水中をもがくような苦悶の表情が、今日も目の前で張り付いている。
その表情の時、瞳に宿すものといえば、必ずそれは自分の姿で、そういえば彼の笑顔というものをしばらく見ていなかったとミラは記憶する。
切迫した状態の中、大した気遣いも出来ないまま時は過ぎていた。
(人間というものは、思っていた以上に難しい生き物だな)
多くのものを抱え、生きていく彼らを間近で見ていようとも、その内面まで触れるのは、やはり難しい。
元より、人間とは一線を引いて過ごしているミラにとっては、そこへ介入していくつもりも、さらさらなかったはずなのだが。
こうして心に止めていることは、十分に彼らと関わりを深める要因になるということを、ミラはまだ気づかない。
特に、それが顕著にあらわれるのが、旅の一行の中でもジュードへ対してだということも、自覚していなかった。
買い物へ行こう。とミラの両の手を引いていくのは、レイアとエリーゼであった。宿で待機していると告げるミラの手を、問答無用で引き、彼女達は女同士のショッピングへと花開く。
着飾るのは決して嫌いではないのだが、買い物だけで数時間を費やせる彼女達のバイタリティには、ミラはとても着いていける気がしなかった。
楽しそうにアクセサリーを見つめている二人には申し訳ない思いも浮かんだが、ミラは忍び足で二人から離れると、店から飛び出した。無理やり同行を求められたミラ自身は悪くないはずなのだが、罪悪感がゆるやかにこべり付く。後ろから自分の名を呼ぶ声が聞こえたが、ミラは聞かなかったことにして、来た道を戻っていく。後ろから追いかけてくる気配はない。しかし、恐らく二人のいづれかに捕まったら今度こそ最後。
双方の手はミラを捕まえ続け、買い物に付き合うことになるだろう。
そうなったらそうなったで、きっとミラも嫌な顔一つせず彼女達の後を着いて回るのだろうが、今の所ミラには逃げる選択肢しかなかった。
しかし、小走りで宿へと向かう中、聞こえてきた声に、ミラは走る速度をゆるめ、やがて立ち止まった。
年端も行かない幼い少年が、目の前で涙を流して泣いている。傍に居る母親らしき女性に窘められ、少年は顔を真っ赤にさせて声も出さずに泣いていた。
子供とはあのように泣くものなのだろうか。
ミラの頭の中にある子供と言えば、絶えずころころとせわしなく笑っているか、劈くような声で号泣しているかであった。ミラの読む本でも、子供はそのようなものだと記してある。
だが、目の前の少年はどうだろうか。
ミラの知っている子供には当てはまらず、傍にいる女性に優しく抱きしめられ、ようやく涙は止まっていった。
興味深そうにしげしげと眺めていると、二人は街の奥へと消えて行く。しばらくその場に立ち尽くしていたミラは、思い出したように宿屋へ足を進めた。
早々と宿屋へ戻ったミラに続くように、夕食までには一行の全員が集まり、その騒がしさをミラも楽しみながら夜は更けていく。
それから、明日の予定や準備を確認していると、あっという間に時は過ぎていった。静けさが増す室内で、既に就寝しているレイアとエリーゼが気持ち良さそうに眠りについている。
数度寝返りを打って目を閉じていたミラは、一向に来る気配がしない眠りにため息をついて起き上がる。
ベッドから抜け出し、古い板張りの床を慎重に歩いて、気分転換にと宿を抜け出した。
人気のない夜道は、空気が凛と澄んでいる。頬に当たる冷えた風が気持ちよかった。
夜道に照らし出される宙からの光。それを見つめたまま立ち尽くしていると、背後に気配を感じ、ミラは後ろを振り返った。
「……ミラ?」
声は優しさを含んだ、あのお人好しの少年のものだ。
見知った者に、ミラは背筋に張った緊張を解いた。
同時に、まさか仲間の誰かが来るとは思わず、ミラは目を丸くする。
「ジュードか……どうしたんだ?」
照明などいらないほど、明るさを保った夜は、互いの表情がはっきり分かる。ジュードはどこか切羽詰ったような表情で、ミラに近づいた。
「こんな真夜中に出歩いたら危ないよ。まして、ミラは女の子なんだから」
「……ふふっ、そうだな」
「笑い事じゃないよ。いくらミラが強いからって、何かあってからじゃ遅いんだよ?」
「ああ、すまない。目がさえてしまってどうしても眠る事が出来なくてだな……」
思案ありげな顔はそのせいか。『女の子』という響きがどこかくすぐったく感じてしまう。
マクスウェルだと彼は知っているはずだし、そのマクスウェルを手伝う為にミラの後をついてきているはずなのに、それでも彼の認識では精霊というよりは”女性“という感覚の方が大きいのだろう。
「僕も……なんか今夜は眠れなくて」
「そうか……」
世話好きのジュードがいつも神経をすり減らしているのは、ミラとて意識してはいるものの、力なく笑うジュードが少し気がかりだ。
そういえば、こうして二人きりで話す事自体が久しぶりな気がする。
ゆっくり時間も取れずに強行突破で旅を続ける事が多い自分達には、心休まる時が少ない。
「何?どうしたの?」
「いや……特にどうもしないが……」
「そう?」
見つめるミラから目を反らしたジュードは、そっと俯いて地面ばかり見ていた。
ミラはそんなジュードを見て、ふと思考の中に浮上した引っかかりを覚えた。
目の前で変化していくジュードの表情は、近頃ジュードが良くする表情だ。
何を考えているのかは分からない。けれど、榛色をした瞳が闇夜に居るだけではない、深淵深くに思考を落として翳るのを見れば、彼が思い詰めているのはすぐに分かる。
彼は子供ではない。けれど、大人でもない。
(しかし、どちらかと言えば……そう、昼間のあの……)
「……子供のようだな」
欲しがるその気持ちが、表情にあらわになってしまう所が、まだ幼さを感じる所もある。
必死に己の中の葛藤と戦い足掻こうとしているが、それがいつも苦しそうだった。今までこそ口に出した事はなかったが、彼のそれには、いつも気になっていた。
怪訝そうに見つめるジュードに、ミラはそっと手を伸ばし、ジュードの頭をそっと撫でた。
そして、ジュードに触れた瞬間に、ミラの心も劇的に変化する。胸の奥がきゅっと甘く締め付けられるような感覚。
いつも目にしているリーゼ・マクシアの人間に感じる愛しさとは、明らかに違う。
目の前のジュードに、ただ、――触れたいと思った。
(これは……、この気持ちは……なんだ?)
