- ナノ -
ロマンス不在の夜


「うぁ、も、むりです……!」

 わたしがもう半分くらい泣きそうになりながらそう言ったら、頭の上から支部長の呆れたようなため息が聞こえた。ベッドに顔を埋めてしまっているから支部長の顔は見えないけれど、たぶん彼は「何言ってんだこいつ」みたいな表情を浮かべているのだろう。シーツやら枕やら脱がされたシャツやらをかき集めてどうにか自分の体を隠していたのに、わたしの涙ぐましい努力を残酷なことに支部長はあっけなく無にしてしまう。シーツはひっぺがされて枕も取り上げられてシャツも投げ捨てられた。なんという仕打ち。あんまりである。
 わたしたちが何をしているかといえば、まあ、つまりそういうアレである。お互い何となく好意を抱いている男女が酒を飲み男の家に行きシャワーを浴び、同じベッドで身を寄せ合えばやることなんて一つだろう。というか、支部長は「そのつもりだ」と言っていたし、わたしとてそのつもりでほいほいと家までついて来たのだ。それが敵前逃亡──いや、敵前どころか片足一本分くらい食われた状態であるのにもかかわらず、怖じけづいて尻尾を巻いて逃げようとしているのである。当然ながら支部長はそう簡単に逃がしてくれたりしないので、わたしはベッドでうつぶせになり、どうにかこうにか己の体を隠して無様な抵抗を見せている。胸を隠して尻隠さずだけど胸やら何やらを晒すよりはまだましだ
 決して寒くはなくかといって暑くもない(支部長がいい感じに空調をいれてくれたので快適である)のだけれど、裸のまま異性の視界に晒されるのはなんだか心もとなくて、思わず両手で自分の貧相な体を隠すように抱きしめる。緊張を和らげるためにとしこたま摂取した酒は理性も何も飛ばしてはくれず、いざこんな状態になってしまえば胸に沸き上がるのは羞恥、緊張、そして「もうちょっとお腹絞っとけばよかった」という乙女心と、多少の恐怖だった。決して支部長がいやとかそういうんじゃなくて、単純にわたしの経験値の少なさ故である。
 恥ずかしい恥ずかしいと連呼してみても、支部長は「恥ずかしいことしているんでしょうが」と取り付く島もない。乙女心のわからない人め。うぶな心を汲んで優しくしてくれるどころかいつも以上にいじわるで、ちいさく丸まっているわたしの肩やら首筋に指を這わせたり唇で触れたりしてくるものだから、へんな悲鳴が上がってしまう。くすぐったい、というのとは少し違って、触られるたびに背筋がぞくぞくしてくる。寒くもないのに肌があわだった。押し倒されている状態から逃れようと這っていこうとしたけれど、支部長はそれを許してくれなかった。

「あのねぇ、あなたこの期に及んで逃げるつもりですか?」
「だってちょっとこれは恥ずかしいですごめんなさい出直します!」
「却下。心の準備はしてきたんでしょう。観念しなさい」
「ひ、っ」

 肩に添えられた手が二の腕まで下ってきたかと思ったら、無防備な背中にキスされた。背骨をなぞるように唇が触れて、首へと向かう。背中って、触られるとこんなにざわざわするのか、なんていう新発見に愉快な気分になれるほどの余裕もなく、変な声を出してしまうのが恥ずかしくて思わず唇を噛んだ。あごひげがくすぐったくて身を震わせたら、それに気をよくしたのか、支部長はちいさく笑った。乾いた唇が耳にふれ、「あんまりそういう反応されると、いけないことをしている気分になるんですが」と低い声が鼓膜を擽る。

