純真無垢な君のままで

家の近所にそれはそれは大きな犬がいた。
小学生に上がったばかりの時に怯えながらその家の前を通ったらきちんとリードに繋がれていなかったのか、しこたま追い掛け回された事がある。それ以来私はその犬が大の苦手になって極力その家の前を通らないようにわざと遠回りするようにしていた。

しかし、私が小学校三年生の時に近所に住む緑川駿くんという天使の様な可愛い顔をした一年生が入学してきてからはその犬が苦手でも我慢してその家の前を通るようになった。年下の子が一緒にいる時に犬に怯える恰好悪い姿を見せたくはない。学年も三年生に上がり私に懐いてくれる可愛い下級生が出来て嬉しかったし、そんな子に先輩ぶって接していたから怖いのを余計に我慢して駿くんと登下校する時はその家の前を出来るだけ平気な顔をして通らなければいけなかった。

しかした私が六年になりそれまで先輩としての振る舞いが順調だったある日、事件は起こった。

学校からの帰り道で駿くんと偶然一緒になり、内心嫌々ながらいつも通りその家の前を通り過ぎようとした時、突然またあの大きな犬が勢いよく私に向かって飛び掛かってきたのだ。


「キャーーッッ!!嫌っーー!!」

犬に飛び掛かられてあまりの怖さになりふり構わず取り乱し盛大な悲鳴をあげた。地面に倒れてそのまま犬にのしかかられて顔を舐められ今にも失神しそうな私を当時まだ私より背の低かった駿くんは犬の首輪を掴むとよしよしと犬の頭を撫でながら引っ張って私からどえにか退かしてくれた。

「名前ちゃん大丈夫ー?この犬スッゴイ元気だね。ただ名前ちゃんと遊びたかっただけで怖がらせるつもりはなかったと思うよ?」

「…ひっく、ぅう」

「え、そんなに怖かったの?名前ちゃんはお姉さんなのに案外泣き虫なんだね。ほら、もう怖くないよボクが居るから大丈夫!だからそんなに泣かないで?」

「う、うぇっ」

本当はまだ近くにいる犬が怖かったのもあるが、年下の駿くんに恰好悪いところを見られたのが恥ずかしいやら情けないやら。更にその可愛い後輩に優しく慰められたのもあってこの時の私は余計に涙が止まらなかった。

そしてその次の日から駿くんは泣いた私の事を余程頼りなく思ったのか時間さえ合えば殆どの登下校を一緒にしてくれるようになった。必ず犬の家の前を通る時には手を繋いで少しずつその犬に私が慣れるように一緒にオヤツもあげたりと色々と親身になってくれた。そんな事が続く内に年下の可愛い彼を頼もしい異性として好意を持つようになるのにそう時間はかからなかった。

駿くんの親切の甲斐あって私は中学に上がる頃にはその犬が怖いとは思わなくなった。他の犬も逃げ出す程ではなくなった。それでももう暫くは二人で手を繋いで歩きたくて少しの間その犬が平気になった事は黙っていた。駿くんのお蔭でもう一人でもすっかり平気で犬の前を通れるようになれたのだ。


「あんなに可愛い犬に顔を舐められて大泣きしてた名前ちゃんが中学の制服着てるなんてちょっと驚きなんだけど」

「もうっ!いい加減それ忘れてくれないかな?」

中学の入学式が終わってから暫くたったある日駿くんに会った。まだ私自身が着慣れてない制服姿をさも珍しそうに眺めている。

「あんな面白いもの忘れる訳ないじゃん!名前ちゃん、その制服似合ってるよ!」

「あ、ありがとう。駿くんもきっと制服が似合うと思うよ。再来年楽しみだね?」

「これからも手ぇ繋いで中学校に送って行ってあげようか?だって中学校行く間に犬がいたらまた泣いちゃいそうだしさ」

制服姿を褒められて恥ずかしかったけど、それ以上にとても嬉しかった。それから駿くんがいつもの様に手を差し出したので自分の手をそっと重ねた。


しかし今まで普通に出来ていた事が中学生になった途端に難しくなってきた。私は自分が周りからどう見られているのか急に不安になってきたのだ。私の年頃だと駿くんと手を繋いでいるのを見られでもしたら絶対に付き合っているとかそういう変な噂になる。特にこういった噂はすぐに学校中に知れ渡ってしまうのだ。親切心から手を繋いでくれていた純真無垢な駿くんにそんな噂を聞かれでもしたら困る。

もしかしたら駿くんに嫌われるかもしれない。それが私の中では一番最悪な事だった。


「あっ!名前ちゃんだ!おはよう!偶然だね!途中まで一緒に学校行こうよ!」

「おはよう、駿くん」


登校時間だけあって人通りが多い道路の真ん中で駿くんに会った。でも私の頭の中には駿くんと会えた嬉しさとは別に兄弟でもない異性の小学生と仲良さげに一緒に居るのをもしも学校の誰かに見られでもしたら……という不安があってどうしても不自然な距離を空けて歩いた。

