紫陽花 ◇ 滴る水を伴って本陣を置く廃屋へ躰を引きずる。連日の雨でゆるんだ地面に足がもつれそうになった。 戦況は最悪だった。血の匂いが消えない。体中に纏わり付く嫌な匂い。自分でも呆れていた。いつからこんな匂いに慣れてしまったのか。 各地に散った仲間達の屍を、もう何度乗り越えてきただろう。もう見たくない。もう誰も失いたくない。そうひたすらに願いながら。 それでもこうして生きているのは、たったひとつの命がまだ生きているからだ。 ずるずると泥濘に嵌りそうになる足を引き上げる。いま想うのはただひとりの気配だけ。 早くあの匂いに包まれたいと目を閉じて、高杉は草木に覆われた獣道を進んだ。 * * * 「高杉を知らないか、」 問うた桂に、カラクリ造りを得意とする男は曖昧に首を振った。知っているとも知らないとも取れる表情だった。 「花でも探しに行ったんじゃないですかねぇ」 「花?」 突拍子もない答えに思わず眉を寄せる。この状況で花摘みとはいったい。夜に遊郭に行くわけでもあるまいに。桂はぼんやりと宙を見上げた。高杉ならば事前に用意をしたりはしない。夜の道行きで一輪攫って行く男なのに。 昨晩。あとは本陣で、と違う道を進んでいた鬼兵隊とは既に合流を果たしていた。その後無事に坂本、銀時とも合流を果たし、次の作戦に向けて話を詰める予定でいた所に高杉が居ないという。 銀時と遊びにでも行ったのかと最初に詰め寄ったのはありきたりな話だ。「知らねーよ、俺、」胡散臭そうに手を振られ部屋から追い出されたのはつい先ほどのことだ。 「何の為に?」 「まあ昔っから、花は贈るものですから」 言葉の端々に含みを感じたが、その正体は分からなかった。桂はひとつため息をついて空を見上げる。 曇天。灰色よりも濃い静けさで覆われた外は小雨が降り続いたままだ。 こんな中を一人で出歩くなんて。躰が冷えてしまうと心配になった。無事に戻ってくるだろうとは思ったが(そして心配しすぎだと一蹴されるまでを想像した)結局は己の為の心配なのだ。桂は己の心を雨粒の中に放ることにした。 先日の戦いでまた仲間が死んでいた。 墓という墓も作れず皆がただ疲労している。人の死に慣れてしまっている。分かっている。良くない事なのだと。 それでも。取り戻そうと立ち上がった志は時折、その切っ先を自分たちに向けてくる。 ― 護る。誰を。誰を護るための闘いなのだ、これは。 不意に、桂は松陽の笑顔を思い出して無性に泣きたくなった。だができないと思った。泣き方が分からなかった。 「…日暮れまでに戻ってもらわないと困るんだがな、」 「そりゃあ俺たちも同じですよ」 そうか、と呟いて、桂は部屋に戻った。次の伝達を待つであろう部隊に書状を書くためだ。 不意に目の端に緑が留まる。庭と呼べるのか分からないが、廃屋の中から見える外には青々と木々が茂っており酷く綺麗だった。この季節特有の瑞々しさだと思う。 夏の手前、惜しみなく水を与えられた木々が生命を輝かせる季節。自分達とは関係なく命を繋いでいく逞しさが眩しいと思った。 そんな風に生きることが難しい。いつからそんな風に思うようになってしまったのだろう。自分は何も変わっていないつもりなのに。 雨音が耳に響く。 ぽつり、ぽつり、少しずつ強まる雨音に、戻らない高杉の心の内が見えず、不安になって瞼を閉じた。 * * * 部屋に戻ると白亜に似たいろの灯りが燈っていた。雨雲のおかげで昼間だというのに既に日暮れのように錯覚してしまう。 つい先ほどまで小雨だった雨はいよいよ勢いを増していた。ざぁ、ざぁ、と、木々に生い茂った葉を叩く音が耳に入ってくる。高杉は、…晋助は、まだ戻らないのだろうか。 