「…!?」
雪男は目の前の光景に息を飲んだ。礼拝堂は海を底から見上げたように天井まで青の炎で覆われていた。時折揺らぐ炎が、光を導いてくる。なんて幻想的でいて、美しいのだろうか。
「熱く、ない…」
そっと手を伸ばして炎に触れれば、それは熱くなかった。雪男の手が焼かれることも、爛れることもない。それどころか雪男を温かく受け入れた。
「……き…ぉ…」
今にも消え入りそうなか細い声が聞こえた。それは雪男が待ち焦がれた声。
「兄さん!!」
雪男は堪らず炎の中へ飛び込んだ。もがきながら進んでいく。
「兄さ、っ…」
雪男が前に進めば進むほど、炎は勢いを増す。艶やかな毛を逆立てて、まるで雪男を拒むかのように。
「邪魔するなっ、僕は兄さんのところに行くんだ!!」
苛立ったわけではない。名前呼ばれたというのに、燐のもとへ行くことも叶わない自分が悔しくて叫んだ。
ふわり。風が吹いた。閉鎖された空間に柔らかな追い風。目の前を遮る炎を和らげ、雪男の背を押してくれる。そして、その先には燐の姿があった。
「…っ、兄さん!!」
弾かれたように雪男は走り出した。転びそうになりながら駆け寄って、抱き寄せた体からは炎が溢れ出ていた。それは何処までも温かな灯火。しかし、それとは反対に燐の体は冷たい。ぐったりと瞳を閉じる顔も青ざめている。息をしているのかさえわからないほど燐の体は死に近かった。
(あ……)
抱き締めた燐のすぐ前には聖母の像がたたずんでいた。その穏やかな顔は先程まで一緒にいた女性に酷似している。純白の衣に身を包んで、神となった息子に祈りを捧げるマリア。
「…ゅきお…」
「兄さん…」
睫毛を震わせて目を開けた燐は、弱々しい声で雪男の名を呼んだ。
「ぉ…まえ、何で…来たんだよ…」
突き放すように言った燐に、雪男は燐を抱く腕に力を込めた。こんなにも、兄は小さかっただろうか?
「おれ一人で…よかった、のに…たぶん…も、無理だ…お前だって、見りゃ、わかんだ…ろ?」
苦しそうに眉を潜めて燐は笑う。教会を焼き付くそうとしている炎は、おそらく燐そのもの。燐の力であり、存在の一部であり、燐の命。燐はわかってる。取り返しのつかないところまで、来ていることを。
「お願いだから、そんなこと言うなよ…。僕の命をあげるからっ…」
くしゃりと顔を歪める雪男の頭を燐は、優しく撫でた。子供の頃と変わらない温かな手。よく子供体温だと言って馬鹿にしたが、雪男はその手が大好きだった。燐に触れられると何でも頑張れる気がしたのだ。
「とぉ…さん」
燐の震える手が空を仰ぐ。父が死んだとき以来、流れることのなかった涙が燐の頬を伝い落ちる。
親を求める子供を雪男は力一杯抱き締めた。悔しくて、堪らなくて。燐の肩に顔を埋めた。
ただの人間である自分はなんて非力なのだろう。
しばらく雪男は燐を抱えたまま動かなかったが、その体には確かな変化が訪れていた。それは嵐の前のような静けさ。雪男もそれがなんなのか理解し始めていた。ゆっくりであったが、雪男にも変革は訪れていた。
「ねぇ、兄さん…兄さんは、生きなきゃ駄目だよ」
息するさえも辛そうな燐に、雪男は瞳を閉じて笑った。
「この為に僕は産まれてきたんだ」
清々しい雪男の体から燐の炎よりも、薄く、淡く、軽やかな青が滲み出した。沈んでいく燐の炎とは反対に、雪男の炎が広がっていく。
深い海の底に空が生まれた。
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(愛しています)