ある日の放課後。それはそれは夕焼けが赤く紅く緋に輝く黄昏の時間。
誰もいない廃れた教室には、少女が残っていた。レースや布地の細部に至るまで気を使われた和装に身を包む、一人の乙女。
「しえみさん?」
「あ、雪ちゃん…」
教室に一人増えた。教材を置き忘れた雪男が戻ってきたのだ。雪男は、暗い教室にしえみが一人で残っていたことに驚いた。
「どうしたんですか。帰らないとお母さんが心配しますよ」
しえみは視線を机に戻すと、荒れた木目を指でなぞった。そこは、しえみと燐の机。
「燐…悪魔だったんだね」
伏せられた瞳からは、しえみの感情を窺うことができない。彼女の心理がわからない。嘆いているのか、哀れんでいるのか。
「兄自身、そのことを知ったのは最近です」
けっして騙していたわけではない。弁解の意を込めてしえみに言った。
「そっか…」
何かを考えるように、しえみは自分の毛先をくるくると指先で遊ぶ。その姿は子供が浮き足立つ様に見えて、雪男は不思議に思った。いつもの彼女らしくない。
「でも」
しえみは柔らかな唇の両端をつり上げた。目を細めたそれは、夕暮れの朱によく映えた。
「燐が悪魔って…なんか可愛いね」
少女は、はしゃぐように言った。忌み嫌われる悪魔を可愛い、と。誰も想像さえしなかった言葉を。
雪男は即座に理解した。深い理由はない。ただ本能的に悟った。彼女は敵であると。だから、愛銃を片手に構えた。
「変な気は起こさないでもらえますか?」
「どうして?」
少女は楽しそうに聞いた。首をかしげると、色素の薄い髪がさらさらと揺れる。
「兄には、僕一人いれば充分ですから」
そうでしょう?他に何がいるというのだ。いいや、何もいらない。くすりとしえみが笑う声が聞こえた。
「足枷にしかならない雪ちゃんに何ができるの?」
しえみは、いつもと変わらぬ笑顔で微笑む。優しさに満ちた表情。それは花が咲いたように愛らしい。けれど、雪男には微塵の興味も沸かなかった。
「触れることさえ出来ない、あなたには言われたくありませんね」
だから、鼻で笑ってやった。こちらも、いつもと同じ笑顔で。ざまぁみろ、と。端から見れば、なんと微笑ましい光景に見えることだろうか。中身は牽制と宣戦布告だというのに。全ては、たった一人のため。独りぼっちな一人の悪魔のために。少年少女は虚構の関係に線を引いた。
「雪ちゃんのことも好きだよ?でも、燐と比べたらどうでもよくなっちゃうの」
「それは、よくわかります。僕もしえみさんのことは好きですよ。その他の割には、ですけど」
雪男にとって、燐以外は全て『その他』。しえみにとって、燐だけが『特別』。
「私は燐が、欲しいの」
初めて見た、しえみの本質。少女というには残酷で、大人というには純粋で。もしかしたら、僕と彼女は似ているのかもしれない。
じゃあ、また明日。しえみは雪男に手を振った。
「僕らは馬鹿だ…」
雪男の呟きは、淑やかに教室を出ていくしえみに聞こえていたのだろうか。
蛇りんご
※エヴに禁断の樹の実を食べるようにそそのかした蛇と、その実としてよく描かれるりんごで、毒りんごの響きに