17:子供の体温。
子供の体温。
■
秋の肌寒さが終わりをつげて、鼻の奥がつん、とほんの少し鋭く冷える。
晋助とふたりきりの最初の冬。
慌しく二年次の科目選択も終わって、高校に入って初めての冬休みがもうすぐ始まる。
ことことと煮物を作っている鍋から蒸気が上がり始めたとき、後ろからふわりと抱きしめられた。
腰に回された腕に力が篭ると同時に、晋助の息が首筋にあたる。
どうした?と聞くつもりで顔だけを晋助の方に向けると、優しいキスをされた。何も言葉は無いままに。
「しんすけ?」
「ん、」
ちゅ、と何度か啄ばむようにキスをして、鍋の火を止めた。
くるりと振り返って、晋助を正面から抱きしめる。晋助の手先がほんの少し冷たい。
どうしたのだろう。さっきまで、長野の伯父さんと電話をしていたはずだ。何かあったのだろうか。
「電話、終わったのか?」
「あァ、…うん、」
「晋助?」
「来いって、長野に」
「え?」
「南、死んだって。松陽先生も、知らねェって、」
言葉の衝撃に、ぐっと息を呑んだ。
「南」は、長野で暮らしている晋助の従兄弟だ。晋助の実母の兄、佐久間の伯父さんの一人息子。晋助とは二歳しか違わない。
「晋助、準備をしないと」
「準備?」
「行くんだろう?長野に。俺も一緒に行くよ。夕食は駅か何処かで食べよう」
「要らねェ、」
「いらないって…、ちゃんと食べないと、」
「もう、終わったって」
「終わった?」
「通夜も、葬式も、全部。だから、今度来いって」
「………、」
言葉が出なかった。
晋助の「家」の事情は、ほんの少しではあるけれど知っていたつもりだったから、尚更だ。
近しい人の「死」を知ることも出来ないなんて。
「こたろう、」
晋助に名前を呼ばれて、ぎゅう、と力を込めて抱きしめられる。
普段なら何より嬉しいことなのに、今の気持ちは、とても悲しい。
そっと力を込めて抱きしめ返すと、晋助の躰が小さく震えたような気がした。
■
「年末に?」
「あァ、山口に帰る前くらいに、行く」
「…晋助、俺も一緒に、」
「一人で行く」
「え?」
「もう少し、落ち着いたら連れてく」
「落ち着いたら?」
「あっち、今、ちょっと煩ェんだよ、」
晋助が苦く笑ったので、それ以上気持ちを押すことは躊躇われた。
出来上がった夕食をふたりでぽつぽつと食べている最中、晋助は長野に行くと言った。伯父さんに呼ばれたのだと。
「話って、進学のこと?」
「まァ…そンなとこ、」
「そうか…。なあ晋助、本当にいいのか?」
「なにが?」
「大学。もし晋助が行きたい所があるなら、俺と一緒のところじゃなくても、」
「俺が決めたんだぜ、同じとこ行くって。心配しなくてもちゃんと考えてる」
「…うん、」
くす、と笑うと、晋助も小さく笑った。
その笑顔が何だか痛々しくて、抱きしめたいと思った。
ふたりきりの夕食が終わって、食器を台所まで運んで居間に戻る。
そのまますとんと晋助の隣に座って、ぽつりと名前を呼ぶ。ん?と聞き返してきた晋助にそっと抱きついて、首筋に顔を埋めた。
「…なァ、キス、して」
「え?」
「小太郎から、して」
「…うん」
抱きしめた腕をそのままに、晋助のくちびるにそっと触れる。重なる瞬間、晋助の唇が震えていた。
その唇が苦しいと訴えている。苦しくて、辛くて、悲しいと、まるで叫ぶかのように。
「晋助、」
ぎゅう、と腕に力を込めて、何度も何度もキスをした。
触れるだけのキスから、くちを薄く開けて唾液を分け合うようなキスになる。
自分からキスをしていた筈なのに、最後はもう、どちらからなんて分からなくなった。
こたろう、と自分の名前を呼ぶ晋助の声が震えている。きっとそれは晋助のこころが震えているからだ。
誰かの死を穏やかに受け入れることが出来るほど、自分達は大人じゃない。
