#HCOWDC Day4
2022/02/24 20:40
――平和だ。
紫川は久々に暖かな陽射しに差されながらぼんやりと外の景色を眺めた。まだ風は刺さる様な冷たさもありながら、室内にいる限りでは太陽の暖かさが春の訪れを予感さえさせた。今日は目立つような事件も、事故もなく、書類仕事が捗る一日は、とうとう紫川にデスク周辺の掃除まで始めさせてしまった。暇、と言えば聞こえは悪いが、それでもこの職業柄自分が暇であることはいいことである。軽く、窓際の埃をはらいながら今日の昼食は何にしようかと思考はいよいよ緩んでいく、そんな時だった。
交番の外から見える景色はちょうど、車道を挟んで歩道がある。この道をより公園側へ入っていけばちょうど商店街へと抜け、一方で道を東へ進めば住宅街に続いているいがいと人通りのおおい道だ。買い物する主婦や、オフィス街から帰宅するサラリーマンなどが行き来しているため自転車の通りも多く、車も相応に往来している。そんな通り道を望む交番で――その光景に気が付いたのはおそらく、紫川が暇に任せて窓の掃除をしていたからだ。それは珍しい暇が生んだ奇跡とも言えただろう。
まだ小学生は低学年程度だろう少女が、友人などの姿も保護者の姿もなく、たった一人無邪気にこちらへと駆けてくる。そんな少女の前を、重々しげな姿でぽてぽてと駆ける猫の姿だった。猫は体が重いのか、はたまた少女に追いつかれることはないと遊んでいるかのように小さな少女の前を走る。紫川は、少女に挨拶代わりに声を掛けようとした。畠中は基本的に平和な街だが、それでも子供がたった一人で街を駆けまわることは少し不用心だと思ったからだ。はたきを置き、扉に手をかけたその瞬間だった。猫が、突如車道の方へと向かい始め――そして少女もまた、猫だけ≠見つめて楽しそうに駆け出した。紫川はもう、時間が十分の一にさえ感じた。思わず駆け出し必死で止まって、止まってととにかく叫んで腕を振りまくった――そして、その足並みがピタリと止まったのだ。前を走っていた、猫の足並みが。それを追いかける少女の足も自然と止まる。彼女は重そうに猫を抱え上げ――猫は最後まで持ち上がることはなかった。重そうな尻がまだ地面についていた――そうして漸く、大汗をかいた紫川を見つけたのだった。
「そっか、それで猫さんと遊んでいたんだね……」
少女の正体は友人と遊んでいる間に友達とはぐれてしまった迷子だった。今のランドセルは紫川が知るよりずっと機能的になっているらしく、何かあったらここに、と母親が連絡先を専用のポケットに持たせていたらしく、紫川の厄介な仕事はすぐに片付いてしまった。今ではもう、母親を少女と待ついがいに仕事はない。少女が追いかけていた猫は、交番に設置された簡易の丸椅子の上に丸くなるとそのまま昼寝を始めたらしい。確かに、窓から差す光がちょうど当たって、きっとあの毛並みは今ずいぶん暖かくなっているのだろう。ふと――今は家で待っている彼の、黒茶色の毛並みを思い出した。暖かくて、大きな体は確かに筋肉質でぬいぐるみのような柔らかさはないが、それでも紫川にはそれでよかった。それが≠謔ゥった、という方が正しいだろう。両腕で抱き返してくれる彼の匂いも好きだが、こちらがぎゅっと抱きしめられる彼のにおいも好きだ。
少女は、母親を待つ間ペットを飼いたい、という話をしてくれた。おそらく、あの猫と触れ合って一層、その願いが強くなったのだろう。母親がちゃんと世話できるようになってから≠ニ言って許してくれないのだという。紫川は確かに、家に犬がいる。ただその犬は、正確には犬ではない≠烽フだ。彼を動物病院に連れて行ったことはないし、紫川は実際、今あまたの種類があるドッグフードなどにそう明るい方ではない。それでも、あの爪が床を掻く音が好きだ。力強い尻尾の風圧や、ぱしぱしと当たる存外にしっかりとした感覚も。