「ねぇ。なんでそんなに離れんの?ほら、いつもみたいに手繋ごうよ?」

駿くんを異性として見ているやましい自分の気持ちを自覚しているだけにそんな事がずっと頭をよぎって、気が付けば手を繋ごうと私の手に触れた駿くんの手を思い切り払っていた。

「もう中学生になったんだから小学生と手を繋いで登校なんて恥ずかしい真似これからはしたくないの。それにもう名前ちゃんだなんて気安く呼ばないでくれないかな?」

「えぇー?何それ別にこれからも名前ちゃんで良いじゃん!」

「駿くんだってあと少しで中学生になるんだし苗字先輩って呼ばないといけなくなるんだよ?今から練習しておこうよ」

「ぶーぶー。それじゃあ名前ちゃん先輩って呼ぶもんねー?それならいーでしょ?!ほら名前ちゃん先輩!学校に遅れちゃうよ!早く走ろ?」

駿くんは特になんの気もなくその行動を取ったのだろう。しかし今の私には駿くんと手を繋ぐ、という行為がどうしても出来なくてまたそんな彼の手を払ってしまった。ぱしん、と乾いた音がやけに耳に残った。

「恥ずかしいから止めてよ!中学生になったら色々変わらなと行けないの。小学生とは違うんだから!これだから年下は……ちょっとは先輩としての私の迷惑も考えてよね」

「……迷惑。そっか。わかったよ苗字先輩。それじゃあね」


駿くんはそれだけ言うとさっさと私を置いて行ってしまった。自分で先輩と呼べと言っておきながら実際にはこうして呼ばれたら鈍器で頭を殴られた様な衝撃を受けた。いつも明るく名前ちゃん、と呼んでくれた駿くんが急に遠くに行ってしまった様に感じた。

それからは道で偶然出会っても駿くんは軽く挨拶するだけで以前のように私に親しく話し掛けてくることは無くなった。自分のしてしまった言動の所為だと分かっているけど好きな男の子にあからさまに無視されるのは物凄く辛かった。

だけど言葉を掛けようにも特にきっかけもないままでどうしようもなく時間だけが過ぎ、私が中学三年生になった日にとうとう駿くんは同じ中学に上がってきた。
制服を着た駿くんは小学生の時よりもやはり大人びていてとても格好良く成長していた。同じ学校内にいればたまに駿くんを見掛ける事もあって、それだけでも私は嬉しかった。


「一年生の緑川駿って子、ボーダーに入隊したらしいよ?しかもスッゴイ強いんだって」

「本当に?どんな子?」

「ほら、あの可愛い顔してる子!明るいし女子の先輩達からもかなり人気あるみたいだよ」

駿くんがボーダーに入隊したという噂はすぐに学校中に知れ渡った。中学生の時点でもうこんなに注目されるなんてかなり凄い事だし何だか私まで嬉しくなった。女子から人気があるって聞いてちょっと心がざわついたけれどそんなの私が気にする資格はない。

『防衛任務頑張ってね』駿くんに沢山の女の子達が話し掛けているのを羨ましく、時には狡いと醜い感情に押し潰されながらそっと眺めているだけだった。
本当は私も直接頑張ってね、気を付けてねって言いたかったけれど、それは叶わないだろうから陰ながら応援しようと心に決めた。


「それでね、噂じゃ駿くんはボーダーに入隊して間もないのにもう防衛任務をこなしてるらしいんだよ。本当に凄いよね?」

あんなにも避ける様にしていた大きな犬に今日聞いた駿くんの噂話を語りかけながら給食のパンを千切ってあげていた。

「ねぇ、聞いてる?あの駿くんだよ?私といつも手を繋いでここを通ってたでしょ?」

犬は分かっているのかいないのか元気にワンっと吠えてパンをもっとくれと尻尾をブンブン振って催促している。

「もうっ、覚えてないの?あんなにオヤツあげたのに薄情だなぁ!これ最後まで食べても思い出さなかったらもうパンあげないよ?!分かってる?!ちゃんと聞いてる?!」

「あははっ!ねぇ、何を犬に対してそんな真剣に怒ってるの?」

「あ……しゅ、緑川くん」

誰かに笑われたのに気がついて振り向くと私の後ろに駿くんがいた。クスクス笑いながら私と犬のいる方にだんだん近寄ってくる。咄嗟に駿くんと呼びそうになったが今更馴れ馴れしいかと思って慌てて緑川くんと言い換えた。

「…苗字先輩、お久しぶりです」

「ひ、久しぶり」

本当に久しぶりに間近で駿くんの声を聴いた。小学生の時によく聞いていた男の子にしては少しだけ高めの声とそれから同じぐらいになった目線の高さに嫌でも緊張してしまう。
中学の制服やっぱり似合うね?ボーダーとして頑張ってるみたいだね?駿くんに話したい事は沢山あったはずなのに言葉が全く出て来ない。

「この犬もう全然怖くなくなったんだね。オヤツまであげちゃって。それに苗字先輩にすっかり懐いてるじゃん」

「あ、うん…」

「あれ?さっきまで犬に怒ってた時と随分様子が違うみたいだけど……やっぱりオレがいない方が良かった?」

「え、」

「そうだよね。声掛けられたら迷惑なんだっけ?すっかり忘れてたよごめんね。オレもう行くから、それじゃあ」

駿くんが行ってしまう……このまま黙って行かせてしまったら、もう今度こそ話す機会が永遠にやって来ないかもしれない。そんなのは嫌だ!