曇る心中で桂が乱雑に置かれた紙と筆を手に取ると、閉めたはずの部屋の襖が静かに開く音がした。 「……戻ったのか、」 全身びしょ濡れになった状態で、高杉がそこに居た。晋助。咄嗟に声に出してしまいそうになる自分を桂は制した。といっても、出来たのは口を引き締めることくらいだ。 昔から共に在る幼馴染の前だとどうしても心が緩んでしまう。緩ませたいのかもしれない。そんな自分が嫌だというわけではなく、何かしらの意地だということも分かっている。心を見せることがいつからだったか難しくなっている。 恥ずかしいのだとは言えない。言えるようなものではない。そんな甘い陶酔を味わえるような関係ではもう、ないと思った。 いつからか、互いを名前で呼ぶことが少なくなった。もともと呼ばない間柄ではあったものの、時折心を晒す代償のように名を呼んでいた。 それは心の距離なのか、ふたりの心の変化なのか。考え出すときりがない。そのときだけは、と桂は思う。心の奥底では高杉を欲して止まないのに、頭がそれを拒絶する。 ぐるぐると巡り始める思考を振り払おうと瞬きをして、桂は一度深呼吸をした。そのまま視線を流せば高杉の手に握られた一房の紫陽花が目を射抜く。 細かな水滴が付いた紫陽花は、先ほど見ていた庭先の木々のように鮮やかな命の色を持っていた。 ― まぶしい、 紫陽花から滴る雫がぽたぽたと床に落ちて、じわり、そのまま小さな染みになる。高杉の短い髪の先からも水が滴り、着ている隊服が肌に張り付いてその重さを増してゆく。 「…風邪を、ひいてしまう、」 昔、高杉が遊び疲れて熱を出し、咳をしていた事を思い出した。 幼いころは病弱な一面も持っていた。大きくなれば強くなる。往診に来た医者の言葉通り、高杉は強くなった。穏やかな暮らしの中。与えられた枠の中で強く、世界の矛盾をつんざく心を持つほどに、高杉は強くなった。 あのまま。穏やかなまま、与えられた役割を生きていくこともひとつの選択だったのかもしれない。選んでしまったからこそ言えることなのだと分かっていても、もしもの可能性を願うことをやめられないまま来てしまった。 段々と心も躰も大きくなり、そのままでは居られないことを知っていった。 自分達が生きているこの世界が永遠に穏やかでないということを、足元から呆気なく崩れ去ることもあるということを。 「桂、」 「高杉、濡れてるだろう、」 「なァって、」 「何だ、それより早く着替えを…、」 「やるよ、これ」 「え、」 高杉から手渡された紫陽花の水滴が桂の手の中でその身を震わせた。小さな粒がきらきらと光を反射して青紫色の花弁を初々しく彩っている。 ― どこかで、 どこかで、同じような紫陽花を見たことがあるような気がした。ふわりと香った紫陽花の匂い。水の匂いと高杉の匂いが一緒になったかのような、どこか懐かしい匂い。 「…どうして、これを、」 「おい、まさか忘れてんじゃねーだろうな、」 咎められるような眸で見つめられたので、ついこちらも眉間に皺を寄せてしまう。忘れているとは一体何の事なのか。 「似合うと思ったんだがな、」 「どういう意味だ、」 「本当に分からねーの、」 ふと思い出されたのは、昔、高杉と二人で遊んでいた時の風景だった。 誰もいない神社の境内。本を読んだり、詩を読んだり、互いの話をしたり。 静かな時間を共に過ごした中での、あいまいな、ゆらぐ、陽炎のような。そんな静けさの日々の中、桂は高杉と一度だけ声を荒げるような喧嘩をした事がある。理由は何だったかぼんやりとした記憶しか残っていない。 ただはっきりと覚えているのは、仲直りのきっかけに高杉が持ってきた一房の紫陽花だった。 ― 似合うと、思ったから。 