「じゃあ、いつかお母さんに認めてもらえるように、いろんなことを知ってみるのも、いいかもしれないね」
そうだね、そうしたらお母さんもいいよっていうよね。そう頷く少女の傍ら、紫川の脳裏にはただ一人だけが、もう見慣れた笑顔を紫川にむけていた。会いたい、など。緩む思考はまだ慣れない甘やかな感情を一気にあふれさせる。このことを伝えたら、彼はどんな顔を見せるだろう。驚くだろうか、照れるかもしれない。喜んでくれるなら嬉しいし、自分もそうだと言ってくれたら。思わず緩みそうになる口角を慌てて引き締める。少女は犬か、猫か、ウサギで悩んでいるようで、そんな紫川に気付くことはなかった。
それから十分もしない間に少女の母親が大慌てで迎えに来た。少女は最後に猫を連れて帰るかどうかでいくらか母と問答をしながら、最後にはひと撫でしてから帰っていった。少女と、何度も礼を言って帰っていく母親を見送りながら、さて、と振り返る。名残惜し気に撫でられていた猫は未だ署の椅子の上にいる。今はまるでそこが自分の縄張りであると言わんばかりの表情で毛繕い中だ。さて、どうするかと頭を悩ませ始めた時、巡回に出ていた同僚が昼食を調達し戻ってきた。扉を開けるなり、紫川の目の前にいる猫を眺めて目をぎょっとさせている。
「ただいまあ…… うわっ!?」
なんで猫、と逃げる様子もない来客に、困惑しながらもちゃっかりカップ麺のお湯を注ぐ同僚に署を任せ、紫川も昼食を買い出しに行く。徒歩しばらくのコンビニで、出しな嗅いだジャンクなラーメンの香りに少し興味をひかれながらも無難な弁当を選ぶ。普段ならそれだけをレジに持っていく紫川は、数秒の躊躇いの後文房具や、充電器などの棚を通り過ぎ見慣れないパウチのそれをひとつ、ついでに弁当の上に乗せた。それをレジへ差し出せば、アルバイトなのだろう大学生らしき女性はその組み合わせにいささか訝し気に紫川を眺めた。
「……あ、いや、猫がいて」
思わず言い訳したのは、そこが紫川もよく利用するコンビニだったからだ。今紫川のレジを担当する少女も何度か見たことがあった。ここで、今彼女の脳内に浮かんだ誤解は解いておきたい。紫川の言葉に、女子大生は途端にニコリと笑ってそりゃそうですよね≠ニ少し照れくさそうにする。まだ慣れない電子決済をなんとか済ませ、今は恋しい同居人が持たせてくれたエコバッグに詰めた。喜ぶだろうか、という淡い期待と、この感情やこの行動は彼≠フ中で浮気に相当するのだろうか、というばかげた疑問。むしろ、紫川よりもずっと生き物に懐かれない彼のことだ、猫の話をしたら、あるいは羨ましがるかもしれない。今日はなぜだろうか、彼に話したいことばかり浮かぶ。平和だ、と紫川は舌の上で呟く。こういう日があってもいい。
それでも、少し急く足で帰ってきた紫川の前に――猫はいなかった。同僚は紫川が出て行ってしばらくしたら、ふらっと出ていったと麺を啜っていう。その事実は僅かに紫川を落胆させたが、それでも普段愛想のいい男ばかり相手にしたせいだろう。紫川は猫の気まぐれに振り回されるという経験は貴重だっただろうとも思わせた。いつかまた、寒さをしのぎに来るかもしれない。暫く来なければ、市役所通りにある喫茶店がよく猫を遊ばせていると聞くから、譲るのもいいかもしれない。紫川は丁寧にエコバッグを畳みながら同僚とともに昼食の席に着いた。
「あれ、すごい気に入ってるじゃないですか」
犬派だって言ってたのに、と茶化す同僚を小突く。こうしてゆっくり昼食をとるのも、意外と久しい出来事である。
「今日は平和っすねえ」
スープも飲み切り、ついでにお茶まで飲み終えた同僚がのんびりと呟く。
「いいことだよ」
そう言って紫川も、卵焼きを頬張った。