夏の破片
※闇沖永
※流血描写注意




目覚まし時計の代わりに耳に届いたのは、喧しい蝉の鳴き声だった。
今は何時だろうとぐるりと視線を巡らせても時計は側にない。自然と窓のほうへ目を向けると、カーテンが生温い風にそよいでいた。曇りか、一時的に日が翳ったのか、この時期にしては薄暗い。
多分、昼を少し過ぎたくらいだろうなと見当をつけ、俺は怠い体を起こした。

不運にも今年に入ってからエアコンは完全に沈黙してしまい、今や部屋にある文明の利器は扇風機くらいだ。ぐるぐると首を振り回して空気をかき混ぜるそれは気休めになるどころか、無闇に温風を送り込む。おまけに音もうるさいときて、昨日とうとうコンセントを引っこ抜いてしまった。
そんな状態で暑いといえば暑いのだが、まだ我慢できる気温なのが幸いというか、今まで暮らしていたところと比べればここは大分涼しい。
とはいえ、この篭った空気の中でじっとしているのは流石に耐えきれなかった。
俺は畳に転がっていた団扇を掴んでふらふらとベランダへ出た。
ぱたぱたと扇ぎながら、ところどころ錆びた鉄柵に軽くもたれ掛かる。やはり日は翳っていて、あのちりちりと焼けるような夏の陽射しは感じられない。

この天気なら、あの人も少しは楽だろう。日が照り付ける中での訓練は、正直地獄だし……。
代わり映えしない長閑で退屈な景色を眺めながら、そんなことを考える。
あの人──沖田さんは、俺の元・先輩であり、今ではそれ以上の人だ。
数年前のとある事故での負傷を切っ掛けに、俺は仕事を辞めた。そして、ちょうどその直後に転勤を言い渡された沖田さんと共にこの辺鄙な地へと越してきた。ここは、沖田さんが借りているアパートの一室だ。
今思えば、転勤を言い渡されたというのは嘘で、本当はきっと、行く宛のない俺のために自ら転勤を申し出たのだろう。最早、助けられてばかりで申し訳なさを通り越して悔しさすら覚える。
あの人には、いつまで経っても敵いそうにない──。

そんな風に一時だけ暑さを忘れて思考していると、視界の端を黒い影が過った。
はたと気が付いて鉄柵に身を乗り出すと、それは間違えようもなく沖田さんだった。隊服も手袋もそのままに、アパートの近くを歩いている。歩調はのんびりとしたものだが、格好を見るに、着替えすら惜しんで早めに帰ってきてくれたんだろう。こちらにまだ気付いていないその姿が不意に消える。もうアパートの中に入ったのか。
慌てて踵を返して、壁を支えによろめきながら玄関へ向かう。その頃にはもう、ブーツの足音が間近に聞こえた。
少しだけ心臓の鼓動が高鳴る。帰りを待ちわびていたからだろうか。
何故か、わけもなく緊張した。身が強張る。鍵が差し込まれ、ゆっくりとノブが回っていく。ぎぃぃ、と軋んだ音を立てて扉が開こうとしていた。
沖田さんの顔が現れるより前に、俺は緊張を掻き消すように努めて明るい声で出迎えた。

「沖田さん、おかえりなさい!」
「永井、ただいま」

出迎えられた沖田さんは、穏やかな笑顔でそう返した。
いつものように。たったそれだけのことにホッとして、部屋へ戻ろうとすると、腕を掴まれる。

「……何ですか?」
「足、痛まないか?」
「平気ですよ、このくらい」
「無理はするなよ」

わかってますって、と返しても腕は掴まれたままで。半ば強引に先ほど抜け出したばかりの寝床へと連行される。やや雑に布団の上へ座らせられて、何かを胸元に押し付けられた。受け取ってみれば、それは布に包まれた弁当箱だった。

「昼飯、まだだろ」

そう言われれば空腹を自覚せずにいられない。素直に頷いて弁当箱を開く。
中に入っているのは、ご飯とよくわからない佃煮らしきものと焼き魚と山菜らしきものだった。らしきもの、というのは単に名前がわからないからだ。決して不味いわけではない。味付けはやけに薄かったり濃かったりするけれど、それも作って貰っている立場なのだから不満にすらならない。
……沖田さんが作ってくれるものなら何だって美味しいのかもしれない。我ながら恥ずかしい考えを脳内でぶんぶんと振り払う。沖田さんはいつの間にか布団の横に座って、何が楽しいのかにこにことこちらを眺めていた。