喚き散らしたい感情を必死に抑えることしか出来ない。
「大丈夫だよ、しんすけ、」
何が大丈夫なのか分からない。自分で言っておきながら。だけどそれしか言葉が見つからない。
ひとりじゃない。一緒にいる。だから、大丈夫。
「一緒にいるよ」
数ヶ月前の夏の日、散々抱き合った日々の中で確かめ合ったこと。
何処にも行かない。ひとりにしない。ひとりに出来るはずもない。
抱きしめた腕をゆるりと解く。晋助の頬を両手で包んで、続けざまにキスをする。
晋助がくすぐったそうに肩を引いたので、少しだけほっとした。
■
案の定夜中に目が覚めて、吐き気を堪えることが出来なかった。
雑な足取りでトイレまで駆け込んで、微妙に消化されていないモノを吐き出す。勿体無い。
― 嗚呼、
自分がどうしたいのか分からなくて、苛々する。
口の中の苦味に心底嫌気がさして、乱暴にトイレの水を流した。
そのまま台所へ行って、口を何度も何度も濯ぐ。苦味が取れない。胃液の独特の匂いと味。
四回ほどうがいを繰り返して、そのままずるずると座り込んだ。
頭だけを壁にことりと預けて、肩の力をだらりと抜く。居間の時計がこつ、こつ、と無機質に時を刻む音が響く。
― 別に、何がどうって、ワケじゃねェのに。
従兄弟と最後に会ったのはいつだっただろう。確か数年前の秋だった。
向けられた笑顔が痛々しかったような気がする。思い出そうとするのに、何故か出来ない。頭が考えることを拒否している。
思い出すべきじゃない。
どうして?もっと悲しくなるからだ。
― 悲しい?
悲しいなんて、思っているのだろうか。というか、どれが悲しいのだろう。
知らせが来なかったことも、酷く疲れていた伯父の声も、悲しいとは違う気がする。
― 腹ァ、立ってンだ。
悲しさの手前にあるのはどうしようもない悔しさだった。
自分の「家」の筈なのに、こんなにも遠い。
腹の奥底からどす黒い感情が渦巻いて、発散する場所を求めている。けれどその術を知らない。分からない。
思い切り壁を殴ろうと腕を振り上げたところで、声を掛けられた。
「晋助、眠れないのか?」
顔を上げると、心配そうにこちらを見ている小太郎が居た。その表情と声色で、張り詰めていた感情がふっと柔らかいものになる。
振り上げていた腕を下ろすと同時に、小太郎がすっと側に近づいて、ぎゅっと手を握った。
「悪ィ、起こした?」
「…ううん。俺もなんだか眠れていなかった。」
「ふぅん、」
「しんすけ、」
小太郎の両手が頬に伸びて、そのままふわりと包み込む。温かくて優しい手。心の奥底までじわりじわりと溶けていきそうな、そんな温もり。
他の誰よりも愛おしくて、大切で、離すことなんて出来ない。
小太郎が頬を包んだまま額に唇をあてる。同時に優しく抱きしめられて、その温もりに躰を預ける。
― 溶けちまいそうだ、本当に、
いっそ溶けてしまえばいいのに。
こんな黒い感情も、悲しいという感情も、溶けて流れてしまえばいい。
頬を包んだ小太郎の両手を掴んで、自分の両耳をゆっくりと塞ぐ。
部屋の音が遮断されて、耳の中で曇った音が木霊した。その音に意識を集中させながら目を閉じる。
生ぬるい水の中に沈んだような感覚。
はあ、と長く息を吐き出して、曇った音の中で規則正しい音を探していると、耳の付け根が脈打つ音が聞こえ始めた。
少し早い、自分の心臓の音。
焦っている音だと思った。自分の中で渦巻いている感情の音。
もう一度はあ、と長く息を吐くと、額に柔らかい熱が触れた。
額から伝わってくるのは、ほんの少し低くなっている小太郎の熱。
じわりと広がる熱に呼吸を合わせると、耳の中で木霊する自分の音がゆっくりになっていく。
― 本当に、溶けちまえばいいのに。このまま、ふたり一緒に。
