雨の恩返し 11



昼間と夕方に結局二度行為を繰り替えし、とうとう起きていなくなった桂を夢に見送ったひとりの夜更け。

後を追おうと薄く閉じた瞼の上で、生ぬるい風が揺れた。
目を開けると黒馬が窓の外からこちらを覗き込んでいる。

隣で眠る桂を起こさぬように身を起こし、足音を立てずに側へと近づく。
静々と頭を下げた馬が、口に何かを咥えたままそっと頭を差し出した。二輪の花だった。

夜の連れて来た暗闇で、花の色が綺麗に見えない。
一瞬だけ考えて、近くに立てた蝋燭に火石で灯りを注ぐ。
ゆらりと揺れる炎の中で浮かび上がったのは、深い紫色をした杜若(かきつばた)だった。

「…なんだよ、あいつに飾れって?」

応えはない。
だが、そうやら「そう」でないらしいことは分かった。
暗闇に佇む馬は、肯定の瞬きをしなかった。

くるりくるり。何度か手首を上下左右に捻り、花の意図を汲み取ろうと目を細める。

杜若。
梅雨の前に短く咲く季節花。長い葉の中、ぽつりと開く紫が美しい花。

「和歌でも詠めってことかよ」

問うた所で返事はない。
分かっていた筈だのにと苦笑して、口の中だけで覚えのある和歌を口ずさむ。

「から衣、着つつなれにし、つましあれば、はるばる来ぬる 旅をしぞ思ふ…」

都に残してきた妻を思い詠まれた歌。
残してきた相手のことが頭に浮かび、とても切なく感じると訴える。
都から離れ、ひとりやってきた道のりと重ね合わせると、どうしようもなく辛いのだと己に聞かせ詠った十七文字。

在原業平が旅に出る際、紅い唐衣を前にして詠ったと伝わる遥か昔の叶わぬ恋歌。



「…ここから出す気になったってことかねェ」


馬は黙って瞬きをした。そのまま無言で去っていく。

手元に残された紫が夜風にあたり、蝋燭の火と共に微かに震える。
ふと目を凝らし、馬の去っていった漆黒を睨む。

そこにはもう何もなかった。
無音の黒い闇が、ただただ広がるだけだった。

肩に込めていた力を抜き、手元に目を戻す。
すると、手中の花がしゅわり、音を立て枯れ果てた。

― どういうつもりか、分かったモンじゃねーな、

くるりと踵を返し、皿に乗せた蝋燭の火をふっと吹き消す。
桂の眠る布団へ身を滑り込ませ、枯れた花を枕元に放った。

理不尽に定まった罪状。
まとまらない密約。
容赦なく近づく執行の日。

心臓を貫きそうな感情を上手く飲み込むことが出来ず、布団の上で眠る桂を抱き寄せ息を飲む。
浅い眠りで見る夢は、せめて好いた相手のものがいい。

そう誰にでもなく言葉を溢し、呼吸を殺した暗闇のなか、ひとりそっと目を閉じた。










使い古した布を干そうと思って出てきた庭先で、ほつほつと腕に雨粒が当たる。
途切れ途切れの水音が、黒く轟く雷雨の襲来を知らせてきた。
小雨程度で終わるだろうと思っていた水滴は、あっという間に大雨になる。

灰色の水に包まれた森は、この家に来た日、天人に放られたときの風景と重なった。

もう此処に来て四日が過ぎている。
陣はどうなっただろうか、銀時や坂本、鬼兵隊の面々はどうしているだろうかと目を細め、濡れた髪を掻きあげて家に戻った。

部屋の片隅に一纏めにして置かれた竹矢と、乱雑に脱ぎ捨てたままの紅い着物。
咄嗟に視線を逸らしたところで、嗤う視線に捕まった。

「なに照れてんの」
「…そんなことはない」
「そらそうだよな。さっきまでシてたんだし」
「お前は、どうしてそう」
「分かれよ」
「何だって?」
「好いた相手をいぢめたいってヤツさ」
「子供か貴様」
「…フン」

口元で笑みを絶やさない晋助が、纏めていた竹の矢を床にばら撒いた。
朝方自分が纏めた矢だったというのに、何事かと眉を顰める。
続けざまに、懐に潜めていた小刀を取り出して、晋助が腰を上げた。
そのままこちらに向かって歩いてくる。

「…何だ?」
「潮時らしいぜ」
「晋助?お前一体何を…」
「おい、居るか」

小刀を持ったまま、晋助が窓の外へ声を掛けた。
自分越しに向けられた声には、この上なく静かな優しさが滲んでいる。

「黒殿に言っているのか?」
「もう頃合だろう。さっさと走れ。振り向くなよ」

ぶるる、と鼻の鳴らし、いつの間にか窓の近くまで来ていた黒殿が顔だけを此方に向けてきた。
邪気の抜けた笑顔を見せた晋助が、艶のある眉間をゆっくりと撫でる。

次の瞬間、左手に持っていた小刀が空を切った。
ほぼ同時に、壁に吊るされていた竹矢と弓が床へと転がる。

「何をしている!」
「すぐに分かる」
「潮時とは何だ?何か知っているのか?」
「もうすぐ来らァ。死ぬなよ、ヅラ」
「何を…、おい晋助…、……ッ、!」



黒殿が首を引き、窓から離れた瞬間だった。



突如地響きのような音が鼓膜を叩き、視界が激しく揺れ動く。
地震にしては強さが薄い。条件反射のように自分の刀を手に取った所で、家の半分が木っ端微塵に吹き飛ばされた。

ごん、ごん、ごん。
どん、どん、どぉん!

