はやくその毒を下さい 「ねぇ、村上くんの何だった?あの、さいど……なんとかって奴。前に一度説明してくれた」 「サイドエフェクトですか?一度じゃなくて名前さんには何度か説明してますよね」 夜間の防衛任務が終わった後に彼女の部屋に来るのが気付けばもう当たり前になっていた。部屋に入るなり話し掛けられたの考えるとどうやら今日は機嫌は悪くないらしい。正確な年齢は知らないが少なくとも俺よりは年上の苗字名前さんはこの狭いアパートで一人暮らしをしている。 「そうだった?そのサイドエフェクトってさ、自分自身が学習した事なら睡眠さえとれば本当に何でも身に着くものなの?」 「物凄くざっくりと大雑把に言えばそうですね」 「ふーん。それじゃあさ、ボーダーで使ってるトリガーを自分で作ったりも出来る?」 「トリガーを?そんなの手に入れてどうするんですか?名前さんボーダー隊員にでもなりたいんですか?」 「んー、まだ秘密。でもさ、きっと村上くんなら出来るでしょ?開発室だった?そこからデータを盗んで睡眠学習すればトリガーも簡単に作れるんじゃないかなぁと思って」 「残念ながらそんな簡単にトリガーは作れませんし、データも簡単に盗んだりなんて出来ません。そんなことしたら直ぐに捕まりますよ。名前さん何を考えてるんですか?」 「なぁーんだ。じゃあ村上くんが私の為にトリガーを作ってくれるか、働いてる支部から盗んでくれたらその時には教えてあげる」 相変わらず何を考えているのか解らないそのまあるい目の中にはこの部屋に唯一置いてあるテレビの映像がチラチラと映っている。こちらを一向に見ずテレビを見ながら話す彼女との出会いはまだ鮮明に覚えている。 防衛任務に当たっていた時に警戒区域内に忍び込んでいた彼女を発見したのは偶然ではなく、必然な気がしてならない。名前さんは普通の民間人だが普通の思考回路を持った健全な人ではなかった。気が付けば俺はどっぷりその毒に侵されていた。 警戒区域の中には月や夜空の星以外にはお情け程度の街灯しか明かりがない為、辺りは闇と静寂に包まれている。任務中にゲートが開き直ぐさま急行する事もあるので常に警戒は怠れない。その暗闇の中を一人パトロールしていると道ひとつ挟んだ通りに人影がすっと横切った。来馬先輩は俺とは反対側の区域を、太一は今日は非番だったからこの場にいない。思い浮かんだ可能性にまたか、と内心苦々しく思った。 「止まれ。此処で何をしてる?」 警戒区域内で発見した部外者は拘束して本部に引き渡すのが決まりだ。声を掛けたが止まらずに走って逃げようとするその人影の後を追い掛けた。人影が手に持っていたのはナイフの様に見えた。 「あーぁ、もう捕まっちゃったなんて運がないなぁ。それに、お兄さん足が速いよ」 息を乱して袋小路になった路地に立ち止まっていた女を呆気なく捕まえた。ボーダーの関係者ならば雰囲気で何となく判別が出来る。本部ではなく支部所属でも隊員の名前と顔は防衛任務に当たっているB級以上ならば殆ど知っていると言ってもいい。 「ここはボーダー以外立ち入りは禁止している。逃げた癖にまさかボーダーの人間だとでも言う気じゃないよな?」 「違うよ。私は普通の三門市内に住む一般人。もしかしなくても、貴方はボーダーの人でしょう?もしかして立ち入り禁止区域に無断で入った私をその光ってる剣で口封じに殺しに来たの?」 第二次侵攻がようやく落ち着き、世間ではボーダーの異世界遠征が連日に渡って取り上げられて大変な騒ぎになっていた。その所為でメディア関係者やボーダーの機密を暴こうとしているタチの悪い連中、怖いもの見たさの若いお調子者が最近は警戒区域内に頻繁に侵入して自分もボーダーの人間だと言い張って我が物顔で歩き回る事があり、任務中の隊員は迷惑を被っていた。 