それが高杉なりの謝り方なのだと受け取って、桂は自分も謝った。 が、それは喧嘩の後のことで、今回は特に謝られる様なことはされていない。作戦についての意見の対立はあっても、私情を挟む事は殆ど無かったからだ。 「…高杉、」 「名前、」 「え、」 「名前で呼べよ、」 腕をぐい、と引き寄せられて、そのまま唇が重なった。 ― 雨の味がする、 いつからだったか、こういうことをする間柄になっていた。 初めて意図を持って唇を重ねたのはまだ十四歳にも満たない頃だった。恋でもなければ未練でもない。ただ何かを確かめるように重ねた唇だった。 「ん、」 「くち、あけて、」 そのまま強く抱き締められる。こうして求めてくるのはいつも高杉の方で、桂はそれを拒めない。 拒む、という感覚とは違うのかもしれない。互いに何かを確かめたいと思ったときでなければ、こうして唇を重ねることはない。 そして桂はひとり自分を笑った。どれだけ理由を並べても、結局は欲しているということなのだ。触れてくる唇を、そして抱き締めてくる暖かな腕を。他の誰でもない、高杉を。 これは恋なのだろうか。けれどそんな甘い感情に身を委ねるには、あまりにも複雑な想いを抱えすぎている。 「…こたろう、」 呼ばれて、声を上げて泣きたくなった。高杉は、いつから自分を名前で呼ばなくなったんだろう。そして自分は、いつから晋助と呼べなくなったのだろう。 「…し、ん………、、」 呼ぼうとして、また唇が塞がれた。呼べと言っておいて。心の中で悪態をつきながら桂は高杉の唇を受け入れる。 抱き締められた躰が熱を持つのを感じて、ゆっくりと眸を閉じた。 * * * 昔から「自分」という物に無頓着だと思ってはいたが、ここまでくると逆に心配になってくると高杉はひとり心の内で呻いていた。 素直に唇を受け入れている桂をゆっくりと押し倒し、腰紐を緩めようとした瞬間、晋助、と呼ぶ声が聞こえた。 「何、」 「い、いまは…、」 「時間ならあるだろ、なァ、」 にやりと笑えば、桂が戸惑った顔で頬を染める。その反応を愉しんでいる自分を悟られまいと素早く着物を解いていく。何だかんだと文句を言われてしまうのが面倒だった。 ― 難しく考えるの、好きだよな。 小太郎は石橋を叩いて叩いて、結局渡らずに遠回りをする癖がある。いっそ壊して作り直そうとまでするときもある。 慎重さを取るあまり身動きが出来なくなるのだ。それはひとつの組織をまとめる上では大事な事なのかもしれない。 だが、行き過ぎた真面目さは破滅にしか繋がらない。元来争いごとを好むような人間ではなかった。 だから、と高杉は想う。 心臓を切り裂かれるより辛い思いを、誰よりしているだろうと。 この戦場という場所で、桂は優しすぎる。 それは幼さという「もの」でもあり、若さという「もの」のような気がした。感情を理性で誤魔化している。正しくいなければならない。背筋を伸ばしていなければならない。 ― 晋助、しんすけ、 最初に肌を重ねたとき、何度も何度も名前を呼ばれて抱き締められた。高杉から求めれば桂は拒まない。そして高杉も、桂が求めれば拒まない。 理由は何でもつければいい。恋でも愛でも未練でも、劣情でも何でもいい。ただ在るのは、互いを求める心だけなのだ。 こうやって心の綻びを見せてやれば、桂は肩の力を抜く。他の誰でもない高杉だけの前で。 これは恋なのかもしれない。 ほんの少し、歪んでしまった想いではあるけれど。 雨の味がする唇を味わおうと眸を上げると、桂が傍らの紫陽花をぼんやりと眺めていた。 「…綺麗だな、」 「似合うと思ったんだよ、」 「似合うって…、」 「小太郎に、似合うと想った」 ― 誕生日に、 そこまで言って初めて、桂がはっきりと動揺した。