- ナノ -
さえずる歌もまだ知らない


 気づけば空に放りだされていた。
 がらがらと音を立てて足下が崩れていく。いよいよ世界は終わるのかと思いきや、何のことはない。ただ脆い崖の先がわたしの体重に耐えきれなかっただけだった。その証拠に、真っ逆さまに落ちていく先の地面は依然として堅牢にそこにあった。このまま叩きつけられればぺちゃんこになるだろうということは、簡単に予想がついた。
 切り立った崖に指でも掛けられないかと一縷の望みにかけてみたものの、ぽんと放られたこの体を腕一本で支えられるわけもなく、ざらざらとした岩肌を無意味に指先が擦るだけだった。摩擦にこらえきれず腕を引けば後は地面の衝撃を待つばかり。むき出しになった岩肌の隙間に咲くスミレが、青空をバックに風にそよぐのが見える。花弁の一枚一枚まで鮮明に見えるのは、非常時における脳の異常覚醒だろうか。
 このままいくと十中八九死ぬ。運よく生き延びても骨や内臓は無事じゃすまないだろう。血の匂いに魔物や獣が寄ってくるかもしれない。そうしたら、やっぱり死ぬ。うん。死んじゃうのか。せめて、今まで散々迷惑をかけてきた兄に別れの言葉くらい送りたかったけれど、人生とは無常なものだ。せめてあまり痛くありませんように、と無意味な祈りを捧げて、最期の瞬間を待った。

「あ、」

 ──がちり、と何か力強いものがわたしの両肩を挟む。
 落下していたはずのわたしの体は、何者かによって宙づりにされていた。待てど暮らせど、人体をばらばらにするような衝撃は訪れなかった。その代わり、ばさりと空気が揺らぐような気配を肌に感じた。聞き覚えのある、翼をはためかせる音がする。

「君は、本っ当に馬鹿だね」

 頭の上からリーバルの声がした。

     *

 怪我がないか体の隅々までチェックした後、リーバルは固い地面にわたしを正座させた。いや、彼は特に「正座しろ」とは言わなかったけれど、何となく雰囲気的に、そうしなくてはいけないような気がしたのだ。
 正座して小さくなっているわたしの正面に、リーバルは仁王立ちしている。時折地面を爪先でちゃかちゃか引っ掻くあたり、多分、すごく怒っている。あんまり引っ掻きすぎて地面が抉れている。

「君が向こう見ずの無鉄砲なのは知っていたけど、一体どうしたら崖から落ちるんだい」
「……」
「理由も言えないって言うんだから、呆れるよ。心配している僕が馬鹿みたいじゃないか」
「……ごめんなさい」
「謝罪はいらないよ」

 冷たく吐き捨てながらもわたしを放って飛んでかないのは、彼の言葉の通り、本当に心配しているからだろう。それなりの年月を共に過ごしてきた妹分が崖から真っ逆さま、あわや大参事、だったのだ。その理由を知りたいと思うのはおかしなことではない。
 理由を言えないわけではないけれど、言ってしまえばリーバルはきっと呆れると思う。だから口を閉ざすしかないのだけれど、理由も分からない彼からしたら、わたしのあの行為は単なる身投げにしか見えなかっただろう。その勘違いも、大いに心配させてしまっていることも心苦しいものではある。けれど、洗いざらい吐き出すのは少し勇気がいる。

「……理由聞いたら、リーバルは馬鹿にするよ」

 恐る恐るそう呟けば、リーバルは呆れ交じりで肩を竦めた。

「話す前からそう言われてもねぇ」
「わかるよ。ぜったい馬鹿にする」
「君がそこまで期待するなら馬鹿にしてやってもいいけど、それは話を聞いてからだよ」

 だからちゃんと話さなきゃわからないだろ、と幼子に諭すような穏やかな声でリーバルが言う。兄としての威厳を持った声は、先ほどまでの刺々しい怒りを微塵も感じさせなかった。──本当に、彼は怒ったり馬鹿にしたりせず聞いてくれるだろうか。膝の上で両手の指をもじもじと組み合わせながら、兄の機嫌を窺う。リーバルは翡翠の目を細めて、わたしが話し始めるのを待っていた。
 わたしは意を決して、口を開いた。

