- ナノ -

飼い殺しの花




 月島基が小樽にある鶴見中尉の私邸に訪れたのは、秋深まる頃だった。
 ひとつ頼まれごとをしてほしいということから始まった鶴見直々の誘いである。月島は軍服の上に灰がかった外套を纏い、土産に花園公園の団子を携えて通りを進んだ。よく晴れた日ではあるが吹きすさぶ風は冷たく、剥き出しになった手がすぐに冷えてしまうので、往来を行きながら両手を擦らせては何度も熱を灯らせた。
 さして大柄ではないがどこか鋭さを感じさせる顔立ちの男が、軍帽を目深に被って足早に行くものだから、すれ違う市民はどこか遠慮した様子でそっと道をあけた。戦争が終わったばかりで、己の体から戦いの余韻が抜け切っていないのを月島は感じていた。命をぎりぎりまで削りあう日が続いたからだろう。終戦し日本へ帰ってきたというのに警戒を解かず鋭い顔つきで歩くのが癖づいてしまっていた。本来の顔立ちであろうと言ってしまえばそれまでであるが、とにかく、眉間に刻まれた皺と固く結ばれた唇は冷たく凍ってしまったように一時も緩むことがなかった。
 険しい顔つきで道をゆき、やがて鶴見邸が見えてきた頃、建物の前に女性の姿があった。歳は若くまだ二十歳にも満たないあどけない顔立ちは、むしろ少女と呼んでも違和感はなかった。ふくらかな頬は紅を乗せているのか、それともこの寒さのせいか、遠目でもわかるほど可憐に淡く染まっている。
 彼女の足元には子供達が纏わり付いていたが、ひとつ、ひとつと女性から何かを受け取っては嬉しそうにめいめい駆けていった。すれ違う子供の手をそっと盗み見れば、そこにあったのは白い紙を折ってできたやっこであった。また別の子は福助、三宝と、皆で折ったとおぼしき作品がひとつ大切な宝物のようにしっかりと握られている。

「咲子さん」

 その名前を呼んだ瞬間、今の今まで、頑丈に結ばれていた唇と眉間の皺が、ほんのわずかに和らいだ。女は──咲子はふと顔をあげて月島の姿を認めると、珠のように濡れて光る眼を細めて笑った。

「月島さん。お久しぶりですね」
「お元気そうで。鶴見中尉は?」
「旦那様は用があって出ています。外は寒いですから、どうぞ上がってくださいな」
「ああ、すみません」

 ぱたぱたと猫のような軽い足取りで咲子は月島を家へあげ、客間へと案内した。長火鉢に炭火を落として部屋がほのかに暖まると、氷が溶け出し水になるように月島の表情はいくらか柔らかくなった。咲子は月島の外套を預かって鴨居にかけ、茶の用意を済ませると、暖をとる月島の向かいに座って背の低い机に茶器を並べた。
 咲子は鶴見中尉の養女である──そう呼ぶのが正しいのかわからないが、幼い時分に中尉に拾われたのだという。「猫を拾ったのだ」と当時鶴見は月島に語ったが、たまたま用あって鶴見の私邸を訪ねた折に咲子が出てきたものだから、大層驚いたものだった。歳の離れた細君か一人娘かと尋ねてみれば、食えぬ表情で「前に話しただろう、うちの猫だ」と笑ったのは今でもよく憶えている。
 初めて出会った頃は今より幼く子供と呼ぶべき風体であったが、この数年で一段と大人っぽくなったのではないだろうか。手足がすらりと伸びて、風に揺れる若木のようにしなやかに動くのを月島はじいと見ていた。薄浅葱の地色に桔梗の花が優雅に咲く着物の袖から華奢な白い手首が覗き、食器をひとつひとつ丁寧に並べていく。柔らかい果肉を纏う指先から女の匂いが立つようで、月島はどきりとした。

「……外で何を?」
「ふふ。近所の子らに折り紙を教えていたんです。ひとつ折ってみたら、懐かしくてたくさん作ってしまいました」
「器用なものですね。俺はこういう細かいのがどうも苦手で、あまりうまく折れないんです。……そちらは、花ですか?」