抱きしめようと掴んだ手に力を込めながら目を開けると、同時に小太郎の唇が額に触れた。
「晋助、話してくれるか?」
「何を、」
「ちゃんと聞きたいんだ」
「小太郎?」
「俺の我侭だと思ってくれていい。だから、話せることがあるのなら聞かせて欲しい」
小太郎の眸が揺らぐ。
ああ、どうして。どうして、こんなに。
「苦しいことも、悲しいことも、嬉しいことも。晋助の気持ちを、聞かせて欲しい」
ずっと一緒に居たいから。
そこまで言葉を続けて、小太郎はくしゃりと泣き出しそうな顔をして、ぐっとそれを堪える表情になった。
― 綺麗だ、
小太郎の長い黒髪に指を絡める。
するりと手をすり抜けていく滑らかさが愛しい。黒髪に指を絡めたまま背中を掻き抱いて、小太郎の胸元に顔を埋める。
小太郎の素肌の温かさとは違う、布越しの温もり。
「晋助、俺達は子供なんだ。だからまだ、無理に我慢することなんてないよ」
「そういうの、都合がいいって、言うンじゃねェの?」
「大人相手にならともかく、相手が俺なんだ。問題ないだろう?」
「まァ…それも、そうか」
「うん」
ふたりきりの家で、ふたりきりで抱きしめあったまま、お互いの心を溶かしあう。
ずっとこのままで居ることが出来ればいいのに。
そう願うのは、そんなことは出来ないと知っているからだ。
世界は呆気なく、そして容赦なく変わっていく。
時々酷く残酷で、見たくもない現実を突きつけながら。
それでも生きていこうと思えるのは、大切な存在が側に在るから。
「小太郎、」
名前を呼ぶと、温かい腕に抱きしめられる。その腕に甘えながら、心をぽつりぽつりと吐き出していく。
ふたりしてようやく眠気に襲われたのは、明け方近くになってからだった。
■
毎日の日常の中で、ふと思うときがある。
いつから好きだったんだろう。小太郎のことを。
初めて小太郎を意識したのは中学二年の時だった。それまでずっと当たり前のように抱えていた想いが、酷く生々しいものになった。
笑わせたい。甘やかしたい。抱きしめたい。
欲しい。全部、なにもかも。
意識しだすともう止まらなくて、頭と夢の中で何度口に出せないようなことを小太郎にしたのか、分からない。
中学三年の冬にそれが現実になって、小太郎は嬉しいと泣いてくれた。
泣かせたくなんてなかった。けれど涙を拭いながら「うれしい」と繰り返して小さく笑った小太郎が、何よりも愛おしかった。
だからもう、他の何にも代えられない。
右があるから左があるように、空気と水があるように、小太郎の存在はそういうものだ。
代わりなんて何処にもない。あるはずもない。
小太郎が側に居てくれたから、今の俺が存在している。
今までも、そしてこれからも。
「晋助、新作のイヤーマフがあったぞ。これはどうだろう?」
「要らねェ、」
「どうして?可愛いじゃないか。俺が白で、晋助が黒だとお揃いになるし。」
「柄が入ってンの好きじゃねーし」
「そうか、ではこっちのマフラーにしよう。黒地だし、柄はステファンロゴのワンポイントだ。可愛いだろう?」
「なァ、俺の話聞いてんだよな?」
「俺は白地のものがいいな。お揃いだぞ。ああ、やっぱりステファンは可愛いなあ」
小太郎がにっこりと笑って、黒地のマフラーを手に取った。
ふたりきりの最初のクリスマスイヴが明日に迫った日。
プレゼントに何が欲しいかと聞いたら、折角だからふたりで一緒に選ぼうということになった。
イヴの前日だというのに人がまばらな店内にふたりで入ると、赤と緑で彩られたステファン達に出迎えられた。
ステファングッズの専門店があることは知っていたし(というか山口にある系列店で何度も小太郎へのプレゼントを買っていたし)、
