甘く噛み砕く睡眠薬


日付も変わって少し経った頃。ドクターやオペレーターもすっかり寝静まり、ロドスでは夜勤帯のオペレーターを除いて皆眠っている。
「まだ起きている奴がいたのか」
薄暗くした書庫で本を読んでいたメラエラに声が掛けられる。低く少し威圧するような声には聞き覚えがある。ドクターの盟友と名乗るシルバーアッシュであった。白い尻尾を左右に揺らしながら、優雅に歩いてくるその姿はカランドの王の名に相応しい。
メラエラはお気に入りの脚の高いスツールに座ったまま、シルバーアッシュを見下ろした。銀色の雪豹の表情からは何も読み取ることはできない。何故こんな時間にこんな場所にいるのか、さっぱりわからない。
「シルバーアッシュ、貴方も起きていたのね」
「睡眠薬がないと眠れないのでな」
メラエラが座るスツールの近くにあった手頃な椅子に腰掛けてシルバーアッシュは足を組む。細身ながらもしっかりと筋肉の乗った足は優雅でいて力強かった。積まれていた本の一番上の本を取ってページをめくり始める仕草さえ、洗練されていて彼の育ちのがうかがえた。こちこち、と秒針の進む音だけがして時折ページをめくる音がするだけだった。
「……こんな時間に書庫に誰かが来るのは珍しいわ。いつもこの時間はあたしだけなのに」
「夜の散歩をしていたら、この部屋だけ明るかったから入ってみただけだ」
「そう」
メラエラは短く答えて本に視線を落とす。今読んでいるのは鉱石病に関する論文や症例をまとめたかなり厚みのある本だった。難しいが奥の深い興味深い内容だ。読み込まれてすっかり傷んでしまった表紙にはカバーが掛けられている。記憶をなくす前のドクターもよく読んでいたから、その名残だろう。
「ところで、君はなぜこんな時間に起きている?」
「あたしは寝付きが悪いの、それに加えて眠りが浅いからすぐ起きちゃうのよ」
「…それなら、私よりお前の方が睡眠薬が必要なように聞こえるが…」
シルバーアッシュのその言葉にメラエラは思わず顔をあげた。彼の口からそんな言葉が聞けるとは思ってもいなかったのだ。
「睡眠薬の類いは飲んだことがないの。あたしの寝起きの悪さを知っているでしょう?」
クスクスと笑って見せれば、シルバーアッシュはその秀麗な顔を曇らせた。古傷が痛んだような顔をして、分かりやすく溜め息を吐かれる。心配している、というよりはメラエラの中に誰かを見ているようだ。
「だが、休まなければ作戦にも影響するだろう」
「休める時にはちゃんと休んでいるわ。大丈夫よ」
「お前が大丈夫でも盟友が心配する」
「作戦はちゃんと出来ているわ」
きゅうっと目を細め、シルバーアッシュは本をぱたんと閉じる。まだ数ページしか読んでいなかったはずなのに。それはほぼ読み尽くしてしまった本だけれど、たまに開くと新しい発見があるのが楽しいのに。本をもとの場所に戻すとシルバーアッシュは立ち上がり、メラエラの前に来る。脚の高いスツールに座っているのに目線がほぼ一緒だ。
「盟友が心配するというより、ヤーカが心配すると言った方がいいのか?」
「……眠れないものはどうしようもないわ」
「私の睡眠薬を渡すから飲んで休むといい」
「どうしてあたしにそこまでするの?」
シルバーアッシュがコートのポケットから小さなケースを取り出す。中に入っている丸い錠剤を一つメラエラの手のひらに乗せる。この睡眠薬はシルバーアッシュが普段使っているものだ。恐らく少し強めの薬で、効果も長く続くようなものだろう。シルバーアッシュはメラエラの問いかけには答えずに、ケースを仕舞った。
自然な流れでスツールから抱き降ろされて、着いてくるように言われる。逆らえば怒られそうで素直に従った。シルバーアッシュには逆らえない何かがあるのだと思う。彼に逆らっている人物は見たことがない。あるとすれば妹のクリフハートくらいか。
「何処へ行くの?あたしの部屋はこっちじゃないわ」
「お前の部屋にはいかない。行くのは私の部屋だ」
「…貴方の部屋に行っても意味がないわ。眠るのは自分の部屋よ」
メラエラの言葉にまたしても答えずにシルバーアッシュは自分の部屋の扉を開けてしまった。中に入るように促されて、渋々従う。何がなんだかよく分からない。
書庫に入ってきたかと思ったら自分の部屋に連れてきて。おまけに自分の睡眠薬まで分け与えて何をするつもりなのだろう。
