雨の恩返し 8





ばちりと火の粉が宙を舞い、傍らの蝋燭で灯りが揺れた。
森の中、互いの手首に巻いた縄は、まるで引き千切られたように先がふつりと切れていた。
腑に落ちない思いを抱えて「家」に戻ってから、結局何事もないまま陽が落ちている。

変わり映えのしない食事を終え、宵口に少しだけ酒を飲んだ。
満たされた腹と酔いが連れてくるはずの眠気は、一向にその姿を見せていない。

「…静かだな」
「そうだな」

穏やかに応えた晋助の手元から、細く削がれた竹が転がり落ちた。
数十本と束ねられたそれらは、一見酷く頼りなさげに見える。
力強く撓る竹の鋭さを知る者であれば、そうでないのかもしれないが。

「まだ、作るのか?」
「まァな」
「…ほどほどにな」
「何、誘ってンの」
「どうしてそうなるんだ」

はあ、と溜息をついて、横柄に布団の上に寝転んだ。
すっかり痛みの引いた左肩を庇うこともない。元々怪我の治りは早いほうだが、今回はいつにも増して早い気がする。

いつもなら三日三晩は掛かる負傷からの高熱も、あっさりと引き下がった後だ。
もう魘されることもない。
あとは一刻も早く、銀時や坂本達と合流するだけ。

「…もういいのか」
「うん?」
「肩だよ」
「ああ…。うん、そうだな。もう痛みもない」
「ふぅん…、どれ、見せてみろよ」
「え?」
「手前ェじゃ見えねえだろ?」
「…うん」

のらりと起き上がって、襟を崩して肩を出す。
するすると肩を滑る着物は、とうとう観念して身につけた女物だった。

幾日も着替えないことなどザラだったというのに、僅かばかりの安息を覚えた心は脆弱だ。
情けないと思ったが、開き直るに越したことはない。
久方ぶりの贅沢に安堵したのだろう。
心が余裕を取り戻していく様が、まるで手に取るようだった。

何かの「礼」にしては多すぎると思いつつも、差し出される好意を受け取らないワケにはいかない。
ありがたく頂いてしまおうと、そんな自分達を歓迎したのか、はたまた呆れたのか、この「家」は願うものを次々と用意してくれた。

先程交互に入った風呂もそのひとつだ。
こんなことなら檜の風呂にでも入りたい。
晋助が冗談めかして呟いた数刻後、白い湯気の立つ浴槽が部屋の隣に現れたときは、互いに無言で見つめ合う事しか出来なかった。

不気味というには邪気が無く、楽観するには状況がそれを許さない。
戸惑いを隠せなかった自分を見て、晋助は口元を歪めて愉しそうに笑った。
そんな晋助に謂われるまま袖を通した深紅の着物は、この上なく着心地のよい代物だった。

「…桃源郷みたいだな」
「へェ?」
「そうだろう?だって、何も困らないじゃないか」
「…困らない、ねェ…」
「違うのか?」
「浮かれてンな、お前」
「何だって?」
「桃源郷ってのは天国だろう。そんなトコに行くつもりかよ、お前ェは」
「…違う、俺は、そんなつもりで言ったんじゃ」
「まァ、あながち間違いでもねェだろうけどな」
「ん?」
「治りが早すぎンだよ」
「早い?」
「ほら、分かるか?」

つ、と固い指先でなぞられた左肩に、つか閊える「もの」が何も無い。
背中まで降りた晋助の指先が項に伸ばされて、はたと気付いた。
昨晩までそこにあったはずの瘡蓋がないのだ。
刺さった矢は思いがけず深かったと、意識を取り戻した日に晋助が言っていた。
だから、何も閊えないのは不自然だ。
数日で塞がるような傷ではなかったことくらい、あれだけ熱に魘された身なら誰より分かる。

「こりゃァ怖ェな。瘡蓋、もう落ちてやがる」
「そ、んな……、」
「悪くはねェさ」
「…そうだな、死ぬよりは随分とマシだ」
「莫迦、そうじゃねーよ」
「え?」
「お前さんの白い肌に、傷が残らないのは悪くねェって言ってンだよ」
「…気味の悪いことを言うんじゃない」
「ハハ、そんな格好で凄んだって意味ないぜ?」
「これは…これは、お前が着ろと言ったから」
「選んだのはお前だろ。言い訳とか、らしくねェよなァ」
「してない!」
「…フン、まァいい。それより約束だったよな」
「約束?」
「労わってやるってさ」
「え?あ…、……っ、」

するり、するり。
紅を剥ぎ取られた肩に顔を乗せられて、冷えた耳たぶを熱い舌が詰る。
裾から入り込んだ指先が奥にある二の腕を絡め取って、強引な唇が夜の帳を告げてきた。

素直に組み敷かれる気になどなれず、咄嗟に身を引いて肩に力を入れる。
視線だけで止まらぬ腕を牽制すると、目許で嘲笑う獣があんぐりとその口を開けた。

柔い八重歯が端を掠め、細い痛みが首筋に這う。
噛み付かれているのだと分かった途端、忘れていたはずの疼きが冷たい背を駆け上がった。


「…、ぁ、ぁあ………、」

濡れた吐息に言い訳などできるはずもない。
押し倒された床のうえ。蝋燭の灯りで燻された部屋のなか。
布越しに伝わる木目の感触に、食まれる首筋から余力が奪われていく。

捕えられた獲物が見る断末の景色。
その眼前で揺れる世界は、これと似た世界なのだろうか。

― ちがう、

あのとき。あのとき道端で出会った茶色い狐は、もっと嬉しそうだった。
心を許した相手に頬ずる胸中は、いまの自分とは違うのかもしれない。

「…こたろ」

囁かれる声が鼓膜を焼き、心臓を甘く溶かしていく。
見下ろす眸に込められた感情の在り処を探して、もうずっとこの腕の中で彷徨っている。
悲しいときも、苦しいときも、切ないときも。

― いつか……――、いつか、帰れるといい。
 
溜まる涙を塞き止めることもない。
ほろりほろりと崩れる熱を舐めとる舌に瞬きで応えて、冷えた腕を背に回す。

あつく湿った晋助の吐息に、盛る心臓が嬉しさで張り裂けてしまうかと思った。


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