雨の恩返し 12



* * *


昨晩受け取った杜若が合図だったのか、それまで止まっていた時間が動き出した。

目の前で崩れ落ちた巨体はもう動かない。
事切れた存在を一瞥して、振り返らずに前を向いた。いまだ状況をよく理解していない桂の腕を引き、上を目指して歩を進める。

説明は後だ。
兎に角いまは、この雨に惑わされないよう前に進むしかない。

「黒殿は、無事だろうか」
「…さァな」
「晋助」
「何だよ、小言なら後で聞くぜ」
「生きているか?」
「あァ?」
「晋助、お前は生きているか?」


顔半分だけ振り返ると、桂は泣き出しそうな顔をしていた。
いつもならそんな有様をからかっただろう。
何を大げさな、後で慰めてやると一蹴したに違いない。

だがそれは出来なかった。
きゅっと盛り上がった目尻から、細い涙が雨に紛れて桂の頬を伝う。
ながい黒髪は泥に塗れしなやかな動きを奪われている。それなのに、芯ある輝きを失ってはいない。

「…俺はここにいる」
「…そうか。生きているんだな、俺達は」
「おい、こたろ………、………ッ!」



微笑みかけた桂の顔が、一瞬の間をおいて遠くなる。
何事かと腕を引くと、あまりに呆気なく腕の中から桂が滑り落ちていった。

叩き付けられた身体がまるで玩具のように地面を引き回されていく。
何だ、何が起こっている。
桂の足首に巻きついた太い指。
それとは対照的な細い指を泥に食い込ませた桂が、湿った木の根に腕を取られ、持っていた刀を落とした。

― 打ち損なっただと?

事切れていなかった。あの塊はまだ息をしている。


とどめを。止めを刺さなければ。
今度こそ息の根を止めなければ。

桂を失うその前に。


「…っざけた真似、しやがって…、ッ!」


足首を掴んだ鉛色の手が、濁った巣窟へ引きずり込もうと黒い口を空けている。
喚くように怒声を飛ばした桂がその身を捩る。だが、桂を引く力は緩まない。
ずるずると泥の中を引きずられ、埋まった岩に頭をぶつけそうになっている。
駄目だ、間に合わない。手が届かない。

― だめだ、だめだ、だめだ!

失えない。
桂だけは、…小太郎だけは、失うことは出来ない。

「小太郎!」


叫ぶ声が雨風に掻き消される直前、黒い凪が雨の中を駆け抜けた。
つい先程、走れと見送ったはずの黒馬だ。

大きく仰け反った上半身。
振り上げた前足で、天人の腕を踏み砕く音が聞こえる。その僅かな隙を見逃さず、桂の落とした刀を拾い上げ砕かれた腕に飛び乗った。

確かに蠢く心臓を片手で突き刺し、ぐるりとその中心で刀身を翻す。
甲高い悲鳴が鼓膜を破ろうと辺りの空気を裂き、掴かまれていた足首を解放する。
腰の刀で無傷な手を一突きで刺し抜いて、ぬめる地面に張りつけた。

「…はぁ、は、…」
「晋助…!」
「あァ、まだ黙っとけよヅラ。俺ァいま機嫌が悪ィんだ」

手の甲から突き刺した刀を忌々しく蹴り沈め、張り付けにした天人を上から見下ろす。
痛みでまともに頭が働かないのだろう。
半分白目を剥いた眼がぎょろぎょろと動き、あ、あ、あ、と意味が途切れた声を漏らし始めていた。

「心臓を刺されてもまだ死なねェとはな…、クク、ハハハ!大したモンだよ、褒めてやらァ」

頬を歪めて笑い、近くに散乱した竹矢を足で蹴り上げ手に取った。
これだけ細くとも、急所を突き刺すには充分だ。


「手前ェ等が売った喧嘩の相手、せいぜい覚えとくといい」







ギッと見開き血走った眼。
一瞬だけ目の合ったその眼球めがけて、細い竹矢を振り降ろす。

雨に似合わぬ不協和音を掻き鳴らしているはずの断末魔は、降り続ける水滴に抱かれて消えた。










* * *


ことりと音を途絶えさせた巨体の上で、晋助がゆらりと頭を揺らした。
駄目だ、このままだと倒れてしまう。
濡れた体を奮い立たせ、ぐしゃぐしゃと足を縺れさせながら晋助の側へと駆け寄った。

