よくわからないホラー ※よくわからないホラー話 ※多分闇沖永 |
ふっと、暗い中に沈んでいた意識が浮上して目を瞬いた。 朝が来たのかと未だはっきりしない頭で思ったが、それにしては暗すぎるし、日が昇る直前ならけたたましい起床ラッパの音が鳴り響いているはずだ。この隊舎で寝起きするようになって二年、静かな朝には無縁だった。となれば、と自身の睡眠が妨げられた理由を永井は考えた。 二段ベッドの上段に居る同期のうるさいイビキのせいかもしれないし、向かい側のベッドのやつのでかい寝言のせいかもしれない。柔らかとは言いがたいマットレスに体を横たえたまま耳を澄ます。 室内はシンとして、寝言の一つも聞こえない。皆、熟睡しているようだった。 (……文句の一つでも言ってやろうかと思ったのに) どこか拍子抜けしてしまって、永井は上体を起こした。目が冴えたというわけではないが、何となくこのまま寝る気分になれなかったからだ。 水でも飲んでくるかな、と眠い目を擦る。そして、足を下ろそうとして――実際、もう既に足は床に着いていた。 後は、上段に頭をぶつけないよう気をつけながら起き上がるだけだ。しかし、永井は床を見つめたまま動けずにいた。足のすぐ横に白いなにかが、落ちている。寝惚け眼に加えて、部屋は薄暗い。同室のやつが靴下でも落としたのだろうかと、じっと見つめている内に、それがよく見知ったものの形をしていることに気がつく。 (……手?) 見れば見るほど、人の手にしか見えない。しかもその手は、真下から伸びている。 ということは、つまり。誰かがこのベッドの下にいる。 こんな夜中だ、同期の悪戯という可能性も低いだろう。そもそも部屋にいる皆は、寝静まっている。 (じゃあ、この下にいるのは?) 一度でも考えると、さあっと血の気が引いていくのわかった。恐怖で身じろぎ一つできない永井と同じように、視線の先にある手はぴくりとも動かない。これからどうすればいいのだろう。 片足だけを下ろした体勢で朝まで固まっていられる自信はない。かといって下手に動いて足を鷲掴みにでもされたら。 同室のやつらを起こすのが一番いい方法かもしれない、とも思うのだが。恐怖を感じているわりにはどこか現実感がなく、乾いた喉からは悲鳴のひとつも出てこなかった。 (きっと、ただの夢だ……夢じゃなかったら、何だってんだよ) 永井は自分に言い聞かせながら、意を決して、そっと足を上げる。手は相変わらず動かない。 こうも動かないと、夢ではなく、本当に悪戯である可能性も思い浮かんできた。パーティーグッズでこういう手のおもちゃがあった気がする。 ……もっと陳腐な作りだった気もしたが。幽霊だとかそっち方面の可能性は一切考えないようにして、無事にベッド上に足を戻すのに成功した永井は、なるべく壁側に寄るようにしてシーツに包まる。 不思議なことに一度シーツで視界を遮断してしまうと、波が引くように恐怖心は薄れていった。そして、遠のきかけていた眠気が戻ってくる。訓練の疲れもあって、睡魔には抗えない。永井が瞼を閉じるまで、そう時間はかからなかった。 翌日――起床ラッパの大音量に叩き起こされた永井は、一日の課業が終わるなり先輩である沖田の元へ訪れていた。 「永井、お疲れ様」 「沖田さんこそ、お疲れ様です!」 「それで、どうしたんだ?」 自分ではいつもと変わらない調子のつもりでも、やはり沖田にはお見通しのようだった。 昨夜の件が、起きてからも気になっていたのだ。休憩中に顔を合わせた同室にあれは悪戯だったのかと聞いてみても、怪訝そうな顔をされるばかりでとても悪戯だったとは思えない。 人為的なものでないとしたら、いったいあれは何だったのか。その答えが出るとまでは思ってはいなかったが、このもやもやとした気分を沖田ならきっと晴らしてくれるだろう、と。永井はそう思っていた。 「ええと……出来れば、笑わないんで欲しいんすけど」 「何だ何だ、深刻そうな顔して。笑うわけないだろ、永井の悩みなんだから」 どうやら沖田は、永井が悩み相談に来たのだと思っているらしい。悩みといえば悩みなのだが、世間一般的な悩みからはかけ離れた相談事だ。永井はどう切り出すか迷いながらも、昨夜の出来事を話した。 「手が、ベッドの下に?」 「……これって、心霊現象ってやつなんですかね?俺、取り憑かれたとか、そんなのだったらどうしようかって……」 不安そうな面持ちで話す永井を黙って見ていた沖田が、不意に口元を緩める。次の瞬間には、肩を揺らして笑い出した沖田を、永井はぽかんとして見つめた。 