「ちが、違う!」

「ん、何?」

走って駿くんの服の裾を思わず掴んだ。振り返った駿くんが足を止めて不思議そうに私を見ている。

「迷惑なんかじゃないっ」

「え?」

「ごめ、ごめんね緑川くん!私…あんなにも優しくしてくれた緑川くんに対して酷い事をして……それなのに今また私なんかに声掛けてくれて、すごく嬉しかった」

「……えっ…?」

「あのね、あれから本当は話し掛けてすぐに謝りたかったの!でも拒絶されるのが怖くてずっと話し掛けられなくて。しゅ、緑川くんあの時は…本当にごめんなさい。ただ近所の人や同級生にからかわれるのが恥ずかしかっただけなのに迷惑とか傷付けるような事を言ってごめんなさいっ!それだけどうしても謝りたかったの、ごめんなさい!」

言葉の途中から涙がボロボロ出てきて声も震えてるから自分でも何言ってるんだか聞き取り難くなっていたれけどずっと、ごめんなさいを繰り返した。


「あーあ、もうそんなに謝らないでよ。苗字先輩がそんな風に今日までオレの事考えてくれてたなんて全然知らなかった。気付かなくてごめんね?だから道端でそんなに泣かないでよ、オレが酷い事して泣かしてるみたいでしょー?」

駿くんに頭をポンポンと優しく撫でられて助けて貰った時の事、駿くんを好きになった時の事を思い出した。

「ほらもう仲直りしよー?オレも名前ちゃんに話し掛けて嫌な顔されたり手を振り払われるのが怖かったからずっと話し掛けられなくてさ」

「ぅ、……ごめんなさい」

「だからもういいって。ほら犬もこっち見て心配してるよ?また名前ちゃんって呼んでいいよね?あっ、それとも苗字先輩って呼んだ方がいい?オレ中学でも後輩だしさ」

そうやって悪戯っぽく笑う駿くんをまたこんな近くで見られるなんて夢みたいだった。私のしょうもない言い訳を聞いてもこうして許してくれるなんて本当に心の広い優しい子だ。

それから私達は今日まで話さなかったの時間を埋めるみたいにお互い色んな話しをした。

駿くんがボーダーに入隊した理由や大好きだという憧れの先輩の話。その迅さんという人の話をしている時の駿くんはキラキラと輝いている様に見えて、昔大好きだったヒーローアニメの話をしている時と全く同じ顔をしていた。笑った顔は変わってないなぁって思ったらそんな駿くんを更に愛しく感じた。

それと同時に何度も何度も名前が出てくる迅さんという名の先輩に対して男の人だと知っていても私はほんの少しだけ嫉妬した。例え同性の憧れの先輩だとしても駿くんの関心がその人ひとりだけに向かうのは正直、面白くない。けれど、こんな醜い気持ちだけは彼に知られる訳にはいかないからずっとニコニコしながらその話を聞いていた。

やっと、こうして前みたいに会話が出来るようになったのに私の汚い感情の片鱗を彼には絶対に見せたくはない。明るくて素直で真っ直ぐで誰にでも好意的に接する、まだ綺麗な感情しか持ち合わせていない駿くんには昔と変わらず純真無垢なままでいて欲しいから。

これからもボーダーとして忙しい彼の気持ちが自分一人に向けられることがないのは分かっている。それなら昔よく話した先輩としてだけでいいから今だけは私の存在を受け入れてくれたら……。本当は少し寂しいけどそれでいいんだ。
またこうして駿くんと話せるようになれたんだから、これで充分じゃない。


「ねぇ名前ちゃん、オレの話ちゃんと聞いてる?」

「ちゃんと聞いてるよ!」

「それならいーよ!それでね、実はその迅さんがさ」

駿くんの穢れのない明るい笑顔が今の私には酷く眩しかった。
誰かに恋なんてしたらこの駿くんも変わってしまうのかな。彼には私みたいに人を妬んだり憎んだりするする邪な気持ちを持って欲しくはない。どうかずっと綺麗なままでいて欲しい。

「じゃあ行こう名前ちゃん!」

彼からまた伸ばされた手を見つめると意を決してその手を取った。

せめてもう少しだけでいい。私が駿くんに対しての気持ちを諦められるようになるまでは他の誰かの特別な人にはならないで。

それだけが純真無垢な彼とは程遠い、どうしようもなく自分勝手で醜い私の願いだった。

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