいた奴らの兄貴分の不良です。近くの高校生で、何でも暴走族のメンバーらしいですよ」

「・・・・・そう言えば雫さん、さっき悪ガキ共の腕の骨を折りましたよね」

あっけらかんに笑いながらカンザキはそう言うと、重たげに腰をあげた。そのまま歩いて玄関に向かう大男を、雫はただ目で追うだけであった。のそのそと動く大男の背中からは、「ちょっくらお灸を据えてきますね」と方言の混じった呟きがした。しかし、いくらカンザキが体格に恵まれた大男とはいえ、流石に複数の不良を相手にするのは危ないのではないのかと判断した雫は、急いで彼を止めようと身体を起こそうとした。

『大丈夫です』

雫の頭の中に若い男の声が響くのに続いて、大きな肉球の付いた手が雫の眼前に差し出された。それは何時の間にか窓際から雫の傍に移動したルークのものであり、彼は至極穏やかな眼差しで見るとカンザキを制しようとしていた雫の動きをとめさせた。

『マスターもそれなりに訓練は積んでいます。非武装の民間人が相手なら、十分に勝てます』

「いや、でも・・・・」

穏やかな眼差しのルークとは裏腹に、雫は心配そうに去りゆくカンザキの背中を見ていた。だが、彼は右手をあげると雫の方を見ずに左右に振っていた。そして直ぐにカンザキの姿は開けられたドアの向こうに消えて、金属製の踏み板を叩くような音が響いていた。

『あれでも、一応は国連のエージェントです。腐っても不良ごときに負けませんよ』

「・・・国連?」

『はい。マスターは国連事務総長の代行職、筆頭補佐官の仕事をしています』

聞きなれぬ言葉に雫はルークの目を見た。赤くルビーのように輝く瞳には、不思議そうな顔をしている雫が映っていた。それはルークがにっこりと微笑んだことで直ぐに消えてしまったが。犬のような耳を、ピコピコと頭の上で動かしていたルークはその満面の笑みで雫を見返した。まるで主人に構ってもらえて喜んでいる子犬のように尻尾を振るルークのその姿は、正しく犬そのものである。

(抱きしめたい・・・)

絶対にあの毛皮はモフモフしている、そんな考えが雫の頭を駆け巡り、彼女はルークをヌイグルミのように抱きしめたい衝動に駆られた。だが今ここで手を出しては徒にルークを怯えさせてしまうのでは、しかし抱きしめたい・・・だが・・・・

雫の耳に、男の声が飛び込んだ。

それは相手を罵るような言葉を紡いでおり、聞くだけで不快になるような声であった。それでようやく現実に戻った雫は、少し前にカンザキが外に向かったことを思い出した。自身が異世界の人間であること、いきなりガラスが割られて暴走族もとい不良が外で暴れていること、カンザキがよくわからない機関の人間であること。いきなり過ぎる展開、いきねり過ぎる話の流れに雫は一瞬現実から離れてしまったのだ。

(・・考えたら、突飛も無い話よね)

今日の朝は何時もと何ら変わらないものだった。一人で登校して、授業を受けて一人で昼休みを過ごして一人で下校する。そして何時もと同じように不良ぶっている女子に絡まれ、思春期故か女子の前で格好つけたい不良に絡まれていた。何時もと違うとすれば、何故か不良の少年の腕の骨が折れて、ナイフで刺されかかったことだ。それがきっかけなのか、よくわからない動物を引き連れた悪人面の大男が迎えに来て、「実は両親が生きて待っている」と言ってきた。例え勉強のできる頭の良い生徒でも、このような展開についていけるのか、いやついていけるものなら是非ともその顔を拝んでみたい。

そこまで考えた雫は、ルークの気遣うような眼差しで再び我に返った。少し前まではヌイグルミのようなルークを抱きしめたい衝動で、今度はあまりに非現実的な話の流れでぼんやりとしていたのだ。雫自身、確かに呆然としたくなる気持ちはわからなくもない。だが、今は呆然とする事は頂けない事である。いくらカンザキが訓練を積んでいるとはいえ、丸腰で暴走族に勝てるとは雫には到底考えられなかったからだ。しかし、いくら心配だからといって、雫がカンザキの加勢に行ったとしても無駄であることは、鼻から明らかである。だからと言って、このまま部屋で彼が殴られるのを指をくわえて見る訳にもいかない。

「どうしようか__」

『だから大丈夫ですって』

相変わらず心配そうに呟く雫に、ルークは半ば呆れたように言った。おそらくルークはカンザキという男について知っているからこそ、そう言えるのであろう。だが雫にはそれが理解できず、心配そうにドアを見ていた。

その時、雫の耳に肉を打つような湿った音が飛び込んだ。

それを皮切りに罵声と怒鳴り声が外から部屋の中に飛び込んでくるが、それは直ぐに甲高い悲鳴にかき消された。最初は一回しか悲鳴は響かなかったが、それに続くようにして続々と男の悲鳴が雫とルークのいる部屋の中に飛び込んできた。野太い男の声による悲鳴は、女性によるそれ以上に耳に障り、雫は自然と不愉快そうに耳を押さえていた。それはルークも同じであるらしく、彼もまた耳を伏せると黙って雫の傍に座った。

やがて、悲鳴は聞こえなくなり、辺りは静寂が支配していた。

「__戻りましたよ」

ガチャ、という金属音に混じり、室内にカンザキの声がした。それには息の乱れや焦りといったものは一切無く、むしろ悠々としたものである。雫が声のした方を見ると、そこには部屋を後にする前と何ら変わらないカンザキの姿があった。

「さて雫さん、荷造りはどのくらいでできますか?」

終わり次第出発しますよ、と呟いたカンザキは、畳の上を散らばるガラス片を避けながら雫に言った。外にいた不良達はどうなったのか、いったいカンザキは何をしたのか、雫は彼に問いたいことが沢山あった。だが、飄々としたカンザキの雰囲気がそれを許さず、雫はそれを問うことができずにいた。

『いったい何をしたんですか』

そんな雫の考えを気配で察したのか、ルークが雫に代わりカンザキに問い掛けた。それを耳にしたカンザキは、足を止めると雫とルークの方をくるりと向いて怪しく笑った。その笑顔は、まるで極悪犯罪者そのものであった。





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