深夜の誘香
深夜、何の代わり映えもない道を歩いていれば、嗅ぎ慣れた独特の臭いがした。
最初のころは手で鼻を塞ぐほどだったそれは、今ではすかっかり馴染み深いものとなっている。
はっ、と溜め息をついて臭いの方に向かって歩き出した。
「残業ご苦労様だな」
「兄貴こそお疲れ様」
無理やり上司に増やされた仕事の当てつけに嫌みらしく言ってやれば、大した効果も無かったように返される。
むしろ嬉しそうに手に持っていたブラシを投げ捨てて近寄ってくる。
「おいおい、商売道具は大事にし………春」
しろよ、と最後まで言う前に駆け寄ってきた春に抱きつかれた。片口に顔を埋められて、身動きがとれなくなる。
黙って抱かれていると、春が鼻をこすりつけて匂いを嗅いでくる。
「よかった…兄貴の匂いだ」
しみじみと呟いた春がそのまますーと、深く吸い込んで息をはく。
「おまえ、とうとう薬で頭をやられたんじゃないか?使う薬品を変えた方がいいぞ」
「いや、別に頭は大丈夫だよ。ただ、ちゃんと兄貴の匂いがすると思って」
十分におかしな発言をしている自覚は本人にはあるのだろうか。
「兄貴がこんな時間にここを通るなんて珍しいから」
「それがどうしたんだ?」
「他の奴の匂いがしないか確かめてたんだ」
なんて理由だ。どこの世界に兄の残業を確かめるために匂いを嗅ぐ奴がいるんだ。
やっぱり今度の休みに春を病院に連れて行こう。
「春………」
「俺は生まれたときから兄貴の匂いを嗅ぎ続けてきたから、ある意味中毒者だよ」
喉の奥で笑いながら、春がもう一度深く息をすった。
「なら、今度からは香水でもつけて帰ってくるよ」
からかうように言えば、春の体が強張った。腕を握っていた手に力が入って痛い。
肩口から春は噛み殺した笑いが伝わってくる。
「兄貴兄貴兄貴俺の可愛い兄貴。それはやめた方がいいよ、そんなことされたら俺…」
「春?」
「兄貴の周りをみんな殺すから」
人殺しが言うとリアルだろ?
俺は本当にやるから覚えといてね、兄貴。
そう言った、春がひどく楽しそうだったのが記憶に焼き付いた。
だけど、人殺しの弟を持つと兄は強くなる。
「とりあえず、離れろ。一応疲れてるんだ。ほら、とっと道具片づけてこい」
「…兄貴」
春の言った内容をほとんど聞き流して、注意と催促をすれば哀れむように見返される。
「はぁ、じゃあ片づけてくるよ」
「早くしないと先に帰るぞ」
そう声をかけてやれば、慌てて片づけに向かう弟の姿になんとか笑いを押し殺した。
あぁ、やっぱりひどい兄弟だ。
(一度試してやろうかな)