 長机の端にそっと置かれた紙の花に目をやると、咲子は嬉しそうに目を細めた。親に頭を撫でられて喜ぶ子供のようだった。「ええ、蓮華です。綺麗に折れているでしょう」もっとよく見るようにと促されて、月島は咲子の手から蓮華を受け取った。何の気なしに伸ばしてみた指の先がほんのわずかに肌に触れたが咲子は気付かなかったようで、無骨な月島の手に蓮華が渡ったのを見送って、そのまま両手で湯のみを包んで静かに茶を飲み込んだ。
 しばらくして、依頼主である鶴見が帰ってきた。花園公園の団子を土産として渡し、三人でたわいもない話をした。咲子が気にしていたのはもっぱら鶴見の体のことだった。奉天会戦で頭部に深い傷を折った鶴見は、前頭部に防護用の金属当てをつけている。時折体液がこぼれることもあるし、以前と比べて振る舞いが少々過激になったように感じるので不安なのだと咲子は言った。
 戦争が終わって、帰還した鶴見を迎えた咲子の姿を思い出した。もともと痩せていたがさらに細くなっていて、白い肌は生気を失い死人のようであった。養父が生きて帰ってきたのを喜ぶ余裕がないくらい、確かに鶴見の怪我はひどいものだった。砲弾の破片で脳が吹き飛ばされたのだ。生きているのが奇跡だと軍医は語っていた。
 咲子はあふれ出る感情をせき止めるようにして、鶴見の胸に顔を埋めて「お帰りなさい」とだけ言って、泣いた。きっともっと言いたいことはあったのだろう。もう戦争になど行かないで欲しい、自分の側に居てほしい──しかし、そのような甘い言葉を脇目もふらずに言えるような時代でも、立場でもないのだ。鶴見は軍人で、咲子はただの養女でしかないのだから。

「旦那様が怪我をなさったと聞いたとき、わたしがどれほど心配したか……あんなにたくさんの包帯を巻いているお姿を見て、わたしこそ死んでしまうかと思いました……」
「心配をかけたな。私はこの通り、あと百年は生きるつもりでいるから、あまり怖がるんじゃあないよ」

 泣く赤子をあやす親のように穏やかな口調で鶴見は語りかける。こんな風に、いかにも常識人らしい一面があるのかと月島は意外に思った。いや、こういう顔が隠れているからこそ、一部の人間はこの男に底知れぬ才覚を見て狂信するのであろう。かくいう自分もその一人なのである。
 やがて話が一区切りついたころ、ちょうど時計の針が三時を指した。それを見計らってか、鶴見は咲子に席を外すようにと伝えた。

「ここからは彼に大切な話があるのだ。おまえは下がりなさい」
「はい。わたしは二階で本を読んでいますから、何かあったら呼んでくださいね。月島さんも、失礼します」

 しずしずと咲子が礼をすると、はらりと髪が一筋落ちて、額に張り付いた。それをけだるげに指先で直してから、咲子は部屋を後にし二階へと上がった。軽い足音が階段を上り、やがてどこかの部屋に落ち着いたのだろう。居間には時計の秒針がチクチクと進む音しか聞こえなくなってしまった。
 妙な沈黙が落ちるのを月島は感じていた。緩んでいた表情はまた凍りつき、唇を真一文字に結ばせた。人が一人居なくなっただけだというのに暖かさが幾許か失われてしまったようだった。

「美しく育ったろう」

 ぽつりと呟くように鶴見は言って、月島の目をじっと覗いた。月島はどう答えるべきかと思案したが、変に嘘をつく必要もないと見て、「ええ」と頷いた。

「先日の誕生日で十七を迎えてな。碌な身よりもツテもない、後ろ盾といえばこの私しかおらん、哀れな子だ──しかし、ああも美しく、賢く育った。あの子を見る度に眩しい光を見ているような気分になる」

 鶴見の声はどこか陶酔を含んでいる。金属当ての下に二つ並んだ眼は黒々としていて、鶴見の目を通して底のない沼を覗き込んでいるようだった。目の回りをぐるりと囲むケロイドの跡はさながら火に焼かれた大地のようだ。鶴見の目を焼いたのは咲子の無邪気で眩しい光なのかもしれない。
 鶴見にとって咲子がただの養女ではない。血を分けた娘とも違う、恋い慕う異性とも違う、もっと別の深くほの暗い感情を抱いているようだったが、それを表す言葉がなかった。