「眠る気がないのなら寝かせるまでだ」
「……まだ眠たくないわ。まだあの論文、読んでいる途中だったのよ」
本当は今すぐにでも書庫に戻って論文の続きを読みたいが、背中を見せたが最後気絶させられかねない。今のシルバーアッシュにはそう思わせる気迫があった。顔が整っている分怒らせると凄みがある。そう、彼は怒っているのだ。眠たくない、と駄々をこねるメラエラに業を煮やしている。
「な、何をするのよ」
「無理にでも薬を飲ませて気絶させる」
「…そこまでしなくてもいいわ。薬くらい自分で飲めるわ」
そうか、とコップに入った水を渡されて、メラエラはずっと手のひらに乗ったままだった丸い錠剤を飲み込んだ。無理やり飲まされるのは御免だ。更に相手はあのシルバーアッシュなのだ。養父の盟友を名乗る彼はロドスでも指折りのオペレーターなのだから、敵に回すのは怖すぎた。部屋の簡素な椅子に座って、メラエラは彼を見上げる。何かを問い掛けたそうに見つめていたのだ。
「寝付きが悪くなったのはいつからだ?」
「いつからかしら……たぶんお父様が行方不明になってからだわ」
「盟友が?」
「えぇ。急に眠れなくなって、ドーベルマン教官にとても心配されたの」
「それが今も続いているということか?」
「きっとね。でも、ちゃんとその内治るわ。お父様も戻ってきたのだし」
「……もしかして、近くに誰かがいないと不安で眠れないのではないか?」
「……っ…」
その問いかけにメラエラは言葉につまった。誰にも言っていないはずなのに、どうしてシルバーアッシュがそれを知っているのだ。記憶をなくす前の養父とメラエラの二人だけの秘密をどうして、外部から来たこの男が知っているのだ。
まだ養父が記憶喪失になる前、メラエラが夜に眠れないことを知った養父が部屋で作業をするようになった。本のページをめくる音、ペンを紙に走らせる音、小さく呟く声が心地よくてそれらの音を聴いているうちにすとんと眠りに落ちていたのだ。時にはおとぎ話を聞かせてほしい、とねだったこともある。そんな時の養父は嫌な顔一つせずにいいよ、と落ち着いた低い声でおとぎ話を読み聞かせてくれるのだ。ドクターが行方不明になり、夜に誰もいないことが当たり前になった。それと同時にメラエラは次第に眠れなくなり、夜はシルバーアッシュが訪ねてきてくれた書庫で過ごすことが当たり前になっていた。
「どうして、貴方がそれを知っているの……?」
シルバーアッシュを見上げれば、柔和に目が細められる。普段ならば絶対に見られない表情だ。
「昔、エンシアがそうだった」
ただその言葉だけでメラエラはシルバーアッシュがどれだけ優しい人物なのかわかってしまう。妹のことを考えて、今でもそのことを記憶している優しい人。鉱石病になったクリフハートをロドスに送り届け、時折様子を見に来ているあたり、やはり優しい人なのだろう。妹思いのお兄ちゃんなのだ。
「そうだったのね」
「……やはり、お前とエンシアはよく似ている。ヤーカがそう言っていた」
「…そうかしら」
シルバーアッシュの口から漏れた恋人の名前にメラエラは心が少し柔らかくなる。凝り固まった心がほんの少しほぐれていく感覚になる。メラエラがロドスで頑張ってこられるのはアーミヤやドクターの存在もあるが、異邦人でありながら支えてくれるマッターホルンの存在が大きかった。いつも静かに佇んでいて、気づけば支えられているそんな存在にいつの間にか助けられている。
「ヤーカが言うのならきっとそうね」
「ずいぶん信頼しているのだな」
「勿論だわ」
シルバーアッシュと他愛もない会話をしながらも少しずつ眠たくなってきている。睡眠薬が効いてきたようで、特有の気だるさと瞼の重さが心地いい。このまま眠ってしまいそうだ。
「ヤーカのことは大好きよ…誰よりも信頼しているわ……」
「誰よりも?」
「えぇ、お父様と同じくらい…」
こくりこくりと船を漕ぎ始めたらメラエラはシルバーアッシュの言葉などほぼ耳に入って来ていない。眠りに落ちる前に覚えているのは誰かがおやすみ、と言ってくれたことだけ。聞き覚えのある柔らかい声でそう言ってくれた。

***

意識がふわりと浮上する感覚に逆らって、もう少し眠っていたくなる。温かい毛布にくるまって一日まったりしていたくなる。誰かに髪を撫でられる感覚にくふくふと笑って、うぅんと唸って見せる。尻尾がぱたぱたと動く。
