雨の恩返し 2


* * *


見渡す限りの晴天に、晴れるはずの心は曇ったままだった。
一昨日の勝利に、どの隊も沸き返っていた。
いいから飲めと注がれて口にした勝利の美酒は、自分の知っている美酒の味ではなかった。

― 喜ぶべきなのだろうか。

中日を挟み、そのまま次の陣地へと移動を始めた。
動かす足は重かった。高杉に「乗れ」と言われた馬にも乗らなかった。
先日の戦いから、自分の馬は行方知れずだ。きっともう、「彼」は戻ってはこないだろう。それが酷く寂しくもあり、虚しくもあった。
戻ってこない命を、もう何度振り返らなかったことだろう。
それを見透かしたかのように、高杉は皮肉めいた顔で笑った。

― 好きにすればいい。

普段なら冷たいと感じる言葉だったかもしれない。
だが、その時はその言葉に救われる想いだった。
好きにすればいい。思い出に心を酔わせるのも、見送った命を己の中で成仏させることも。
だから好きにすればいい。お前がそうしたいのなら。

自分を振り返らずに前へ踏み出した高杉の背を、何処か眩しい想いで眺めていた。


― 虫も殺せないような子供だったのに。

自分はどちらかと言うと立ち向かう性質だった。
紙を丸めて一撃だった松陽先生には敵わなかったが、段々と心と身体が同じ歩幅になっていく最中、怖がる心は無くなった。
俺の後ろで、あからさまに顔を歪めながら腰を引いていた高杉は、怖がりで泣き虫で、幼い弟のようだったというのに。
そんな高杉に、何時の間に追い越されてしまったのだろう。

胸を突く郷愁に目を背けそうになりながら、途中、休息と食事の為に立ち寄った山の麓。
人目を避けた山の入り口で、晴天の空に似つかわしくない雨が降った。
まるで狐の嫁入りだ。
仰いだ空に雲はひとつも見えなかった。
山の天気は気まぐれだという。ここはその山の麓。
だから不思議なことはなにもない。

そう思って視線を前に戻したとき、後ろ足に傷を負った狐が、少し離れた岩陰で蹲っていた。
全身が真っ白で、尻尾の先だけが黒い狐。珍しい。
すぐ側にはもう一匹の狐がいる。
こちらは逆に、よく見かける赤茶色の毛並みをしていた。
尻尾の先は焦げ茶の黒。連れ合いの二匹だろうか。

赤茶色の狐が、白い狐の後ろ足を労わるように舐めていた。
周囲で食事をする仲間達はその二匹に気付いていない。移動が始まるまではもう少し時間が掛かるだろう。
手早く自分の食事を済ませ、岩陰の二匹にそっと近寄った。

「怪我をしたのか?」

極力優しく尋ねたが、言葉が通じるとも思えない。
が、狐はヒトに化けるコトもあるのだと松陽先生が言っていた。
こうして語りかけるのは、きっと無駄ではないだろう。
ふっと手を伸ばすと、赤茶色の狐が全身の毛を逆立てた。本能を剥き出しにする獣の威嚇だ。
無理に手を差し伸べるべきではない。
昔、家にツバメが巣を作ったとき、落ちた雛を巣に戻そうとしたことを先生に窘められたことがある。
自然の中で生きている命の掟に、むやみにヒトが手を加えてはいけないのだと。けれどどうしても雛を放っておけず、結局先生にも家族にも黙って巣に戻した。

その後、再び巣から落とされた雛を見て、先生の言葉の意味を理解した。

そのときのことを、今でも良く憶えている。

「よかったら、手当てをさせてくれないだろうか?」
フーッ、フーッ、と鋭い息を吐いた赤茶色の狐が、前足を左右に払い、差し出した手を引っ掻いた。
赤い線が描かれた手の甲から、ぷつりぷつりと途切れた点が生まれ始める。
もう一度前足を振りかざしたとき、白い狐がふわり、大きな尻尾で赤茶色の狐を包み込んだ。

痛みも何も感じさせない目に思わずたじろぐ。
何処か神秘的な品格さえ漂う姿だった。

「…すまない、差し出がましいことを言った。だが、ここで会えたのも何かの縁だ。傷の手当だけでも、させてもらえないだろうか?」

目を逸らさずに伝えると、白い狐が頷くように瞬きをした。
その様子に、毛を逆立てていた赤茶色の狐も落ち着きを取り戻したらしい。
すっかり大人しい姿で白い狐に寄り添っている。
なんて愛らしい姿だろう。触れたいと願う心でふわり、頭に手を伸すと、キッと強い眼光で睨まれてしまった。

「良かった、折れてはいないようだな」
ひとりごちで呟いて、近くにあった蓬(よもぎ)の葉を数枚手の中で磨り潰す。
腰紐を僅かに切り落とし、丸まった紐を平らに広げる。
さらに真ん中から二つに裂いて、出来る限り皺を伸ばした。
手持ちの水で傷口を流し、綺麗な部分でそっと血を拭い去る。