色々と見知った商品が並んでいる店内であるはずなのに、小太郎と一緒に来るとなんだか妙に気恥ずかしい。
お互いへのプレゼントをそれぞれ買って、一緒に店を出た。
俺は黒地のマフラーで、小太郎は白いマフラー。
端の方に目とくちばしだけの小さな絵柄が描かれている。小太郎がイヤーマフを手に取ったときは少しどきりとした。
小太郎には内緒で、白のイヤーマフを既に買っていたからだ。
「ありがとう、晋助。」
「まだ渡してねーだろ。プレゼント」
「うん、そうだけど…やっぱりすごく嬉しい。ありがとう」
ふわりと小太郎が笑う。とてもとても嬉しそうに。
その笑顔が愛しくて、大好きで、たまらなくて。
帰り道の途中、建物の間の隙間に小太郎の体を引っ張り込んで、こっそり触れるだけのキスをした。
小太郎が顔を真っ赤にするものだから、もう一度キスをしようと腕を引くと、流石に頭をぽこんと叩かれた。
ぷい、と横を向いてしまった小太郎に謝るつもりで手を握ると、小さく、けれど確かな力で握り返された。
― 浮かれンのも、悪くねェよな。クリスマス、くらい。
クリスマスが終わって、年末に差し掛かる頃、俺はひとりで長野に行く。伯父と今後の話をするために。
しっかりと繋いだ手から伝わる小太郎の体温を、ちゃんと覚えておこうと思った。
■
クリスマスイヴの夜。夕方までのバイトを終わらせた晋助が帰ってきて、ふたりで少し豪華な夕食を食べた。
去年までは山口で両親と、そして松陽先生と一緒に過ごしていたクリスマス。
毎年繰り返されていた光景だったけれど、今年はやはり特別だと思った。
誰よりも愛しい人とふたりきりの、最初の瞬間。
「晋助、メリークリスマス。」
「…ン。小太郎、これ、」
「ありがとう。…ん?」
お互いにプレゼントを渡した後、晋助から別の包みを渡された。
あれ?と首をかしげながら袋を開けると、白のイヤーマフが目に飛び込んできた。マフの部分にステファンの絵柄が描かれている。
ふたりで行った店で、最初に手に取ったものだ。
「…晋助、これ…、」
「まァ、なんつーか…。先月、心配かけたから」
「しん…、」
「小太郎」
ぎゅうと抱きしめられて、何度も名前を呼ばれる。その声に優しい温度を感じて、なんだか泣きたいくらい嬉しくなった。
世界はあっけなくその姿を変えていく。
時々嵐のように目まぐるしかったり、雨が降る夜のように静かだったり。
自分達を待ってくれるなんてことは、ない。
だから、と思う。
ふたりで一緒に居ることが他の何より特別で、大切で、嬉しいことで。
そんな風にふたりで一緒に居る時間を大切にしたい。子供のままの自分達が、少しずつ大人になるために。
「長野、気をつけて行ってくるんだぞ。」
「そんな子供じゃねーのに、」
「…子供だよ、俺も、晋助も」
「ふぅん…、子供なのに「こういうこと」すンの?」
「莫迦、」
重なる唇の温度を確かめて、抱きしめる腕に力を込める。
頬を寄せて、額を合わせて、もう一度くちびるにキスをする。
「ここで待ってる。晋助が帰ってくるの」
「…ん、」
晋助の両頬をてのひらで包んだまま、そっと呟く。心地良さそうに微笑む晋助が、とても好きだと思った。
外の空気の温度は、ひとつ前の月に感じた冷たさよりも深く低くなっている。
晋助が帰ってくる日は、部屋を温かくしておこう。
「おかえり」という言葉と一緒に。
おしまい。
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2013/5/3 発行 ■ 「子供の体温」
2016/5/5 WEB掲載[ 19/79 ][*prev] [next#]
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