10:雨の恩返し ■ 攘夷


雨の恩返し




雨音に紛れた吐息が涙に溶ける。
不安を滲ませる唇を塞いで、素直な黒髪に指を絡めた。
月もない水無月の夜。無言で唇を重ねあうことに理由など失くした頃だった。

連なる雨夜は暗い雲を誘い、月は一切の光を遮られている。
今日に限ってどうして、何故、と問うつもりはもう何処にもなかった。
左肩に傷を負った桂が、茹だるような熱から覚めた直後。
此処は何処だと問われる前に、錯乱しそうになる腕を堪えて抱き締めた。

こんな処で、こんな場所で。
桂を失うわけにはいかない。失える筈がない。そう思った。
だが、いつか居なくなるかもしれない。見送らなければならないかもしれない。
そしてそれは自分だけではなく、桂とて同じことだ。

互いに承知の上で戦に来ている。今更な愚問だ。
それなのに、桂を抱き締めた腕はふるえていた。本当に、本当に失くしてしまうのかと思った。

― 晋助、大丈夫か。

目を覚ました桂が最初に放った一言は、目の前に居る俺のことだった。
うつろう視線が俺に定まり、痛みの残る左肩に眉を顰める。優しい言葉を掛けようとして、ひとつ息を吸い込んだ。
が、相応しい言葉は出てこなかった。出来たのは、ただ抱き締めることだけだった。




およそ半日前。
まだ陽が高い頃に姿を変え、支援者とされる商家の元へ食料の調達に行ったときのことだ。
新たに拠点とした本陣まで、移動開始から数日はずっと晴天だった。
この具合なら山での作戦も動かしやすいだろう。
と、誰もがそう思っていたのだが、そう容易いものでもなかったらしい。

― 山の天気は女よりも難しいもの。どうか 一丘一壑の心でお歩き下さい。くれぐれもお気をつけて。

焦げ茶色の着物を纏った商家が、去り際に恭しい文言で見送った。
その商家の言ったとおり、白い霧に包まれた山は気まぐれだった。

敵の陣地を夜に奇襲する作戦は、突如として降り始めた雨に見送るとの結論が出された。
待機場所として設営していた陣を引き、山の反対側、隠れた支援者が居る寺へと戻ることに決まったのだ。

雨の静まりを待ち、三班に分かれて陣を引く。
先発に坂本、中盤に銀時、その後に続く桂の隊と、最後尾を鬼兵隊で固めた布陣だった。
移動を開始して十分も経たないころ、早馬が坂本隊の帰着を告げた。銀時もすぐに後に続いたという。
それまでは良かった。


結果から言えば、俺達は攻め込まれて負けたらしい。
らしいというのは、結果まで見ていないからだ。
前を向いた桂の背中を眩しいような思いで眺めていた矢先。
心地よく揺れる馬上、雨雲の隙間に一瞬差し込んだ陽の光。
ぬかるんだ道を苦々しい目で一瞥して、己の隊を振り返ったその瞬間。

けたたましい怒号と共に、鼓膜に体当たりする法螺貝の音が全身を射し抜いた。
状況を察する余裕は残されていなかった。腰の刀を抜き、相手の首を切り落としながら戦況を把握する。
度重なる戦況の末に辿りついた経験だった。
裂ける喉に構わずに、走れ、走れと声を張り上げる。どごん!どごん!と後方で土の崩れる音がする。
激しさを増す怒号の中に、ばちばちばち、と細い線が弾ける音が混じっていた。

― 爆竹、

雨が降っているからと油断した。
この雨なら火が使えない。万が一来るとしても歩兵だろうと思っていた。

短く舌打ちをして、馬を飛び降り目前の歩兵を切り散らす。
同時にひぃいん!と甲高い声が雨空を突き抜け、先ほどまで乗っていた馬の上半身が跡形もなく消え去った。

ちり、と頬を掠めた熱風のあと。
ヒトの顔ほどの大きさをした鉛が、ごうごうと音を立てて木々を薙ぎ倒していった。
大砲だ。しかも連弾の出来る、天人側の最新武器。
俺が先ほど斬り散らしたのは人間だった。人間が天人に使われている。
その命を、その魂を。
こんな場所で、まるで塵屑のように。
作戦も何も、あったモンじゃない。捨て駒のような所業に、どうしようもなく腹が立った。

あんなに目立つものを、一体何処から?
そもそも、何故自分達の経路が知られている?

頭を過ぎる嫌な考えを払拭して下唇の端を噛む。
八重歯で裂かれた下唇から血が滲む直前、雑木林が嫌々しくさざめき、雨粒を倍にして宙に放った。
迷っている暇はない。
駆けるままに木を蹴って、くるりと翻した刀で相手の首をそぎ落とす。
何度かそれを繰り返したとき、後方の三郎が叫んだ。

― 高杉さん、駄目だ!桂さんが!

耳に届いたのは、もうここに存在しないと思っていた筈の名前だった。
走れ走れと叫んだ自分の声は届いていなかったのか。
何故だと舌打ちする間もなく、眼下に溢れ返った有象無象の雑兵の群れに息を吐いて目を凝らす。
束ねられた長い髪が軽やかに舞い、長い刀が血飛沫を上げる歩兵の腹を突き破った。
同時にがくりと膝から倒れこむ。左肩には矢が刺さったままだ。

― 戻ってきたのか?

こんなにも分かりやすく「さあっ」と血の気が引いたのは、後にも先にもこれだけだった。
崩れ落ちた桂の頭を、歩兵よりも一回り以上大きい天人が片手で抱え上げている。
玩具のような刃を振りかざしたとき、桂の右手が閃いた。

夥しい野良声と共に、周りを取り囲んでいた歩兵が引いていく。
鋭く風を斬る音が木の上まで届き、左手に持った刀を翻す。思うよりも先に躰が動いていた。

両目を潰された天人が、桂の頭を持ったまま暴れている。
濁った呻きを撒き散らしていたかと思うと、石のような両腕を振り回し始めた。

いけない。このままだと、桂は。




「ぬがぁぁああーーー!!」
辿り着くよりも早く、桂の躰は雑木林の中へと放り投げられた。
翻した刀で天人の首の付け根を切り裂いて、放られた桂の右手を掴む。
抱き寄せるように躰を丸めて、続く衝撃に心を構えた。

だが、互いを襲ったであろう衝撃も、見知らぬ場所で目を覚ますまでの経緯も。
記憶の淵から全て抜き取られたかのように、なにも憶えていなかった。


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