不可視の世界 ※ED後 |
「おはよう、永井」 返ってこない返事を期待しているわけでもないが、今日も永井に声をかける。今日と言ったって、ここは朝も夜もない世界で、その上自分は眠る必要がないから今日がいつなのかはわからないし、いつから此処にいるのかも覚えていない。睡眠を必要とする永井だって、きっともう覚えていないだろう。 永井は少し前に閉じていた瞼を開き、大事そうに抱えた銃を持ち直して立ち上がった。今はきっと朝ではないが、永井が起きたんだからおはようでいいだろう。 永井は睡眠中に襲われるのを避けるためか、それとも別の理由からか、極力眠るのを避けていた。とはいえ、人間は眠らずにはいられないので、とても短い眠りを数回に分けている。だから永井にかける言葉の大半は「おはよう」と「おやすみ」だった。 「目の下、隈が酷いな」 こちらに見向きもせず周囲を警戒する永井は、以前とは様変わりしていた。 眼は獣のように鋭く冷たいし、その下には隈が出来ているし、ろくな物を食べていないせいで痩せ細ってしまっている。いつ倒れたっておかしくない体を無理に動かして、永井は今日も化け物の世界で化け物を殺しに行く。何百、何千、それこそ星の数ほどもいるのではないかと思われるほどの、化け物たちを。 「幾ら倒そうが切りがないよ、永井」 人間の身では、かつての人類ほどもいる化け物を絶滅させるなんて到底出来ない。その事を知らないのか、知っていて知らないふりをしているのか、それとも。知っていて全て殺し尽くす気でいるのか。永井は切りがない殺戮を止めようとしない。まるですぐそこに、奴等が途絶える未来があると言わんばかりに嬉しそうに笑っている。 赤黒い液体で染まった顔を、今しがた倒した化け物から奪った布で雑に拭いた永井は、次の標的を探し彷徨い出した。いつもの事だった。最早、正気ではないのだろう永井は、時折楽しげに誰かに話しかける。 「俺、挫けません、おきたさんが、そう言ったから、奴等になんか負けません……」 どこか遠くを見つめて俺の名を呼ぶ永井の目に、俺は映っていない。いつものことだ。 「いいよ、もう疲れただろ。そろそろ休んだらどうだ」 永井は反応しない。こうしていつも、俺たちはすぐ傍にいるのに互いに独り言を呟いているのだ。 化け物の気配を感じ取ったのか、永井が素早く物陰に隠れた。敵は複数で、真正面から挑むには不利だと判断したのだろう。幸いにも此処は遮蔽物が多い。永井はそうっと回り込み、敵の背後を取ったところで、いつの間に仕込んだのか、廃材の山を紐一つで崩落させた。派手な音を立てて降り注ぐ鉄に何体かが下敷きになる。そちらに気が向いているうちに、無事だった化け物たちもすぐにコンクリの床に血を撒くことになった。 正気を失っていると思えないほど鮮やかな殺し方は、ただただ化け物を倒してやるという一心から来ているのかもしれない。永井は手段を選ばずに化け物を殺す。手負いの獣じみて闇雲に殺しにかかる時もあったし、今のように冷静な時もある。 いつだって闇雲にかかっていくのだったら、化け物たちも永井を返り討ちに出来ているだろう。いや、例え永井が冷静な時でも、もうとっくに殺せているはずだ。永井は不幸にも、幸運の連続で今の今まで生き延びている。 「怪我、大丈夫か」 たまに化け物から反撃を食らうことがある。今日もそうだった。だらだらと腕から血を流して、永井は隠れ家になっている半分緑に埋もれかけた廃墟へ戻ってきた。片隅にある廃墟の更に片隅で蹲った永井は、流れ出る血を止血しながら何が可笑しいのか笑いを堪えている。そこは止血し終えたものの、傷だらけで痛むはずの体を見下ろして、永井はとうとう笑い出した。一頻り笑うと、永井は虚ろな眼を閉じた。短い夜が来た。 「おやすみ」 それから数時間もしない内に永井は目を覚ました。相変わらず、夢すら見ないような短い眠りだった。ちゃんと寝ろよ、と何度言っても聞かない。聞こえていないから、当たり前だが。 「今日はどこへ行くんだ」 永井は答えずに、化け物から奪い取った弾薬を銃に詰める。作業を終えると、此所最近の根城だった廃墟を惜しみもせず、永井はそこから離れた別の場所へと移った。 「今度のは随分暗いな」 返事の代わりに笑いが返ってくる。壊れかけの、というより実際に壊れてしまっている笑いだった。どうしてこんな場所でじっと隠れてるんだろう、と笑い混じり永井が呟く。すぐに答えは出た。あいつらのせいだ、だからころさないと。怒りを滲ませそう言うと、永井はふらりと立ち上がって外に出た。鬱蒼とした山から離れ、代わりに狭く密集したコンクリの山へ入る。 獲物を探す永井の隣で、いつもの調子で話しかける。 「いつだったか、約束したよな。休みに旅行に連れてってやるって。だから、永井が休みたくなったら」 銃声が響いて化け物が倒れた。永井は声に耳を傾けることもなくいっそ無邪気に笑う。 「今度こそ連れてってやるから。どこにでも」 次は殴打の音。転がっていた棒で正確に頭を叩き割った。倒れた獲物からすぐに目を離すと、また別の獲物へ。 「結局あの時は、どこがいいか決めてなかったよな」 永井は俺の横を通りすぎて、次の獲物を見つけた。こちらに気付く気配もない。鼠に飛び掛かりたくてうずうずした猫のように永井は笑って、銃の引き金にかけた指先にゆっくり力を込めた。 「永井はどこに──」 どこに行きたい、と訊ねる誰にも聞こえやしない声はまた同じような銃声に遮られた。違ったのは、倒れたのが化け物ではないということ。ずしゃりと、もう何度も聞いてきた地に倒れる音。広がっていく血だまりの中心で、永井は呆然と目を見開いている。自分がそうなるなんて微塵も思っていなかったのか、不思議そうに目を瞬かせている。僅かに視線を横に向け、広がり続ける血だまりを見た。 「すみ、ませ……ごめん、なさい」 ようやく状況を理解したのに、痛がりも怖がりもせずに永井は地面と同じ、赤くて狭い空を見上げて謝る。何に対しての謝罪かはわからない。化け物を殺し尽くして俺やみんなの仇をとれなかったことか、それとも、死んでしまうことについてか。もしくは両方だろうか。責める人間なんてどこにもいないのに。 「すみませ…ん……」 息も絶え絶えに謝る永井に近寄る。視界の中の空を遮るように顔を覗き込み、もうほとんど見えていない目を見つめる。触れられない手で、伸びた髪を撫でた。 「お疲れさま、永井」 霞んだ目がこちらを向き、そして永井は笑った。今までの狂笑ではなく、昔のような少し幼い笑顔。 「よかった、そこにいた、んですね……」 心底安心した声だった。永井は眠りに落ちるように自然に瞼を閉じて、開くことはなかった。それを見届けてから、自分も同じように目を閉じる。長い眠りの先で、いつかまた昔のように隣で目覚められるのだと信じて。 - - - - - - - - - - |