―…熱い
身体中の細胞が沸騰していく感覚が襲ってくる。もがこうにも両手はぴくりともしない。いや、腕だけではく全身が燐の意識のもとを離れていた。血が煮えたぎっているのではないかと思うほどの熱量に狂いそうになる。まるで深海に引きずり下ろされ、無様に喘ぐ猿のようだと思う。自分が発狂せずにいることさえ不思議で仕方がない。
「ゅ…き…」
絞り出した声は艶やかな蒼へと燃えていく。涙も汗も吐息さえ。自分の欠片は、全て青に染まる。
揺らめく視線の先で前で両手を胸にあて祈りを捧げるマリア像が燐を救ってくれることはない。燃え盛る炎を前にしても、ただ微笑むだけ。もしも腕が動いたならば、手を伸ばし助けを求めてすがったのかもしれない。
(な、んの…嫌みだよ)
途切れそうな思考でも笑いそうになる。神の領域に聖母と悪魔を閉じ込めるなんて。悪魔のくせに神にすがり、聖母のくせに手を差しのべない。これでは役割が違うではないか。いや、聖母が悪魔を助ける義理なんてないのだから、案外正しいのかもしれない。
いったい自分をこんな所に連れてきて、何がしたいのか。
聖水を浴びたあと、ずっと意識が途切れ途切れで燐は自分が連れてこられた経由は覚えていない。気づいたときには、冷たい大理石の床の上で寝転んでいた。正確には起きたくても起きれないから、仰向けになったままなのだが。
(…なんだろ…)
何故か、この場所に懐かしさを感じる。どの時間であろうと頭上から降り注ぐ光の色が変わることはない。朝なのか昼なのか。はたまた夕暮れなのか夜なのか。ただ、ステンドグラスを通して燐のもとへと届けられる光は、同じ色に留まることなく輝きを変えていた。
あぁ、そうか。
遠い昔に父と来たのだ。
いつだったか、まだ幼いころ。獅朗にしては珍しく行き先も告げられず、ぎゅっと手を握られて連れていかれた場所があった。
「父さん、父さん!」
「ん?」
舌足らずな言葉で父を呼び、頭を撫でてもらう。小さな手で修道衣の裾を引っ張る燐の横で、獅朗は胸の前で十字を切る。それは、いつも祈りを始める前の習慣だった。神に敬意を込めて。
「こんなとこで、何すんの?」
今日の燐は何時もより落ち着きがなかった。普段は必ず側にいる雪男がいないからだ。だから、それを埋めてほしくて必死に父にかまってもらおうとした。一人にしないで、と。しかし父は微笑むだけだった。目尻のしわがいっそう深くなる。燐と雪男が大好きな顔だ。
「お祈りだよ」
優しく燐を抱き寄せながら、獅朗は言った。
「お祈り? 何をお祈りするの?」
肩に回った父の腕が暖かくて、燐も獅郎の腰にぎゅっとしがみついた。
「神様にお願いしてるんだよ。燐が…燐と雪男を守ってくださいってな」
あのとき穏やかの顔で祈りを捧げた父には、こうなることがわかっていたのかもしれない。
いつか平穏は終わりを告げ、戦わなければならない時が来ることを。
「とぉ…さん」
どんな時よりも、今、あなたの温もりが欲しいです。
lacrimation
(確かな愛と優しさ)