「……スミレを、取りたかったの」

 ──リーバルの背後、さっきわたしが落ちかけた切り立った崖の途中に、一輪のスミレが風にそよいでいる。このタバンタのいたるところに生息している、なんの変哲もないゴーゴースミレだ。あのスミレが取りたくて、崖の上から手を伸ばしてうっかり崖から落っこちた──というのが今回のことの顛末だった。
 まさか崖が崩れるなんて思いもしなかった、なんていう言い訳は、リーバルの鋭い視線の前でごにょごにょと尻すぼみになって消えた。馬鹿にしないって言ったのにその表情には「この子は本当に馬鹿だなぁ」というような思いが透けて見える。

「な、なに。その顔」
「……予想していなかった理由だったからね、言葉を失うとはこのことだ」
「ほら馬鹿にした。だから言いたくなかったの!」
「別にまだ馬鹿にしてないよ」
「まだ、って」
「それにね、それだけ言われたら僕だって呆れるしかないだろう? 他にやりようはあったじゃないか。僕に頼むとかさ」

 それはそうだ。聞いてくれるかは別として、空を飛ぶことのできるリーバルに頼めばあんな危険を冒す必要なんてなかったのだ。妹という立場を使えば彼に頼むことはそう難しいことではない。けれど、それでも頼めない理由はわたしにもあったのだ。


     *

 羽無しヒヨコ、というのが、リトの悪ガキによってわたしに密かにつけられたあだ名だった。
 由来は単純明快。ハイリア人のわたしには彼らのように体を覆う柔らかな羽毛はない。そのくせ、リト族の村であのリーバルの妹として堂々と暮らしているのだから、彼にあこがれる子供や、彼の才能に嫉妬する子供にとっては格好の標的だった。お前なんてリーバル様にふさわしくない、妹だなんて思い上がりも甚だしい、彼無しでは生きていけないくせに。罵詈雑言はわたしにだけではなくリーバルにも及ぶ。リーバルは何もできないひよっこを子分にして偉ぶっている、とか。ほんの一部の同世代の子たちは、大人の目につかないところでわたしにそんな言葉を投げかけては、何かを言い返す前に空高く舞い上がってしまうのだ。
 羽のないお前にはあんな高いところにあるスミレを取ることなんてできないだろう、リーバルの妹が聞いて呆れる──そんな言葉を投げかけられて、むきになってしまった。羽なんてなくてもそれくらいできると啖呵を切って、このざまだ。
 洗いざらい話した後、恐る恐るリーバルに目線を向ければ、彼はさもくだらないと言いたげに息を吐き出した。

「で、その安い挑発に乗ってその体たらくかい」
「……びっくりさせてごめんなさい」
「まったく……」

 すい、とリーバルが振り向いて眼前の崖を仰ぐ。視線の先にあるのは、わたしが欲しかったスミレだった。雪山から吹き降ろすやや冷えた風に揺れる紫色の花弁が愛らしく、誰かに手折られる心配など全くしていないようにのびのびと葉を伸ばしている。
 どう頑張っても、わたしの手はあの花に届かない。空を飛ぶ翼もなければ、崖を登る強靭な体もない。狩猟生活を営むリトの村に生きるからには、とリーバルに弓を習ってそれなりの技術を身につけたつもりだけれど、獲物の上を取れるのと取れないのとでは勝率が大きく違う。リトの女性のように美しい歌声を持っているわけではない。わたしはどうしたって、リト族にはなれない。
 ここは、わたしの居場所ではない。そう言われているような気がして、時々恐ろしくなる。リーバルも、いつわたしを見限るだろう。わたしをこの村に引き取り、リーバルの妹として分け隔てなく育ててくれた彼の両親は、もういないのだ。面倒を見てやる義理なんて、リーバルにはないはずだった。