「沖田さんは、食べないんですか」
「気にするなよ」
「……気にしますよ」

そんなに見られていたら食べづらいことこの上ない。そう思いながらも、空腹には抗えず、一緒に包まれていた箸でご飯を掻っ込んだ。
いい食べっぷりだなぁと笑う沖田さんに、既視感を覚える。……それもそうだ、いつも沖田さんはこんな調子なのだから。
昨日もその前も、大体こんな感じで。それなのに、どこか胸の奥で何かが引っ掛かる気がした。
ズキリと足が痛む。気にしないようにして食事を続ける。沖田さんは相変わらず笑顔でこちらを見ていた。観察するように。
あんまり見られるので、喉が詰まらずに何とか完食した自分を褒めたいくらいだ。
ご馳走さまでした、と綺麗に布を包み直した弁当箱を返す。
沖田さんは俺がしっかり食べたのが嬉しいのか、手袋を着けたままの手でわしわしと頭を撫でてきた。子供扱いしないでくださいよ、と文句を言ってもどこ吹く風で撫でつづける。
本当に、今までに何度も繰り返したようなやり取りだ。昔と変わらない。何も違わない。
……昔?
降ってきた単語に、眠気に閉じかけた瞼が開いた。
昔とは、いつだろう。入隊したての頃か、付き合い始めた頃か。
蛍光灯の消えた部屋が、急にひどく暗く感じる。今日が曇りだからか、それとも日が傾いてきたのか。

「……沖田さん」
「どうした、永井?」
「今って、何時ですか」
「何時?」

撫でるのをやめた沖田さんがきょとんとする。そんなにおかしな事を訊いてしまっただろうか。ただ、この部屋に時計がないから訊いただけなのに。
確か沖田さんは携帯電話を持っていたはずだ。それを見ればすぐにわかるのに、沖田さんはポケットを探ろうともしない。もしかして。

「……携帯、忘れてきたんですか?
沖田さんって変なとこでうっかりしてますよね」

仕方ないので、テレビを付けようとした。携帯も時計もないなら、正確な時間はテレビで見るしかない。けど、部屋にはあの四角く黒い箱は見当たらなかった。
……そういえば、ここにはテレビも無かったんだっけ。可笑しなことに、今の今まで忘れていた。
そして、薄暗さに耐えかねて部屋の真ん中に垂れ下がった紐を数回引っ張って更に気が付いた。電気が点かない。
何故点かないのか、それは天井を見上げたら一目瞭然だった。台座だけを残して蛍光灯が外されていた。
そんな状態じゃ明かりは点かない。当然だ。
どうして蛍光灯が外されているのかはわからない。知らない。新しいのと取り換えようとしてそのまま忘れていたのかもしれない。

「あれ、どうしたんです? このままだと夜になったら真っ暗ですよ」

一応ワケを聞いておこうと指差すと、沖田さんも天井を見上げた。そしてまたこちらへ顔を戻し、首を傾げる。
別に何も困らないぞと言いたげな仕草に、苛立ちを通り越してただ困惑した。

「沖田さん……今日は、変っすよ。外で何かありました?」
「変? 永井こそ、変なこと言うんだな」
「……それ、暑くないんですか」

そんな風に言われても俺は納得出来ずに、違和感の一因である沖田さんの手へと視線を落とした。
訓練で使用する手袋を着用したままだ。単に外し忘れているとばかり思っていたけれど、一向に外す気配はない。

「全然、暑くないよ」

言葉通り沖田さんは涼しげな顔をしている。この蒸し暑い室内で手袋、おまけに迷彩服まで着ていても平気らしい。ぱっと見、汗すらかいていない。こうも暑さを感じさせない様子でいられると、自分が薄着なのが可笑しく思えてくるくらいだ。
でも外は蝉が煩くて、空気は生温くて、夏なのは間違いない。まさか、盛大に寝惚けた自分が季節を勘違いしているわけじゃないだろう、きっと。
となると、やはり可笑しいのは沖田さんの方だ。

「どこか……具合でも悪いんじゃないですか」
「どこか、悪い? 俺は、元気だよ」

困ったように笑う沖田さんの声には、まるで抑揚がない。
やはりおかしい、と咄嗟に沖田さんの額に手を当てる。
──冷たい。
氷とまで行かなくても、鉄に触れたような冷たさだ。
俺は反射的に手を引っ込めて、すぐにまた頬へと手を伸ばした。恐る恐る触れてみるどこもかもが、冷えていた。
具合が悪いどころじゃなく、まるで──みたいだ。

「なんで、こんな……いったい、何が」

過った考えの恐ろしさに声が震えた。沖田さんは笑顔のまま、ぎこちない動きで俺の頭を撫でた。

「病院……いや、それより救急車……を……」

ここに電話はない。携帯電話もない。沖田さんが忘れてきてしまった。隣の住人に借りるしかない。けれど、隣はずっと留守だ。その隣も。そもそも入居者が少ないのか、このアパートでろくに人の気配を感じたことがない。
そんなだから管理も適当になるのか、外灯だって壊れたままでアパート周辺は夜になると本当に真っ暗闇で……。
焦りと混乱から、どうでもいいことばかり思い出す。早く、病院へ連れていかないと。

「沖田さん、待っててください。今、誰か呼んできますから……っ!?」

慌てて立ち上がろうとした時だった。ぐい、と、かなりの力で肩を押される。呆気無く布団の上へ逆戻りした俺は、肩を捕らえたままの相手を茫然と見上げる。

「沖田さん、何のつもりなんですか……!早くしないと……」
「永井、どうした?」

さっきまでのやり取りをすっかり忘れたように、沖田さんは首を傾げた。
その形だけを真似た仕草に、その穏やかで空っぽな声に、ぞわ、と鳥肌がたつ。ひしひしと感じていた違和感は、最高潮に達していた。
気が付けば、掴んでいる腕を強引に振りほどいていた。