触れているだけで、ミラの胸は鼓動を早めていく。その変化に戸惑いを覚えていると、今度はジュードの方に変化が起きた。
眼を潤ませているその顔がミラへ近づいていく。
どうした。と口にする前に、ジュードとの距離は無くなり、唇をやわらかなものが触れた。
それはすぐに離れていったが、ミラはジュードの突然の行いが分からず、その真意を確かめようとジュードを見返す。
同じく、ジュードもミラを見返しているが、自分とは違い、色んな事を考えているように見えた。
僅かに嬉しそうな表情をしたのに、すぐにそれは掻き消され、絶望に堕ちたようなものにすり替わり、それは忙しなく変化していく。
唇に触れたもの、それは恐らくジュードの唇だろう。
書物で読んだものでは、それは『口付け』という行為となるが、それはシャン・ドゥのイスラとユルゲンスのような婚約者、又は恋人達がするものではないのだろうか。
書物ばかりの頭でっかちであるミラには、その真意は考えた所で謎が深まるばかりだ。
それとも好意のある者に対して、『口付け』というものは交わすものなのだろうか。けれど、この旅を始めてそういう場面にお目にかかった事はない。
ということは、『口付け』というものは、人前でするようなものではなく、重んじて受け取るものと言うことになるか。
それなら、ジュードのような奥手には、『口付け』というものが簡単ではないように思える。
しかし、これとてジュードが口にしなければ、明確に分からぬ事だ。
ミラがそんな事を考えている中、双方の視線から逃れたのはジュードの方だった。
ミラから顔を隠すように俯いたジュードは、呼吸を震わせて今にも泣き出しそうだったものだから。
一人ぼっちで孤独を抱える彼に、ミラはいつしかレイアの告げていた『ジュードの抱える寂しさ』を思い出した。
彼の抱えるその闇は、どうしたら癒えるものなのか。
これも、ミラには分からない。けれど、分からないものを分からないで放置してしまえば、ジュードはすぐにでもミラの許を離れてしまいそうだった。
ジュードの葛藤の具合から見て、それだけはわかる。
そして、ミラの抱える鼓動の早さもジュードが去ることで終わりを迎えてしまいそうで、怖かった。
この気持ちは嫌いではなく、ずっと感じていたいと思うくらい甘美なもので、何かを見失いそうな危うさを秘めている気もした。
自分が自分じゃなくなるような感覚が苦しい。けれど、ジュードが今、ミラの目の前から消えるほうがもっと苦しくなる事は明白だった。
それなら、ミラとて行動しなければ伝わらない。
痛いほど握り締められているジュードの拳に触れた。瞬間、おおげさなくらいびくついたジュードの手を、ミラは引く。
「そんな泣きそうな顔をしなくても、私はここにいるだろう?」
「……え?」
握り締められた拳は、ミラが触れることで解け、解けた手のひらをミラは握った。
(ジュードのあの表情が、もう一度見たい)
僅かに滲ませた笑顔、それはそう――。
ミラ自らがその距離を詰め、ジュードに顔を寄せた。
唇に彼の吐息がぶつかり、ミラは再び狂おしい程の甘い痛みを胸に抱く。
思うがままにジュードの唇に自分のものを重ねると、そっと顔を引いた。
「……、……っ」
ミラ。
と、ジュードは唇だけで象り、ミラの名を呼んだ。頬をつっきった雫がきらりと光る。
困惑を全て涙に押し流すようにして、ミラを見つめて。
そんなジュードの姿を目にして、ミラは一層離れがたくなり、ジュードに縋りつくように抱き付いた。
どちらからともなく合わさった唇は、互いの境界線を曖昧にし、時を忘れるくらい求め合う。
想いは熱を上げた所で、足りない言葉では補う事はできず、絡んで身動きができなくなると、ミラもどこかでわかっていたはずなのに。
引き寄せあう力に敵わず、言葉を埋める手段は、重なる熱に溶けていった。
きみにはうまく伝わらない
2011.10.24
エクシリア企画サイト、Ti amo!様へ捧げた「近くにいるのに本当は遠い距離」のミラ視点。