大半は直ぐに隊員に見つかって秘密保持の為に記憶を完全に消され、カメラや映像媒体も削除されてから家へと帰される。民間人を守る為に警戒区域内にゲートを開いているのにも関わらず自ら危険な場所に入って来る奴らの気がしれなかった。しかし、放って置いてトリオン兵に寄ってたかって無残に殺されてしまうのは自業自得の言葉で済ませていい筈もないし、遺体を発見するのはこちらとしても気分が悪い。 「他にも誰か一緒にいるのか?」 持っていた孤月を下ろしてから女と向き合う。闇に紛れる為なのか真っ黒なワンピースの女はその暗い格好とは裏腹に酷く明るい声音だった。女が一人でこんな場所に入って来る事は滅多にない。男と二人で肝試し気分でも味わいに来たはいいが何処かで逸れたのか、はたまた喧嘩でもして置き去りにでもされたのかと安易に考えていた。 「一人ですよ。一人で来ました」 言いながら女は持っていた小さな懐中電灯で無造作に地面を照らしている。さっきナイフを持っている様に見えたのは気のせいか。 「目的は何だ?」 「目的は……。もし、それを言ったら貴方は私を見逃してくれますか?別に空き家に忍び込んで悪さをする気もないし、今テレビでやってるボーダーの遠征についても興味ありません。だからさ、私を見逃してよ。そしたらお兄さんに特別に気持ちの良い事してあげるから、ね?」 ゆっくりと近付いてきた唇をさっと避けたら女に笑われた。しかしその目には生気が宿っておらず赤い唇だけが弧を描いていて碌な人間ではないなと瞬間的に思った。少なくとも自分が今、悪いことをしているという自覚が欠如していると思わざるを得ない。 「もっと自分を大事にした方がいい。危険な場所にわざわざ罪を犯してまで入る目的に俺は見当もつかないし、貴女の目的を知ったとしても見逃してやれる様な立場にはない一介の支部隊員だ。諦めてくれ」 「残念、それならこれ以上我が儘言っても仕方ないか。お兄さんにこのまま連れて行かれたら本部ってとこで拷問されて酷い罰を受けたりします?」 そんな事は絶対にない。ただ記憶を消されるだけだ。 「ボーダーは一般人に拷問なんてしない。安心していい。まぁ区域内に無断で入った言い訳は本部で一生懸命説明するんだな」 「なんだ、そうなの。貴方みたいな真面目そうな隊員に捕まったのは初めてだからもしかして、と思ったのにな。まぁいいや、何処へでも連れて行っていいよ」 女は両手を挙げて降参のポーズを取った。その口振りから何度か隊員に捕まっているのかもしれないと思ったがそれ以上は何も聞かなかった。連行する時に抵抗されると面倒なので逃げるつもりがないなら楽で良かった。来馬先輩かオペレーターに報告を入れようと女からほんの少し目を離したその時、顔面に軽い衝撃があった。 「………っ?!」 女がずっと手に持っていた懐中電灯を俺の顔面に思い切り投げ付けたのだ。 「罰を受けないなら行く意味がないの。ごめんね?」 それと同時に腹部にチクリと刺された感覚。そして唇にはうんと柔らかい感触がした。 トリオン体は生身とは違って痛みを一切遮断出来る。その証拠に顔にも身体にも全く痛みはない。それでも薄暗い中で急に眩しい光を喰らって気が付いたらその姿を見失っていた。 「………」 まさかこの後に及んで逃げ出すとも思わなかった。本当ならすぐにでも追い掛けて本部に引き渡さないと行けなかったのに俺にはそれが出来なかった。眩しさに目がくらむ一瞬に見えた彼女の泣きそうに歪んだ顔がとても綺麗に見えた。腹部に当たったナイフの感触と唇のやけに冷たい感触に自分があり得ない程興奮しているのが解った。 ぶつかった時に落としていったままの鞄の中には小さな菊の花が沢山入っていた。