高杉は濡れた唇を頬に落とし、首筋に顔を埋めながら静かに囁く。あの穏やかな日々を思い出すかのようにして。 「他に、何もねーから、」 いまの、俺の全てをくれてやる。 逃がさないという意思を伝えるつもりで唇を奪い躰を重ねると、雪が溶けるような静かさで、桂の躰から力が抜けた。 ◇ 言ってはいけないことを言ってしまった。そんな自分が誰より許せず、高杉は鋭く冷たい言葉で桂を突き放した。走る家までの道が暗くて恐ろしかった。 じき十になる桂の誕生日。 以前から読んでみたいと言っていた医学書を手に入れて、それを桂の元に持っていった。が、結局その医学書を桂に渡すことは叶わなかった。 同じ講武館に通うひとりの少年が墨汁をその医学書に零してしまい、それはもう読める状態のものではなくなってしまったからだ。 ― お前等が持つのに、ふさわしくしてやったんだよ、 喉がひりつくような笑顔を向けてきたその少年を、高杉は気がつくと殴り飛ばしていた。感情任せにありとあらゆる言葉も吐き散らした。 といっても、己の言葉の意味は理解して使っていた。 相手の家のことも、ここを言われると痛いだろう、というところを的確に、一方的に貫くやり方を取ったのだ。 高杉の怒鳴り声に現場に飛び込んできた桂が青ざめた表情をした瞬間、高杉はもう後には引けなくなってしまった。 ― 妾の子が何を言ってやがる、 それは誰もがしる暗黙の事柄で、口に出してはいけない唯一の言葉でもあった。名門とされるその少年の出自をあえて暴くようなやり方だった。 「高杉!」 カッと頬が熱さで照ったのは一瞬で、平手を喰らわされたのだと理解したときにはすでに天井を見ていた。 じんじんと襲ってくる痛みが正直だった。これは心の痛みだ。たぶん、桂の。それが痛いほど分かれば分かるほど、高杉は瞼に熱が宿る自分を自覚せざるを得なかった。 静まり返った教室を高杉は無言で後にした。 悔しかった。何もかもが。幼い自分にできることが限られている。それが分かる自分も、分かっていても何も出来ない自分も。悔しかった。 胸の内側を掻き毟るように躰中が熱を帯び、高杉は感情に誘われるまま小石を蹴り飛ばそうと足をあげた。―――とき、 鋭くした眼差しに鮮やかな青色が飛び込んできた。この時期にだけ咲く紫陽花だった。 細かな水滴がきらきらと光を反射して、心のすべてが洗われるように綺麗だと思った。そしてその色がきっと桂に似合うと想った。 そのときようやく、高杉は桂がしばらく笑っていない事を思い出した。 祖母が亡くなったと聞いてからの日々を思い出しぐっと唾を飲み込む。ああ、なにをやっているのだろう。自分は。 たったひとり。そんな一人の友人の、桂の、優しい笑顔が見たいだけだった。医学書を用意したのも、それを渡したかったのも、桂の笑顔が見たかったからだ。 他の誰でもない、桂の。 ― 笑って、くれる、かな、 何処か祈るような気持ちでその紫陽花に手を伸ばすと、幾つもの小さな水滴がはらりと散っては流れてゆく。 その水滴さえも桂に似合うと思って、高杉は滲む涙をひとり拭った。 終 ------------------------------------ 2011/6/26:発行「紫陽花」 2016/6/18:WEB掲載&加筆修正(わりととても大幅に) // 五年前の高桂でした。 このころまさか高桂が駆け落ち(※曲解)してるとは思っていなかったので、当時発行した本文とはほぼ内容が変わっています。 文章もだいぶ変わっているなあと自分の変化も面白かったです。 読んでいただきありがとうございます。桂さん誕生日2016もうすぐだぜ〜!v |