「晋助」

返事はない。竹矢を握ったまま動かない。
一度肩を揺り動かすと、滾った目に射抜かれた。獣の目だった。


「すまない。油断した」
「…こたろう」
「大丈夫だ。晋助、俺は此処にいる」
「…あァ、」

すとんと肩を落とした晋助が、握った手をぐいと引く。
が、上手く力が抜けないのだろう。矢に絡まった指先は微動だにしない。

「…動かねェ」
「ゆっくりでいい、晋助。ゆっくりでいいんだ」

動きを止めた指先に掌を添え、呼吸を合わせるように肩を抱き寄せる。
ふう、と長く息を吐いた晋助が、指先から段々と力を抜いていく。
ゆるい力で矢を離した晋助が、小さな虫も殺せない弟のようだった頃の姿と重なった。

「随分と、遠くに来てしまったものだな」
「そうでもねェさ」
「しん…?」
「小太郎」
「あ…、…ぅ、ふ、…ッ」

ぐらりと揺れる躰に身を任せ、濡れた唇を奪い合いながら雨の中を転がった。


押し倒された背中が冷たい。
握られた手が熱い。
吸いあう舌があたたかい。

頬を伝う雨水が、高まった熱を奪っていく。
合間合間に呼吸を合わせ、その都度震える瞼を閉じてくちづけをする。
求め合う心は同じなのに、昨晩のような甘い味はしなかった。

飽きず続ける口づけの途中、髪の張り付いた耳に手を這わせ指先に触れる癖毛を遊ばせる。
くすぐったいと嗤いたかったのか、背に添えられた晋助の手が頬へと伸びる。
何度か優しく撫でられて、最後にもう一度目を閉じた。

「行こう、晋助」
「…あァ、」

振り続ける雨のなか。冷えた躰を抱き締めあって、名残惜しくその腕を解く。
すぐ側で佇んでいた黒殿と目が合い、咄嗟に視線を逸らした自分をみて、晋助は笑った。

「莫迦、今更だろ」
「な、何が今更だ!」
「なァ、お前さん。さっきは走れと言っちまったが、ちィとばかり付き合っちゃくれねェか」

晋助の問いかけに黒殿は短く瞬きをした。
それを見た晋助は黒殿の頬を優しく撫でている。俺の知らない間にしっかり仲良くなっていたらしい。
なんだか置いて行かれたような気分だった。

「そう妬くなよ」
「…別に妬いてなど」
「クク、そうかい」

短く笑ったかと思うと、近場にあった岩に足を掛け、晋助が黒殿の背に飛び乗った。
続いて差し伸べられた手を掴み、自分も晋助の後ろに跳ね上がる。
ほぼ同時に聞こえた低い音に、背筋を嫌な「虫」が這った。

「…何だ?」
「あァ?」
「上から妙な音がする。山鳴りだろうか」
「…へェ、どうやら俺達ァ、生かされてただけらしいな」
「どういうことだ?」
「我儘ばっか言ってすまねェが、少し急いでくれるか。上で仲間が待ってンだ」

そう言って、晋助がぽんと黒殿の胴を叩く。
ゆっくりと駆け出した黒殿に揺られ、晋助の背に身を預ける。

「晋助、刀を…」
「仕方ねェさ」

赤黒い塊の中に残された愛刀を振り返ることなく、晋助はもう一度馬の胴を足で蹴った。





― 代わりに振り返りもしねェけどな、

誰かを守る力はない。そう言っていた晋助の背中は、洋々と自信で満ちている。

雨の中で響くひづめ蹄の音。
けして穏やかとは言えないその音に耳と心を傾けながら、知らぬ間に逞しくなった背に気付かれぬようくちづけた。


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