「蓬と布は、傷が良くなったら取ってくれ。噛み切れる程度に結んでおく」
分かっているのかいないのか、白い狐はたおやかな態度を崩さない。
その様子に小さく笑って、磨り潰した蓬、その上に葉を重ねて広げた紐を巻く。
ふと、白い狐の背中に、羽のようなものがついていることに気がついた。
指先だけで羽を掬い上げると、根元の部分に裂けた木がこびり付くように残っている。

それを見てはっとした。これは矢羽根だ。
山から降りてくる途中、何者かに矢を射られたのだろう。足の怪我も、その時に負ったものに違いない。

「…すまない」
謝罪の言葉に意味はない。
ヒトはヒトのエゴで生きている。全ての命を守ることは出来ない。
そんなことは分かっている。それなのに、謝らずにはいられなかった。

「…フン、それこそ手前ェのエゴだろう」
「え?」
「結びが甘ェんだよ」

いつの間にか後ろに立っていた高杉が、白い狐の後ろ足に手を伸ばす。
くるりくるりと二度紐を回し、手際よく傷口を固定した。
仕上がった場所を、赤茶色の狐がくんくんと鼻を効かせている。

「心配しなくても、勝手に噛み切るさ」
「…そうか、確かにそうだな」
「クク、別に毒なんか仕込んでねェよ」

何処か面白そうに笑った高杉が、無造作に赤茶色の狐の頭を撫でた。
その手を気持ち良さそうに受けている狐に、ついつい毒づきたくなってしまう。

「…俺は触らせてもらえなかったのに」
「下心を持つからいけねェのさ」
「し、下心など持っておらん!どこぞの誰かと一緒にするんじゃない!」
「へェ、誰と一緒にしたって?」

けらけらと笑う高杉の手元で、赤茶色の狐は嬉しそうに頬ずりをしている。
その様子に白い狐が笑ったような気がした。

「…フ、クク、お前さん、威勢がいいのは中々悪くねェよ。ま、世間知らずのお供も楽じゃねーしな。その調子で、次回も相手を選ぶこった」
「世間…?相手?高杉、お前何の話を…、」
「時間だ。行くぞ、ヅラ。」
「ヅラじゃない、桂だ!」

からからと笑い続ける高杉を軽く突いて、すらりとその場を立ち上がる。ちらりと二匹の狐に目をやって、肩の力を抜いて笑った。
ふわり、ふわり。
白い狐の尻尾が、まるで別れの挨拶のように揺れていた。









不意に思考の端を掠めた昼間の出来事。
細い糸を手繰り寄せるように振り向いた先で見た光景は、高杉が乗っていた馬の上半身が、跡形もなく吹き飛ばされる瞬間だった。

どぉん!どぉん!と太い音が轟き、山が「躰」を震わせる。
考える余裕は残っていなかった。
隊士が止める声を振り切って、混沌の戦場の中へ心を放り込む。

走れ!と叫ぶ高杉の声が途切れ、逃げ惑う雑兵が呆気なくその場から居なくなった。
その中心、倒れた屍を蹴散らす大きな肉の塊。
己の身長より一回り以上大きな天人が、玩具のような武器を振り回しているのが見える。

後ろには何も見えない。
動いているのは単独部隊だ。
が、先に本陣に到着した坂本と銀時の部隊が此処に来ている気配はない。

誘い込まれた?
この場所に、俺と高杉の隊だけが?

だが、この道は来たときとは別の道順だ。
相手方に知られるはずもない。こちら側に間者でも居ない限り。

― 冗談じゃない、

倒れた仲間の屍を踏みつけて、巨大な天人が雄叫びを上げる。
錯乱した兵士が、震える刀を振りかざしながらこちらに走ってきた。
迎え撃とうと抜いた刀を振り上げると同時に、左肩に激痛が走る。
目だけで振り返ると、腕の付け根近くに矢が刺さっていた。

鈍く撓り続ける矢に安堵する。
腕の感覚は死んでいない。視界も広い。眩暈はしない。頭は動く。だからこれは、毒矢ではない。

自分はまだ、生きている。

― 先生、俺は、俺はまだ…、

数日前に持ち込まれた書状に記された事実に、自分はまだ答えを出せていないのだ。

こんな所で朽ちるわけにはいかない。
まだ死ぬことは出来ない。

飛びついてきた兵士の腹深くに刀を突き刺し、そのまま上へと振り上げる。
返り血を避けたところで、がくん!と膝が崩れた。

何故気付かなかったのだろう。
山の麓で傷を負った狐の背に残っていた矢羽根。それは敵の存在を知らせていたのだ。

毒矢を使わないということは、使う必要が無いということ。
囲い込んで、誘い込んで、一気に叩く。
それが相手方の作戦だったのだろう。
心の中で苦虫を噛み潰したとき、ぐんっと視界が高くなった。
ごつごつとした指が顔を這い、露骨な悪意が全身を叩きつける。

振りかざされた鉛の武器。
鈍い光を放つ塊に、ばちりと電気が飛んだように見えた瞬間、握っていた刀をなりふり構わず翻す。




それが命中したと分かったのは、放り投げられた森の中、強い力で腕を引かれたあとのことだった。


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