「一人で生きられるよう色んなことを教えてやった。大学も行かせている。読み書きもできるし、洋琴も仕込んだ。どこへ出しても恥ずかしくはない娘だ」

 どこへも渡すつもりはないがな、と当たり前のように言って鶴見は食べ終えた団子の串を指先で弄んだ。
 鶴見は咲子を誰かにくれてやるつもりはないのだろう、と月島は薄々感づいていた。世間でいう幸せな結婚をさせ、所帯を持たせ、子を為すというありふれた幸せを与えてやるつもりはなく、飼い猫のように手元において死ぬまで愛でることを望んでいる。自分が居なくなったあとも一人で生きられる準備をしているというのは、そういうことだ。自分以外の後ろ盾をあえて作ってやらない代わりに、自分が死ぬまで面倒を見てやる。鶴見は咲子を飼っているのだ。
 ──それを人でなしと罵ることなど、きっと誰にもできやしない。おそらく、咲子も同じことを望んでいるのだ。身よりもない彼女が鶴見によって拾い上げられて、こうも人間らしく育ち、鶴見以外の誰かのもとで果たして安穏と生きていけるだろうか。鶴見という底知れぬ深い沼の中で暮らしてきた彼女が、いまさら野に放たれたところで美しく咲くことなどできはしないだろうということは、容易に想像ができた。

「月島。おまえにひとつ頼みがある」
「何でしょう」

 鶴見は串の先を月島の心臓に向けた。ここにあるのがやわな串ではなく銃剣の切っ先であって、まっすぐ体を突けば刹那に絶命するだろう、と月島は戦争帰りの脳で思った。鶴見ならあるいはこの串でも人一人くらい殺せるかもしれないだろうが。

「あの子を抱いてやってくれ」

 そんなことを考えていたからか、鶴見の言うことを理解するのに、少々時間を要した。
 月島は今まで当たり前のように繰り返していた呼吸の仕方を忘れてしまった。ひゅう、と気管が奇妙な音を立てた。

「──は?」
「器量は悪くないし、従順な、尽くす女だ。少々痩せているがいたって健康で、当然だが、男を知らん。……ああ、もしや好みではなかったか?」
「いえ、そうではなく、なぜそうなるのですか? 咲子さんと私が、なぜ……」
「後遺症だ」

 鶴見は弄んでた団子の串を皿に投げて、鈎のように折り曲げた人差し指でコンと金属当てを叩いた。

「ここをやられてからというものの、そういった欲求が全く沸いてこなくてな。あの子を誰かにくれてやるつもりはないが、女の悦びを与えられないのも忍びない。唯一それだけを教えてやれていない。ならば私以外の誰かがやるしかあるまい?」

 懇々と、駄々っ子に言い聞かせてやるような口ぶりだった。まるで自分の方が物分かりの悪い人間であるように一瞬思えたが、月島はいやいやと首を振った。違う。鶴見の言うことのほうがおかしいのではないか。養女の──咲子に、女の悦びを教えて──彼女を一体、どうしてやるつもりなのだ。そもそも、養父である鶴見がなぜそんなことをする必要がある。誰にも渡すつもりがないほど咲子を溺愛しているなら、他の男の手に委ねることはしたくないものではないのだろうか。
 鶴見の中にある底知れない本性の一端を見た気がした。夏を終えたというのに額には脂汗が滲んでくる。坊主頭を撫で付けて、月島は薄い瞼を閉じた。
 咲子は──十七になったばかりの美しい彼女は、綻びはじめたばかりの愛らしい蕾だ。甘く熟れるのを待つ果実だ。それを無理矢理に押し拡げ、収穫していいのだろうか。折り紙や甘味であんなにはしゃぐような幼い子を。確かに十七にもなれば結婚する婦女子もそう珍しくはないし、世継ぎのためにと男女の交わりを果たす者もいることだろうが、彼女は──女として"仕込まれる"のだ。"作られる"と言ってもいい。
 腕の中で赤く色づく咲子の頬を月島は想像した。朝露を纏うようにしっとりと濡れる肌の感触を、むせ返るような女の匂いを思ってみた。どれもこれもおぼろげて曖昧なものだった。月島は彼女の肌を知らない。女遊びにも興味はない。だから、咲子がこの腕の中で快感に身もだえる姿をうまく思い描けなかった。あの無邪気な少女が女の顔をするのだろうか。瞼の裏に浮かぶのは、蓮華がうまく折れたと笑む先の美しい姿だけだった。

「心配はいらん。あの子も、お前が相手ならと言っている」
「……なぜ、俺なのですか。女性の扱いに長けた者なら、他にもいるではありませんか」
「わからんかね、月島軍曹」

 月島はそっと瞼を持ちあげて、目の前にいる怪物のような男を見据えた。鶴見は月島のすべてを透かして見ているのか、蓄えた口髭の下で薄く笑った。

「女は愛されてこそ美しくなる。おまえならあの子を優しく抱いてくれるだろう?」

 ああ、この人はやはり怪物なのかもしれない。見て見ぬふりをしていた咲子への慕情を、こうもあっさりと見抜いてしまったのだから。

>>next
>>top