「あっちぃー。せめて湿気だけでももうちょいましにならんかね」
「こればっかりはもうしばらく無理でしょ……」
昼休みの大学構内で、投げられた言葉に適当に相槌を打つ。そろそろ梅雨明けの時期ではあるが、今日も雨こそ降っていないもののどんよりした天気が続いている。隣の男は肩につくサラサラの黒髪が首に纏わりついて余計に暑いのか、後ろでそれを縛ろうと髪をかき上げている。器用に髪を縛りながらもマルさんのよく喋る口は止まらない。暑さへの文句や授業やテストのちょっとした情報からバイト先であるライブハウスでの珍事件まで、幅広い話題がその大きな口から次々と垂れ流されていた。
男にしては長めの黒髪に、首にはごついヘッドフォンをぶら下げるという、いかにもサブカル系のような見た目の、この男の名前は丸橋幸人。俺はマルさんと呼んでいる。知り合いのほぼいない俺と違って顔の広いマルさんには入学直後にいろいろと世話を焼いてもらい、なんやかんやとそのまま仲良くしてもらっている。
テストの過去問とか教授の情報とかといった大学生にとって大変重要な情報たちは、大抵の場合上下左右の繋がりが多い人だけが手に入れられるものだ。すなわち、サークルに所属せず、新歓にもあまり参加しなかった俺には情報収集の難易度が高すぎるのである。しかしその点、マルさんは大学での繋がりだけでなくライブハウスなどでも情報を得るツテがあるらしく、なにかと有益な情報をそれはそれはたくさんもっていた。そしてそれらをなぜか惜しげもなく提供してくれている神のような存在でなのである。
曰く、「お前さんは聞き手としてまじで優秀かつ俺の数少ない癒し枠だから、関係はwin-win。ってなわけで気にするな」とのことだ。どこを気に入ってもらえたのかいまだによくわかっていないが、マルさんの隣は居心地がいいのでまあいいかという気持ちになって俺は深く考えるのをやめた。ありがたみを感じてたまに差し入れをするぐらいがちょうどいいはずだ。わかんないけど。
まあそんなわけでお昼を一緒に食べることも多いマルさんには、日頃のお礼をかねて月一ぐらいで自分のぶんを用意するついでに多めに持ってきてお裾分けすることにしている。木曜日はバイトに直行の日らしく喜ばれるため、第二外国語の後の昼休みは空き教室で飯を食うのがお決まりになっていた。2人して暑い暑いと言いながら移動しているのはこれが理由である。
「はー、無事空き教室にたどり着いたことだしさっさと飯食おう! ハラへった!」
「俺もー……さっきの授業の資料が飯テロだったから余計に……」
「スペ語のやつ? 相変わらず面白そうじゃん。俺もそっちのクラスがよかったわ……」
「マルさんはドイツ語だっけ?」
「そう。第二外国語の選択肢のなかならドイツ語がいちばんいいってセンパイに言われて選んだ。正直失敗したかもしれんなと思ってる」
「俺はスペ語もだんだんきつくなってきたけどね……。変化形がとにかく多くて覚えきれない」
「お前さん頭良さそうなのにあんまり丸暗記は得意じゃないよなぁ。俺の方は難しいとか覚えられないよりまず眠気を誘うあの低音ボイスがきつい」
「それだけいい声の人ってことでしょ? まあでも授業後のマルさんはだいぶ眠そうだけど」
「睡眠導入ボイスに録音しときたいぐらいだからな? まじで聞いて欲しいわ……」
「そこまで言われると気になるけども」
声や音に関しては人一倍うるさいマルさんがここまで言ってくるドイツ語教の声は確かに気になるなあと思いながら、机に持ってきたタッパーを並べて開けていく。美味そうなトマトやチーズ、パセリなどの匂いがひろがった。
「はい。てなわけで、今日は叔父さん作のイタリアンを持ってきてみましたー」
「最高すぎか? 佳輔おじ様様々すぎる」
ありがたや〜と料理を拝むマルさんに米の入ったタッパーと箸を渡す。焼いた鶏肉にトマトとチーズを載せて焼いたものやアンチョビとトマトのソースを肉団子に絡めたものなど、若者向けというのもあってか肉料理が多めだ。もちろんサラダもある。
「知り合いに教えてもらったレシピで店の新メニューの試作をしてたらしくて、いっぱい作ったからもっていけってくれたんだよ。マルさんもこういうの好きだろうって」
「会ったことのない俺の好みまでバッチリ把握されている……だと……」
「ちなみに美味いけどダリアっぽくはないから新メニューとしては没になった」
「うん。まあブランディングは大事だからなー。そこは仕方ねーな」
うっま。と言いながらひょいひょいと箸が伸びる。なかなかのスピードで食われていく料理を見ながら、自分の分を早めに確保しないとなくなってしまいそうだと慌てて箸を握った。
「そういやトマト見て思い出したんだけど」
俺が鶏肉に箸をつけたところで、口いっぱいに放り込んだものを咀嚼し飲み込んだマルさんが口を開いた。
「やたらトマト推しの教授いたじゃん?」
トマトを研究テーマにしているというわけではないが、何かにつけてトマトの話を絡めて授業を行う、少し変わった教授を思い出す。名前を出すと、「そうそれ」と大きくうなずかれた。
「あの授業の試験、授業中にチラッと話に出てきた本がほぼ必須みたいなもんらしい」
「その本に関するところの配点比率が高いってこと?」
「配点比率も高いし持ち込みがその本しか許されねぇ」
「え、意味わかんない……」
「変なおっさんだからなー。ちなみに図書館のはまだ貸し出し中。俺が2冊確保できれば貸してやれるんだけど、さすがにそこまでは無理そう」
すまんな、とマルさんは眉尻を下げる。そこまで面倒を見てくれるつもりだったのかとむしろこっちが驚いた。いい人過ぎる。もしかしたら神か仏かもしれない。
「教えてくれただけでも本当にありがたいから! 本に関しては自分でなんとかがんばる……。うん、とりあえず食べよう」
考えても仕方ないし鬱々してくるだけだと見切りをつけ、マルさんにも食事を促す。「おう」と返事をしたマルさんは肉団子を口に放り込んでしばらく唸った後、もう一度口を開いた。
「ま、持ち込みはできねーけど、過去問で出てるとこのコピーなら渡せるからどうしようもなかったら言えよ」
思わず顔を上げる。なんてことない顔でそのまま食事を続ける様子を見て、俺は顔の前で合掌して拝むことにした。
「ありがとう……持つべき友はマルさんだった……」
「これ以上持ち上げてもなんも出せねーぞ」
苦笑するマルさんを拝んでいると、思い出したかのように俺の腹の虫が鳴いた。
「うはは。ほら、湊も早く食え」
「そうするー……」
テーブルを彩る赤い料理。罪のないはずのその赤を憎らしく思いながら、それでもやっぱり美味いそれらを味わって食べていく。
図書館の蔵書は常時貸し出し中、本屋では取り寄せないと手に入らない、やたらと値が張る上に入手難易度も高い、トマトのように赤い表紙の本に想いを馳せ、口から出かかったため息はトマトと一緒に飲み込んだ。