何か大きな「塊」が外で暴れている。

どごぉん!と鈍い音を立てて屋根の大半が弾け飛び、瓦礫が雨の空を舞う。
凝らした目に映ったのは、顔の半分から血を流す天人だった。


「あのときの…!」


間違いない。間違うはずがない。
自分をこの森へと放り投げた天人だ。
あの顔面の傷はそのとき自分の刀がつけたものに違いない。

まだ生きていたのか。
そんな二の句を次ぐ暇などなかった。

自分達を認識した「塊」が、鈍い光を放つ鉛を振り上げる。
咄嗟に飛び出した家の外から見上げた先に、泥濘のなか、岩がずるずると滑り落ちたような「一本道」が残されていた。

道標だ。
腰に刀を据え、地面に振り下ろされた鉛を一瞥して地面を蹴った。

目指すは上。あの痕を辿れば、元の場所に辿り着く。

横目で晋助を追うと、叩き付けられた衝撃で飛んだ矢を手に持っていた。
一瞬だけ目が合った刹那、自分の背丈の二倍はあるであろう天人の背後へと回りこむ。

腰に持った刀を引き、健に狙いを定めて上半身を翻す。
足と共に滑る泥が線を描いて飛び散った。
躰に張り付いた泥が動きを鈍らせる。それは相手も同じで、重さに耐えかねた地面が太い足を飲み込んでいく。

いましかない。
もう一度刀を翻し、刃の先を足首に向かって突き立てた。ぐしゃりと鈍い感覚が腕に響き、刀の先をぐるりと抉る。
断末魔のような怒号と共に、重い鉛が突き落とされた。
真上を向いた顔のすぐ隣に刺さった金棒の先。
滴る赤黒い血を舐めながら、歪んだ顔が笑っていた。

雨と共に背筋を這うのは嫌悪のみだ。だがもう憎いと思う余裕もない。
頭上から降り注ぐ雨が強くなり、視界が益々悪くなっていく。
起き上がろうと腰に力を入れた所で、冷たい泥水に足を掬われた。
動けない。
ずちゃりと地面から引き抜かれ、天高く振り上げられた鉛。
続く衝撃に躰を捩ろうとしたところで、それは起こった。


― 速い!



一瞬の出来事だった。

構えた相手の隙を探そうと顔を上げたとき、黒雲の隙間から光が射した。
頭上の遥か彼方、小さかった黒点が段々と大きさを増し、あっという間に視界を埋める。太い項を切り裂きながら宙を駆け廻るその姿を、美しいと思ってしまった。

「寝てんじゃねーぞ、ヅラァ!」
「寝てない!それにヅラじゃない桂だ!」
「ハハッ、いいねェ!すっかり元気じゃねーか」

大きな玩具とじゃれるように刀を振るい、持った矢を裂いた項に突き刺して空を舞う晋助に、醒めた血が沸き踊った。

倒れた身体を強引に地面から引き剥がし、握った刀を再び健へと突き上げる。
ひぎぃ、と風船が潰れるような声を出し、天人は尻から地面に崩れ落ちた。
すかさず近くに飛ばされた竹矢を手に取り、二本、三本と脚の急所に突き刺していく。

頭も顔も泥まみれだ。それ以外の「何か」も混ざっている。
むせ返る生臭い臭いに吐き気がする。

変な話だ。もうすっかり血の匂いには慣れたと思っていたのに。

誰にも気付かれない細さで皮肉に笑い、もうそんなことは考えず力の限り矢を握っては刺しを繰り返す。
ぶすすす、と何かが破れる音がして、力を入れた目で天人を見上げる。
ほぼ同時に、一太刀の白線が眼前を駆けた。

― あかい、

次の瞬間、天人の頭上から鮮血が弾け飛ぶ。
忌々しい目を天人に向けた晋助が、赤い刀身を地面に一振りして空を切った。
容赦なく地面に叩き付けられた赤い泥は、一瞬だけ形を成して瞬く間に雨水に攫われていく。

「行くぞ」
「…ああ」

揺らぐ頭で立ち上がり、前に立つ晋助に手を伸ばす。
しっかりと握られた手は、雨に晒された躰に熱を呼び戻すには充分の繋がりだと思った。


[ 52/79 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]



「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -