こつこつと響く足音を鳴らせながら、広い廊下を進んでいく。光の一切入らない廊下は、雪男の周り以外暗闇を保っている。前も後ろも見えない。ただ雪男の歩測に合わせて、柱に打ち付けられている燭台が灯をともしていく。時間感覚なんて、とっくに狂っている。

(…こっち)

雪男は体の向きを変えた。歩みは止めないまま自然な動きで。このまま、まっすぐに行っても違う気がした。燐はいない。本当に分かれ道があるのかさえ怪しい回路に雪男は迷うことなく足を動かしていた。建物は外観からは伺えないほど広い。
一般的な質量や距離の定義は、あてにはならないだろう。あるのは自分が感じる現実だけだ。


「坊や、こっちへいらっしゃい」


唐突に声がした。歌うような清らかな女性の声。全ての穢れを吹き消してしまいそうな澄んだ空気が辺りに広がっていく。
ゆっくり視線を向ければ、一人の女性が立っている。ふわりと長い麦色の髪に、身を包む純白のワンピース。何処までも柔らかな風貌は、知らずのうちに雪男に安堵を与えていた。まだうら若い女性だ。ようやく大人と呼ばれるようになったばかりの少女。シュラとは、また違う温かさがあった。けれど、素性がわからないことに変わりはない。

「貴女は?」

「こっちよ」

微かな警戒を残す雪男に臆することなく、朗らかな春ような微笑みと共に女性は雪男の手を引いて道なき暗闇を歩き始めた。女性特有の滑らかな指がしっかりと雪男の手を握って放さない。

「あの…」

「本当はね、いけないの。でも、貴方と話をしてみたくて」

だから、私はここにいるのよ。その声さえも子守唄のようだった。内緒にしてね、と口に人差し指を当てる。それが女性を少女に見せた。

「私とお話をしましょう」

「…話、ですか」

女性は頷いて、雪男と繋いでいた手を離した。そして、歩きやすいように長いスカートの裾をつまんだ。女性が歩く度に、スカートがひらひらと波打つ。

「私にはね、息子が一人いるの。愛しい子よ。賢く、誠実で、誇りのような子だったわ」

女性は歩きながら、ゆっくりとした口調で話続ける。雪男は相づちを打つでもなく、女性の後ろで話を聞き続けた。

「息子を慕ってくれる人は沢山いたわ。でもね、息子を恐れる人も沢山いたわ。可笑しな噺ね」

「…人は、そんなものですよ」

「えぇ、そんなものよ。男も女も。大人も子供も関係ないわ。息子はね、ある日裏切られたの。大切だと思っていた人に裏切られたの」

女性は立ち止まった。けれど、その口調からは怒りは感じれない。息子の話を聞かされているというより、何かの童話を聞かされているようと雪男は思う。

「その人が…憎いですか?」

「いいえ」

女性は、はっきりと言った。振り返った顔は、先程と変わらない穏やかなもの。

「私が憎む前に、息子が憎まないと決めてしまったもの。なら、私が憎む意味はないわ」

ね?と、雪男に言い聞かせる彼女は、母親だった。少女のようだったのが嘘のように、大人びている。本当の彼女はどちらなのだろうか。

「憎むか、憎まないか。赦すか、赦さないか。それは本人が決めることで、周りがどう思おうと何にもならないもの。だから、その怒りを沈めてから目を開きなさい」

女性は雪男の頬を撫で、さぁ。と、暗闇の先を指差した。
何処かで渦巻いていた怒りが、覚めていくのを感じる。


「貴方は、誰ですか?」


雪男はもう一度、聞いた。

「私は、ただの母親よ。でも、そうね…10年くらい前だったかしら。小さな男の子を連れてきた神父が私に祈りを捧げたの。これから訪れる未来に起こる悲劇から息子たちを守ってくれって」

目を閉じれば、今でも甦ってくる。人が訪れることのなくった教会に何百年かぶりに訪問者が来た。父の服を握る小さな手。きょとんとしたあどけない顔も、息子たちを愛しく思う父の顔も。

「私では貴方のお兄さんを助けてあげられないから、貴方をお兄さんの元へ連れて行ってあげる」

女性が指差した先には扉があった。古びた扉。蔦がからみ、色が廃れ、木の皮が剥がれている。

「さぁ、お行きなさい」


雪男は取っ手に手をかけた。女性の声は、もうしない。彼女がいた跡も何もない。どこまでが現実かなんて考えることはしない。手を回すと、かちゃりと扉が開た。そのとたん扉の隙間から溢れ出してきた色に雪男は息を飲んだ。ステンドグラスの光に照らされるのは、濁りのない、どこまでも透き通る青。



その先にあったのは、燃え盛る青の海。





love and hatred
(それは光と影のように)



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