「永井……どうした?」

行き場をなくした手を宙に浮かべたまま、沖田さんが繰り返した。それを無視して後退る。
淡々と名前を呼ぶ声は止まない。
狭い部屋の中、とうとう背中が壁にぶつかった。いつの間に夕暮れを迎えたのか。夕陽が不気味なくらいに赤く窓を染めている。対照的に、部屋は無彩色の暗闇だった。
目を凝らしても、さっきまで座っていた布団すらよく見えない。こんな突然、暗くなるはずがない……。そう思って目を擦っても広がる景色は変わらない。一時間ほど、時間が飛んでしまった錯覚に陥る。

「おきた、さん……?」

自分とは思えない情けない声が出る。それに反応してか、暗闇から声が返ってくる。永井。永井……永井、永井……。
それしか言葉を知らないとばかりに、声が呼び続ける。……あれは、沖田さんではない。姿を見なくても直感が告げていた。
じゃあ、いったいあいつは、あれは、誰なんだ?

「永井……」

疑問に答えるように、声は繰り返した。俺は沖田だよとでも言いたげに。
──違う。沖田さんは、もういない。
あの日の嗚咽と銃声が、あの人の最期の声が、今も耳に残っている。

「永井──」
「うるさい……うるさい、黙れよ!」

記憶を遮る雑音に、引いていた血の気がカッと頭に昇るのを感じた。
他人の感情が突如流れ込んできたような、身に覚えがない激しい怒りだった。
咄嗟に、ざらついた畳の上を無意識に手が探っていた。手に平に収まるほどの尖った物体、恐らくは木片を、棘が刺さるのもお構い無しに握り締める。
自分が何をしようとしているのか自分でもわからず、ただ体が動くままにそうしていた。
永井、と尚も囁いている影が揺らめく。それがこちらへ近寄ろうとした瞬間。黒の中に浮かぶ白色を目掛け、俺は激情に任せて飛び掛かっていた。一瞬の間を置いて、獰猛な獣じみた呻き声が耳元で鳴った。
握った木片が、嫌な音を立ててその獣へ埋もれていく。ぬるぬるとした液体が、生ぬるい温度を保ったまま肘にまで伝う。致命傷を負ったはずの相手は倒れなかった。喉ではないどこかから唸りを上げて、それでも沖田さんの真似をやめない。

「永井も、随分と、冷たい、よな」

間近に迫った白い顔が、黒目をぎょろぎょろと動かしては呆れ声で言う。首に突き立てた凶器を離せないまま、俺は掠れた声を絞り出した。

「違う……お前は、沖田さんじゃ、ない」

沖田さんの顔をした化け物が首を傾げる。傾げた方向が悪かったのか、液体が更に四方へぶち撒けられ、鉄錆に似た臭いが広がった。至近距離の見るに耐えない惨状に、目眩がする。吐き気がする。
自身の状態に気付いていないのか、気付いていてそうしているのか、首をぐらつかせて化け物はわらっていた。笑って、いつものように、俺の頭を撫でて。
いつものように抱き締めて。そして、いつものように囁く。

「永井……愛し、てる」

違うのは、喋りづらそうにごぼごぼと口から血の泡を溢していることくらいだろうか。
……いや、ぎこちない手つきも、昔とは違っている。以前、俺が、噛みついたせいだ。逃げようとして捕まって、武器もなくて、それで……。

途切れ途切れの記憶が浮かんでは沈む。ここに連れてこられたのは、いつだったか。
逃げようとして、殺そうとして、失敗したのは、何度目か。思い出せない。この足を撃たれたのは、何度目の失敗の時か。やっぱり、思い出せなかった。
束の間の正気が、甦る記憶で埋まっていく。
こんなことを考えてる場合じゃないのに。逃げなくてはいけないのに。
優しく撫でる手に、瞼が落ちそうになる。眠ったが最後、もう二度と幸せな悪夢から目覚められない気がする。眠りたくない。
近くで泣き声が聞こえる。今の自分から発せられているものか、それとも。

──永井、挫けるんじゃないぞ。

沖田さんが言う。言ったのが記憶の中にいる本物か、そばにいる偽物によるものか。わからない。
閉じかけた視界の端に銀色が鋭く煌めく。随分前に撃たれた片足が痛みを訴える。恐怖に体が震えて、歯の根が合わない。
でも、大丈夫だ。瞼が降りた時には、すべて忘れている。すべて元通りになっている。
そう思うと、もう体は動かなかった。
きっと、次に目覚めたときも、沖田さんは何事もなかったように笑って言ってくれるだろう。あの事故も島での出来事もすべて無かったことにして、おはよう、と。


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人間味が薄い闇沖さんを書きたかった話。

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