「ひ、ん、しぶちょ、耳、やです……っ」
「お子様でもそういう声出るんですね」

 感心したような、よくわかんないコメントをしたかと思ったら、肩を引かれて仰向けにさせられた。電気はもうとっくに消してあったから、薄暗い部屋の中で支部長の顔はほとんど陰っていたけれど、暗闇に慣れてきていたわたしの目は、その表情をとらえることができた。サングラスは外していて、お風呂上がりだから髪も少ししっとりとしていて、薄く隈の広がる目元だけは興奮にぎらぎらと光っているように見えた。青い瞳ってかっこいいな、なんて平和に思っていたのが遠い昔のよう。いつもの冷静さはなくて、獲物をとらえるときのルガルガンみたいな、獰猛な目をしている。
 おとこはグラエナなのよ、気をつけなさい、なんてちょっと古い歌詞が頭を過ぎる。ああ、あれは、あながち嘘なんかじゃなかったのだ。なんとなくこわくなって、距離を作ろうと腰を浮かせたら、それに気づいた支部長が、ぐっとわたしの片手を掴んだ。「逃げるな」と囁く声に滲む熱っぽさが、わたしの肌に伝染して、じりじりと焦がされるように頬が熱くなる。はぁ、と吐き出した息が、いつもの自分のものじゃないみたいに、甘く湿っている。それを飲み込むように、支部長が唇をキスで塞いでしまうから、もう、逃げようともがくことは諦めた。
 薄い舌が生き物みたいに口内でうごめく。体温が低そうなイメージがあったけど、実際に触れた支部長は──この、行為のさなかということもあってか、どこもあったかい。酔いなんてとっくに醒めているのに、支部長の熱に頭がくらくらして、酸素を求めて息を吸ったら、また塞がれる。そのうちに、腕を掴んでた支部長の手がそろりと肌を滑って、あらわになった胸元にかかった。
 小さくて弱いポケモンを撫でるときみたいな優しい手つきで、やわやわと胸を揉まれる。手袋もつけていない白い手が、わたしの恥ずかしいところに触れているという事実に、心が追いつかない。いつもはこう、モンスターボールより重いものなんて持ったことありません、みたいな顔をしているくせに、むきだしになった腕の骨張った感じが男の空気を纏っていて、どきどきしてしまう。指の先で触れるか触れないかという危うさで肌を撫で、 包んだり、引っかいたり、撫でたり、つまんだり、忙しく動くので、苦しくないのにへんな声が出て恥ずかしい。
 キスが終わって、少し離れた支部長の顔をぼうっと見上げたら、彼は含みのある笑みを浮かべた。何がそんなにうれしいのだろう。支部長の視線がいつまでたっても逸れてくれないので、思わず自分の顔を手で覆った。

「う……あんま、見ないでください……」
「いつもそれくらい恥じらいを持ってたら可愛らしいんですけどねぇ」
「……支部長がいつもこんなやらしかったら困る……」
「わたしも男なのでね」

 それなりの欲はあるんですよ、なんて低い声で言われて、言葉に詰まった。支部長の三大欲求は食欲睡眠欲出世欲だと思ってたのに、ちゃんとそういう欲あるのか。そしてその欲の向いている対象が、求める相手が、わたしなのか。それはちょっと、いやかなり、ぐっときてしまう。
 そんなことをぐるぐると考えていたら、支部長は目を細めて、「余計なこと考える余裕がおありで?」と挑発するように囁いた。鼓膜を擽る声が普段のそれと違っていて、いよいよわたしはこの人に食べられてしまうのだと思い知らされる。そうだ、この人は元々ねちっこいというか、一度決めるととことん突き進む人だった。叩き上げのポジションから今の地位を築きあげるまで、ごまを擦り、おべっかを使い、時には自分より年若い人間にも頭を下げ、数々の策を練り邪魔者は実力で黙らせて、求めるものを虎視眈々と狙いつづけてきた。──まあ、わたしなんぞが彼の愛する『支部長』の肩書と釣りあうかは別としても、とにかく、狙った獲物は逃がさないこの人に捕まってしまったのだから、逃げられるわけはなかったのだ。ならばもう、せめて一思いに始末してほしい。
 体の力を抜いて抵抗をやめ、ふうと息を吐き出せば、支部長はわたしの様子を見て片方の眉を跳ねさせた。

「おや、観念したのですか」
「ええまあ……自分がまな板のコイキングであることを自覚しまして……」
「多少遅い気もしますがねぇ」

 くつくつと笑う声が楽しそうなのは、勝利を確信したからなのだろうか。胸元を這っていた手がするりと持ち上がって頬を撫でる。その触れ方が優しいので、気恥ずかしさが加速してしまう。職場じゃいつもそっけないし、褒めるよりも嫌みの方が多いし、優しく触れてくれるどころか資料でほっぺたをぺしぺししてくることもあるくせに、こんな風に優しくされたら、どうしていいかわかんないじゃないか。

「し、支部長……」
「なんです、まだ何か?」
「や、優しくしてくださいね……?」
「……、……さあ、どうでしょうね」
「え、こういう時は『もちろん優しくするよ』っていうものでは?」
「そんな返しができるなら多少手荒にしても構わないでしょ」
「ひどい! やっぱ出直します!」
「……もう諦めなさい。ここまできて帰すつもりなんてないんですから」

 逃げ出すより早く彼の手がわたしの肩を掴んで、わたしは再び柔らかいベッドに身を沈めることになる。痩せているとばかり思っていたけれどやっぱり支部長も男の人で、身をよじって抵抗してもびくともしなかった。いつもの支部長じゃないみたいな、やたら熱い唇がまたわたしの呼吸を奪った。乾いた唇はどちらのものかわからない唾液ですぐに濡れてしまった。 「多少は、まあ、優しくしてさしあげますよ」そんな信用ならない言葉を吐き出して、青い目が笑う。気恥ずかしさで瞼を閉じれば、彼の最高に楽しそうな表情も見えなくなった。


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