萎れた花をこんなに持って彼女は何がしたかったのだろう。地面に転がったままの懐中電灯と抜き身のナイフはトリオン体には通用する筈もなくどちらも欠けて壊れていた。指で唇に触れてみると彼女に熱を奪われたのか冷たくなっていた。 黒いワンピースに沢山の菊の花束。最近これと同じものをニュースで見た気がする。 「……そうか。あれは喪服か」 この菊の花束を何処の誰に供えたかったのかは勿論分からない。しかしその場に放置も出来ずにナイフも纏めて鈴鳴支部にそのまま持ち帰った。当然みんなに色々聞かれたが途中で拾ったと言葉を濁すしかなかった。それから俺は夜も昼も眠る度に冷たい唇のリアルな感触をはっきりと思い出しては飛び起きる事が続いた。 二度目に彼女に会ったのは病院だった。鈴鳴支部の人間が病気で入院したので順番に見舞いに出向いた先で真っ白な入院着を着た名前さんに出会った。 目が合うと向こうは大層驚いた顔してから血の気のない顔でにこりと微笑むと俺の手に持ったお菓子やフルーツを見て誰かのお見舞いですか?と聞いてきた。 それから気付いたら病院の屋上で一緒にお茶を飲んでいた。どっちが誘ったのかも覚えていない。支部の人の見舞いに来た筈なのに名前さんの少し後ろに立って微かに薫る薬品の匂いを嗅ぎながらどうでもいい話を二人でした。 苗字名前さんは四年前の第一次侵攻で家族を全員亡くしたらしい。その日は彼女の誕生日で、彼女にとっては特別な日だからと無理矢理遠方から家族を呼び付けても許されると思っていた。そしてやっと三門市に到着した家族は彼女のアパートで部屋を綺麗に飾り付けてプレゼントを用意して名前さんの帰宅を今か今かと待ちわびていたそうだ。 呼びつけた家族を精一杯持て成そうと少し遠くへ買い物に来ていた名前さんだけが結果的には助かった。 三門市がまだ混乱している最中、程なくしてトリオン兵に蹂躙された家族の遺体のほんの一部分と血で染まったリボンらしきものが彼女には遺された。現在警戒区域の中にあったアパートには近付く事は疎か残りの亡骸を拾い集める事も許されなかった。後悔と贖罪と懺悔を繰り返す日々に名前さんの精神は擦り切れていったがまだ何とか普通の生活を続けていられたらしい。 しかしこの第二次侵攻を受けて当時の事がフラッシュバックした彼女は唐突に死にたくなる発作が頻繁に起きるようになった。それ以来ずっと入退院を繰り返している状態だと言う。 体調が多少良ければ喪服姿で警戒区域の周りを彷徨い、近くにボーダー隊員がいなければこっそりと忍び込む。偶に任務中の隊員に見つかったりもしたが、彼女自身の身体で取り引きして見逃して貰ったそうだ。しかし名前さんに死んでしまった家族の所に連れて行けと喚き泣き叫ばれると自分がした事をボーダーの上層部にバラされるのが怖くなったのか本部に連行されず直接病院に送られた。そういった精神状態の人間の記憶を勝手に弄ればどうなるか全く解らないからだ。 彼女は病院を退院しても尚、何度も警戒区域に通った。それでも思うように動き回れずにまだ一度も家族が死んだ場所へは辿り着けていないらしい。俺と最初に出会った時は暗い中を懐中電灯を頼りに順調に進み、あとほんの少しで目的が達成出来そうだったのになぁと頬を膨らませた。 名前さんの病室で二人で初めて夜を明かした後で俺が其処へ花を供えにいきましょうかと伝えたらガラス玉みたに綺麗な目が俺を見据えてこういった。 「それじゃあ意味がない!私が彼処で死なないと家族ときっと会えないの。あの日に無理矢理呼び付けた私だけが助かるなんて……なんで?どうして村上くん。私はどうしてまだ生きてるの?家族がまだ彼処でバラバラになったまま待ってるのにどうして?!」 