ここにいる

「ナマエ、……ナマエ、」
「……うん」

熱を孕んで幾度も繰り返し呼ぶ声に小さく返して、ナマエはマリスの背に腕を回した。隙間など微塵も作るまいとするように、ぴったりと身を寄せて、マリスはナマエを抱きしめる。

「ここにいるよ、マリス」

耳元で呟くと、腕の力はいっそう強くなった。





『真っ黒い穴みたい』

事故でフェストゥム因子に異常をきたしたナマエを、かつてそう評した人がいた。
……否、人ではない。ひとの形をしたフェストゥム、ボレアリオスミールのコア。前例のない異変を抱えたナマエに、大人たちはどう接するべきか悩み、エスペラントの子どもたちは困惑していた。そんな中、ナマエと関わりが薄かった故に、人間の気持ちを完全には解さないが故に、彼はあっさりとそう言ったのだ。

『目の前にいるのに、ここにいないって感じる。変なの。君は何?』

ナマエ自身、何が起きたのかよくわかっていなかった頃だ。何と聞かれても、人間と認識されていないと言われても、答える言葉など持ち合わせていなかった。

『美羽は君を、怖がってたよ』

知ってる。面会できるようになってすぐに会いに来てくれた彼女が、一瞬見せた、怯えたような目。忘れられるはずがない。

『その後で、怖がったりしてごめん。って、謝ってた』

それも、知っている。ともだち、だったから。ともだちだったのに、本能的な恐怖に打ち勝てなかったと、美羽の態度がナマエを傷つけたと、罪悪感を抱いていたことを、知っている。
だけど、仕方のないことなのだ。今のナマエは、フェストゥムの因子を失った。エスペラントでもなくなった。だから、フェストゥムに関わる力ではナマエを認識できない。ここにいないと、そう感じる。何もない空間だと、判断されてしまう。
それは力が強いほど、因子に頼って生きているほどに顕著に現れる。生まれつき、どころか生まれる前からフェストゥムの言語を理解して感じ取って生きてきた美羽にとって、普通の人間にとっての視覚や聴覚ほどに、それは強い感覚なのだ。いくら他の感情を乗せたところで、本能的な恐怖というのは容易に天秤を傾ける。
……だから、仕方ないと。そのときナマエは目を伏せた。





「ナマエは、ここにいる」
「うん」

マリスにとっても、自分は黒い穴なのだろうか。ナマエは時折考える。
美羽が恐れていたように、マリスもまた、ナマエを『ここにいないもの』と感じているのだろうか。能力を失ったナマエには、もう感情も記憶も共有できないから、知る術はないけれど。
マリスはナマエに触れて、抱きしめて、心音を聞いたり、髪に顔を埋めて香りを吸い込んだり、ときには深く口づけを交わして、存在を確かめた。何にこだわるかはその時々だけれど、きっとそうしているときマリスは不安なのだろう、とナマエは思う。

「マリス、」

名前を呼んで、ゆっくりと頭を撫でる。腕の力が少しだけ緩んで、小さく吐息が漏れる音がした。

「私は、ここにいるよ」
「……ナマエは、ここにいて」

僕のそばに、ずっと。そう言外に告げる言葉。

「うん。……ここにいるよ、マリス」

ここに、いたいよ。いないものじゃないよ。その言葉は口には出さずに。ただ名前を呼んで、抱きしめた体の感触に身を委ねた。

20201013up
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