「ふふ…くすぐったいわ……」
かりかりと耳の裏をマッサージされて、ぐるぐる、ぐるると喉が鳴る。この手の温もりは知っている。大好きで、温かい。メラエラを傷付ける意図を全く持たない大きな優しい手。料理を作ったり、抱き締めてくれる暖かな手だ。
もうちょっと微睡んでいたいのに、耳の裏をマッサージする手は動きを止めなくて少しやめてほしくなる。
「んぅ…もうすこし、寝かせて…」
溜め息が降ってくる。呆れられたかもしれない。けれど、そんなことがどうでもいいくらいに毛布が気持ちいいのだ。ふかふかでもこもこ。いい匂いもする。
「いつまでも眠っていると我が主に叱られてしまうぞ」
「……んぇ?」
ぼんやりと目を開ければ飴色の肌が見えて、見慣れた黒い指出し手袋が見えた。耳をかりかりしていたのはこの手だったようだ。
「おはよう」
「ヤーカ……?」
「俺の他に誰かいるのか?」
「……あたし、昨日は…」
ぼんやりと昨日のことを思い出して、飛び起きる。確か、昨日は書庫で本を読んでいたらシルバーアッシュが来て、それから……。
「此処、シルバーアッシュの部屋…?」
「そうだ」
こくり、と頷かれて目を真ん丸にする。本当にあれから寝入ってしまったようで窓の外には青空が広がっている。時刻はお昼頃といったところか。
「……シルバーアッシュは?」
「早くにドクターのもとに行かれた。メルを起こしては悪いから、とお一人で」
「後で謝らなくちゃいけないわね」
くぁ、と小さく欠伸をしたところでマッターホルンがメラエラの頬をむにっと摘まんだ。肉が落ちてさして摘まむところもないだろうに、人差し指と親指で摘まむものだから痛い。ものすごく痛い。
「ヤーカ、いひゃい」
「痛い、じゃない痛くしているんだ。眠れていないのに無理をして、もし作戦中に倒れたらどうするんだ!ドクターがいる時ならまだしも、離れて行動している時だったら!!」
「っ…!!」
それは初めて聞くマッターホルンの怒声だった。純粋な怒りではなく、心配と悲しみと怒りがごちゃ混ぜになった表情をして言うものだからメラエラの方もまた色々な感情が溢れてきてしまう。それらは言葉にはならなくて、涙となって溢れた。初めて怒られた、というのではなくて自分のことを思ってくれている人がいる、ということに感動してしまった。
「ごめ、……ごめんなさい…」
涙を止めようとジャケットの袖で目を擦るが止まらずに次々と頬をすべり落ちていく。
「すまん、強く言い過ぎた…」
「違うの、ヤーカ…っ、あたし……」
ひっくひっくとしゃくりあげながら、メラエラは首を左右に振る。
「いっつも大丈夫だから、たかを括っていたの…でも、……でも…」
その後は言葉にならずに大粒の涙に飲み込まれてしまった。わんわんと声を上げて泣くのは養父が行方不明になってから止めてしまっていた。自分が泣いていたらアーミヤやドーベルマンに迷惑がかかってしまう。他のオペレーターも頑張っているのに、自分が泣いてどうするのだ。そう自分を律していたものが外れたように大粒の涙が溢れて止まらなかった。
「メル…」
「……みんなのこと、考えて、なかったわ…」
しゃくりあげながらそう言えば、鼻先にふわりとマッターホルンの匂いが香った。男性らしいスパイシーな匂いと石鹸の匂い。優しく背中を撫でられて、とんとんとあやされる。
シルバーアッシュのようにもふもふとした尻尾ではないが、黒いさらさらの尻尾が布団のように掛けられる。
「少しずつでいい。眠れるように慣れていこう」
「…うんっ……!」
低い穏やかな声に必死で頷く。みんなのことを考えていなかった。もっと、ちゃんと自分のことだけではなくて周りのことも考えて動かないと大変なことになる。
「もう少し休め、側にいるから」
「でも、ヤーカ……お仕事…」
「我が主が取り計らってくださった。心配要らない」
「……うん」
会話が途切れて静かになる。聞こえるのはマッターホルンの鼓動と自分の鼓動だけ。マッターホルンの鼓動は少し早い。命を刻んでいる神秘のリズムが確かに此処に存在している。
自然と伏してくる瞼に素直にしたがってメラエラは夢の世界に落ちていった。愛しい人の温もりと優しさに導かれて。
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