いつもに増して疲れた一日だった。
日頃の不摂生もあるだろう。が、ただでさえ雨の日は頭痛や体のだるさのような軽めの体調不良に悩まされがちなのに、それがここ数日の間ずっと続いているのだから、まじめに働いているだけでも褒めてほしい。いっそのことそろそろ溜めこんでいる有給休暇の取得申請でもして一度体調を整えるべきなのではないかと思っていたぐらいには、今日の僕は疲れていた。はあ、と息をつきながら濃紺の傘を開き、空を見あげる。うっすら明るくはあるものの、鬱陶しい雨が止む気配はまるでなかった。
気分がいい時なら傘が雨をはじく音に風情を感じなくもないのだが、今日に限ってはただただ煩わしい。濡れたズボンの裾が足にまとわりつくのも不快だった。あまりにも心に余裕がない。どうでもいいことで声をかけられようものなら、相手がだれであれうっかり冷たく当たってしまいそうで本当によくない。
実際のところ、今日の仕事中はいつもに増して塩対応を繰り返してしまった気がする。雨で濡れて湿った本が返却されたときには、喉まで出かかった深いため息を飲み込むのが精いっぱいだった。あまりにも調子が悪そうに見えたのか、館長に「吉岡君、今日は早く帰って休みな?」と言われてしまい、それを聞いた周りの同僚も一斉に首を縦に振るものだから、その言葉に甘えて早退し、今に至る。
こんな時こそ好きな喫茶店でお気に入りの珈琲となにか甘いものを食べてリフレッシュしたいものなのだけれど、退勤した時間がラストオーダーの時間だったのだからどうしようもない。というか、よく考えてみたら早退して職場の近所の喫茶店に寄って帰るというのもどうかという話だった。うっかり見つかったら気まずいどころの話じゃない。いやまあそもそも閉まっているんだけれども。
本日何度目かわからないため息をつく。誰も悪くない。誰も悪くないからこそ、この憂鬱さとだるさがつらい。雲に覆われた夜空では星も見えないし、丼ものや弁当を買って帰って食べるだけの晩ご飯もそろそろきつい。まあでも今日は買い置きしてあるおかゆでも食べてさっさと眠るのがいいだろうなあ、なんて思いながら歩道橋の階段に足をかけた。
市役所と図書館の間にある道路は車線が多く、幅が広い。交通量もそこそこあるためか横断歩道がなく、代わりに歩道橋がかけられている。この歩道橋の上からは、職場である図書館と向かいの市役所だけでなく、幼い頃から何度も通っている馴染み深い喫茶店、純喫茶ダリアも見える。
幼い頃、両親にたまに連れていってもらってクリームソーダを飲むのが好きだった僕は、いまや毎週のように一人で店を訪れ、珈琲と一品を頼んで数時間居座る常連となっていた。だって美味しいのだもの。あとものすごくあの空間が落ち着くのだもの。店主の崇彦さんも店員の佳輔さんもイケメンで目の保養にもなる。ああなんていい空間なんだ純喫茶ダリア。なんて、ダリアに思いをはせながらぼーっと歩いていた視界の端、ちょうどダリアの手前の路地付近にやたらと大きな三毛猫が見えた、気がした。
「「え」」
思わず声が出る。猫に驚いたからではない。よそ見しながら踏み出した足の下に、あるはずの地面がなかったからだ。
――やばい。やらかした。
突発的な危険状態に陥った時にスローモーションに感じるというのは、フィクションではなく本当のことだったらしい。やばいどうしようと焦る気持ちとは別に、冷静な頭はどうやらぼーっと歩いている間に反対側の階段に差し掛かっていたようだと気づく。ばかじゃん。視界の端の猫に気を取られている場合じゃなかった。ただでさえふらふらしているのに、不注意もいいところだ。
このままいくと勢いよく転げ落ちるよなあ。途中でなんとか止まれるかなあ。なんて半ば諦めた気持ちで考え始めたところで、ぐいっと強く腕を引かれ、尻もちをついた。
階段の角に骨を打ち付けたのか、ものすごく痛い。落ちようとしているのに手放さなかったらしい傘を置き、腰をさすりながら視線を下に向けると、自分が落ちるはずだった階段を青紫の傘が落ちていくのが見えた。どうやら階段を転げ落ちるのは回避できたらしい。いつのまにか世界のスピードは元に戻っていて、これまでにないくらい早い自分の心臓だけがドクドクと脈打つのを感じる。回らない頭で今の自分の状況を考え、足を踏み外した時に自分以外の驚く声が聞こえた気がしたのを思い出した。
呆然としたまま掴まれた腕の方を振り返ると、手すりを掴む手と逆の手で僕の腕を掴み、目を見開いたまま固まっている青年と目が合った。
「……」
「……」
……やばいやばいやばい。申し訳ないし恥ずかしいし穴があったら入りたい。なんだか見たことある顔な気がしてすぐに伏せてしまった顔も上げられない。いやでも腕を掴まれたままだし、振り払って走って逃げるわけにもいかないし。っていうかそう、お礼。お礼は言わないと。パニックになった頭を落ち着けるため深く一呼吸し、やっとのことで声を出した。
「あっ……と、ありがとうございます。 助けてもらっちゃって」
「あ、いえ。 すみませんつい思いっ切り引っ張っちゃった気がするんですけど、腕と腰、大丈夫です?」
「大丈夫、大丈夫です! もうちょっとでここ転げ落ちるところだったんで。 それに比べたら大したことないですし、本当に助かりました」
「よかった」
心底ほっとしたような声と吐き出された安堵のため息に視線だけでちらりと顔を窺うと、破壊力抜群の表情を浮かべる僕好みの顔があった。先程驚きに満ちていた目は細められ、僅かだが口角が上がっている。思わずまじまじと青年の顔を確認しはじめ、そこでようやく彼の一度も染めたことのなさそうな黒髪から水が滴っていることに気がついた。
「あの、お兄さん、傘」
「あ」
僕の後ろを見ながらあがった声にその視線を追って振り向くと、先ほど落ちていった青紫の傘が無残な姿になる瞬間が見えた。
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bkm