「……君が欲しがってたスミレは、あれかい?」

 翼手をスミレのほうに向けて指し示すと、リーバルはこちらに視線を向けた。

「うん」
「そう。じゃあ、そこで大人しく見ていなよ」

 言って、リーバルは助走もなしにふわりと風を纏って上空へと羽ばたいた。
 力強い羽音とともに土煙が巻き起こる。一瞬のうちに空へと身を躍らせたリーバルは、いとも簡単に崖の上へと昇り詰めていく。放たれた矢のように淀みなくまっすぐに、スミレとの距離を縮める。そうして、器用に空中で停止すると、足先を伸ばして器用にスミレを摘み取った。
 上昇とは打って変わって柔らかく加減した羽ばたきで下降し、やがてわたしの目の前に着地する。足の爪先で摘んだ花を翼手に持ち替えると、リーバルは「ほら」とわたしの目の前に差し出した。時間にして約十秒。わたしが命を落としかけた獲物を、彼は十秒で仕留めてしまった。
 目の前で揺れるスミレを、どんな顔で受け取ったらいいのかわからない。彼なりの優しさが嬉しいはずなのに、自分の無力さを見せつけられているようで、素直に喜ぶことができなかった。

「何か余計なことを考えているだろ?」

 いつまでもスミレを受け取れないわたしの心中を見透かすかのように、リーバルはハッ、と薄く笑った。

「君が羽無しで、空を飛べないのは事実じゃないか。逆立ちしたってできるようになるもんじゃないよ。そんなもの、君が僕に弓で勝つくらい不可能なんだから」
「そ、それはわからないじゃない。空は飛べないけど弓はちょっと上達したもの……」
「いいや、無理だね。君が弓で僕に勝とうなんて百年早いよ。……それに、君に羽が生えてなくて、空を飛べないからって、一体何だっていうんだい?」
「え?」

 リーバルはわたしにスミレを持たせると、束ねた髪を翼手の先ではじいた。金の結紐を髪に編み、翡翠の髪留めで留めたそれは、リーバルとお揃いの結い方だ。この翡翠は、リーバルと同じ髪型にしたいとわたしがせがんで、兄妹の印としてもらったものだった。確か、これをもらった時も、羽無しと虐められてわんわん泣いていたんだっけ。
 くるりと背を向けて、リーバルは続けた。

「前にも言ったろう。君が飛べなくたって、兄の僕がいつか君を背負って飛んでやるって」

 だから、それまでもう少し我慢しなよ。そんな言葉を残して、リーバルはゆったりとリトの村へと歩いていく。
 ──わたしに羽が生えていてもいなくても、わたしは妹なのだと、リーバルはそう言ってくれるのだろうか。わたしが飛べない代わりに、大きくなった彼がわたしを背負って飛ぶ。だから、わたしが飛べないなんて些末なことだと。兄は、そう言いたいのだろうか。
 なんだか照れくさいような、くすぐったいような気持ちになりながらわたしは立ち上がる。足についた埃を払って兄の背を追う。手の中のスミレは落とさないようにしっかりと握りしめた。リーバルはわたしが追い付いたのを確認して、翼手の先で頭をぐりぐりと強く撫でた。「あんまり兄を心配させるんじゃないよ、お転婆め」と、心底呆れたような声が頭の上から降ってくる。ごめんねと謝りながら、その翼手にそっと指先を絡めて繋いだ。
 村に帰ったら、そうだ。族長のところに行って、押し花のしおりの作り方でも教えてもらおう。それから、わたしを羽無しと馬鹿にする子が居たら、こう言ってやろう。「わたしには羽がないけれど、リーバルはわたしの自慢の兄なんだよ」と。
 ──心の中に芽生え始めたつぼみのような感情に、まだ名前はない。



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