#HCOWDC2 Day1
2022/03/07 20:32
放課後のざわつきも、今日は一層騒がしいように感じる。一年とはあんがいあっという間に過ぎてしまうのだと、そんなことを考えたのは初めてのことだった。すでに僅か足りなく感じる袖丈に、まだ伸びようとする自分の身体が恨めしい。シャツだけでも買いなおせないだろうか、それとも、学生服の袖からだらしなくシャツが伸びてしまうくらいならいっそこのままでも。袖丈が足りなくなったほかは、特に窮屈感もないから余計に悩ましい。いっそ、兄が自分より大柄だったなら、制服を借りてしまうこともできたのだけれど。生憎体つきは父譲りの自分と母譲りの兄とで随分と差がある。少し、悪あがきに袖を引っ張ってみるけれど、ただのポリエステルがゴムのように伸びるわけもなく。来年も同じクラスがいいね、とはしゃぐ生徒の声に、なんとなく急かされるよう慌てて荷物を片付ける。まだ肌寒い三月の末――怒涛の高校一年が終わった。
今年はなんだか、ずっと心が落ち着かなかったように感じる。だからきっと、一年もこんなに早かった。もちろん、こういった集団行動に適さない俺の性格上一年があっという間に過ぎていくならそれに越したことはない。なるだけ早く卒業して、さっさと大学へ行って、どんどん一年が短くなって、あっという間に死んでよかった。いつか人並みの幸せを手に入れて、死ぬのは惜しいなと思う日が来るとは思えなかった。ただ、まさかこんなにも体力勝負なスピード感になるだなんて想像もしていなかった。
さっさと帰ろう、まるで逃げるように荷物を詰め、いつもよりずっと思い鞄を背負う。はしゃぐ人ごみに身を隠し、誰にも見つからないように下駄箱まで早足で歩く。もう世話になるのは最後になる靴箱から靴を引っ張り出し、扉を閉めたそのすぐ隣でニッコリと笑う男の顔に、思わず声を上げずにはいられなかった。
「っな……」
「一緒に帰ろ」
なぜこんなにも大急ぎで帰路に着く必要があったのか。それは他でもない、この男――中島修一から逃げるために他ならなかった。動揺と、想定外に重い背中の荷物に思わずひっくり返りそうになる俺を、咄嗟に掴む手は相変わらず同じ人間とは思えない怪力だ。掴まれた腕が痛いほど熱い。動揺する俺の心臓が、この気持ちをまさか恋かと錯覚させることさえ恨めしかった。今更、かもしれない。それでもなんとか平静を装い、やつから目を逸らしさっさと靴を履く。顔を上げられなかったのは、こいつを視界に入れたいわけじゃなくて、むしろ物陰にでも隠れてこっちを窺っているのだろう野次馬に、こんなところを見られたくなかったからだ。その姿を見てしまったら、きっと俺は冷静ではいられないだろう。
「来年は同じクラスがええなあ」
どれだけ露骨に無視されようと、中島は俺に構い続ける。意外と根性があるんだな、とそこは正直関心しているのだ。俺なら、多分無理だから。それを俺に対して発揮しなくてもいいだろう、と恨む気持ちも少しある。中島の言葉をすべて信じたわけではないが、それでも一応、彼からの誠意ある言葉――だろうもの、は受け止めた。受け止めざるを得なかった、という方が正しいが。それでもなおこうして子供みたいな態度をとる俺の意地悪さというか、情けなさが、この男の忍耐強さや、世渡り上手だったり、誠実に見せるのがみょうに上手い姿とどうしても比べてしまって、余計に自分が嫌いになる。この男が俺に誠実なそぶりを見せる度に、俺はこの男を拒絶する理由を失くしていく。
「春休みさあ、いっぱい出かけよな」
俺が云ともすんとも言わない態度でも、中島は俺に話しかけるのを止めなかった。奴はどこへ行こうとか、あれをしようとか、そんな話を一人で延々と喋りながら俺の後をついてきた。俺の耳は残念ながら、器用に一人の声だけをシャットアウトすることもできない。それでも、いやでも耳に入ってくる言葉に思わず返事をしそうになった。
テーマパークに行こうという。一言も返さない俺と行ってどうするんだと吐き捨ててやりたかった。
話題の店のスイーツに、よく似たものを出す店が駅前にできたという。こんな俺がその店に行って、場違いなさまを笑いたいのかと言い返してやりたかった。
家でゲームするのもいいなという。俺はそもそもゲームが嫌いだし、お前の家に行くことも、家に呼ぶのも御免だと切り捨てたかった。
そのどれも、できもしないから黙っている。中島を拒絶しないなら、俺は彼を受け入れるべきだ。受け入れたくないのなら、早くお前は無理だと伝えるべきだ。それが、俺に誠意を見せた中島にできる、俺の答えだと理解しているのに、俺はそのどっちもせずにただ永遠と、中島の時間も、俺の時間も浪費していく。
「なおはさあ、どこ行きたい?」
この曲がり角を、俺たちは真逆の方向へ帰る。そのギリギリのところで、中島の手が再び俺の腕を掴んだ。さっき下駄箱で俺の身体を支えた時とは別人みたいに、弱い力で。応えるまで帰す気はないのか、中島はじ、っと俺を見上げて人好きのする笑みを浮かべる。
「――さあ」
ずるい俺は、今日もまた中島への言葉を誤魔化す。ずるい俺は、中島がもういいと切り出すのを待っている。この男が存外忍耐強いことに怯え、焦りながら、必死でこの男に嫌われようと思っているのに、誰かに嫌われることがたとえ中島相手でも怖くてできない俺は、最後の最後で怯えてその手を取ってしまう。
「んじゃ、いろんな場所行ってみよな」
に、っと笑うその顔に、また自分が自分に負けたのだと思い知った。あんなに早く過ぎ去った一年も、これから始まるたった二週間ほどの短い春休みが、恐ろしく長いものになるのだと確信した。