彼女の目には明らかに俺に対する怒りが浮かんでいた。死んだ家族がそんな事を望んでいるとは思えないが、情緒不安定な彼女は少しでも自分の意に添わない言葉を吐かれた時は激昂して暴力的になる。その後で自分の暴れた後の部屋を見て愕然として一人でまた泣き叫ぶのだ。 そうなると俺はそのか細い背中を夢中で抱き締めた。同情なのか憐れみなのか自分ではよく解らないが初めての感情だった。でも泣き叫ぶ彼女をぎゅっと抱き締めて冷たい唇に温もりを移しあっている間は少なくとも俺は無償に安心した。 彼女があの場に戻ればきっと俺の前に生きては戻って来ないのは解りきっていたから防衛任務に内緒で同行させてくれと何度も名前さんに懇願されても曖昧にして断っていた。今では涙に濡れた名前さんが俺の名前を声が枯れる程呼び、求めることでしか心が満たされた気がしないのだ。それはまるで毒にゆっくりと侵食されている様だった。 この頃来馬さんが支部のみんなともあまり話さなくなった俺を心配して声を掛けてくれる事が多くなった。それでも決まって何もないと言う俺の言葉に悲しそうにそうかと頷くだけだった。 彼女の暴力も理不尽な暴言も毒を近くで浴び過ぎた今の俺にとっては何てことない可愛い我が儘に思える。名前さんには俺しかいないという事実が優越感と自尊心を常に刺激して心地良かった。任務の終わりにこうして彼女のアパートにやって来るのも病院でチューブに繋がれた青白い顔した彼女を見舞うのにももう慣れた。 何度目かの自宅療養中に彼女のアパートで二人きりの静かな時間を過ごしていたら突然またトリガーを作れと言い出した名前さんの話を笑って聞き流して、特に狭いアパートの中ではする事もないので二人で一緒に風呂に入った。細くしなやかな彼女と愉しく戯れて風呂場で愛し合うとやがて疲れてそのまま服も着ずにベッドへ潜り込んだ。 早く家族の側に行きたい、そして罰を受けたいとポロポロ涙を流す彼女の生白い身体を抱き締めていたらまた欲情した。そして自分の欲望をぶつける様に口付けながら彼女を組み敷いた。こういう時の名前さんは一切抵抗しない。どんなに乱暴だろうが俺のやりたいように自由にさせてくれる。 「このまま村上くんに殺されるのもいいかもね」 「家族の側で死にたいんじゃなくて、とうとう俺に殺して欲しくなったんですか?」 「怖くて痛いのがいいな。色んな死に方を試してからみんなが死んだ時と同じように一番苦しい方法で死にたいの」 何となく、名前さんがトリガーをどう使いたいのか理解出来た気がする。換装体で一番苦しんで殺される実験でもしたいのだろう。狂ってる。行為の最中に彼女の首を少しだけ絞め上げた。名前さんはその度に喜んで嬉しそうに啼く。 「う、あっ……」 首に食い込んだ指の力をふいに緩めると、名前さんはかはっと息を吐いた。彼女の意思とは関係なく生きようと酸素を肺に取り込もうとする姿は生に十分執着している様に見えてそうやって苦しむ彼女を見ていると酷く落ち着いた。 「ねぇ、簡単に死ぬのは駄目だよ名前さん。きっと家族も警戒区域の彼処でずっと貴女の事を待っててくれますよ。鈴鳴支部から名前さんのトリガーを手に入れたら俺が一番苦しむ死に方が見つかるまで貴女を何度も殺してあげますよ。だからもう少しだけ待ってて下さい」 そう言ったら好きな人に告白をされた乙女の様に頬を染めて嬉しそうに笑った。そんな事を平然とした口調で話している自分自身に鳥肌が立ったがもう後には戻れない気がした。 俺の指の跡が綺麗に残った細い首筋をそっと舐めたら名前さんの味がした。甘くて優しい毒の味がいつしか病みつきになっている。もっともっと全身で深く味わいたくなってまたゆっくりベッドに沈み込んだ。 back |