「っふ……ははは」 「わ、笑わないでくださいよ!こっちは真剣なんです!」 信じてもらえなかったのかと思って怒ると、沖田は降参のポーズのように軽く手を挙げてみせた。 「いや、違うんだって……それ、俺なんだ」 「……え?」 今度こそ開いた口が塞がらない。俺なんだ、とはどういう意味なのだろう。 「ベッドの下にいたの、俺なんだよ。驚かせたくて潜り込んだんだ」 「沖田さんが……?驚かせたくてって、それだけのためにわざわざ?」 「本当だよ。すぐ出るつもりだったんだけどなぁ、永井が中々戻ってこないからうっかりそのまま寝ちゃってさ。さすがに起床時間までには目が覚めたけどな」 困惑する永井に、沖田が苦笑しながら説明する。 幾らなんでも、ほんの悪戯心で潜り込んで数時間もそこにいたというのは信じられなかった。しかし、沖田でなかったとしたら説明がつかないのも事実で。悪戯で済ますには奇怪すぎる行動だが、心霊現象よりはまだ現実味がある。 ――そういえば、今回ほどではないにせよ、元々沖田は温厚な性格のわりに突拍子もない行動に出ることがあった。だから、今回も沖田の仕業だったのだと何とか納得できる。一度納得すると、今朝から尾を引いていた恐怖心はあっさり霧散し、代わりにひしひしと怒りが湧いてきた。 「沖田さん……俺、本当にびっくりしたんですからね!」 じろと睨みつけると、ごめんごめん、と沖田は平謝りしたが反省しているかは謎だ。 「それに、寮監にでも見つかったらどうするつもりだったんですか」 「う……もうしないからさ」 問い詰められた沖田は、今度こそ申し訳なさそうに眉を下げた。そんな顔をされたら、もうそれ以上怒る気もしなかった。 そもそも永井の怒りは、驚かされた事自体よりも、上官に見つかって万が一沖田が処罰を受ける事になったらどうしよう、という心配から来ている。 「本当、悪かったよ」 「……わかりました。今度からは、もっと笑える悪戯にしてください」 あれは怖すぎます。言って笑えば、沖田もいつもの穏やかな笑顔を取り戻し、そうする、と頷いた。 ──日が暮れて。いつも通り食堂で夕食を終えた永井は部屋に戻った。 まだ他の誰も帰ってきていないので、普段なら窮屈な部屋はがらんとしている。 特に疑問にも思わず、自分のベッドに向かった永井は、ぼすんと勢いよく体を横たえた。早朝から沖田に会うまでの半日、あの事で気が気でなかったのだ。今になってその精神的な疲れが押し寄せてきていた。 しかし、このままぐっすり眠り込むわけにもいかない。さっさと風呂に入ってこないと、と永井は気を取り直して体を起こした。着替えとタオルくらいで、持っていくものは少ない。 風呂場にはシャンプーも洗顔剤も好きに持ち込めるのだが、特に拘りもないので備え付けてあるもので十分だった。支度はすぐに済んだ。さて風呂に向かうか、と部屋の奥のロッカーから振り返る。 何気なく、視線はベッドの下に向かった。もういるわけがない、あれは沖田さんだったんだから。そう思いつつ、目を向けずにはいられなかった。 「……あれ?」 思わず首を傾げる。ベッドの下には、ロッカーに入りきらなかった私物を詰め込んだ箱が押し込んである。 そして、靴もその横に置いてある。 そうだ、ただでさえ狭いベッド下は、収納スペース代わりに使われていた。どうして忘れていたのだろう。 ……こんな狭い場所に、人が、しかも誰にも気付かれずに潜んでいられるか? ゆっくりと近付く。この距離まで来れば、ベッド下は見えない。屈んでベッドの縁に手をつく。 こうして近付いてみると、余計に人が入り込むスペースなどないように思える。それだけじゃない。……あの手は、やけに白くなかっだろうか? 沖田にしては、というより、人にしては白すぎた。そうと気がついて、心臓が早鐘を打ち出す。 立ち上がろうとして、片手に持っていた着替えとタオルがぱさりと床に落ちた。あ、と声が漏れる。すぐに拾おうとして伸ばした手は、床を掠めるだけでタオルには指先も触れられなかった。 ずるずる。そんな音がしそうな勢いで、タオルがベッドの下に引きずり込まれていく。呆然と眺めるしかなかった。 あっという間にタオルは消える。白い手が音もなく伸びてきた。虚しくなるくらい明るい電灯の下、自分自身が落とす濃い影の中では、その異様な白さがひと目で分かった。 ああ、やっぱりこの手は沖田さんじゃない。じゃあ、どうして沖田さんは……。考えている内に、がしりと、足首を掴まれて、その後は。- - - - - - - - - - |